アダチガハラ
親愛なる姫様、環の宮様へ。まず初めに、理由も告げずにお暇をいただき、それ以来約一年もの間、何の音沙汰もないことを、謝らせてください。そして、これが私から姫様への、最初で最期のお手紙になることを、重ね重ねお詫び申し上げます。
乳母の一人であり、貴方様に文字の読み書きをお教えて差し上げた私、岩手は、都から遠く離れたアダチガハラと言う峠で暮らしておりました。……ですが、それももうおしまいでございます。
私はただ今を待ちまして、自らこの命に幕を下さなくてはなりません。そうしなくてはいけないほどの罪業を、私は背負ってしまったのです。
しかしながら、不思議と後悔や、恐怖の気持ちは一切ございません。当然の報いだと悟りきっているからでしょう。至って静かな心持ちで、このお手紙を認めております。
……ただ、一つだけ。私が残念に思いますのは、直接この手で霊薬をお届けに参ることが、叶わないと言うことです。姫様のお体が快復なさる瞬間に、私は立ち会うことができません……。
そう、全ては霊薬の為でございました。私のこの旅の目的は、これを探し出して来ること。そうして、一刻も早く姫様の元へ持ち帰り、気の病みを治して差し上げることこそが、私の唯一の使命なのでした。
そして、お喜びください、姫様。私は、つい今しがた、とうとう霊薬を手に入れたのでございます!
都のお医者様も匙を投げられるしかなかった貴方様のご病気も、これでスッカリお治りになることでしょう。岩手めも、我がことのように嬉しゅうございます。姫様のご病気がよくなって、健康になっていただくことが、私の一番の願いだったのですから……。
しかし、先ほども書きましたとおり、私はこのお手紙を認め次第、自らの手で命を断たねばなりません。姫様に再びお目にかかるどころか、もうこれ以上生きていられなくなったのでございます。
ですので、私がそのような運命に至るまでの経緯を、ここに簡単に書き留めておこうと思います。
悪筆や拙文は元より、理由あって目を悪くしてしまった為、大変読み辛いことと存じますが、どうか最後までお付き合いください。
この遺書には、私があの世まで背負って行く罪業の全てと、私がいかにして鬼になったのかを、嘘偽りなく書き記すことに致します。
──そもそもの発端は、私が京の都を旅出つ前日のことでした。
その頃、ご自身のこと故よく思えていらっしゃるでしょうが、姫様の病状は悪化するばかりでした。毎日都中のお医者様や拝み屋などを屋敷に招き、診察やお祈りをしていただきましたが、誰もご病気を治すことはできず……。日々弱って行く姫様に何もして差し上げられない私は、大変悔しい思いをしておりました。
その日もお医者様が五人ほどお見えになりましたが、どなたも首を振りながらため息を吐くばかりで、ロクな治療もできずに帰って行かれました。私は姫様がお眠りになられたのを見届けますと、お部屋を出て、しばらくぼんやりと廊下に立っておりました。
自分でも、その時何を考えていたのかは覚えておりません。ただ、悲しさやら悔しさやら、そして姫様をお可哀想に思う気持ちやらが、漠然と胸の中に渦巻いていたように思えます。
それからふと、お庭に面した廊下の角を見ると、一人のお年寄りが立っておられることに気付きました。しかもそのお方は、「オイデ、オイデ」と言う風に私を手招いているのです。
私はそれが、その日いらっしゃったお医者様の一人であることに、すぐに思い至りました。
「そこの乳母さん、チョットええかの」
不意にほとんど歯の抜けた口が、モゴモゴ動いてそう言いました。私は怪訝に思いながらも、そちらへ近付いて行きます。
「何でございましょう?」
小首を傾げつつ、私は改めて、相手のお顔を見返しました。
そのお医者様は、この日お見えになった先生方の中でも特にご高齢のようで、伸びるがままに伸びた髪の毛や髭、ほれから眉毛は、見事に白く染まっております。まるで仙人のような風貌をしておられ、正直に申し上げますと、あまり綺麗な身なりとは思えませんでした。
しかし、亀の甲より歳の功と言う物でしょうか、都一の名医と専らの評判らしく、旦那様や奥様もその手腕を買われているようでした。
仙人風の先生は、私の──おそらく不躾な──視線はお気になさらず、ニッカリと笑いながら、
「実は、環の宮様のご病気に関することでのう、あんたにだけコッソリ教えときたいことがあるんじゃよ」
「はあ……」私は何故だか、不安で仕方がなかったことを覚えております。何か、不吉な宣告をされてしまいそうで……。「いかがなさいました?」
「うむ、その前に……これは先ほども申したことなんじゃがのう。姫様のご病気は、気の衰えが原因じゃろう。中には鴆毒にやられたなどと宣う医者もいるそうじゃが、儂にはとてもそうとは思えんわい。──あー、とにかく、今日明日のうちにどうこうなる性質のモンじゃないんだが、このまま放っておけば、衰えて行く一方じゃろうな」
私はその時、顎髭をしごきしごき暢気そうな口調で仰る先生を、酷くニクタラシク思ったことを白状致します。……しかし、それも仕方のないのことでしょう。こちらがすでにわかりきっているようなことを──それ故悔しい思いをしていることを──、さも得意げに、シタリ顔で仰るのですから。
私は堪らない気持ちになり、サッと面を伏せて唇を噛み締めました。
先生は一向構わずに、声を潜めて続けます。
「でのぉ、ここからが本題なんじゃ。……実は、姫様のご病気を治す方法があるかも知れん」
「え?」私は思わず顔を上げ、「本当でございますか?」
「本当じゃとも」
いとも容易く頷いたその顔を、私は不思議な思いで見つめていました。
──姫様のご病気が治る? 都中のお医者様は、誰もが匙を投げ出されたというのに?
