1 砂木、説明する
四月に入り、外気には春の気配が感じられ、神社の桜の花が青空を背景に開き始めていた。境内のベンチに座ってコンビニの花見弁当を楽しんだあと、砂木は優子と会うため華輪邸へと足を運んだ。チャコールグレイのスーツという服装は、いつも通り。浦島が取り押さえられてから、十日経ってのことだった。
フミが出迎え、優子は東屋にいることを教えられた。フミと立ち話をし、邸にあがることなく、そのまま外をまわって砂木は東屋へと向かった。
東屋へ続く小道を歩きながら、砂木は右手に広がる庭を見やった。草木の息吹はまだ感じられないものの、広大な庭が生命をやどし、それをこれからみなぎらせるのはわかった。その時の景観を思い浮かべて、砂木はかすかに微笑んだ。フミに聞いた話も、明るい兆しを予感させていた。
犬の甲高い鳴き声に、砂木は顔を向けた。ビーグルの子犬が砂木のほうに駆けてきて、三メートルほど手前で止まった。尻尾を振って吠え声を上げ、落ち着かないといった様子で、いまきた道を、飼い主のいる東屋のほうへと駆け戻っていく。
東屋の傍らでは、欅の大木が枝を張り出して芽吹き始め、ピーター、ピーターと呼ぶ、優子の声が聞こえる。
「お久しぶりです」
犬をあやしながら優子が、東屋に入ってきた砂木に挨拶した。
フレアスカートにシャツという装いに、ピンク色の薄手のカーディガンを着ている。涼しげな眼差しと、小さくてやわらかそうな唇が砂木の目をとらえる。この娘には、人を懐柔させるものがある。砂木は、それを改めて感じさせられた。優子の前に出ると、どうしていいのかわからないような、それでいて安堵したような気分にさせられるのだった。
「犬を飼われたんですね」
「ええ、そうなんです。雌ですけど、前のピーターにちなんで、同じ名にしました。おかしいでしょう。――それより、座られませんか」
砂木は優子の隣に腰をおろした。
「それで、今日はどうされたんですか」
犬の頭を撫でつけて、優子が言った。
「優子さんとお話がしたくてでは、駄目ですか」
優子は笑んだ。そして砂木を見やった。
「刑事さん――確かお名前は砂木さんでしたよね――砂木さんったら、いつもそうやってこられるんですよね。そのくせ、ちゃんとお話したことがないんですもの」
「すみません。どうも優子さんの前だとあがってしまうみたいで。それに今日おうかがいしたのは、ほんとうに個人的にあなたと話がしたくてですね」
優子は、今度は声を出して笑った。
「そんなこと言われて、お仕事のほうはいいんですか?」
子犬が優子の手から離れ、砂木の足元を嗅ぎまわる。砂木はその背に手を伸ばした。
「かまいません。取り調べや証拠固めに関しては、沢口警部や綿貫さんたちのほうが、僕よりずっと有能ですからお任せしています。ようやく浦島も自供をしだしました。さすがに彼も、沢口警部の執拗な追及にはかなわなかったようです」
自宅から、犯行に使用された青酸ナトリウムが発見されたのをきっかけに、浦島は態度を変えていた。美也とハワイに視察にいった際に、そこで入手したものだった。もともと輸入業を手がけていたこともあって、その手の薬物を入手する方法を浦島は知っていたらしかった。青酸ナトリウムを処分しなかったのは、場合によっては、誰かに罪をきせねばならないような状況になるかもしれないと考えてのことだった。その時の、決め手の証拠として使うために取っておいたのだ。
「疑われていることに気づかれたら、青酸ナトリウムを処分されるだろうと思って、みなさんを集めて、あのような場を設けたんです」
自分が名探偵の真似事をしたかった部分は伏せて、砂木はそう説明した。
「浦島さん、か――あの人が犯人だったなんて、いまだに信じられません」
砂木の手にじゃれついていた子犬が、ふっと頭を上げ、東屋から一目散に駆け出していった。なにか見つけたらしい。紋白蝶が二匹、重なるようにしてゆるゆると宙を舞っているのが砂木の目にとまった。
「砂木さん。事件のことで、いまでもわからない部分があるのでお尋ねしてもいいですか」
どうぞと、砂木は促した。
