13 華輪邸 フミ
午後一時をすぎた時刻に、砂木は華輪邸へ着いた。
捜査が進行中なので門扉は開かれたままであった。車道を進みながら、砂木は邸を眺めた。夜だったせいで黒々としか見えなかった邸も、昼光の下では、のどかな風情をかもしだしていた。小ぢんまりしたカントリーハウスを、ふたまわりほど大きくした印象である。小ぢんまりと、ふたまわり大きくしたが矛盾しているが、砂木にはそう思えるのだから仕方がない。
左手に、見渡すほどの庭が広がり、大勢の捜査員たちが、棒を片手にものものしく捜索をしているのが見えた。外部からの侵入者の痕跡を探しているのだった。欅の大樹があり、その下に東屋があるのがここからでもわかる。庭の周縁には高木の常緑樹と針葉樹が植えられ、どれもが裁定のあまりいらない自然樹木で、枝を伸ばし葉を茂らせている。広い土地を所有していないとできない庭園造りだ。玄関先のアベリアも、好きにさせているふうで、枝が周囲に張り出している。
邸にくる前に砂木は近くを歩きまわり、優子が暴漢に襲われたという神社にも足を運んでいた。聞き込みではなく、散策みたいなものだった。それで気づいたのは、この華輪邸が、どこからでも目立つということであった。道を教える時の目印には打ってつけだった。
砂木が玄関のベルを押すと、フミが出迎えた。
「お聞きしたいことや、調べたいことがありましたので、うかがわさせてもらいました」
とりあえず、昨夜事情聴取に使われた応接室に通された。
「で、どなたさまにご用が」
「できたら全員の方に」
フミがあからさまに嫌な顔をした。
「昨夜お聞きになったことで十分でしょう」
「いえ、まだ足りないぐらいです」
「そう言われましても、いまはみなさまおられるわけではありません。おられるのは亜紀代様に優子様にめぐみ様に二郎様の四人でございます。ほかの方たちはおられませんし、川口たちは今日は休みになっております」
「もちろん、おられる方だけでかまいません」
「また、ひとりずつこちらにお呼びして、尋問されるおつもりですか」
「尋問ではないです。ただ話をしたいだけです。昨夜のような堅苦しい感じではなくて、ですね――何度となく訪ねて、話を聞くのが捜査の基本です」
チャコールグレイの上下に細身のネクタイの砂木を、フミはじっと見つめていたが、ようやく警戒を解いた。
「どなたから取り次ぎましょう」
「それではフミさん、あなたからでいいですか。できたらフミさんの部屋でお願いしたいのですけど」砂木はそう答えた。
フミはちょっとためらったが、先に出て、応接室の真向かいの自分の部屋へ砂木を招き入れた。
入ってすぐに、テーブルとソファの簡素な応接セットがおかれ、左角に事務を執るための机が据えられている。正面の壁にドアがあり、その奥がフミの私室となっているようだった。右側の壁には、カレンダーと風景画が掛けられている。
「もとはここも応接室だったのですよ。そこに間仕切りの壁を作って、わたしの寝室と仕事をする部屋に分けて使用しています。セールスマンとか家事のほうの用向きなどは、こちらの部屋でわたしが対応させてもらっています」
腰をおろし、砂木に正面のソファをすすめながらフミが説明した。
「それでわたしになにを聞かれたいのですか」
「春仁さんのことを話してもらえませんか」
フミは訝った。
「春仁様のことをですか。なぜそのようなことを……」
「ただ僕が聞いてみたいのです。春仁さんだけでなく、このお邸のことなども知りたいのです。春仁さんは、フミさんから見てどんなお人でしたか」
フミの唇がやわらいだのは、少し間があってからだった。
「春仁様は、一言で申しますなら恵まれた方でした」
なつかしむようにフミは語りだした。
「お金持ちの家に産まれたというのだけではない、天賦のようなものに恵まれた方でした。この邸も春仁様がお産まれになった時に建てられたものなのですよ。小さいころから目端の利くお子さんで、勘といいますのか、そういう鋭いところがありました。自分本位でわがままで、普通の家ならとんでもないことになっていたでしょうが、それが許される裕福な家にお産まれになったこともあって、それが春仁様の魅力になっておりました。嫌なものは嫌、好きなものは好きと言う。それがあの方の哲学ではなかったのかとわたしは思っております。それに引き替え、すぐ下の奈津枝様などは大変な努力家タイプの方で、そういう兄に負けまいと常に一生懸命でした。しかし春仁様のほうでは、そんな奈津枝様を相手にしておられませんでした。どうして奈津枝には、自分が自分で、俺が俺なのだということがわからないのかなあと、苦笑されているだけでした。
お体のほうも、二歳のおりに高熱を発する大病にかかられ、一時は生死をさ迷われたとお聞きしておりますが、わたしがこちらにまいりました時は健康そのもの坊っちゃんで、その後は、風邪などもほとんどひかず、大きな事故や怪我とも無縁なお方でした。二歳の時に抵抗力がついたのさと、ご本人は医者いらずをご自慢にされていましたのに、まさかあのハル坊ちゃまが、ああも呆気なくお亡くなりになるとは……いまでも信じられない思いでございます。