もちろん、俄かには信じられませんでした。……しかし、それが真実だとしたら……。どんなにか素晴らしいことでしょう。
私は縋り付かんばかりに、先生に詰め寄りました。
「い、いったい、どうすればよろしいのですか? どうか、私めに教えてください!」
「うむ、もちろんそのつもりじゃ。……しかしの、これはチト骨の折れる方法でのう。……生半可な覚悟ではできんことなのじゃよ」
「ご心配には及びません。この岩手、姫様の為でしたら、どのようなことでも致す所存です」
それは、心からの言葉でした。そしてもちろん、その気持ちだけは今も変わりません。
私がまっすぐに向けた視線を、先生は暫時値踏みでもするように見返しておりました。
が、やがて、私の熱意が無事伝わったのか、ウンウンと頷かれ、
「ええじゃろう。アンタの気持ちはよくわかったわい」
「ありがとうございます! それで、その方法と言うのは、どうすれば」
「……霊薬じゃ。昔っから、気の病にはそれが一番じゃからのう」
「霊薬……」
声に出して呟いてから少し考えてみましたが、それがどんな物なか、見当も付きませんでした。
私はすぐに、「いったい、どのようなお薬なのですか?」と尋ねます。
すると、先生は浅黒い顔に笑みを浮かべたまま、
「妊婦の生肝じゃよ。産気付いた妊婦の肝を生きたまんま取り出して、姫様に召し上がってもらうんじゃ」
私が、瞬時にそのお言葉の意味を理解できなかったのも、無理のないことでしょう。「妊婦の生肝」などと言うオゾマシイ一語を、不意に鼻先に突き付けられたのですから……。
私は何やら眩暈がして来るように感じながら、それを堪えつつ、
「……ほ、本当にそのようなモノで、姫様のご病気がよくなるのでしょうか……?」
「嘘は言わんて。まあ、疑う気持ちもわかるがのう。──しかし、有名な文献にもそうあるのじゃから間違いない。……それどころか、生肝を与えない限り、姫様のお体はドンドン衰えて行くじゃろうなぁ。結局、他に手はないのじゃよ」
「そんな……!」
自分でもハッキリとわかるほど、顔中から血の気が失せるのを感じました。「姫様の為ならなんでもする」と言っておきながら、私はその時迷っていたのです。姫様のご病気を治す為とは言え、そのような悪鬼の如き所業をして許されるものだろうか……。それも、自分自身お腹を痛めて子を産んだことのある私が、妊婦の腹を裁いて臓器を一つ取り出すなど……。
考えただけでも、血腥い臭いが鼻腔イッパイに立ち込めるようでした。
しかし、それと同時に、先ほどの先生のお言葉が、寝床の中で眠る貴方様のやつれきったお顔と共に、いつまでも響いておりました。
──それどころか、生肝を与えない限り、姫様のお体はドンドン衰えて行くじゃろうなぁ。
──結局、他に手はないのじゃよ。
やがて、両の掌に指が食い込むほど握り締めた私は、面を上げました。
そして、ありとあらゆる感情を押し潰したような静かな声で、まっすぐに相手の目を見据えながら、
「……わかりました。私が取って参ります」
私は、今度こそ覚悟を決めたのです。自ら鬼になる覚悟を……。
私の答えを聞き、先生は満足そうな笑みを、干し柿みたいな顔に刻みました。
「左様か左様か。まあ、女ながら字の読み書きができると言うアンタじゃ。それだけ頭がよければ、うまいことやれるじゃろう」
そう言うと、先生は汚れた着物の胸元から、畳んだ紙切れを取り出されました。
「やり方はこれを参考にすればええ。書いてある内容自体は簡単じゃ。鶏を屠殺るような物だと考えなされ」
当然ながら嫌悪感を禁じ得ないお言葉でしたが、私はそれすらも押し殺して、紙を受け取りました。
それから、先生はまた白い髭をしごきしごき、
「……さて、問題と言えば、場所かのう。誰にも見付からず落ち着いてコトに当たれる所がええ。──いっそのこと、アダチガハラの辺りまで足を運んでみてはどうじゃ? あそこは人里から離れとるし、峠の小屋にでも住んでおれば、いずれ妊婦の一人ぐらい通りがかるじゃろう。来ないようなら、麓の村から攫って来るしかないが……まあ、そうするにしても、隠れ家は必要じゃろうて」
私は先生の提案に従うことにして、やはり静かな声で礼を述べました。
仙人先生は見返りなど一切要求せずに、「アンタがうまくいくことを祈っとるよ」とだけ行って、帰って行かれました。門を出て、砂埃の舞う往来へと去って行く背中を見送りますと、私はすぐさまお屋敷へと引き返し、そのままお願いしてお暇をいただいたのです。
そして、私はその日のうちに旅に必要な物を一式揃えてしまうと、家族にもロクに理由を告げぬまま、翌朝には京の都を出発しておりました。
それからの私の旅は、大変過酷な物でございました。なにぶん、か弱い女の歩幅ですから、一日に進める距離も当然限られております。どうにか杖にしがみつきながら、荷物を背負って歩き続けましたが、目指すアダチガハラへの道のりは一向に縮みませんでした。
また、旅に付き物の「危険」と言う意味でも、女一人では何かと気を揉む物です。特に、山中で寝むらなければならなくなった時の恐怖と言ったら……。今にも獣や山賊が襲って来やしないかと、神経が緊張してしまい、結局一睡もできぬまま夜を明かすことが、何度もございました。
そう言うわけですから、肉体的にも精神的にも疲労して行った私は、季節が一つ過ぎる頃にはガリガリに痩せ細り、全くの別人のようになっておりました。日に焼けた肌が剥き出しの骨に張り付き、乳は萎び垂れ下がって、まるで干からびた守宮のようです。また、都を出た時は黒く艶のあった髪も、過労による物でしょうか、スッカリ白髪に変わってしまい、ただもう伸びるがままに茂っている有様でした。
そんなミスボラシイ体の上から襤褸を纏い、杖を突いて歩く私の姿は、歳老いた浮浪者としか映らなかったことでしょう。
見た目だけで言えば、私はその時すでに、立派なオニババだったのです……。
結局、私がアダチガハラに辿り着いた頃には、季節が二つほど変わり、夏が初まろうとしておりました。
その間、私は挫けてしまいそうになる度に、病床に伏された姫様のお姿を思い出しました。姫様のご病気がよくなるかどうかは、この旅にかかっている。私はどんなことをしてでもあのお方を救のだと、決意したではないか! ──そんな風に自らを鼓舞しながら、杖にしがみついて、枯れ枝みたいな足をまた一歩、前に踏み出すのです。
そうして、ようやくアダチガハラを目前にしたある日、私はこの旅の中で最大の窮地へと陥ったのでした。
ほとんど道とは言えないような、険しい山の中を歩いている時のことです。折からの大雨により、ただでさえ足場の悪い道は、余計に滑り易くなっておりました。私は当然普段にも増して注意して進んでいたのですが、それでも疲労には抗えなかったのか、ついつい足わ縺れさせてしまったのです。
アレェッと思う間もなく斜面を転がり落ちた私は、枯れ枝や礫と共に、岩場へと叩き付けられてしまいました。
幸い命に関わるほどの怪我はせず、左足首を挫いた程度でした。しかし、これまで溜まりに溜まった疲労が一挙に押し寄せたと見え、いっかな立ち上がれそうにありません。しかも、いつの間にか杖もどこかにやってしまったらしく、唯一の旅の共を失ったような気持ちで、泥道の中ミジメに倒れておりました。
降り続く雨が、私の痩せ細った体から、容赦なく体温を奪って行きます。すぐに視界が曖昧に霞み、暑いのか寒いのかさえわからなくなりました。
そうしているうちに、私の意識は段々と遠退いて行き、やがてプッツリと途切れてしまったのです……。
──私が気が付きましたのは、それから丸二日経った後でした。目ヤニのこびり付いた瞼を開きますと、古そうな屋根と梁の一部が、ボンヤリと闇の中に浮かんで見えました。
どうやら熱でもあるらしく、視界も甚だ不明瞭でしたが、微かに囲炉裏の火が、室内を照らしていることがわかります。
ここはどこなのだろう? どうやら私は助かったようだけど、いったい何故?