「まずお聞きしたかったのは、わたしの部屋での、ウサギとカメというのはいったいなんだったんですか。わたし、いまだにそのことで考えこんでしまうことがあるんですよ。めぐみさんと二人で首をひねっている始末です」
「ああ、あのことですね。じつはあの時事件の真相が初めて見えてきたんですよ。それまでは、まったく見当違いの方向を僕は見ていました」
「だから寝すごしたんではなく、道を間違えたていたと言われたんですね。で、それはなんだったんですの」
「あなたの部屋で、あのウサギとカメのぬいぐるみを見て、言葉による連想が生じたんです。ウサギとカメ、ラビット・アンド・タートルってね。そのタートルという言葉が引き金になって思い出したことがあったんです」
「なにを思い出されたんですか?」
「その日の午前中に見た、エレガントビーナスのパーティのスナップ写真です。その中で榊は、白のタートルネックのセーターを着ていました。おわかりになりますか?」
「いいえ。どうしてそのことが重要なんですの?」
「つまり、こういうことです。浦島はパーティ会場で、榊の首筋の刺青を見て、三年前のあなたを襲った暴漢が榊だというのに気づいたと言っていましたよね。でも、そんなことがあるわけがないんです。だって、榊は首を覆っているタートルネックのセーターを着ていたんですよ。浦島にそれが見えるはずがないじゃないですか。それなのに浦島は、蝶の刺青が首筋にあるのを知っていた。つまり浦島は、見なくても刺青のことを知っていたわけです。そこから僕には、浦島と榊の間に過去につながりがあったのがわかりました。それは、すぐに三年前の事件と結びつき、あの事件そのものが浦島と榊によるものではないかと考えたのです。浦島が榊を使ってあなたを襲わせ、それを助けるヒーローを演じて、華輪家に取り入る計画だったのではとね」
「それで、実際にその通りだったのですね」
優子がため息をつき、砂木はうなずいた。
「浦島の自供によると、事業に失敗した彼は、自分の生まれ育った町を歩きまわっているうちに、華輪の邸から出てくるあなたを見たのです。華輪の邸は、彼にとって子供の時からの憧れの対象で、あなたにもいっぺんに羨望を抱いたそうです。それであなたのことを調べ、なんとかあなたに近づき、華輪家に入り込むことのできる方法を算段したらしいですね。小さい時からの憧れの邸、そこでの優雅な生活、華輪を掌中におさめること、それを浦島は渇望するようになったのです。
競艇場で榊を見い出し、人の好い素朴な人物になりすまして話しかけ、いいようにおだてたあと、好きな女がいるのだが、きっかけがなくてどうにもならない、助けてもらえないかと話しを持ちかけたんですね。そしてそれが、榊があなたを神社で襲い、それを浦島が助けるという三文芝居だったわけです。榊は気軽に引き受けたらしいです。謝礼は三万円で、あなたを襲うふりをし、浦島がきたら逃げればいいんですから、榊みたいな男にとってはわりのいい話だったんでしょう。もちろん、二郎さんのことは計算外のアクシデントでした。それに、浦島が自分の太腿にナイフを突き立てることも、榊は知らなかったんです。翌日の新聞を見て、そのことを知った榊はおびえてしまい、警察と関わることのないように、口を閉ざし、できるだけそのことから避けるようにしていたのです。浦島とは競艇場で知り合っただけの間柄でしたし、当然浦島は偽名を使っていて連絡の取りようもなかったので、榊には、まさかそれが、浦島が華輪家にもぐり込むための計画だとは考えてもいなかったでしょう。
それに榊が気づいたのが、例のパーティです。その時までに榊は、広告で美也さんのことを知り、美也さんと接触したあとに、華輪家の内情を調べたりして、美也さんをゆすり始めていたのです。榊にとって美也さんはいい金蔓でした。パーティの出席にしても、榊が無理に美也さんに手配させたものです。榊としてはたぶん、華輪の人間と直接接触し、関係を強化させるつもりだったのでしょう。そしてそこで、あなたや二郎さんや浦島を見た榊は、三年前の事件の真相を知ったのです。奴は浦島に言ったそうです。『兄弟、今度は俺を助けてもらわなくちゃいけないな』って。榊には浦島をゆするつもりはなかったんです。ただ、なにかと自分を手助けすることを要望したらしいです。それでも、そのことは浦島にとって脅威でした。榊をなんとかしなければいけないと考えたわけです。そして、榊をマークし探っているうちに、榊が美也さんをゆすっている事実を知った浦島は――盗聴器を使っていたと言っています――自分がそれを知っていることを伝え、華輪コーポレーションでの将来を約束してくれるなら手伝いますよと、殺人をそそのかしていった。要するにこの犯罪のほんとうの動機は、浦島にしても美也さんにしても、榊欣治を殺害することにあったんです」
