29 エレガントビーナスとマドレーヌ
翌の水曜日。砂木は、午前中にキャッスルタウンの華輪コーポレーションを訪ねた。
ガラスの自動扉の向こうに、間接照明で照らされた大理石の受付がある。浅葱色の制服を着た受付嬢が一人いて、砂木は浦島への取り次ぎを頼んだ。大手だけあって、清楚な感じの、垢抜けた娘をおいている。
一分ほどして浦島が奥から出てきた。松葉杖をまだ使っているものの、順調に回復しているらしく、動きはよくなっていた。濃いグレイのスーツ姿で、映画に出てくる賭博場の用心棒のように見える。
「どうしました。今日はなにを調べられているんですか」
挨拶代りの口調だった。
「榊さんが出席したパーティのことが知りたくてですね。なにか記録みたいなものは残っていないかとうかがったんですが」
「それなら、エレビのほうに直接いかれたほうがいいでしょう。招待客の名簿などはあっちで保管しています。私のほうから内線を入れときますから、このままいかれてみてください。場所はわかりますか。このビルの最上階です。ここを出て左に進み、角を曲がった先に、従業員用のエレベーターがありますからそれを使ってください。そのほうが早いでしょう」
浦島は子供のような笑みを作った。
「れいの『シラノ・ド・ベルジュラック』、読んでみましたよ。男のロマンですね」
「浦島さんに、ロクサーヌに相当する女性はいますか」
浦島の目が、そこにはない、なにかを見つめるようなものになった。それは一瞬で、すぐに浦島は、顔を下げてかぶりを振った。
「ロクサーヌは、男にとって見果てぬ夢みたいなもんです」
なるほどと砂木が微笑み、受付嬢がなんの話だろうと、大柄の浦島と小柄な砂木を眺めていた。
浦島に礼を言って、砂木は教わった通りに従業員用のエレベーターで上へあがった。
対応に出たのは、メガネをかけた、エレガントという言葉からはほど遠い、三十代後半に見える痩せぎすの女だった。エレベーターの前で待ってくれていて、神経質そうで、疲れが顔に出ている。小豆色の事務服を着ているので、エステシャンでなく、事務や経理を担当していると思われた。
女は砂木を、表の入り口でなく通用ドアから通すと、事務室の奥の衝立で仕切った空間に案内し、名簿やアルバムのパーティ関係の資料を預けた。
「終わったら教えてください」
不愛想に言って、女は自分の仕事へと戻った。忙しそうだ。
従業員の、休憩室代わりの空間のようだった。流しがあり、湯沸かしポットに、湯呑とカップばかりがおかれた食器棚がある。エレガントビーナスの正面の煌びやかさとは対照的な、裏側を見ている気がした。が、こちらのほうが砂木は落ち着ける。
テーブルの前のパイプ椅子に座って、砂木は名簿にざっと目を通すと、つぎにアルバムを開いた。二冊あり、パーティでのスナップ写真が貼られている。プロのカメラマンが撮影したものらしく、素人のそれとは写り具合が違っていた。数にして四百枚ほどだ。名士の夫人や娘たちがパーティを楽しんでいる姿に混じって、華輪家の者たちが写っていた。赤いドレスの美也が、婦人たちと和やかに交流しているところを撮らえたものが、数からいうと一番多い。一郎と優子、亜紀代、冬和夫婦、二郎にめぐみが、たくさんある写真のそこかしこに写っている。本人も言っていたように、出席していないので奈津枝の写っているものはない。白いセーターに茶革のジャケットを着た榊に、砂木は特に注目した。榊がなにを知ったのか、それを砂木はつかみたかった。二度三度と砂木は写真を見ていった。榊はこのパーティで、いったいなにを知ったんだ。
一時間半ほど見続けたものの、けっきょく砂木の望むようなものは写真からは得られなかった。
女にすんだことを告げて、砂木はそこをあとにした。
「お茶も出さずにすみません」
そう謝って、メガネをはずして目頭を指で揉む女の顔が、砂木の印象に残った。休息し、それなりのメイクと衣装をすれば、エレガントになるに違いなかった。
