18 華輪邸 優子
砂木の言葉通り、すでに優子と二郎は戻ってきて一階のリビングにいた。
フミが一緒にいて、砂木が入ってくるのをジロリと見やると、「まだお帰りじゃなかったんですか」とあてこすった。
「仕事ですので」
砂木が如才なく応じ、めぐみはソファに腰をおろした。
「いま、お茶にしようかとフミさんと話していたのですけど、刑事さんもよろしかったらどうぞ」
優子が言い、フミがすぐに反対した。
「優子様、刑事さんはお忙しくて、そんな暇はございませんよ」
「いいえ、大丈夫です。喜んでお受けします」
笑顔の砂木をフミはもう一度ジロリと睨みつけてから、食材の入った紙袋を抱えると、背を向けて厨房のほうへすたすたと歩いていった。
「なんだかフミさんに嫌われているみたいですね」二郎が言った。
「刑事さんのお茶には毒を入れられるかもよ」めぐみが言い添える。
二郎がびくっとして真顔になった。
「冗談でもそういうのは口にしないほうがいい。いまの自分たちの状況を考えろよ」
めぐみは、つまらなさそうに前髪を掻き上げた。
「フミさんとなにかあったのですか」
優子が砂木に尋ねた。
「いえなにも――それより、いまめぐみさんに邸の中を案内してもらったのですが、よかったら優子さん、お茶の用意ができるまで庭を案内してもらえませんか。少しお話もしたいので」
「ええ、かまわないですよ」
ホールを抜け、テラスにある庭用のズック靴を履いて、優子と砂木は庭に出た。
テラスの前に、赤レンガで縁取られた花壇が二つあった。少し先の右のほうに囲いがあり、そこでは家庭桑園がされていた。その囲いの向こうには物置小屋があった。全体的に庭は、邸の左手に広がっている。捜索は終了したらしく、捜査員たちの姿は見られなくなっていた。
「庭というより、公園の広さですね」砂木が素直に口にした。
広々とした自然の景観を模した造りだった。三月のせいもあって、まだ物憂げな感がある。野放図に草木を育て、その中に小道ができたというふうだった。見て楽しむというより、散策するのに向いていた。道は緩やかに傾斜を繰り返し、水飲み場と水道の設備やベンチを目にしなかったら、野原か丘でも歩いている気分だった。いく種類の草花があるのかは想像もつかない。それらが咲き誇ったら、庭は花の匂いでむせ返りそうであった。
案内というほどのものはなく、二人はぶらぶらと庭を歩いた。周縁の高木の立ち並ぶ中に足を運び、木々の間を歩いた。踏みしめる土の感触がやわらかい。下草が生え、空気がひんやりしていた。見上げると、葉が生い茂り、太い枝が力強く四方に伸びているのが目に映った。
Vネックのセーターにジーンズで、砂木の半歩先をいく優子は、そんな庭に溶け込んでいた。
「お話というのはなんでしょう」
優子が神妙に言った。二人とも、ほとんど黙ったままでここまできていた。
「じつはとりわけて話すようなことはなにもないんです。ただ、優子さんと話がしてみたくなってですね。いけませんでしたか」
優子が可笑しそうに砂木を振り返る。
「刑事さんって、刑事らしくないですね」
「刑事でないとしたら、なんに見えます?」
「えっ」優子の目が砂木をとらえ、上から下へと視線でなぞる。「牧師さんかな。赴任してきたばかりの新米の牧師さん。あのカラーが逆になった服、あれなんか似合いそうですよ」
二人は肩を並べた。
「牧師というのは初めてです。たいてい埴輪みたいと言われてます。でも、埴輪って職業じゃないですよね」
優子は、手で口を押えて笑った。
「優子さんは、こちらにこられるまではどのような暮らしをされていたんです」
世間話の口調だった。
「普通です。父親がいないことを除けば、ごく一般的な家庭の娘でした」
「お母さんが亡くなられてから、こちらにこられたのでしたよね」
「母は肝臓が悪くて、それで亡くなりました。ウイルスによる肝硬変だと医者に聞いています。それまでは、わたしが小さい時に父は死んだと聞かされていました。大きくなるにつれ、父の写真や位牌もないのでおかしいなとは思っていましたが、母と二人で幸せでしたので、そのことを母に聞くこともありませんでした」
「お母さんと二人では、生活のほうは大変じゃなかったんですか」
「裕福というわけにはいきませんけど、母もずっと働いていたし、わたしも高校時代はアルバイト、卒業してからは広告関係の職場で働いていましたから、それほど困ったことはなかったですよ」
「お母さんは、具体的にどういう手紙を残されていたのです」
「もし自分になにかあって、わたしが困るようなことになったら、華輪春仁氏を訪ねるように書かれていました。その人がわたしの父で、きっとわたしを助けてくれるだろうということと、あとはこちらの住所です。べつにわたし困っていませんでしたけど、父という人に、母にお線香の一本もあげてもらいたいと思って、父を訪ねたんです」
砂木は、やや聞きにくそうにして尋ねた。
「手紙に、お母さんと春仁氏の馴れ初めみたいなものは書かれていませんでしたか」
「なにもありませんでした。手紙と、わたしが持っていった母の写真だけで、父は母のことがわかったみたいでした。二人がどこで出会い、なにがあったのかはわたしも知らずじまいです。父に聞いても笑うだけで、具体的なことは教えてはくれませんでした。これはわたしの想像ですが、母は英会話スクールの講師をしていましたので、その関係で父と知り合い、交際にまで発展したのではないかと思っています」
「お母さんは英会話の先生だったのですか」