綿の抜けきった毛布を胸まで被った私は、天井を見上げながら、まだうまく働かない頭でそんなことを考えておりました。
すると間もなく、私の他にも、小屋の中に誰か人がいることに気付きました。
それと同時に、その人物も私が目を覚ましたのがわかったらしく、囲炉裏に体を向けたまま、穏やかなお声で、
「目が覚めたようですね。……しかし、まだお辛いでしょうから、そのまま横になっていてください。丸二日も眠っていらしたのですから」
その言葉はすぐ近くからの物のはずなのに、妙に遠くから聞こえて来るかのようでした。私は目だけではなく、耳も悪くしてしまったのです。
視力も聴力もやられ、未だ熱が引ききらないのですから、無事に助かったと言う実感はなかなか湧いて来ません。私は本当はとっくにお陀仏していて、ここは俗に言う「あの世」なんじゃないのかしら、と本気で疑ったほどです。
私はそれから、どうにか首を曲げ、視力の低下した二つの眼を、そのお方のお背中へと向けました。ウッスラとではありますが、そのお方が黒い袈裟を見に纏い、少し青く伸びて来た坊主頭をしておられることがわかりました。
はて、お坊様なのかしら……? と思っておりますと、まさかそれが通じたわけではないでしょうが、再びそのお方は優しげに自己紹介をされました。
「拙僧は、東光坊祐慶と申します。紀伊の国は那智山より、諸国を巡り修行をしている身でございます」
「……貴方様が、私を?」
そう尋ねました私の声はすっかり嗄れ、見た目と同様老婆のそれとなっておりました。
東光坊祐慶は「ええ」と答えながら、僅かに頷かれたようでした。
「大雨の中倒れられていましたので、この小屋まで運んで来たのです。それから、左足のお怪我を簡単に手当致しまして、布団に寝かせて差し上げました。──熱の具合はもうよろしいのですか?」
「ええ、まあ……まだ少し、ぼおっと致しますが……」
「そうですか。完全には引ききっていないようですね。お薬を飲んで、もう一度よくお眠りになった方がいいでしょう。拙僧の備えを分けて差し上げますので」
「はあ、かたじけのうごぞいます。……時に、ここはいったいどこなのでございましょう? 確か、アダチガハラの近くまで来ていたと思うのですが……?」
「ええ。ここがその、アダチガハラ峠ですよ。我々は峠道の傍に建っている小屋の中にいるのです」
私はこの僧侶様の力をお借りして、ようやく旅の第一目標を達成したのでした。
しかし、もちろん本当に大変なのはここからでございます。妊婦の旅人を待つか付近の村から攫って来るかして、どうにか生肝を手に入れなくてはならないのですから。
その為には、まず完全に熱が引き、傷が癒えるのを待つ必要があります。
私は裕慶様のお言葉に従い、ありがたくお薬をいただくと、すぐにまた夢も見ずに寝てしまいました。
そしてその間際、霞んだ瞳の中に、ぼやけた裕慶様のお顔が映り込みました。少し頬のこけ落ちた、それこそ仏様のように優しそうなお顔が……。また、胡座をかかれたお膝の傍に、何か小さな仏像のような物が置かれているのが、一瞬見えたのでした。
結局、私の熱や怪我は大した物ではなく、翌朝にはスッカリ回復しておりました。相変わらず目と耳だけはどうしようもありませんでしたが、それでも起き上がれないほどではございません。
ちょうど雨も上がっておりましたので、私は裕慶様と一緒に、峠道の周囲を見て回ることに致しました。
雑木林の中に入ってみますと、木々の葉を透かして降る陽射しが苔むした岩に反射して、新緑色に輝いております。雨上がりの後のよく晴れた日ですから、余計に景色が明るく映ったのでしょう。そうした暖かな初夏の風景の中にいる間、私は自らに課した使命を忘れることができました。病床に伏されている姫様には申し訳なく思いながら、久しぶりに安らかな時間を過ごしていたのです。
それからさらに森の奥へ進むと、ポッカリと開けた場所に出ました。そこは小さな池の畔となっていて、青々とした茂った露草の向こう側に、巨大な水溜りが空を映しながら寝そべっております。
私たちはしばらくの間、並んでその池の方に目を向けておりました。とても穏やかな時間が、水面に映り込んだ雲の流れと共に、静かに過ぎ去って行きました。
そうしているうちに、裕慶様の横顔が、私にこう問いかけられました。
「……あなたは、何の為に旅に出られたのですか?」
私はハッとなって、思わず隣に視線を移しました。唐突に現実に引き戻されたような心地が致しました。
そうして、裕慶様のお横顔を見つめたまま答えられずにいると、
「……いずれにせよ、とても重要な理由なのでしょう。でなければ、わざわざ京の都から、ここまでお出でになるはずはありません」
「ご、ご存知だったのですか……!」
喫驚した私が振り絞るような声で叫びますと、僧侶様は「ええ」と頷かれました。
「旅の荷物から、都で買い揃えた物に違いないと判断致しました。実は、拙僧も最近まであちらにおりましたので、すぐにわかったのですよ」
こともなげにそう仰りましたが、私には不思議で仕方がありませんでした。このお方は、すでに千里眼でも身に付けておられ、本当はその力で見通したのではないかと……。
すると、裕慶様は池を眺められたまま、いよいよ神通力のようなことを仰ったのです。
「……環の宮様のご病気は、あまりよくないそうですね」
今度ばかりは心臓が止まるかと思いました。まさか、そこまでご存知だったなんて!
