3 四十九日後 フミと浦島
一階の仕事部屋でソファに座り込んだフミは、肩を落としてため息をついた。
いやな雰囲気だとフミは思った。
春仁の四十九日の法事がすんだいまも、この邸には目に見えない不快な気配が漂っている。すべては、美也のあの発言から端を発していた。ハル坊ちゃんがあの女を妻にしていたとは、フミにとってもいまだに信じられないことであった。しかしそれは、間違いのない事実だった。美也の言った通り、二人は婚姻届を出した法律上のれっきとした夫婦であった。
あの夜のことをフミは思い出す。奈津枝は憤り、冬和と亜紀代はどうしたらいいのかと呆然としていた。しかしそれは、フミを含めてその場にいた者たち全員が同じだった。ただ違ったのは優子ひとりだけであった。優子は、春仁が美也を妻にしていたことを知っていた唯一の人物だった。
他の者にはいずれ折を見て話すつもりだが、美也を俺の妻にすることに決めた、優子はそれでかまわないか。生前の春仁にそう打ち明けられたと、その場で優子は話した。
春仁と美也の婚姻が事実だというのを、最初にみなが感じ取ったのはその時だった。それでも、生涯独身で通すと常日頃言っていた春仁が、いまになって正式に妻をむかえたとはあまりにも意外であった。また理性ではわかっていても、感情面では美也を春仁の妻と認めるのには抵抗があった。
「なにかの間違いです。たとえそれがほんとうだとしても――わたしは、そんなことは認めません!」
怒りに顔面を朱に染め、唇をわななかせて座敷を出て行った奈津枝の姿が印象的だった。
しかしその奈津枝を嘲笑するかのように、翌日には春仁と美也の婚姻届が確かに役所で受理されているのが明らかになった。二人が夫婦になっていることに、疑いの入る余地はなかった。顧問弁護士の牟田も、理由は説明してもらえなかったが、春仁本人からそのことを聞かされていたと答えた。
さらに、そのあとの牟田の発言は、輪をかけて衝撃を与えるものであった。苦渋の決断をしたかのように牟田は、個人財産に関しての春仁の遺言状が作成されていないことを、みなの前で告げたのだった。あまりの予想外の出来事に、みなは愕然とした。いくらなんでもそれはなかった。春仁の遺言状がないなんて信じられなかった。もしそれがほんとだとしたら、春仁の財産は、第一順位の美也と優子がすべて相続することになる。そんなバカな、遺言状はあるはずだと詰め寄る奈津枝に、個人財産に関する遺言状を、優子を認知したころに春仁は作成していたのだが、美也との婚姻を機にそれを破棄し、新たな遺言を作る予定だったことを牟田は明かした。しかしけっきょく、それを作ることなく春仁は亡くなっていた。
「まさかこんなに早くに死を迎えられるとは、ご自分でも思っていらっしゃらなかったでしょうし、急ぐことはないと思われていたのでしょう」
牟田は残念そうに、そう締めくくった。
「ほんと兄さんらしいわ。呆れ返って、なにも言えない。華輪家の跡取りなら、あとのものが困らないように遺言のひとつも作っておくのが当然なのに、そんなこともしないで死んだわけね。口ではわたしたちのことも考えているなんて言っておきながら、けっきょくなにもしてないじゃない。どういうことよ」
奈津枝が苛立つなか、破棄された遺言状の内容を教えることは職務上できないと牟田は伝え、それでも、新しく作るはずだった遺言状の下書きでも預かってはいないのかと食い下がる奈津枝たちには、首を横に振るしかなかった。
美也が喪主となり、告別式はしめやかに終わった。相続に関する手続きがすみ、妻の美也と娘の優子が、春仁の膨大な遺産の相続人となった。
まったくハル坊ちゃんも、罪つくりなことをしたものだとフミは思った。人知れず婚姻されるなら、あんなふうに突然亡くなられて。せめてみなが納得のいく遺言だけでも残されておくべきだった。あの方は、ほんとうにいつも困ったお人だった。亡くなったいまもそれに変わりはない。しかしそのどこか無軌道なところが、ハル坊ちゃんのいいとこだったと、いまさらながらフミにはいとおしかった。
亜紀代が生まれた時に、子守として華輪家に雇われたのが、この邸とフミの始まりだった。フミは十八で、春仁は六歳、奈津枝は四歳、冬和は二歳で、亜紀代は誕生したばかりのころである。やんちゃな春仁、負けん気の強い奈津枝、おとなしい冬和に、よく泣く亜紀代。フミにとっては四十九年経ったいまでも、彼、彼女らは、華輪家の子供たちであった。佐門と絹の二人が健在だったころの華輪家の日々がフミの脳裏になつかしく甦る。あの子らの面倒をみるのは大変だった。毎日が戦争だった。
フミの唇に、知らずうちに微笑みが浮かんだ。