さて、成人になられても、春仁様の子供の頃からのそういうご気性は変わらず、自分のありのままにすごしておられました。お金のことには無頓着で、無いならそれですまし、有るなら使うという感覚です。見栄などはまったくなく、服や靴などには関心がありませんでした。そこにあるものを着る、ただそれだけでしたね。そういうふうな方でしたので、一番嫌われていたのはご自分が縛られるということでした。独身で通すと言われていたのも、そのせいだと思います。佐門様も女性についてはだらしないところがおありでしたが、奥様の絹様がそのへんは厳しい方でしたので、まだ押さえられていましたが、春仁様になるとそういうお方もおられませんから、奔放としかいいようのないほどでした。しかしそういうふうでしたのに、女性に関するトラブルが一度も生じたこともないというのも、やはりあの方のお人柄によるものだったと思います」
フミはハッと気づいたように、砂木を見た。
「どうもいけません。こういうむかしの話になると、ついつい年寄りはおしゃべりがすぎてしまいます」
「いえ、僕が頼んでわざわざ聞かせてもらっているんです。もっと話してもらえませんか。どうやら春仁さんという人は、ユニークな方だったみたいですね。聞いていて、まったく退屈しません。それどころか、ますます興味を引かれます」
そのあとも、しばらくフミは春仁のことを話し続けた。目に光をたたえ、過去のことを話すさまは、どこにでもいる七十を前にした婦人だった。
「佐門様が春仁様を後継者にお選びになったのは、長男というだけでなく、春仁様の資質を見抜かれてのことだと思います。自由奔放、傍若無人な反面、春仁様にはおやさしいところもありましたので、人望も厚く、社会的にも華輪の後継者としてふさわしいと判断されたのでございましょう。独身で通されましたら後継ぎのことで問題がございますが、それも、いずれ時が解決すると思われていたのだと思います。実際そのご判断は正しく、大型商業施設としてキャッスルタウンをおこし、華輪家がいまこうしてありますのも、春仁様のお力であったことは間違いございません」
「五年前に優子さんがこられてからの春仁さんはどんな感じでした。昨夜の話では、いくぶん変わられたみたいなことを言われてましたが」
「優子様がこられてからというより、五十になられてから、少しばかり春仁様はお人が変わられたみたいでした。意中の人でもできたみたいに、丸くなったというのか、角が取れたと申すのでしょうか、人柄に厚みが加わり、穏やかな感じでした。そして少しお淋しい感じも。ある時など、夜のことですけど、リビングにおられた春仁様にお茶をお持ちしましたら、『この邸は、亜紀代とフミと俺の三人で住むには広すぎると思わないか』とお尋ねになったことがございました。それから、『少し前まではこの静けさが好きだったのだが、いまは淋しい気もする。俺も年だな。フミ、いっそ、ここで下宿屋でも開くか』などと、冗談めいたことを口にされたこともありました。ですから、優子様がこちらに住まわれるようになったことを、春仁様はお喜びになられていたと思います。突然の親子の名乗りですので、最初のうちはぎこちないものがありましたが、その暮らしに慣れてこられると、お二人は、それこそほんと仲睦まじいものでした。いままでの空白を取り戻すかのように、よくご一緒に旅行にいかれたり、ピクニックと称して、優子様が作ったサンドイッチを持って、庭を散歩したり東屋で午後をおすごしになっておられました」
フミは胸に込み上げるものがあるかのように、一度口をつぐんだ。両の掌で目蓋を押える。それは、砂木がこの邸にきて初めて見る、亡き人を偲ぶ姿だった。
「ようやく春仁様もお幸せになられたとわたしは思いました。優子様の父親となって、あの方はやっとご自分の居場所を見つけられたみたいでした。わたしたちは気づいていませんでしたが、春仁様は、ほんとうは長い間孤独だったのかもしれません。それが優子様がきて……。春仁様のためにも、わたしはそうなられたことを喜びました」
「それから、昨年の四月に美也さんを妻にされたのですね」
「そのことについては、わたしも詳しくは知りません。生涯妻を娶ることはないと言われていましたので、晴天の霹靂のことでした。最初は、突然、明日から芦谷美也という女性がこの邸に住むようになったから、その準備を頼むと言われただけでした。女性に関しては遊ばれる方でしたが、優子様がこられましてからはそれも控えられるようになり、それにいままでも女性を邸に囲ったりするようなことは一度もございませんでしたので、最初はお仕事でのおつき合いのある方かと思ったほどです。のちに愛人だと言われ、まさか籍にまで入れられているとは思ってもいませんでした。けれどもいまにして思えば、美也様がこられて、少しばかり雰囲気が変わったことには気づいておりました。父と娘の家庭に、若くて綺麗な妻、優子様にしてみれば母親ができたのですから、当然といえば当然だったろうと思います。それまでの雰囲気に、いくらかよそよそしさが忍び込んだ。そういえばいいでしょうか」