その後砂木は、アリバイに関する調査をした。昼食をすませ、証言者に会い話を聞いた。捜査会議で聞かされた話を、もう一度おさらいするだけのものであった。今日はどうもついていないらしく、砂木の思い通りには進まなかった。今日までの時点で、ひとつの仮説を砂木は立てていた。それを証明しようとしていた。が、それがどうやったらできるのかが見えてこない。共犯者の可能性を考える。しかし、これ以上共犯者がいるとは思えなかった。
砂木はなんの当てもなく、華輪邸を訪ねた。
「あらまあ、刑事さんでしたか。ちょうどよいところにおみえになりました。みなさま、いまお茶を召し上がられているとこです」
フミが顔をほころばせて言った。どうやら少しは機嫌を直してくれたみたいだった。
そのままリビングへ通された。亜紀代と優子とめぐみが、テーブルを囲んでいた。陶製の、白地に青い柳の図柄の入った紅茶のセットがおかれ、オレンジマドレーヌが今日のお菓子だった。砂木はめぐみの隣に座った。
「刑事さんって、ほんといいタイミングでくるわね」
めぐみが、わざと嫌味っぽく言った。
「二郎さんは今日はおられないのですか」砂木はとぼけた。
「仕事にいっているのよ。一応社会人だもの。夜には帰ってくるけどね」
「紅茶しか用意していませんけど、それでよろしいかしら」
亜紀代が言い、もちろんですと砂木は答えた。
温めたカップと受け皿をフミが用意し、優子がポットから紅茶を注いでくれた。芳香が漂い、砂木は出されたマドレーヌをフォークで切り取って口に運んだ。店で売っているのと違う、手作りの菓子の味がする。
「どうですか。お味のほうは?」亜紀代が尋ねた。
「いいですね。じつにいいです。口当たりはなめらかで、甘さもいい感じです」
亜紀代が瞳を輝かせた。
「そう言っていただけると嬉しいですわ。わたしが作りましたの。もちろん、プロの味とはまいりませんけど」
「ウワォッ! そうなんですか。亜紀代さんが作られたんだ。家庭で焼かれたマドレーヌなんて、滅多に口にする機会がないので感激しますね。職人の味どうのこうのではなく、逆にプロには出せないおいしさですよ、これは」
「わたしもそう思います。うまく言えませんけど、ティータイムに家庭で食べるほんとうのお菓子みたいです」優子が言い、「叔母様がこういうの焼けるって、わたし知らなかったわ。教えてもらわなくちゃ」と、めぐみが感心した口ぶりでうなずいた。
いやですわと亜紀代が照れ、しばらく菓子の話が続いた。フミが傍らで、そういうみなのやり取りをにこやかに見つめている。ほんの数日前に、この場所で女が一人毒殺されたとは、とうてい信じられない和やかさだった。
「それで刑事さん、捜査のほうは進んでいる?」
めぐみが、時機を見計らって口にした。
「それがなかなか思うようにいかなくてですね」
「どこがうまくいかないのか話してみたら。三人揃っていることだし、なにかヒントがつかめるかもよ」
めぐみさんと、優子がやんわりたしなめた。
「いいじゃない優子さん。わたしも事件の関係者なんだから、聞く権利があると思わない。警察が誰を疑って、どこまで捜査が進んでいるのかわたし知りたいわ。それに刑事さん、グラビアの件と遺言状の件、それに三年前に優子さんを襲った暴漢が榊さんだということは、もうみんな知っているわよ」
カップを宙に持ち上げたまま、砂木は目をパチクリさせた。
「ほんとうですか?」
亜紀代がうなずいた。
「グラビアのことは、わたしが自分から話しましたの。先日、早智が川口とフミを伴ってわたしのとこにきて、ことの次第をすべて話しました」
砂木はなにも言わずに亜紀代を見つめた。