「あ、ああ、どうして……」私が喘ぎ喘ぎそう言いますと、裕慶様は初めてこちらにお顔をお向けになって、
「京にいた頃耳にしたのです。環の宮姫様が長い間病床に伏されていること……そしてその乳母の一人が、突然暇を取ってどこかへ旅立たれたことを。──もちろん、初めは気付きませんでしたが。もっとお歳を召している方だと思いましたから。……ここに来るまで、ずいぶんご苦労なさったのでしょう」
やはり穏やかな、風が凪ぐようなお声でした。……そのお言葉を聞いていた私は、思わず泣きたくなって参りました。
いえ、実際に、いつの間にか涙が幾筋も流れていたのです。
旅の中で醜い山姥のようになってしまった私の本当の姿を、知っているお方がいらっしゃいる。そうして、これまでの苦労を察し、労ってくださる。……たったそれだけのことが、何よりもありがたい、尊いことに思われて、とても嬉しかったのです。
──その日、裕慶様はそれ以上何も仰らず、黙って私が泣き止むの待っていてくださいました。それから、二人で来た道を引き返して行き、小屋へと戻ったのです。
翌日、裕慶様は修行に戻られる為に、先に旅立って行かれました。
その際、いつものお優しいお声で、私にこう仰りました。
「こちらを、ここに置いて行きこうと思います。きっと貴方の助けになるでしょう」
裕慶様が私に手渡されたのは、例の小さな仏像でした。両手で持てるほどの大きさで、神々しい金色をしております。片膝を立てて胡座をかくような体勢で、六本ある手のうち右側の一つを頬に当てているお姿は、まるで何か考え事をしているかのようでした。
私が物珍しく仏像を見つめておりますと、裕慶さんが微笑みながら説明してくださりました。
「如意輪観音菩薩様でございます。人々の願いを叶えてくださる、大変ありがたい仏様ですよ。……本来なら、修行の間拙僧が背負っていなければならないのですが、いっそのこと貴方に預けて行こうと思いまして」
「そのような大切な物、よろしいのでございますか?」
「ええ。おそらく、貴方には如意輪観音様の救いが必要になるでしょうから……」
その時、裕慶様のお顔に一瞬だけ、悲しみの色が過ぎったように見えました。もちろん、目を悪くした私ですから、単なる見間違いや、気のせいと言うこともあるでしょうが……。
しかし、今になって思いますと、裕慶様はすでに、私の辿る末路がどう言った物が、何もかも見通しておられたのでしょう。だからこそ、悲しげなお顔で、ありがたい仏像を私に託されたのです。
その時の私はそのようなことは知る由もなく、ただ仏像の重さに不自然な物を感じただけでした。見た目以上に軽く、どうやら中に空洞があるようだったのです。
このことに関して尋ねてよい物か迷った私は、結局何も聞かずに、ひたすら裕慶様にお礼を述べ、旅立たれるお姿を見送ったのでした。
それからの私は、峠道の小屋に暮らす親切な老婆を装って暮らしておりました。こうして旅人を止めてやったり、世話をしてやったりしていれば、評判が伝わって、旅の妊婦が通りがかった時に自然と泊めることができる、と言う算段です。表向きは親切その物と言った顔をして、その実求めているのは人の生肝なのですから、まさに昔話に出て来るオニババですね。
しかし、そんなオニババにもまだ人間らしい習慣があって、それは裕慶様からいただいた如意輪観音様を綺麗にして差し上げることでした。近くに沢が流れておりますので、そこまで観音様の像を背負って行き、自分の襤褸を洗濯するついでに、脱いだ服を雑巾代わりにして丹念に拭き上げます。そうして岩場で服と一緒に乾かしていますと、ただてさえ神々しいお姿が、いっそう光り輝くようでした。
──こうして、私が旅人と観音様のお世話をして暮らしているうちに、時は流れて行きました。
季節は再び二つほど巡りかけ、秋ももうそろそろ終わろうとしていた頃……私はとうとう、目当ての人物と出逢ったのです。
その夜、私の小屋に泊まったのは、一組の若い夫婦でございました。なんでも私や裕慶様と同じく京から来られたそうで、何かとても大切な用事を果たしに向かう途中とのことでした。
夫の方は伊駒之助、妻は恋衣と名乗り、どちらも健康的で若々しく、礼儀正しい夫婦でした。そして何より、恋衣の方は身重──それも、もうかなりお腹が大きくなった妊婦なのでございます。
二人が小屋に尋ねて来た時の私の喜びようは、お察しが付くことと思います。もちろん、それを面に出すことはございませんでしたが、胸の内では飛び跳ねんばかりでした。そして、快く二人を中へ入れながら、密かに残忍な舌舐めずりをしていたのです。
私はこの若い夫婦に、
「長旅でお疲れでしょうから、ごゆっくりして行ってくだせえ。夕食のご用意は、儂がやっておきますからのぉ」
と、老婆の口調を真似て言っておいてから、台所へ向かい包丁を研ぎ始めました。そして、いつやるべきか、なるべく早く取りかかるべきかと、障子襖の向こうを気にしつつ、機会を窺っておりました。
しかし、焦ってコトを仕損じては元も子もございません。私は結局、二人が寝静まってしまうのを待つことに致しました。
そうして、粗末な食卓を三人で囲み、伊駒之助の持っていた酒を少し振る舞われたり、都のお話を教えてもらったりして、しばらく何事もなく過ぎて行きました。伊駒之助は逞しい体格の、朴トツとした青年ではありますが、意外にも見聞が広いらしく、酔いで滑らかになった舌を遺憾なく回しておりました。なんでも彼によれば、
「都では、貴族様や公家様が鴆毒による暗殺を恐れておられますがね、そもそも鴆なんて鳥は実在しないそうなんですよ。あれはつまるところ、鶏の羽根なんですね。鶏の羽毛を、五毒と言われる材料を焼いて出た煙で燻したモンが、鴆の羽根の正体だそうです」
と、いったいどうした話の流れでしたか、そのような講釈を始めたのです。
私は欠けた椀にほんの少しだけ注いでいただいた酒を飲みつつ、老婆然とした口調で相槌を打ちました。
「ですが、実際毒には変わりないのですじゃろ?」
「ええ、そうです。五毒から出る煙は、やっぱり有害ですからね。
また、鴆の毒消しには犀角──つまり、サイと言う動物の角が効くのだと信じられているそうで。聞くところによると、大陸の皇帝様なんかは、皆毒消しの為に犀角でできた杯を求めたようです。そこからどんどん話が大きくなって、今じゃ犀角は万病に聞く漢方だと信じらているワケですよ」
風貌に似合わず博識な若者は、そこで酒を舐めて口を湿らせました。