「でもそれだと、浦島さんには美也さんを殺す必要はなかったわけですよね」
「直接的にはですね。ただ、そこが浦島という男の冷酷で狡猾なところなんです。彼にとって美也さんは、たんに榊を殺すためだけの道具だったんです。つまり凶器ですね。そして用がすめば、自分の身の安全をはかるために、殺害に使ったその凶器を処分する。そういう感覚なんです。三年前に榊という共犯者をもったがゆえにこんなことになる。その二の舞を踏むつもりはないという考えもあったでしょう。また美也さんを殺害することで、金銭的な動機のない自分を、容疑者の対象からはずせるのではないかとする思いもあったみたいです。榊殺しにおいても、美也さんの殺害においても、自分のアリバイを用意しておくという周到さからわかる通り、とにかく、自分の保身、それが浦島には大事だったんです。犯行前に、邸に一歩として足を踏み入れないことで、自分には犯行は不可能だという状況を作ることこそが、浦島には絶対だったわけです。チョコレートをおくことのできない絶対的状態にいることで、自然と容疑からはずれるという具合にです」
「美也さんは、自分が殺されるとも知らずに、浦島さんを信用していたのですね」
優子の目が悲しげになり、ふたたびため息がこぼれ出た。
「ええ、そうです。彼女は、パートナーとして浦島を信じ込んでいたんです。浦島にはそういう才能がありました。それにひと役買っているのが、浦島の声です。あの声で囁かれ説き伏せられると、惹きつけられてしまうんですよ。顔を見ているとそうでもないんですが、声だけだと、効果は絶大だったみたいです。当然浦島はそのことを知っていて、催眠術師のようにして、美也さんを自分の思いのままに動かしていったんです。アリバイを作り、被害者を装い、榊の死体が発見されたのちに、浦島が三年前の暴漢を榊だと告発とすることで、その時からの華輪の財産を狙った犯罪だと思わせるというのが、美也さんの知っていた計画だったんです。まさか、あなたを襲ったのがほんとうに榊で、自分まで殺されるとは思っていなかったでしょう。それに二人は、上司と部下だけでなく、男女の仲にもなっていたそうです。そうなると、美也さんのほうで、浦島を疑うことはありませんでした。
その美也さんの殺害方法ですが、炭酸水素ナトリウム、つまり重曹を、無毒になってしまった青酸ナトリウムだと説明し、それを美也さんの見ている前で舐めてみせたりして、チョコに仕込んだそうです。そうやって信用させておいて、青酸ナトリウムを仕込んだものと箱ごとすり替えたのは、僕の推理通りでした。
亜紀代さんを犯人に仕立て上げるつもりは、それほど真剣でなかったらしいです。浦島は反対だったのですが、グラビアにあんなことをされた腹いせに、美也さんとしては、なんでもいいから亜紀代さんをこっぴどいめに遭わせてやりたいで、ああなったそうです。ですから爆弾の件も、邸に電話をかけたり出たりすることで、自分が間違いなく浦島の家にいるのだというのを印象づけるのが主な目的だったのです。それと、電話して、四時半ごろに一度ないことを確認させておいたほうが、もとからおいてあったのではなく、外出したあとに誰かがチョコレートの箱をおいたふうに思えるからそうしたそうです。そうやって、少しでも自分自身で箱をおいたことに気づかれないようにしていたんですね。全体的な計画に関しては、かなり細かいとこまで考えていて、たとえば、あの『毒入り』のカードにしても、あれを添えることでチョコレートを食べることを、あなたたちが少しでもやめるようにしていたんですよ。そうやって、チョコを取る人間を減らすことで、赤色のチョコレートが選ばれる可能性をも減らそうとしていたんです。誰かが赤色のぶんを取って、それを止めていたりしたのでは気づかれてしまうおそれがあったからです。ま、実際には、めぐみさんが選んでしまったので、無害と思い込んでいたものの、直接に被害者を装うつもりだった美也さんが、それを止めねばならないことになってしまったんですけど。それにしても、よく考えられています。