「しかしそれにしても、独身で通すと言われていた御仁にしては、えらく急な婚姻ですよね。それで聞くのですが、これまで、フミさんがご存じの範疇で、春仁氏は結婚をほのめかりしたことは一度もないのですか」
フミは少し考えた。
「わたしが思い出す限り一度もございません。お見合いの話はたくさんございましたが、すべてお断りされていました。それでもいまよく思い出してみますと、アメリカに行かれる前は、結婚なんて当分する気はないとおっしゃられていて、ご帰国されてからは、それにいっそう拍車がかかったと申しますか、一生独身で通すつもりだと宣言されるようになられました。三十代になられて、周囲がそういうことに関してうるさく言ってくるので、強く主張されていたのかもしれません」
「その独身主義を変更してまで結婚されたわけですよね。――美也さんのことを、フミさんはどう思われています。つまり、どういう感じの方と思われていました」
「まず、大変にお綺麗な方だと思いました。背もすらっとしてスタイルもよく、お若い人には無理でしょうが、裕福な男の方なら声をかけたくなる女性だと拝見しました。性格はあっさりとしておられて、てきぱきされていました。わたしどもにもいろいろ気を遣ってくださっていましたが、どこか表面的で、そのへんが春仁様たちとは違いました」
「春仁さんとの仲はどうでした」
「よかったとしか申せません。とくにこれといって……それにわたしどもは、春仁様が亡くなられるまで愛人の方と思っておりましたので。しいて言うなら、愛情とか親愛というより、パートナーシップという感じでした。契約が交わされたような関係と申すのでしょうか。愛人と思っておりましたので、そういうものだろうと、わたしどもも不自然な感じはしませんでした」
「フミさんのおかげで、春仁さんや美也さんのことがいくらかでもわかってきたみたいです。このあと、少し事件のことをお聞きしますが、よろしいですね」
「ええ、なんでしょうか」
フミのほうから膝をすすめてきた。
「フミさんの、こちらでの一日の仕事の流れはどうなっているのですか」
「まず、みなさまの朝食の用意をします。あとは普通の主婦がすることとなんら変わりがございません。部屋の空気を入れ替えたり、洗濯をしたり、掃除をしたりです。日によって違いますが、一時か二時ごろに二時間ばかり休憩をいただいております。その間に昼食と軽い睡眠を取ります。それから夕食の用意などして、夜の十一時に戸締りをします。これが基本ですけど、日によって変わります。用事のない時は長い休憩も取れますし、休日のほうもちゃんといただいております」
「事件のあった昨日は、何時ごろに昼の休憩を取られましたか」
「昨日は確か、一時半から三時半まで休んでいました」
「食事をして、昼寝をされたのですね」
「ええ、そうですけど、それがどうかしましたでしょうか」
「おかしいですよね。休憩を取ったフミさんに、どうして亜紀代さんがずっと邸にいたと言えるのですか。その休憩の二時間の間、亜紀代さんは邸にいなかったかもしれませんよ」
フミの顔がこわばった。
「それはそうですけど……亜紀代様は出かけられる時は必ずおっしゃられますから、昨日外出なされていないのは間違いございません」
「わかりました。それでは、亜紀代さんが昨日の昼になにを食べられたのか教えてもらえませんか」
「わたしは存じません。たぶん、川口に聞いたらわかると思います。今日はきていませんので、またにしていただけますか」
「それでは、川口さんの電話番号を教えてください。それと、電話をお借りできますか。いまから聞いてみたいと思いますので。そして亜紀代さんにも聞いて、その昼食メニューを照らし合わせてみようじゃないですか」
フミはなにも答えなかった。膝の上で両手を握りしめ、唇を硬く結んでいた。威圧するような眼差しが、砂木を睨みつけている。
「フミさん、ほんとうのことを話してもらえませんか。亜紀代さんは昨日外出されたのではないのですか」
弱り切った様子で砂木が言った。
その時すうっとドアが開き、亜紀代がドア口に姿を見せた。
「わたくし昨日は、こちらでは昼食をいただいてはいません。外でサンドイッチを食べましたわ」亜紀代は笑んだ。「どなたかお客様がおみえになったように思って下におりましたら、ドア越しに話し声がしましたので、はしたないとは思いましたが、細めに開けて盗み聞きをしてしまいました。許してくださいね」
もの静かな声で亜紀代は続けた。
「フミ、もういいわ。どうやらこの方はご存じのようだから。刑事さん、わたしの部屋にこられてください。すべてお話ししますわ」




