30 ウサギとカメ
階段を上がって、すぐ右手の優子の部屋に二人は入った。ドアを開くと、正面にベージュのカーテンのかかった窓があった。窓際に書き物机があり、女子大生らしく教科書や辞書といったものがおかれている。右の壁にクローゼットと背丈の低いタンス、左の壁には多目的な棚が作られていた。タンスの上には、鏡や化粧道具と一緒に小型の仏壇がおいてあった。左角にはベッド。部屋の中央にオフホワイトのカーペットが敷かれ、そこにガラステーブルがあった。棚には、書籍、ミニコンポ、写真立てが二つに、インテリアの小物などが並べられていた。そして、ベッドの上にぬいぐるみが二つある。母親の仏壇を除けば、普通の女子大生の部屋といってよかった。
「なにかお話があるのでしょうか」カーペットに座って優子が言った。「部屋を見たいというのは、その口実なんでしょう」
「いえ、そういうわけでは。ほんとうに部屋を見たくなってですね」
砂木としても、自分がどうしたいのかよくわかっていなかった。優子と二人になれたものの、なにを話したらいいのかさっぱりだ。事件の手がかり。それを砂木は探し求めていた。ただ、それがどこにあるのか皆目見当がついていない。
仏壇の前で手を合わせた。遺影があり、母親の律代は細面の美人だった。いまの優子と同じショートカットだ。それをすますと、所在なく部屋を見まわした。棚に歩み寄り、写真立てに飾られている写真を見た。ひとつは寝そべっているビーグル犬で、もうひとつは男が写っている。
「これがピーターですか」
「ええ、そうです。わたしの無二の親友でした」
砂木は男の写真へと視線を移動させた。
「そしてこれが、華輪春仁氏ですね」
精悍な感じを受ける男だった。鋭さと柔和さが一緒になった、のびやかな表情をしている。砂木は、春仁の肖像を目にするのはこれが初めてであることに気づいた。瞬きもせず、こちらをじっと見つめてくる写真の春仁が、砂木の中で動き出していた。
砂木は書籍に目を移し、それから左を向いてベッドへと目を転じた。ピンクのベッドカバーの上の二つのぬいぐるみは、優子にしては幼すぎるような気がした。
「父とゲームセンターへいった時の戦利品なんです」優子が言った。「父ったら下手で、何度もやって、取れたのはその二つだけだったんですよ」
砂木はゲーム機と格闘している春仁の姿を思い浮かべた。横では、優子が声援を送っている。
「偶然でしょうけど、ウサギとカメですね。イソップ寓話の……」
不意に砂木は黙り込んだ。言葉による連想が生じ、目蓋は開いているものの、目の前のものはなにも見えていなかった。それでも砂木は凝視していた。
これまで霧につつまれていた風景に、ぽっかりと穴が開いた。
「そうか! ウサギとカメか……道を間違えていたんだ! だからわからなかったんだ」
当たりはばかりなく、砂木が声を張り上げた。
「あのう刑事さん、ウサギは道を間違えたのではなく、寝すごしたんですよ」
突然の砂木の様子に、優子がこわごわとした表情で言った。
「ええ、そうです。イソップのウサギは寝すごしたんです。ただ僕というウサギは、道を間違えていたんですよ。だから、ゴールを見つけることができなかった。なんて間抜けだったんだ。いまごろになって気づくなんて。でも、大丈夫。ようやくそれが僕にもわかりました。あとはその正しい道を突っ走るだけです。この勝負、ウサギの面目にかけて、カメに勝たせるわけにはいきませんからね」
砂木はそう言うと、急ぎ足で優子の部屋を出ていった。
優子が一階におりると、階段の下でめぐみが突っ立っていた。
「なにかあったの? あの刑事さんえらく張り切った感じで、疾風の如く帰っていったわよ」
「それがわたしにもわからなくて……ウサギとカメがどうとかと……僕というウサギは寝すごしたんでなく、道を間違えたとか」
「は?」
めぐみには、なおのことわけがわからない話だった。
華輪邸をあとにした砂木は、田圃の広がる道を歩き続けていた。上体をいくぶん前に屈め、両手をズボンのポケットに突っ込んで、すたすたと足を運んでいく。うつむき加減で、考えにふけっているのがわかった。時折立ち止まっては、頭を両手で挟むようにして熟考し、また歩きだす。チャコールグレイのスーツを着た、埴輪顔の背の低い男のそんな挙動は、はたから見たら奇矯なものに映った。優子の部屋で得た手がかりによる推理の過程が、いまではひとりの人物を指していた。それは砂木にとって思いがけない人物だった。自分がいままで抱いていた仮説が、間違いであることをつくづく知らされた。全員を疑ってかかるという、捜査の基本に自分が甘かったのを砂木は反省した。
ジグソーパズルの見つからなかったピース、それが彼女だった。
そして彼女がピースだとしたら、華輪美也を死に至らしめた犯人は――。
本部を避け、県警の自分のデスクに砂木は戻った。沢口や綿貫に、いまの思考を邪魔されるのはいやだった。デスクの上に、紙と鉛筆、それに大型の灰皿とタバコを用意する。そして椅子に座り込み、すぱすぱと紫煙をくゆらせ、タバコを、一本、また一本と灰にし、虚空を見つめてじっとしているかと思うと、唐突にガバッと動き出し、紙に思いついたことを書き込む。それの繰り返しだった。しばらくすると、紙に書きだしたものを見つめては思考を続ける。頭を掻いたり、立ったり座ったり、意味なくあたりを歩きまわるという動作が加わる。そしてまた、思いつくたびに紙にそれを書き込んでいく。そのほとんどは言葉だったが、図形だったり、あるいはただの線だったりもした。頭の中は事件のことで一杯だった。鉛筆を動かしながら、推理が徐々に形を成していき、パズルのピースが埋まっていく。手を休め、考えては取り捨てし、想像と論理を組み合わせる。やるべきことがすんだ時には、まわりには、当直の係の者を除けば誰もいなくなっていた。デスクの上は、吸い殻と、灰がうず高く積もった灰皿と、書き散らした紙で埋まっていた。窓の外は漆黒の闇で、蛍光灯の明かりががらんとした室内を照らしている。
まだ不明な点はあるが、それらも調べればいずれわかるだろう。
砂木は少し考えてから、佐賀県警の茎山に電話した。茎山の階級は警部で、砂木の同期だった。キャリア出身のいいとこは、警察内の知人にお偉いさんが多いということだ。なにかと融通を利かせてもらえる。
電話をすまし、まだ夕食を摂っていないことを思い出し、砂木は夜食用のカップヌードルにポットのお湯を注いだ。灰皿と紙を脇によせ、デスクの上に空間を作ってそこにおく。三分待つ間、山口百恵の『冬の色』を口ずさんだ。グルメ料理もカップヌードルも、どちらともおいしいという意味で砂木には変わりなかった。
ヌードルをうまそうにすすりながら、砂木には、自分がようやくゴールへの道を進んでいる確信があった。




