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22 続・浦島宅

「それじゃ、三年前に優子さんを襲ったのは榊さんだったというのですか」

 砂木は驚きの色を隠せなかった。

「ええ、私の記憶が正しければですね。が、いくぶん自信もないんですよ。なにしろ三年前の時には、私は蝶の刺青を見たことさえ覚えていませんでした。記憶喪失というわけでもないし、頭を打ったわけでもない。それなのに、部分的に記憶が欠落してしまっていたとしか説明できないんです。それがパーティで、榊さんの首に蝶の刺青があるのを見た瞬間に記憶が甦った。三年前に男ともみ合っている時に、同じ蝶の刺青を見たことをね。ただ、そういう具合だったので、誰かに話すこともできずベランダで考え込んでいたんです。それを二郎さんに見られたみたいですね。刑事さんたちにこのことを話さなかったのも、もし、私の記憶違いだったら大変だと思ったからです。それに、信用してもらえるかどうかわかりませんでした。私自身が、半信半疑でしたから」

「自信のほうはどうです」

「いま言った通りです。確かに私は青い蝶の刺青を、あの時見ました。ただし、男が榊さんだったと断言するつもりはありません」

「しかし、同じ位置に、同じ蝶の彫り物をしている人というのは、そうはいないでしょう」

「確かにですね」

 砂木は考えた。美也だけでなく榊までが殺された理由について、浦島の発言が光明をもたらすものであるのは間違いがないように思えた。ただ、それがどうつながるのか。優子が暴漢に襲われたのが三年前で、美也が華輪の邸に入ったのが半年前。一連のものとするには年月が空きすぎている。なんらかの偶然が作用していると考えるべきなのかもしれない。砂木は言った。

「もしあなたが駆けつけなかったら、優子さんはどうなったでしょう」

「そんなことは、想像したくもないですね」

 浦島が苦り切って答えた。

 砂木の頭の中で、華輪の巨額な財産を巡っての想像が走る。しかし、その後三年間も優子の身になにもおこらないのはなぜか。あきらめたのか。それともほとぼりを待っているのか。いや、それでは時間が経ちすぎている。とりあえず、当面のことに砂木は思考を切り替えた。

「三年前の事件で、ひとつ確認しておきたいのですが、どうしてあなたはその時神社にいたのですか。偶然居合わせたにしても、なにか理由があったはずですよね」

「あの神社の近くが、私の生まれ育ったところなんです。おやじが飲んだくれのひどく貧乏な家でしたけどね。子供のころには、あの神社が遊び場で、華輪のお邸も子供のころから知っています。こんな大きな家にはどんな人たちが住んでいるのだろうと、眺めては、よく想像したもんです。私だけでなく、近所に住んでいた子供はみんなそうでした。見たことのないような豪華な料理を食べる優雅な暮らしを想像しては、いつか自分もそんな生活がしてみたいと憧れていました」

 浦島の口調が過去をなつかしむものとなった。

「それでいろいろ頑張ったんですが、けっきょく事業に失敗して、さてどうしようかと思った時に、里心というんですか、そういうものがおこって、子供の時の遊び場だった神社あたりをぶらついていたわけです」浦島は、自嘲するような笑いかたをした。「正直言うと、自殺を考えていたんです。当時は自暴自棄になっていて、もうどうでもいいと、生きる気力を失っていましてね。信じられない話ですけど、その時はわりと真剣で、神社で首をくくるならどの木がいいだろうかと見てまわっていたのが本音です。早朝のひとけがない時間帯だったのも、そのせいです」

「それが、優子さんを助けることになって、いまのあなたがあるわけだ」

 浦島は鼻の下を、左の人差し指でこすった。

「そうなんですよ。人生なんてほんとわからないものです。死のうと思っていた私が、いまは子供の時分から憧れていた華輪の邸に出入りさせてもらっているのですから、夢みたいな話です。つくづくありがたいことです。感謝しないとですね」

「自殺というのは……以前はどういったお仕事を」

「商社で働いていたんですけど、三十を機に独立して、輸入食材を主にした物産会社みたいなものを始めたんです。思ったよりよかったもんで、調子に乗ったのがいけなかったんですね。手を広げすぎて、にっちもさっちもいかなくなってしまいました。資金繰りに追われる日々が続き、銀行もどこも貸してはくれませんでした。けっきょくお金なんですよ。お金さえあれば、少々の失敗なんか怖くないから冒険もできるし、手を広げることもできる。それを、いやになるほど思い知らされましたね。で、首くくろうと思ったわけです。生命保険で、残りの借金の返済をというやつです」

 その借金を春仁が肩代わりしてくれて、現在返済中であるのを浦島は語った。もう少しで完済する予定だとも言う。

「春仁氏と優子さんは、私の恩人ですね」

 しんみりと口にする浦島に、砂木が言った。

「浦島さんは、声がいいじゃないですか。歌手とかディスクジョッキーになろうと考えられたことはないのですか」

「よしてくださいよ。いいって言われたって、プロになれるほどよくはないんですよ。ある意味で声は悩みでしてね。顔がなければと、人に会うたびに言われたのでは、うんざりです」

 浦島は、右手で自分の頬をぺしゃりとぶってみせた。

「シラノ・ド・ベルジュラックですかね」砂木が言った。

「なんですかそれ?」

「フランスの、大きすぎる鼻のせいで悩んだ剣客の、恋の戯曲です」

「鼻が大きくて悩む話というのは、芥川になにかありましたよね。フランスにもそんなのがあるんですか。今度読んでみましょう」

「ところで、あなたの捻挫ですけど、どうしてそうなったのです」

 浦島は恥ずかしそうに笑んだ。左手で包帯の足をさする。

「ああ、これですか。みっともない話ですが、ミニスカートの若い女の子が通りかかり、その脚に見惚れて表の階段を踏み違えたんですから、ざまないです」

 白くて美しい女の脚が、砂木の脳裏を横切った。

「よほど素敵な脚だったんですね」

「ええ、最高でした」浦島はそう答えた。

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