前編
誰かが泣いている
小さな女の子の声
やめてって叫んでいる
ふわふわの髪の毛を振り乱して
ああ、あの声を知っている
あの茶色いもふもふを
あの、瞳を……
カズくんっ
さー……
****
「カズーーー!!起きなさーーーい!!!」
「んあ!!」
階下からの怒鳴り声に俺は反射的に顔を上げた。ごそごそと枕元のヒヤリとするスマホをたぐり寄せて見ると日曜の文字。
(んだよ、間違えんなよ、日曜だろがぁ)
悪態をついてまた布団に潜り込むと、ダンダンという足音と共にガチャッと扉が開いた。
「今日、さーちゃんが帰って来るっつったでしょーーーが!!! あんた駅まで迎えに行ってって言ったでしょおおお!!!起きろーーーー!!!」
どかっと布団の上から足蹴にされ、ぐえぇと喉を鳴らして悶絶する。母の足は脇腹のいい所に入って目ん玉が飛び出そうになる。
「今すぐ下に降りて来る事、さもなくば帰って来たさーちゃんに有る事無い事吹き込むからね」
ドスの効いた声で今度はくの字になった俺の尻をダスッと蹴ると足音荒げ階下に下がっていった。
吹き込む事なんてねぇだろ……とよろよろしながら起きると、またすぐにカズーーー!!と叫んでいる。
「うっせーーー!!!今行くわ!!!」
負けじと声を張り上げると静かになった。
「っとに、マジうぜぇ」
ぶつくさ言いながら頭をガシガシかくと、やっと身体を起こした。
冷え切った廊下の温度に身震いしながら階段を降り、暖められたリビングのテーブルに座ると、目の前にトーストと目玉焼きがすべるように出てきて、俺のテンションは下がる。
「飯がいいっつってんのに」
がじっとかじりながら言うと、仕方ないでしょ!!さーちゃんが来る前に掃除したいんだもの!!とリビングと洗濯場を行き来しながら母が叫んでいる。
「昨日やっとけってんだよ」
聞こえない様にぼそっと呟くと、さっと目玉焼きが目の前から消えた。
「ちょ!!」
「文句言うなら食べんで良し」
「ああ! 何でもないです、何も言ってません!!」
足りない朝食から更に減量されたらたまらない。俺はへこへこと謝ってまた皿をテーブルに戻した。
共働きの母が平日掃除にいそしむ暇もなく、最低限の事で済ましているのは知っている。
だがそれを理由に朝食に手を抜かれたらたまったもんじゃねー、こちとら中肉中背だが常に腹を空かせている高校男子なのだ。
五分で食べ終えて見るともなしにテレビを見ていると、母が掃除機を片手にどいてどいてーーとガタガタ椅子を引いている。
「んっとにうるせ」
文句を言いながら顔をしかめると、ブオォという音と共に俺の顔に掃除機が近づいてくる。
ふざけんなっ、と嚙みつこうと母を見れば
無言で口を閉じ、にっこりと笑っている。
やべ……
「さーせん」
「っとに。もう駅に行ってよ。邪魔!!」
「へいへい」
のっそりと重い腰を上げてリビングを出ると、もう、お父さんみたい、いい若者が!!と後ろでぶつくさ言っている声が聞こえる。
十中八九20年後には同じようなジャージ姿でだるんとしてそうな自分が見えて、うぐ、となったが、頭の中でミニスカート、胸元が広く開いたTシャツにエプロン姿をしたワァオな新妻も出てきたので慌てて消去した。
冬なのにミニスカかよ、というセルフツッコミもダブル消去。文句は言わせん。
****
履き慣れたジーンズにスニーカー、黒のダウンというどうしようもない姿の俺を見て、久しぶりに会うさーちゃんにそんな格好でいいのぉ?! という母の叫びは無視して家を出る。
「ただの幼なじみにどんな格好して行けっつーんだボケ」
今度こそ声高に悪態をついて、駅への道を歩く。朝っぱらから叩き起こされたのと、久しぶりに会う幼馴染みを思うと早まりそうな足に、何早まってんだよ、馬鹿じゃね?とダスダス太腿を叩いてわざとゆっくりに歩く。
朝から何回愚痴ったか分からん、自分でも嫌になる、こんな何の変哲もないただの平々凡々な俺に会いに金掛けて帰ってくる奴の思考が分からん。
「貴重な金使ってんなよな」
幼なじみの彩綾が俺に送り付けてくるラインはしょーもない
今日の講義長くて大変だったー
アルバイトも始めたから眠いよー
カズくんの顔早くみたいよー
無視しないでよー
付き合ってもねー俺に何を返せっつーんだぼげぇ!!