私は話を聞いているうちに、段々と姫様のことが思い出され、暗澹たる気持ちになって参りました。
ふと椀の中に目を落としておりますと、伊駒之助は私の心の内を知ってか知らずか──もちろん知る由もないのでしょうが──、
「まあ、とは言え、治せるのは体の病だけで、気の病には効果薄のようですがね。だから、気を病んだ病人には、妊婦の生肝を食わせるのが一番なんだとか」
冗談めかした口調で言い、彼は一人で笑うのでした。……しかし、当然ながら、私からすれば笑いごとではございません。なんとなく、自分のしようとしていることを見透かされたような、そして物の見事に嘲笑されたような心地がして、すぐには顔を上げられませんでした。
私が椀の中身を凝視している間、恋衣が若い旦那の冗談を聞き咎めておりました。実際に彼女は妊婦なのですから、気分を害して当然でしょう。
「よしてくださいな、そんなお話。鬼じゃないんですから」
「しかし、実際エライ医者がそう言っているらしいんだよ」
「だとしても、私の前で妊婦の生肝だなんて、縁起でもございませんわ。──ほら、貴方が怖いことを仰るから、お腹の子が嫌がって」
と、言いかけたところで、恋衣もの言葉は途切れたようでした。
いったいどうしたのだろうと、顔を上げてそちらを見てみますと、彼女は苦しそうに口許を抑えながら、床に手を着いているではありませんか。
「お、おい、どうしたんだ! 苦しいのか?」と、伊駒之助は慌てて立ち上がりながら、見ればわかるようなことを尋ねました。
恋衣は答えることもできないらしく、懸命に苦痛と戦っている様子でした。
そう、よりによってこんな時に、陣痛が始まったのでございます……。
私は、内心とても焦っておりました。これでは、生肝を頂戴するどころではなくなってしまうのではないかと。
しかし、私はすぐに「待てよ?」と思い直しました。むしろ、これはいい機会なのかも知れない。このことを利用するれば、寝込みを襲うよりもズットズット楽に仕事ができるのではないかと、そう考えたのです。
私はさっそく、慌てふためくばかりの伊駒之助に、こう言い聞かせました。
「どうやら陣痛が始まったようですじゃ。ですが、儂たちだけで赤ん坊を取り上げるのは難しいじゃろう。──ですから旦那さん、麓の村までひとっ走りして来て、産婆さんを呼んで来てもらえんかのう。その間、奥さんは儂が見ておきますから」
「そ、そうですね、わかりました! 家内をよろしく頼みます!」
彼は力んだ声で答えますと、大急ぎで小屋を飛び出して行きました。……「麓の村」と言うのが、ここからどれくらいの場所にあるのか私にもわかりませんが、少なくともすぐ帰って来る心配はございません。まんまと恋衣と二人きりになった私は、悠々と使命に取りかかることができたのでした。
私は彼女の傍へ行き、背中をさすってやりながら、こう声をかけました。
「大丈夫じゃ、安心しなされ。さっきはああ言いましたがの、儂にだって子を産んだ経験はあるんじゃ。楽になる方法も知っておりますから、必ず儂の言うことに従うのですぞ? よいですな?」
私の言葉に、恋衣は呻きながら「はい」と小さく答えました。何一つ疑われていないことを確信致しました私は、より肝を取り出し易くする為に、さらに大それた嘘を吐きました。
「苦しいじゃろうが、それは赤ちゃんが出て来ようとしている証拠ですじゃ。しかし、今産まれて来ても、ここには取り上げる産婆がおりません。そこで、赤ちゃんを一度中に戻して、すぐに出て来れなくしてしまいましょう」
「は、はあ……でも、どうやって……?」
息も絶え絶えの彼女に答えるよりも先に、私は荒縄でもって、素早くその両足首を縛り付けました。それから立ち上がり、縄の端を梁の上に通して垂れさせます。
「こうするのじゃよ」と言うと同時に、私は渾身の力を込めて、縄の先を引っ張りました。自分でもどこからこんな力が湧いて来たのかわかりません。しかし、縄がピンと張ると同時に、恋衣の体は逆さまに吊るされる形となったのです。
「これで安心ですじゃ。多少頭に血が上るでしょうが、我慢しなされ。かえって、陣痛から気を逸らしてくれるじゃろうて」
いい加減なことを述べつつ、握っていた縄の端を柱の一つへ括り付けると、手を離しました。驚くべき早業で妊婦の逆さ吊りを完成させた私は、今度は彼女の着物に手をかけ、
「着物を着ていたら、苦しいでしょう。どれ、儂が脱がせてあげますからのう」
骨ばった手で帯を解き、着物の前を一気にはだけさせたのです。
すると二つのふくよかな乳房と、その上側に、まん丸く膨らんだお腹が現れました。恋衣の肌の白さと合わさって、大きな卵が体の真ん中にくっ付いているようにも思えます。
そんな風に目の前の若い女の裸体を眺めていた私は、ふと自分の中に沸き立つ感情があることに気付きました。
正直に白状致しますと、私はその時、恋衣の体にどうすることもできない嫉妬を覚えたのでございます。
とうの昔に鬼婆のような姿になってしまった自分と違い、肉付きのよい瑞々しい裸……。囲炉裏の火に照らされ、汗がテカテカと輝く肌の艶めかしさ……。床に垂れ落ちた、黒々とした長い髪……。まるで自分が失ってしまった物を全て見せ付けられているようで、火で炙られるような妬ましさが、ムクムクと込み上げて来たのです。
……それと同時に、これから自分がやらうとしていることを思い出して、タマラナク愉快な気分になって参りました。どのみち、この乙女の命はすぐに終わるのです。他ならぬ、この私の手によって。
私は口許に浮かびかかった笑みを抑えつつ、恋衣に呼びかけました。
「少しはマシになって来たかの。……ああ、そうじゃ、あちこちぶつけて怪我をしても可哀想じゃから、腕も縛ってあげましょう」
言うが早いか、先ほど剥ぎ取った帯を二つに破り、小さい方で曲げた両腕を結んだ後、残りを使ってピッタリと体に固定してしまいました。ちょうど背中で腕を組んでいるような格好となり、これで身動きは取れません。
さながら巨大な蚕の幼虫のようになった恋衣を見た私は、続いて道具を取って来ることに致しました。
「楽になれるよう、手拭いと水を持って来ますから、ちょっと待っていなされ」
「はい……、かたじけのう、ございます……」
切れ切れに答えた恋衣を残して、私は台所へ向かいました。
腹を捌くのに使う包丁は、すでに十分研いでございます。私は年季の入った凶器を薄汚い手拭いで覆うと、汲んであった水を桶に注ぎました。