しかしそれもいまとなってはむかしのことだ。美也が当主となったいま、フミに先のことは見えなくなっている。あなたのここでの役目は終わったわ。いつ、美也がそう言い渡すかもしれなかった。そうなったら自分はどこへ行けばいいのか。六十七の年寄りの行き場なんてあるわけがない。身寄りといえば四つ上の兄がいるが、その兄も寝たきりで、息子の嫁の世話になっているぐらいだ。あとは、老人ホームか。この邸を離れたら、哀れな年寄りにすぎないことにフミは顔をしかめた。
ノックに続いて、浦島ですがという声がドアの向こうでした。返事をすると、浦島が入ってきた。
「なにかお話があるとうかがいましたが」
「少し聞いておきたいことがあったのよ」
フミが手招きし、浦島は正面に座った。
「美也さんのお店のことだけど、うまくいっているの。オープンまでもう間もなくでしょう」
「ああ、そのことですか。それなら大丈夫ですよ。彼女はバリバリやっています。それに、唸るほどのお金がありますからね」
浦島は無邪気そうな笑みを浮かべた。嫌味な感じは少しもない。
「じゃ、その、なんとかビーナスはうまくいっているのね」
「いやだな。フミさん名前ぐらいは覚えておいたほうがいいですよ。じゃないと、美也さんの機嫌を損ねちゃいますからね。エレガントビーナスですよ。略してエレビ。美と心のリラックスを提供するトータルエステサロンというのが、美也さんのコンセプトです」
「わたしにはわけのわからない外国語ばかりね。とうてい理解できそうにないわ。名前はエレガントビーナスね。それだけは覚えておきましょう。で、オープンはよしとして、そのあとはどうなの。あんたから見て、そのビーナスとやらはうまくいきそうなの」
「ううん。そうなるとわかりませんね。投資に見合うだけの利益が出るかどうかは。彼女は、東京や海外に出しても引けを取らないものをと考えているんですが、福岡はまだまだ田舎ですからね。はたして、それだけの需要があるのか。それにフミさんもご存じの通り、彼女は金遣いが荒いじゃないですか。そのへんでどう折り合いをつけるかが、ポイントになるでしょうね。いまの美也さんには夢ばかりを見て、現実を見る余裕がないのも事実ですしね」
「それじゃ、あんたが代わりにその現実とやらを見てやらないといけないわね」
「いや、そんな。私じゃ荷が重すぎますよ」
浦島は照れくさそうにした。
ある事件をきっかけに、浦島が華輪家とつながりをもってまだ二年ほどだった。華輪コーポレーションの一介の社員というのが、四十になる浦島の身分だ。日が浅いこともあり、いまだに肩書はない。しかし実際のところ、浦島の仕事は役職者以上に多岐にわたり、それは華輪家の私生活にも及んでいた。彼は、運転手であり、雑用であり、秘書であり、接待役であり、相談役であり、まとめ役であった。相手の懐に飛び込み、いつのまにやら仕切っている。それに浦島は長けていた。声の魅力も一役買っていた。春仁の運転手兼雑用からスタートした浦島を、オッサンの藤吉郎に喩える者もいれば、おべっか野郎と揶揄する者もいた。が、図体のでかい、牧場で牛の世話でもしていたほうが似合いそうな外見の浦島は、どこ吹く風と、噂や陰口にはのんきそうにしていた。
二年経ったいまでは、長年に渡り華輪の家を切り盛りしてきたフミですら、浦島にはある種の信頼をおいていた。しかし、その才覚を見抜き、浦島を拾い上げた春仁こそたいしたものだといえた。
「とにかくその辺のことはわたしじゃわからないところが多すぎるから、あんたに任せたわよ。美也さんと優子さんは、わたしよりあんたのほうが相談しやすいでしょうし。トラブルやいざこざが起きないよう、目を光らせておいてよ」
フミがそう言うと、浦島は表情を曇らせた。そして、声を落として尋ねた。
「そのう……フミさんはなにかおこると思っているんですか」
自分でも思っていなかったことを指摘されて、フミはうろたえた。浦島の言う通り、なにかが起こりそうな不安を自分は感じているのだ。
フミは唾を飲み込んだ。
「そんなことはありません。春仁様が亡くなり、美也さんが当主となって――そう、少しばかり混乱しているの。これからどうなるんだろうかってね。わたしも、もう年なのよ。七十になろうとする婆さんなのよ」
「そんなこと言っちゃいやですよ。フミさんにはまだまだ頑張ってもらわないと。なにもおこりゃしませんよ。殺し合いでも始まるというんですか。遺産をめぐる殺人事件なんて、そんなのはカビの生えた推理小説の中だけでの話ですよ」
浦島は、大きな体をさらに大きくするかのように、豪快に笑い飛ばしてみせた。