1 予兆
制限はつけていませんが、PG12あたりで、小学生の方には不向きな内容です。
タイトルに”殺人”が入っている通り、テレビの2時間サスペンス程度の残酷性はありますことを、あらかじめお断りしておきます。人が殺されます。
ふっと――
優子は読んでいた本を閉じると、ガラステーブルの上においた。背筋を伸ばし、長い髪を掻き上げ、耳を澄ます。
邸はしんとしている。静かすぎるぐらいだ。
時刻は午後九時二十分。
ゆっくりと部屋を見まわす。
襞のたっぷりしたベージュのカーテン、モスグレイのカーペット、白を基調にしたクローゼットに、それと揃いのタンス。タンスの上には鏡や化粧道具と一緒に、小さな仏壇がおいてある。ピンクのカバーがかけられたシングルベッドが角に寄せられ、北側のクルミ材の棚には、本に雑誌にアルバム、ミニコンポにCDに置時計、それと、写真立てや観葉植物の小鉢などのインテリアが並んでいる。窓際の書き物机の上も整然とし、ベッドサイドでは、ウサギとカメのぬいぐるみが並んでこちらを見ていた。
ピンクのベッドカバーとぬいぐるみを除けば、二十代の女の私室にしては、おとなしい印象の部屋が目に映るだけだった。
なんの問題もない。心配することはひとつもないはずだ。
しかしいま感じたものは。誰かがほんのそばにいたような気配……。
それはゆらっと生じ、ゆるりと消えていた。
優子は微苦笑し、吐息をついた。つまらないことを気にしている自分がおかしかった。
「わたしは華輪優子、二十三歳、女子大の二年生」
声に出してそう言ってみる。ひとりの時に、そうやって言い聞かせることが、いまでも優子にはたまにあった。そうしないと、ともすれば自分が誰であるのかを見失いそうな気がしてしまう。いまは十月で、来月には二十四になる。
ノックの音に優子は返事をした。
ドアが半分ほど開き、その間から大杉フミが顔を見せた。華輪家の家事全般を取り仕切っている婦人だ。六十七ながらかくしゃくとし、浅黒い肌には皺と染みが浮かんでいるものの、目には若者にも引けを取らない光をやどしている。白髪と黒髪が入り混じり灰色に見える硬そうな髪をうしろでひとつに束ね、洒落っ気はひとつもない。またそれが、じつに彼女らしさを作っていた。地味な焦げ茶の上着とズボンも、家政婦というより執事を思わせた。
「美也様がケーキを買ってこられています。下でお召し上がりになられませんか。お茶のご用意もできていますよ」フミは口をすぼめた。「それとも、なんでしたらこちらにお持ちしましょうか」
「いえ、すぐにおります。私も一緒に下でいただかせてもらいます」
フミは心得顔でうなずきドアを閉めた。
たいした女性だと優子は思った。老年という言葉は彼女にはふさわしくない。華輪家に雇われて四十九年、その長い年月をこの邸ですごしてきた彼女には、優子が華輪家で出会った誰よりも、風格が備わっているように見えた。
それに比べ、優子がこの邸にきてまだ四年。
カーペットから立ち上がり、棚に飾られた二枚の写真立てのうちの、五十代の男の写真に優子は目をやった。
手摺りにもたれかかり両腕を胸の前で組んだ男は、こちらに笑みを向けている。彫りの深い、事業家というより芸術家を思わせる顔立ち。蓬髪といってもよい髪型で、野性的な太い眉のすぐ下の目は黒曜石を思わせる。削げた頬は酷薄そうだが、厚みのある唇が、豊かな情愛の持ち主であることを示していた。
この邸にきて四年、華輪春仁の娘になって四年――。
優子はかぶりを振ると下へとおりた。
リビングでは、切り分けられたジンジャーブレッドと苺のタルトを中心にお茶の用意がなされていた。珈琲と紅茶の入り混じった香りが漂っている。
一人掛けのゆったりした椅子に座った亜紀代が、優子を見て穏やかに微笑んだ。
「おいしそうですよ」