以上が事件のあらましです。複雑ですが、簡単に言えばこうなります。脅威の的の榊を殺害し、共犯者の美也さんをも始末する。そしていずれは華輪を掌中におさめる。それが浦島の考えていたことだったんです。まったく驚異的な奴です」
「浦島さんを犯人と見破った砂木警部は、それ以上に驚異的だったんですね」
「もう、からかわないでください。それに僕は、警部でなく警部補です。事件を振り返って反省すべき点がたくさんあるんですよ。たとえば、浦島の左足の捻挫。よく考えると、三年前の事件でも、浦島は左足に怪我をしましたよね。犯罪者が犯行を繰り返す時、同じ手口を使ってしまうというのは捜査の基本なのに、そのことを見逃していたんです。誰かを利用するという手口もですね。三年前は榊で、今回は美也さんでした。前回は自分で、今回は美也さんの、被害者を装うという点も重複しています。それに、榊の恋人の水月由美さんという女性から、パーティから帰ってきた榊が唄を口ずさんでいたという話を聞いていたんです。その時、もっと聞いておくべきでした。榊が口ずさんでいたのは、なんと童謡の浦島太郎だったんです。まったく、笑わせるじゃないですか。もっと早くに知っていたらと、つくづく思わされました。浦島太郎はカメに恩返しをしてもらい、現実の浦島は、カメのぬいぐるみのせいで犯行が露見した――皮肉なものです。
それにしても、もしあの時、あなたの部屋でぬいぐるみを見なかったら、いまだに僕は間違った道をたどっていたのかと思うと、頭が痛くなります。あの瞬間に事件の渦中に浦島がいることがわかり、そこから美也さんのことが見えてきたわけです。そしてそれをもとにして推理を積み上げていったんです。理屈だけで、あそこまでわかるもんじゃありません。ほんとうのところを言うと、じつは、あのぬいぐるみで気づかされるまで、僕はあなたと二郎さんを疑っていたんですよ」
「わたしと二郎さんをですか」
優子が微苦笑を浮かべた。
「それが、僕の見間違えていたゴールだったんです。四時の爆弾の電話というのは、犯人のアリバイ工作だと考えていたんです。つまり、犯人は、自分にはチョコレートをおくのは不可能だと思わせる状況を作っているに違いないとね。それに一番適合するのはあなたと二郎さんでした。なにしろ美也さんと一緒に帰ってくるんですから、お二人がおいたとは誰も思いませんものね」
「でも、わたしと二郎さんが犯人だったとして、どうやってチョコレートをおくことができるんですか。砂木さんが言われたように、わたしにはできませんし、かといって二郎さんも、美也さんがリビングにいくという偶然に頼らなければいけませんよね」
「その偶然が曲者なんです。たまたまあの時は一郎さんとめぐみさんが、すでにきていて偶然でしたけど、もしそうでなかったら、あなたが美也さんをリビングなりに誘導する手筈だったんだと考えたんです。つまり一階での足止めです。そしてその隙に、二郎さんがチョコレートをおきにいく。それなら偶然でなくて計画的ですよね。あなたの部屋でぬいぐるみを見るまで、僕はその線で推理を進めていたんです。榊殺しに関する、観劇というあなたたち二人のアリバイを、どうやって崩すかとそれに悩んでいました」
「そんなに疑われていたのですか」
「僕が最初に疑惑をかけたのはあなたでした」
優子は――砂木を見つめた。
「僕は少し話しすぎました。今度は優子さん、あなたが話してくれませんか」
「それは、砂木さんがわたしとずっと前から話したかったことですね」
優子の言葉を受けとめ、砂木は言った。
「優子さん、ほんとうのあなたは誰なんですか」