手拭いで包んだ包丁を脇に抱え、桶を待って先ほどの部屋に引き返した私は、妊婦の吊るされている下にそれらを置きました。そして、いよいよここからが本番だと、一人で意気込んでおりました、その時──
何やら、人の視線のような物を感じたのでございます。
私はとっさにガバリと背後を振り返りました。すると、部屋の片隅の暗がりの中におりましたのは、裕慶様からいただいた、例の仏像様でございました。私は普段から、そこに如意輪観音様を安置していたのです。
陰の中に浮かび上がる金色のお姿を見ていた私は、何やら罪を見咎められているような気が致しました。今ならまだ人の道に戻れるのだぞと、薄目を開けたふっくらとしたお顔が、そう仰っているようでした。
──もしかしたら、裕慶様は私のことを全てお察しの上で、私の暴虐を止める為にこの像を預けてくださったのではないかしら……。そう思い始めると、とてもありがたいような、申し訳ないような想いで、たちまち胸がイッパイになるのでした。あの日以来忘れていた人間の涙が、込み上げて来るのを感じました。
しかし、私には都に残して来た大切な姫様──貴方様がおります。私の「鬼になる」と言う決意は、その時すでに、仏様にも変えられないほど強固な物だったのです。
私は観音様の元へ行く、ソッとお体の向きを変え、コトが終わるまで暗がりを見ていていただくことに致しました。
これで、本当に気兼ねすることはなくなりました。私は包丁を包んでいた手拭いを広げ、水に浸して絞りました。そして、それを今度は縦に折ると、恋衣の目許に被せつつ、
「さあ、少しでも気が休まるよう、これで目を覆ってさしあげましょう」
とうとう私は見る自由さえ奪ってしまいました。今や彼女にできるのは、ただぶら下がって音を聞くことだけです。
私は包丁を逆向きに握り直し、その鋭利な切っ先を、膨らんだ白いお腹に向けました。そして、もう片方の手も添えて、頭上に振り上げますと、
「どんどん痛みは増すじゃろうが、我慢するのですよ? 子供を産むのに……苦痛は付き物なんじゃから!」
叫びながら、私はひと思いに、女の体を突き刺したのでした。
ブツリと、皮が裂ける音をハッキリ聞いたように思います。それと共に、獣のような恋衣の悲鳴が、小屋中に響き渡りました。赤い血がトロリと流れ出て、蛇がのたうつように、乳房の方へと垂れて行きました。
私はその様子を見つめながら、世にも恐ろしい形相をしていたことでしょう。
そして、その世にも恐ろしい形相で、笑っていたのでございます。
「我慢しなさいと言ったじゃろう。それだけ痛がると言うことは、元気な子供が産まれる証拠じゃて。ふふふふ……!」
私の愉しげな声に気付くほどの余裕など、とっくになかったのでしょう。恋衣はひたすら汗を垂れ流しながら、苦痛に喘いでおりました。
「さあ、まだまだ始まったばかりじゃぞ?」
私は若い肉体への報復を喜びつつ、包丁を握る手を下へと動かしました。
再び、妊婦の叫び声。
赤い裂け目はイッキに広がり、今度は盛大に血が吹き出します。
私はその生暖かい飛沫を浴びながら、ますます愉快でなりませんでした。口の中に血が入り込むのも構わずに、乱杭歯を剥き出しにしてニタニタと笑い続けました。
それから、私はその柔らかな肌を、肉を、手際よく捌いて行きました。誰かが「鶏を屠殺るような物」と言っていた気がするが、まさにそのとおりだと感じながら……。
私が手を動かす度に悲鳴が上がり、血が噴き出し、二つの乳房が赤く染まる。その様子を見ることが、とてもとても気味がよかったのを覚えております。
私はいつしか大声を出して笑いながら、この残虐な行為に夢中になっておりました。
絶叫、血飛沫、哄笑、絶叫、血飛沫、哄笑──
真っ赤な嵐のような時間が、瞬く間に過ぎ去りました。気付けば私は赤鬼のような姿で、鉄の臭いがムンムンと充満する小屋の中に立っていたのでございます。
目の前に吊る下がった妊婦の体は、モノスゴイ有様でした。姫様のご気分を害してしまいたら大変ですので、これ以上詳しく書くことは致しませんが、とにかく、それはもはや厭らしい血と肉のカタマリと化しておりました。
──そして私はこの時、一度我に帰ったのです。いけない、私はただこの娘を痛め付ける為にこんなことをしているのではないのだと、自分自信に言い聞かせました。
それから、ようやく都の仙人先生からいただいた紙切れの存在を、思い出したのです。私は常に携帯していたその紙を懐から取り出し、血の付いた手で広げました。書いてあるのはお腹の開き方と、生肝がちょうど胴体の真ん中にあると言うことを示した落書きのような絵のみでございます。
私はその絵図と実際の中身とを見比べましたが、どれがカンジンの肝なのかわからず、少し困ってしまいました。実物は丸や線のような単純な物ではなく、血管やヒダやらが複雑怪奇に絡まり合って、血ミドロに染まっているのですから。
仕方ありませんので、私は手当たり次第にそれらしい臓物を取り出して、先ほど剥いだ恋衣の着物を広げた上に、置いて行くことに致しました。その時、すでに彼女は息も絶え絶えと言った様子で、もう声を出すこともままならないようでした。生きながらに解体されたのですから、むしろまだ生きていたことの方が、不思議なくらいでしょう。
──そうして、幾つかそれらしい物を並べて行った私は、そこでふと、妊婦の腹の中のある物に気が付いて、ギョッと致しました。
肉の壁にできた裂け目の向こうに、何か作り物めいた小さな足が二つ覗いているのです。
私は一瞬それが何なのかと考え込んでしまいまきたが、答えは明白でした。
姫様もお察しのことと存じますが、ただの赤ん坊の両足でございます。
私は、妊婦なんだから、赤ちゃんがお腹にいて当たり前ではないかと、自分の迂闊さに呆れました。そうして一人で笑っているうちに、急にこの罪のない赤ん坊のことを不憫に思い始めました。
この子は今まさに産まれるか産まれないかの瞬間から、母親を失っているのだと考えると、どうにも憐れで……。特に、都に家族を置いて来た私には、肉親と別れることの辛さは痛いほどよくわかりました。……もっとも、その大切な母親を奪おうとしていたのは、他ならぬ私なのでございますが……。
いずれにせよ、醜い鬼の分際でその子供を憐れんだ私は、ある決断を下しました。
──可哀想でならないから、母親と同じところに送ってやろう。
……ここまでお読みになられている姫様は、おそらく、すでに私に失望されていることでしょう。しかし、私の業はよりいっそう深い物なのでございます。私は包丁を一太刀入れて、肉の壁にできた裂け目を広げました。
