15 シマナ 綿貫と一郎
砂木が華輪邸で亜紀代に話を聞いているころ、綿貫と県警の安藤刑事は、シマナ株式会社に島名一郎を訪ねていた。八階建ての賃貸ビルの三階と四階をシマナは本社としている。
三階の入り口に呼び出しのブザーがあり、押すと、奥から小柄な女事務員が出てきた。用向きを話すと、すぐに応接室に通された。
アルミのパーティションで仕切られた部屋は、テーブルとソファがあるだけでなんの飾り気もない空間だった。無駄な経費はかけないという会社の方針がはっきり示されている。そこで十五分ほど待たされて、一郎が姿を見せた。
昨夜と違い、スーツにネクタイという服装である。そちらのほうが一郎は映える。真向かいに不機嫌そうに座って、その一郎が言った。
「会社のほうにまでこられて、いったいなんの用です。忙しいので手早くお願いしますよ」
「昨夜はゆっくり眠れましたか」綿貫が言った。
「あんなことがあって眠れるわけがないでしょう」
「眠れなかった理由はそれだけですか。ほんとうは心配で眠れなかったとか……」
一郎の顔つきが険しくなった。
「なにが言いたいんです。ことによっては、こちらにも考えがありますよ」
「例の美也さんの部屋から発見された遺言状のコピーの件で、午後になってから面白いことがわかってですね」綿貫が静かに口を開いた。
黙ったまま一郎は、剛健そうな体つきの安藤をちらっと見たりして、つぎの言葉を待っていた。
「筆跡鑑定のほうはまだなのですけど、指紋のほうの調べはつきました。検出されたのは、たったひとりの指紋で、ほかの指紋はありません。そしてそれを照合したところ、一郎さんあなたの指紋であることが判明したのですよ」
綿貫が一郎を見据えた。
「そのことについて、ご説明願えますか」
「知らないね。化粧台から見つかった遺言状のコピーのことを、私が知るわけがないじゃないですか。どうしてそれに私の指紋があったかなんて、こっちのほうが教えてもらいたいぐらいですよ。それを調べるのがあんたら警察の仕事でしょうが。なんのために、高い税金を払っていると思っているんです」
「ですから、こうやって調べているんです」綿貫は続けた。「で、いま遺言状のコピーが化粧台にあったことをあなたは言われましたが、どうしてそれをご存じなのですか。コピーが見つかったことは昨夜話していますが、それがどこから出てきたのかまでは教えていないはずです」
一郎は口を開きかけたものの、迂闊なことは言えないみたいに、それをぐっと押さえた。
「あなたは、いまご自分がどういう立場にあるかおわかりになっていますか。これは殺人事件の捜査だということがわかられていますか」
一郎は、膝の上で両手を握ったり開いたりを繰り返した。落ち着きなく目が動きまわる。上唇を舌でなめ、半ばやけみたいに言った。
「悪戯だったんですよ、悪戯。悪気があったわけじゃないんです。ただあの女を、驚かして懲らしめてやろうと思ったんです。女狐の分際で華輪の財産をかすめ取るなら、お高くとまりやがって」
「ほう、悪戯であんなことができるんですか。念のために聞いておきますが、遺言状を偽造されてはいませんよね。もしそうだったら、私文書偽造の罪で、われわれはあなたを署に連行して取り調べることもできるんですよ」
「ちょっと待ってください。本気で俺を連行するつもりですか」途端に一郎はうろたえた。「まさか、警察は俺があの女を殺したなんて思っていないでしょうね。俺がしたのは、偽の遺言状を作り、それのコピーを化粧台の引き出しに入れただけで、あとはなにも知らないんですよ」
「とりあえず、昨日、ほんとうはあなたがなにをしたのかを話してください」
「なにをって言われてもだな。そのコピーの件だけですよ。ほかのことは昨日話した通りです。邸に着いてめぐみがリビングから出ていったあと、少し様子をみて、まず春仁伯父の書斎に入って、伯父のノートと認め印を戻しました。ノートと印鑑は、遺言状を作るために、以前俺が持ち出していたものです。そのあと二階の彼女の部屋に入って、化粧台の引き出しにコピーの入った封筒を入れておいたんですよ。デスクよりも、化粧台のほうが確実だと思ったからです。女は化粧を毎日するでしょうし、封筒があったら目立つじゃないですか。そうしているうちにクラクションの音が聞こえ、窓から見ると二郎の車が入ってきてたので、慌てて下におりたというわけです」