うっとおしくて、うるせ、べんきょーしろ。と投げたらピーピー更にうるさくラインが鳴ってガン無視したら東京から帰って来やがった。
「カズくん!」
駅に行ったら彩綾はもう到着していてバスターミナルのベンチに座っていた。
俺を見つけて駆けよってくる。日本人にしては茶色いふわふわの髪が踊ってる。ぱっと華やいだ笑顔が……いや、まて、んなこたぁ重要じゃねぇ!荷物置いて来るなよ!日本じゃなきゃ全財産速攻すられるっての!!
わーと手を広げてハグしそうな勢いをバシッと額に手を当てて止める。
日本じゃハグしねーーんだよ!!いい加減覚えろっ!!
「カズくん、ひどいー」
俺の手をのけようとして小さな両手が触れた。その冷たさに俺はむにーーと額に当てた手を両頬に移動させる。ゆっくり歩いてきた自分を呪いたい。が、言わんこいつも許さん!
「にゃにしゅるのー」
「早く着いたなら連絡しろよ」
「かじゅくんねてゆとおみょったもー」
「お前は馬鹿か」
「ばきゃじゃにゃいもー」
奴のこめかみをぐりぐりと拳で挟んで、そういう時はすぐに連絡する事を約束させると、荷物を持って歩きだす。
いたい、でも久しぶりだー なんて嬉しそうにわらうんじゃねぇ!
「あれ? 車じゃないの? 免許取ったって」
高3、誕生日も4月の俺は、運転免許取得の講習を夏休みの合宿で早々に取っていた。
一応乗れる事は乗れるが初心者の車に人を乗せられるか!自信ないわ!
「初心者が人乗せて事故ってみろ、内定取れたとしても取り消されるわ!受ける前に事前に会社からそう言われてる」
「そうなんだ!すごいね!」
何が凄いんだか。何にも凄くねー
ただ単に内定取れるように従っているだけだ。
むつ、と黙った俺を見て、ん?と小首をかしげた彩綾は、にこっと笑った。
「ね、面接どうだった? スーツとか着たの?」
「べつに。制服だし」
「あ、そっか、高校は制服でいいのか。いいな、お金かからない」
「受かったとして入社式はスーツだから買わなきゃいけないのは一緒」
「ああ、そっか、そうだね! すごい、カズくんが社会人かぁ……」
会社、凄い、社会人と言われるたびにドスドスと腹に岩でもぶち込まれた気分になってくる。
「別に凄くなんかねーし、てか、まずまだ受かってねーし、受かったとしても……親のコネだし」
俺が受けた会社は親が以前出向していた会社だ。履歴書には特に何も書かずに書いて出したのに、面接後に誘導してくれた人から声がかかった。辻井さんだよね、と。一緒に仕事をさせて頂いて大変勉強になった、家に帰ったらよろしく伝えて欲しい、と。
にこにこしながら親しげに話してくるこのロマンスグレーのおじさんの顔を見ながら俺はもごもごとありがとうございます、と意味のない礼を言った。
俺が面接の最後だったから他の受験生には聞かれなかったけれど、肝が冷えた。
俺じゃなくてもそんな場面を見たら誰だって思う。
あ、こいつコネだ、と。
冷ややかな目で見られる事を恐れて、逃げるようにその場を離れた。そんな自分も、情報を流した父親にも煮え切らないイライラを募らせていた所に、まだ彩綾のノーテンキな賞賛は続いている。
「カズくん、頑張ってたもんね、資格取ったりさー 受かるといいな」
「工業だから普通に受けりゃ普通に取れるし、てか彩綾には関係ねーだろ」
あ、しくった。
吐き出した言葉にやべっと思うが、彩綾は一瞬黙ったが、関係ないなんて、ひどいー 幼なじみなのにー とからからと笑った。
「てか、受かるか受からんかびみょーな奴にそういう話題振るなっての!」
「うん、ごめん」
彩綾は今度は真面目にぺこりと頭を下げた。
それはそれで調子狂う。
だめだ、もう黙ろう。そう思って残りの行程を黙って歩くと、彩綾も今度は何も言わずに俺の横について歩いた。