3 そして誰もいなくなった
めぐみが母親の幸子の肩に顔を埋めた。嗚咽が洩れる。幸子がそんな娘の髪を撫でつけ、優子も左側から、めぐみをいたわる仕草をみせた。
「めぐみが僕をかばって……し、しかし、どうしてそんなことを」
二郎は愕然としていた。
「ここで整理をしておきましょう。いままでの経緯で、チョコレートがおかれたのが、ほんのわずかな時間の間だということはみなさんにもおわかりいただけたと思います。それは、一郎さんがコピーをおいて、そのあとめぐみさんが部屋を出てから、美也さんが二階に上がるまでということになります。それでは、そのほんのわずかな時間を利用してチョコレートがおけたのは、美也さんが亡くなるのを目の前にした人物のうちの誰でしょう。一郎さんが部屋を出たのが、クラクションの音がきっかけになっていることから、それをリビングで聞いた亜紀代さんには無理です。なぜなら、二階にいくことは不可能だからです。もしそうしたのなら、正面階段を使った一郎さんか、裏の階段を使っためぐみさんの、どちらかと鉢合わせにならないはずがありませんからね。しかし、そういう事実はない。そして、一郎さんでもめぐみさんでもないことは、これまでの話で明らかとしています。
さて、残るのは優子さんと二郎さんということになりますが――残念なことに、チョコレートがおかれたのが、あなたたちが帰ってくる前という前提はすでになくなっています――、二人のうちどちらならチョコレートをおけたか。優子さんは、美也さんと一緒にリビングに入って、そのままずっとおられたわけですから、それはできない。それでは二郎さんはどうか。二郎さん、あなたは優子さんたちと一緒でなく、みんながリビングに揃って、少し遅れて入ってこられましたよね。部屋にチョコレートをおきにいくだけなら、一分もかからないでしょう。つまり、あなたしか美也さんの部屋にチョコレートをおきにいくことができる者がいないことに、めぐみさんは気づいたのですよ」
「そうでしたわ。わたしも、二郎さんが美也さんたちと一緒じゃなかったのを覚えています」
亜紀代が言い、
「そうだ思い出した。二郎は確かに遅れて入ってきた。そうか、おまえだったのか」
一郎が非難する目つきで、二郎をまじまじと見た。
その目線を小馬鹿にするように、二郎は鼻を鳴らした。
「刑事さんの言われる通りだ。僕しかチョコレートをおくことができた者はいない。それなのに、なぜ僕はそれをやってないことを知っているんだ」
「二郎さん、あなたはどうして遅れたのですか」
「いや、べつにこれといって。美也さんと優子さんを先に降ろしてから、車を駐車場に止め、それから猫のことが気になって車道のほうへいったんです。まだいたら、石のひとつも投げてやろうって。生憎、猫はもういませんでしたがね。それであたりを見て、それから邸に入っただけですよ」
「それを証明できますか」
「無理言わないでください。猫もいなかったんですよ」
「それではあなたご自身、チョコレートをおきにいくことができたことは否定されませんね」
「ええ。それができたことは認めましょう。でも、僕はそんなことはしていない。なんでしたら、署でも留置所でも引っ張っていってください。どうぞお好きなように」
「いえ、それには及びません。なぜなら、あなたを犯人とするには納得がいかないからです。最初に話した通り、これは計画的な犯行です。犯人は、チョコレートをおく方法と時間をあらかじめ決めておいたのは間違いないと言っていいでしょう。そうすると、二郎さんを犯人とした場合、初めの計画ではいつチョコレートをおくつもりだったのでしょう。美也さんが帰ってきてリビングに入ったのは偶然の成り行きです。だから、それを想定してチョコレートをおくことは考えていなかったはずです。いや、想定するのは無理だが、そういうチャンスに巡り合ったからその偶然を利用した。確かにそう考えることはできます。しかしそれでも、最初の計画にその偶然が含まれていなかったことに変わりはありません。
では、もとからあった計画では、いつチョコレートをおくつもりだったのか。邸に戻り、みんなが揃い、そのあとでチャンスを見ながらでしょうか。しかしそれでは、亜紀代さんに罪を着せようとするプランと噛み合わないことになります。亜紀代さんを犯人と疑わせるには、四時から美也さんが二階に上がるまでという、早めの時間のほうがいいからです。四時の爆弾の電話もそのためのものじゃないですか。つまり二郎さんを犯人とした場合、この事件の犯人の緻密な計画性から考えて、その点がいまひとつしっくりこなくなるわけです。
それと、二郎さんには犯人でないことを示す決定打がありました。そこの目隠しの壁です。おわかりの通り、その壁のせいで、リビングから、玄関や階段の下あたりは見えなくなっています。同じことは玄関のほうもそうで、向こうからリビングを見ることはできません。もちろん、だから目隠しなんですけどね。ですから、遅れて入ってきた二郎さんには、壁越しではリビングに誰がいたのかを知ることはできなかった。それを知るには壁を通りすぎなければならず。そうしたなら、リビングにいた人たちも二郎さんのことに気づく。つまり、姿を見られずに、リビングにいた人物を二郎さんは知ることができなかったわけです。となると、事件当日美也さんが帰ってすぐにリビングにいったのが偶然の成り行きである以上、遅れた二郎さんには、美也さんがその時どこにいるのか判断ができなかったはずです。そんな二郎さんが、二階の美也さんの部屋にチョコレートをおきにいったりするでしょうか。美也さんが二階にいて、鉢合わせするかもしれないのにです。声でわかったのではないかとも思いましたが、以前二郎さんと一緒に試してみたところ、壁越しでは、声がしているのはわかっても誰の声かまでは判別不可能でした。つまり、リビングに美也さんがいるのを知ることができなかった二郎さんが、そのタイミングを利用して、チョコレートの箱をおきにいくわけがないのです。いや、できなかったと言っていいでしょう」
「でも、そうなると刑事さん、おかしくなりませんこと。だって、チョコレートをおいたのが、一郎さんでなく、めぐみさんでなく、二郎さんや優子さんでなく、このわたしでもないとしたら、もうほかには誰もいなくなってしまいますわ」
亜紀代が首を傾げた。
「ええ、そうですね。そして誰もいなくなった。一見そうなります。しかしじつは、それができた人物がひとりだけいたのです。殺害の現場に居合わせ、偶然に頼らず、確実に計画通りにことを運ぶことができ、あらかじめ決まった時間にチョコレートを部屋におくことができた人物、それは――」
砂木はおごそかに告げた。
「華輪美也さん、ただひとりです」