春仁のノートを元に、仕事上でつき合いのあるデザイナーに筆跡を真似した偽の遺言状を作らせ、コピーは一郎がしたとのことであった。
「だから何度も言うように、ただの悪戯だったんですって。そうやってあの女の驚いた顔を見て、陰で笑ってやろうと考えただけですよ」
「悪戯にしては手が込みすぎていませんか」綿貫が言った。「デスクの引き出しなどからもあなたの指紋が検出されていますが、それはどういうことです。それに、デスクの上に封筒をおいたほうが、化粧台よりも確実に目にとまるのではないですか」
「デスクの上だと、目につくのが早すぎると思ったんですよ。誰がおいたのか特定しやすいんじゃないかって。だから化粧台にしたんですよ。寝る前に、女ってのは化粧台に座るじゃないですか。デスクの指紋は、封筒を化粧台にしまったあと、秘密の一つや二つはあるんじゃないかと、デスクの中を見たりしたからその時についたんですよ」
「ほんとうにそうなのですか」
「当然じゃないですか。いまみたいに警察沙汰になると知っていたら、べたべた指紋なんか残すはずがないでしょう」
「しかしその時、めぐみさんは庭にいて、亜紀代さんとフミさんたちは一階にいたのですよ。二階にいたのはあなただけですよね。ほんとうは、その時あなたが、遺言状のコピーをひそませるのと同時にチョコレートをおいたのじゃないんですか。封筒をデスクの上におかなかったのは、チョコレートと一緒においたのではまずいと考えたからではないのですか」
「違う! 俺はそんなことはしていない! これはなにかの陰謀だ。――そうだ、肝心なことを言い忘れていた。刑事さん、俺が部屋に入った時、すでにチョコレートの箱とグラビアの入っていた封筒はデスクの上においてありましたよ。そうです。それに間違いありません。俺が忍び込む前に、誰かがそれをおいたんですよ」
「チョコレートはすでにおかれていた。それに間違いありませんか」
「そうです。その通りです」
一郎はソファから身を乗り出して懸命に言った。
「俺がいった時、チョコレートの箱とグラビアの封筒がデスクの上にあるのを確かに見ました。神に誓ってほんとうのことです」
「しかし妙ですよね。それをなんだろうとかは、あなたは思わなかったのですか。チョコレートの箱やグラビアの封筒からあなたの指紋は出ていません。デスクの中を調べたりしたのに、あなたはそれには触れようともしなかったのですか」
「ええ、そうです。チョコレートや封筒には一切触っていません。どうしてと言われても答えようがないです。でも、それがあったのは事実です」
綿貫は真偽を計るようにして一郎を見つめた。隣の安藤も、疑念の眼差しで一郎の様子をうかがっている。
「刑事さん、信じてください」一郎が言った。「遺言状は俺がしたことだが、チョコレートのほうはすでにあったんですよ。あと俺がしたことといえば、一階におりようとしたら階段下にフミがいて、二階にいたことが知られたくなかったので、裏の階段のほうへいきました……」
綿貫が言葉を発した。
「裏のほうの階段。それはどういうことです。それにあなたは、フミさんがいたほうの階段を使われたはずですよね」
「裏にも、幅は狭いけど階段があるんですよ。そこからおりればフミにも気づかれないと思って、そっちにまわったんです。しかし通路の途中までいったら、誰かがその階段をのぼってくるような足音がしたので、急いで引き返したんです。で、こうなったら仕方ないと、フミがいるほうの階段で下におりたわけです」
「待ってください。あなたが裏の階段のほうに向かったら、誰かが裏の階段から上がってこようとしていたのですね。大事なことです。それに間違いありませんか」
「ええ、のぼってきていたのか、おりようとしていたのかはわかりませんが、足音がしたのだけは間違いありませんよ」
「誰の足音です」綿貫は詰め寄った。
「姿を見てもいないのにわかるはずがないじゃないですか。足音だけです。足音が聞こえただけです」
「しかし昨夜あなたは、そのことをなにひとつ話されませんでしたよね」
「そりゃそうでしょう。こそこそ裏にまわったりしたことを話したら、疑われてしまうのは目に見えている。そんなのはごめんですよ」
一郎はふて腐れたように言った。