「ええ、出来の悪い娘で、わたしは英語だめなんですけどね」砂木に顔を向けて、優子は鼻に皺を作ってみせた。「最初、母は英会話スクールの契約社員でした。実働時間に対しての給金で、仕事のない時間帯には、バイトで通訳なんかもしていたみたいです。そしてわたしが十二歳の時に、母は自分でちっぽけな英会話スクールを始めたんですが、親子二人がそこそこ幸せでいられる収入の生活でした」
「こちらにこられて、生活が一変したわけですね」
「いままでとは違う世界でしたから、慣れるまで時間がかかりました。とにかく家が広すぎて、それに父といっても、それまでは知らない人ですから。そのころのわたしの友だちはピーターでした。去年の春まで犬がいたんです。ビーグルの小型犬なんですけど、ピーターだけは最初からわたしのことを大歓迎で、会った瞬間から無二の親友になってくれました」
「そういえば、そのピーターを散歩に連れていっている途中、神社で暴漢に襲われたことがあったらしいですね」
砂木は、ふっと思いついたようにして言った。
「三年前のことです。いつもと同じようにピーターを連れて神社にいったら、茂みの中からいきなり男の人が飛び出してきて、わたしを連れ去ろうとしました。二郎さんが駆けつけてきて男を止めようと……」
優子は言葉を呑みこむように、慌てて口をつぐんだ。
「二郎さんはあっけなくダウンされたんでしょう」
「ご存じなんですね」
優子がため息をつき、砂木はうなずいた。
「そこへ、たまたま居合わせた浦島さんが駆けつけて、あなたの窮地を救った。それが縁で浦島さんは、華輪コーポレーションの社員になったと聞いています」
「浦島さんの姿を見ると、男はわたしを突き放して逃げ出しました。それを浦島さんが追いかけ、神社の裏で男にナイフで刺されたんです。二郎さんの意識を戻してからわたしが裏にいった時には、浦島さんが脚を押さえて座り込んでいて、もう男の姿はありませんでした」
その時のことを思い出すように、優子はおびえた表情をのぞかせた。
「その間、ピーターはどうしていたんです」
砂木の問いに、優子はふふと笑い声を立ててから答えた。
「見つけた時、社の床下で震えていました。役に立たないボディーガード犬です」
そして急に表情を変え、訝しげに砂木を見た。
「三年前の事件と今度の事件に、なにか関係があるんですか」
「それはないでしょう。三年前のことですし、いまのところなんのつながりも見当たりませんから。それでも、どんなことでも聞いておくのが、警察の仕事のうちです」
「刑事さんって、やはりどこか変わってますよね」
「そうですか」砂木は顔を下げて、鼻の頭を指で掻いた。「今度の事件を優子さんはどう思われています」
「恐ろしいことがおこったとしか言いようがありません。いまだに美也さんが亡くなったことが信じられないんです」
「その美也さんのことを、優子さんはどう思われていました」
優子は唇の両端を持ち上げ、わざとらしい笑みを作った。
「刑事さんって、見かけによらず意地悪なんですね。答えにくい質問ばかりです」
「仕事だと思って許してください」
優子は息を吐くと、髪を右手で掻き上げ前方に目をやった。
「年も五歳ほど上だったし、お姉さんみたいな人でした。美也さんとわたしの二人は、華輪家の一員といっても、外部からいきなりやってきた存在同士ということで、それなりに通じ合うものがあって仲良くしていました。美也さんのほうもわたしには、ほかの方より気を許されていたんじゃないかと思います。ですから、いろいろと話したり相談したりし合ったこともあります。家のことや父のことなどをですね。しかし、そうやって仲良くしていたのに、今度のことについては、まったくわたしにもわかりません。なぜあんなことがおこったのかわたしなりに考えてみましたけど、なにも思いつくことがないのが事実です」
「春仁氏はどうでした」
砂木はさりげなく尋ねた。
「父ですか」
「ええ、父親としての春仁氏は、優子さんから見てどんなかたでしたか」
「困った質問ばかりです」えへんと、優子は顔をしかめてみせた。「最初は怖い人かと思っていましたが、実際にはやさしい父でした。父が魚座でわたしが蠍座だったんですよ。そのせいか、お互いのことがわかってくると、一緒にいてしっくりくる感じでした。もちろん、星占いを信じてはいませんけど。五年前に突然現れた父ですし、父親という感じはあまりしなかったのが本音です。父もそうで、わたしを完全に娘と見ることはできなかったみたいです。年の離れた恋人のような父親でした。そういう意味では、わたしみたいな年齢の娘には、理想の父親だったかもしれません」
「年の離れた恋人のような父親ですか」
「ええ」
そう言うと優子は、足を止め邸のほうへ顔を向けた。
「そろそろ戻りませんか。お茶の用意もできたころでしょうし、それにわたし少し寒くなってきました」
欅の大木と東屋のあるほうの小道を通って、優子と砂木は邸に向かった。
お金持ちというのは、普段どんな食事をされているのですかという砂木の質問に、わたしも最初はどんなのだろうと想像をふくらませていましたけど、なんのことはない、普通の家と同じですよと優子は答えた。
「お客様を招待していたり、特別な日なんかは、専門の料理人を呼んだりもしますけど、普段は普通です。アジの開きもおでんも食べます。今日の昼は魚の塩焼きにお味噌汁でしたし、今夜は、二郎さんとめぐみさんもいるので鍋物みたいです」
邸が近づき、正面を左斜めから見た砂木が、それまでとは違う調子で言葉を発した。
「あの二階の左側に見える窓が、美也さんの部屋の窓ですよね」
「それがどうかしました」
砂木の耳に優子の返事は届いていないみたいだった。
「そうか、窓か。なるほど……そうだったのか」
砂木は、ひとりでにんまりしていた。