「正直申し上げて、許せませんでしたわ。怒りで全身が震え、早智をひっぱ叩いてやりたいと思いました。雇われの分際で、わたくしのプライベートなことを人に教えるなんて、あっていいことではございません。その場で、川口と早智に暇を取らせました。でも、落ち着いてあとで考え直しましたら、わたしにあの二人をクビにするような権限はないんですのよ。この邸の主は、いまは優子さんですから。それに、早智がああやって告白するのには、かなり勇気がいったことに気づきました。わたしといえば、いまだにグラビアのことを知られまいと、みなに隠し通しているのにです。自分がいやになりましたわ。妙な話ですが。早智を見習わなくてはいけないと思いましたの。それでフミに言って早智を許すことにし、わたしはみんなにグラビアのことを話したわけです。してよかったと思っています。いまは、すっきりしていますもの。お菓子を焼いてみようと、久しぶりに思い立ったくらいです」
「川口母娘はどうしました?」
「それでも、お詫びのしようがないので辞めさせてもらうと言うので、おかしな話ですけど、今度はわたしが辞めるのは許さないと言っていますわ」
亜紀代は困ったように微笑んだ。
「遺言状の件が一郎さんだというのは、ほかの刑事さんから聞いたの。遺言状を、たとえ悪戯でも、偽造することがどんなにいけないことか、一郎さんにわかってもらおうと、わざとその刑事さん吹聴していたみたいよ。ご本人が悪戯だといわれてるので、話してかまわないでしょうってね。お蔭で、一郎さんはみなに合わせる顔がなくなり、奈津枝伯母様はおかんむりらしいわ。暴漢のことは浦島さんが話したの。みんなにも知ってもらったほうがいいんじゃないかって。三年前に優子さんを襲ったのがあの男だったなんて、もうみんなびっくりしちゃって。二郎さんなんか、どうしようもないくらい歯痒いみたい。なんせ、ノックアウトされたんだもの、無理ないか」とめぐみが説明した。
「話の経緯はわかりました。で、それらのことをもとに、どなたかなにか気づかれたことなどはありませんか」
砂木の問いに、三人は互いの顔を見合わせるしかなかった。フミもなにも言わない。
「ね。めぐみさん、これで納得してもらえましたか。いくつか重要なことが明らかにはなりましたけど、それだけのことで、解決への進展はいまだにないんですよ。警察はなにも隠しているわけではないのです」
めぐみはしぶしぶうなずきながら言った。
「それで刑事さんは、今日はなにをしにきたの?」
砂木は咳払いをした。
「亜紀代さんのマドレーヌをご馳走になりにきた。では駄目ですか」
「やっぱ、刑事がそれでは駄目なんじゃないの」
めぐみがカップを手にして、口角を上げた。
「確かにその通りです。僕も刑事としての仕事をしないとですね。そうだ」
砂木は、一郎が聞いた裏の階段の足音のことについて、どなたか心当たりがないかと尋ねた。
「ほかの刑事さんからもそのことを聞かれたけど、その時誰も裏の階段を使った覚えはないって返事したみたい。だから幽霊の仕業と考えるしかないわね」
「幽霊ですか。階段の幽霊」
「ええ。これだけのお邸なんだもん、そろそろ幽霊の噂のひとつもあったほうがふさわしいと思わない」
「もう幽霊だなんて、めぐみさんやめてちょうだい。殺人があっただけでも恐ろしいのに、幽霊までいたりしたら、もうこの邸に住めなくなりますわ」
亜紀代が肩をぶるっと震わせた。
優子もフミも、階段の足音についてはなにもわからないとの返事だった。
「さて、つぎになにをお聞きしましょうか……」
砂木は掌を擦りあわせながら、あたりを見まわした。優子と目が合い、思いつきで言った。
「優子さん、よかったらあなたの部屋を拝見させてもらえませんか」
突然の申し出に優子は目を見張った。
「わたしの部屋をですか……」優子は砂木の意図を読み取ろうとしているようにした。そして、「はい、わかりました」と立ち上がった。
「それって、たんに優子さんの部屋を見たいという、刑事さんの趣味じゃないでしょうね」
めぐみが疑わしそうに目を細めた。
「いけませんか」立ち上がりながら、砂木は亜紀代のほうへ顔を向けた。「浦島さんからなにかお話はありませんでしたか」
「いいえ、なにもございませんけど」
「そうですか。そのうち、浦島さんのほうからなにかあるかもしれませんよ」
砂木は思わせぶりに微笑むと、優子のあとを歩いていった。