すると、頭を母親の両足の方へ向けて丸まっている赤ん坊の姿が、ハッキリと見えて参りました。小さくて皺だらけで、赤く染まっていて──それは、すでに死んでいるかのように静かでした。
私は包丁を足元に置くと、さながら産婆にでもなったかのように、赤ん坊へ手を伸ばしました。
そして、私の爪の伸びた指先が、開かれた腹の中に入るか入らないかと言ったところで、
「……………………お婆様」
それまでグッタリとして動かなかった恋衣が、突然声を発したのでした。
さすがに私は驚いて、反射的に手を引っ込めました。まだ口を利く気力があったのかと不思議がっておりますと、恋衣は唇から鼻へと血を垂れながら、再び私を呼ぶのです。
「……お婆様。……私は、もう、だめなようです。……頭が、ボンヤリして……気が遠くなり、そう、です……」
あまりの激痛に、私に腹を斬り裂かれたなどと考える余裕はないようでした。ただ、自分の死だけは受け入れている様子で、ゼエゼエと息をしながら、妊婦は話し続けました。
「お、お婆様……私、は、人を探す為に、旅に出たのです……。その人は、私を、家族を残して、京の都を、去って行きました……」
今さらそのような身の上話をして、いったい何の意味があるのか。──その時は、ただそう思っただけでした。
しかし、次に零れ落ちた彼女の言葉が、己の背負うべき罪業の一切を、私に気付かせたのです。
「……ですが、やっと……私は、やっと、会えたので、ございます。──私たちを置いて、都を旅立った、母親に」
それを聞いた瞬間、私は暫時耳を疑いました。寝耳に水、どころではございません。妊婦の発したセリフの一つ一つの単語の意味さえも、とっさに理解できないほどでした。
ハハオヤニ、ハハオヤニ、ハハオヤニ、ハハオヤニ………………。
頭蓋の中で、未知の呪文が木霊しておりました。
私が中途半端に両手を上げたまま立ち尽くしている間にも、恋衣の告白は続きます。
「……私は、ずっと、お母様が出で行かれた理由を、考えて、おりました……。そしてある時、私は一人のお医者様の、ことを、聞いたの、です。……その方が、私の母が旅立った、前日に、何か母と、お話しをして、いたようだ、と……。私は、そのご年配の、お医者様の、元を……訪ね、ました……」
「ご年配のお医者様」と言う言葉を聞いて、私の頭にはあるお顔が浮かびました。仙人のような髭を生やした、浅黒いお顔が……。
そうして呆然と恋衣の声を聞いているうちに、ゾクゾクと、全身の毛穴が開いて行くのを感じました。
「……私が、母のことに、ついて、何か、ご存知では、ありま、せんかと、訊くと……先生は、やがて……す、全てを、教えて、くれ、ました……。は、母が、姫様の、ご病気を治す、為に、旅に出た、こと……。そ、そし、て……姫様の、治療、には……れい、薬が……妊婦の……生肝、が……必要な、こ、とを……。
……それを、知った、わた、くし、は……母を、さ、さがし、に、いく、ことに……いたし、ました……。わた、くし、は……ちょう、ど……みごもって、いまし、た、から……。だか、ら……はは、の、やくに、たてる、はずだ、と……そう、かんがえた、の、です……。
……さ、さあ、どう、か……わたくし、の、きも、を……つか、つかって、く、だ、さい……。その、ため、に……わた、くしは……な、なまえを、いつわって……この、アダチガハラ、を、たず、ね、たの、ですか……ら……。……ど、どう、か……えんりょ、なさ、らず、に……わ、わたくし、も……ほん、もう……なの、です……。
……た、ただ、このこ、だけ、は……お、おなかに、いる……あかん、ぼう、だけは……い、いかして、やって、くだ、さい……。そ、そして、あ、あなた、に……とり、あげ、て、ほしい……。あ、あなたの、まご、なの、です、よ……オカア、サ、マ」
最後にそう言うと、恋衣はそれっきり静かになりました。荒い息遣いも聞こえなくなり、小屋の中には囲炉裏の火がパチパチと燃える音だけが、響いておりました。
いいえ、その時の私には、もう何も聞こえていなかったように思います。私はただ、彼女の発して最期の言葉──そのたった一語が、脳天から足の先までを貫く感覚に、打ちのめされていたのだした。
お母様──確かにあの娘は、私のことをそう呼んだのです。そうして、生肝を取られることを、私の役に立って殺されることを、「本望」とまで言って死んで行ったのです!
私は全身の骨が砕け散るような衝撃を受けると同時に、自らの過ちを思い知りました。それから、我が子の血で汚れた両手で、頭の毛を鷲掴みに致しました。
……あの子は、私の姿がどれだけ変わっていようと、初めから母親だとわかっていた。しかし、私は少し目と耳が悪くなったと言うだけで、愛しい我が子だと気付いてあげられなかったのだ──そんな風に考えながら、私はいつしか獣じみた声を漏らしておりました。
「うう──ああ……」
それから、目に留まったのは、無残な妊婦の死骸の、その開かれた腹の中にある赤ん坊でございました。──赤ん坊は、その母親の血に塗れたまま、微動だに致しません。
姫様、私は……自ら手にかけた娘の願いを、叶えてやれなかったのでございます。
私はそのことを悟った瞬間、とうとう大声を上げて叫び出しておりました。
気が付けば、私は小屋を飛び出して、夜の山の中をメチャクチャに走っておりました。
どこへ向かうつもりだったのか、自分でもわかりません。ただ、頭の毛を抑えたまま、わけのわからぬ絶叫を上げていたのでございます。そうして、裸足の裏に小石が刺さったり、木の枝で体が傷付いたりするのにも構わず、私は一心に走り続けました。
すでに秋の終わりでしたが、寒さなど微塵も感じられませんでした。むしろ、汗が次々噴き出して来て、返り血が洗い流されてしまいそうなほど、全身ズブ濡れになっておりました。
途中、黒い影となった木々を見上げますと、枝の間に、幾つかの人の顔が浮かび上がりました。それらの顔は、ご病床に伏されている姫様や、仙人風の先生、裕慶様、伊駒之助、そして恋衣──と名乗った、私の娘の物でございました。そう言った人々の顔が、青白く浮かびながら、走る私の前や横から付いて来るのです。
彼らはみな何も喋らずに、無言のまま、私のに冷たい視線を送っておりました。
私は狂ったように、「ごめんなさい! ごめんなさい! お許しください! ごめんなさい!」と、ひたすら繰り返すばかりでした。喉が擦り切れて血が出んばかりに、叫び声を上げながら走り続けたのでございます。
──そうしているうちに、脚が縺れた私は、何かに躓いて転んでしまいました。体中に痛みを感じながら、なおも「ごめんなさい」と喘ぎつつ、面を上げました。
「恋衣」の顔がありました。
太い木の枝から逆さまに吊るされた娘の顔が、ちょうど私のすぐ目の前に来ているのです。
あまりにも驚いた私は声を失い、石になったようにジッとそれを見つめておりました。
すると、目隠しにしていた布切れが、ひとりでに解けたではありませんか。スッカリ肝を潰した私が見つめる先で、「恋衣」の逆さまの目が開き、
「お母様、どうして私をお忘れになったのですか? 私はお母様がそんなお姿になっても、ちゃんと自分の母だとわかったのに。どうして……」
と、恨めしそうな声で言うのでした。
私は堪らず、その場に跳ね起きると、両手で顔を覆いながら、
「わ、私は……私は、姫様の為に……霊薬……」
指の間から無残な幻影を見つめたまま、後退り始めました。「恋衣」はそんな私に、まだ何か言いたげな眼差しを向けております。
そしてその時、切り開かれた彼女の腹の裂け目から、赤ん坊の体が覗いていることに、気が付きました。
「わ、私は……私が……!」
結局そこから先を言葉にできないまま、私は踵を返して、再び森の闇の中へ走り出しました。
──やがて、森を抜けた私は、開けた草原に出ました。そこは、かつて裕慶様と一緒に来たことのある、懐かしい池の傍でございました。
私は一度足を止めてから、再びヨロヨロと歩き始めました。みな様のお顔は、もうどこにも見当たりません。
ふと夜空を見上げてみますと、輪郭の溶けた星やお月様の光が、眩しく滲んでおりました。私は手の甲を擦って、汗だか涙だかわからない物を拭いましたが、やはり視界はよくなりませんでした。
それから、幽鬼のような足取りで、黒々と横たわる水面へと、歩いて行きました。辺りは驚くほど静かで、私の脚が草を掻き分ける音と、風が吹き抜ける音だけが、聞こえます。
カサカサ、ザワザワ、カサカサ、ザワザワ──
汗に濡れた体が風に冷まされて、次第に冷たく感じるようになりました。
ほどなくして、私は流れのない暗黒の水溜りの手前で、足を止めました。そして、何か見てはいけない物でも見るような心地で、その中を覗き込んだのです。
池の水は、よく磨かれた鏡のように、夜空を映しておりました。そして、その中に──歪んだ月や星なんかを背にして、一匹の醜い鬼の姿が現れたのです。
そう、そこにいたのは、紛れもなくオニババ。
私はその時、自分が本当の意味で鬼になってしまったのだと、思い知りました。
──それから、どこをどう歩いて来たのか、よく覚えておりません。しかし、気が付けば、私はまた自分の山小屋の中に、呆然と立ち尽くしているのでした。
そうして、私の暗い目の先には、先ほどと同じように妊婦の開きがぶら下がっておりました。
伊駒之助はまだ帰って来ていないようです。小屋を出てからどれくらいの時間が経ったのかもわかりませんが、まだ夜は明けておりません。
そんなことを考えるともなく考えていた私は、ふと足元を見下ろしました。
そこには、着物の上に並べられた臓器が、不恰好な石ころみたいに置かれていました。……そして、姫様。私はとうとう、その中に生肝を──霊薬を見つけたのでございます!
まん丸い肉の塊を拾い上げた私は、それを大事に握り締め、歓喜の嗚咽を漏らしました。これでようやく、姫様のご病気を治して差し上げられる。娘と孫の命を、無駄にせずに済むと……。
しかしながら、初めにも述べましたとおり、私はこれ以上生きていけぬほどの罪業を背負ってしまいました。ですから、私は自らの命を断つことに決め、最後にこの遺書を認めているのです。
それはさて置き、今私の目の前には、伊駒之助の酒を注いだお椀がございます。そして、その中には、黒緑色の小さな羽根が一枚、浸かっております。
もうお察しかも知れませんが、これは例の毒鳥、鴆の羽根なのでございます。
何故そのような物があるのか不思議にお思いでしょうが、それはこう言うことでございました。
──死を決意致しました私は、最後に如意輪観音にご挨拶をさせていただこうと、壁に向けていたお体を回して、元どおりに致しました。すると、どうした仕掛けなのか、観音様の座っておられる台座の部分が、音もなく外れたのでございます。
驚いた私がそのまま仏像を持ち上げますと、中が空洞になっているらしく、小さな紙の包みが二つ、落ちて来たのでした。
片方を拾い上げて開くと、その中には鶏に似た羽毛が一枚、包まれておりました。何やらすでに予感めいた物を感じた私は、続いてもうもう一方の物も確かめてみました。すると、そこには達者な文字で、次のようなことが書かれていたのです。
毒鳥の羽根でございます。できれば、これは使っ
ていただきたくありません。しかし、もし貴方様が
ご決心された時には、非常に残念ではありますが、
どうぞ、お役に立ててください。拙僧は、貴方様の
味方でございます。
東光坊裕慶
私は、心からあのお方に感謝致しました。そして、さっそく羽根を入れたお椀に、伊駒之助の残して行ったお酒を注いだのです。
それから、毒が溶け出すのを待っている間、可哀想な「恋衣」の体を、床に下ろしてやることに致しました。荒縄を緩めてソッと床に置いてから、彼女の両腕の枷を解き、目隠しを外しました。
「恋衣」は瞼を閉じており、存外穏やかな表情をしておりました……。
その顔を見ていた時、私はずいぶん前に小屋に泊めた旅人が、「ほんのお礼に」と置いて行った和紙の存在を思い出しました。その方は、私が文字の読み書きができると知り、面白がっていたようでございます。私はすぐにそれを引っ張り出して来て、自分が鬼になるまでの経緯を認め始めました。
また、霊薬をしまい込んだ布の上には、「どうかこれを、都の環の宮様の元へ届けてくださいませ」と、書き置きを乗せてあります。これで、小屋に戻って来た伊駒之助が都へ帰る際に、一緒に届けてくれることでしょう。彼の亡き妻の望みでもあるのですから、きっとそうしてくれるはずです。
……ですので、姫様。私の手に入れた霊薬を召し上がって、一刻でも早くご病気をお治しになってください。どうか、ドウカ、私たち親娘三代の命を、無駄になさらないでくださいませ。
それだけが、私、「アダチガハラの鬼女」の、たった一つの願いなのでございます……。