白のシルクのブラウスにベージュのセミフレアスカート。戸籍上優子の叔母にあたる亜紀代はいつも淡い感じにつつまれていた。こういうくつろぎの場でも、亜紀代はそんなスタイルをくずすことはない。いまの優子のように、トレーナーとパンツという姿の彼女を想像するのは困難だった。フミが華輪家の風格を担っているなら、亜紀代は華輪家の品格を担っていた。四十九にもなりながら、いまでも亜紀代はパステル画の中の少女のようだった。
亜紀代の傍らのソファに優子は腰をおろした。
「紅茶にされますか、それともコーヒー」
フミの問いに優子はコーヒーを頼んだ。ポットから黒い液体がカップに注がれ、コーヒーの香りが一段と濃くなる。
そこへ芦谷美也がやってきた。二階の私室で着替えてきたらしく、優子と同じようなスポーティな服装をしている。栗色に染めた長い髪、鼻の高いエキゾチックな顔立ち。吸い込まれそうな黒い目と、流麗なラインを描く眉。彼女は美しく華やかだった。その魅力と輝きを自慢にしているのは、誰の目にも明らかだ。またそれは、確かに自慢するだけの価値のあるものであった。この邸に住むようになって半年しかならないのに、二十九歳の彼女はすでに邸を掌中にしているかのような感じを抱かせた。
美也は優子の隣に座ると、自分からコーヒーを頼んだ。
洋菓子が各自に配られ、お茶が始まった。
「フミさんも一緒に食べたらいいのに」
ジンジャーブレッドのしっとりとした食感を味わいながら優子が言うと、
「とんでもございません。わたくしは、あとでいただかせてもらいますよ。それと、残りのケーキは川口のぶんに取っておいてよろしいのですね」
フミが美也に尋ねた。
「ええ。わたしたちだけであんなに食べられるわけないじゃないの。川口のぶんも数に入れて買ってきたのよ。それより、あの人は今夜もお出かけ」
あの人というのは、邸の当主である春仁のことだ。
「はい、昼に出られてそのままです。三時ごろに夕食はいいからとお電話がありました。春仁様のぶんは残しておきますか」
「そんな必要ないわ」
美也はあっさりと言った。
「お仕事のほうは、順調にいかれてまして?」
亜紀代がケーキ用のフォークを優雅に扱いながら、美也に尋ねた。くずを落とすことなどほとんどない。
「まずまずです。時間をゆっくりかけていいと思っていますの。かなりの投資をしますから、それなりに考えないとですね」
「わたしみたいなオバサンから見たら、あなたがとっても羨ましいわ」
「そうですか。わたしからしてみれば、亜紀代さんのほうがずっと羨ましいですよ。生まれた時から、こんなりっぱな邸に住まわれて、大切に育てられてきたんですから。やっぱり育ちは争えないってほんとだと思いますわ。どうしてもわたしは、亜紀代さんみたいにはなれませんもの」
美也は隣の優子を見やった。
「優子もそう思うでしょう」
優子は笑みでその場を取り繕った。
穏やかで静かなひと時だが、底のほうにさざ波が流れている。それを、ここにいる全員が感じ取っている。いつかその揺らぎが表面に浮上してくるかもしれないと、それぞれが心の内で抱いている。それはなにもいま始まったことではなかった。最初は四年前に優子がここにきた時、そして今度は半年前に美也がここにきた時からだった。華輪春仁の隠し子と愛人。それが優子と美也のここでの立場であった。
電話が鳴り、フミがすぐに受話器を取った。
「はい、そうでございますが……えっ! それで……はい」
フミの様子にはただならぬものがあった。彼女がこれほど取り乱すのは珍しいことだった。メモを取り出し書きつけようとするが、指が思うように動かせないでいる。
「そんな! なにかの間違いでは……わかりました、すぐに」
なにごとかと、優子と亜紀代と美也の三人はフミをじっと見つめた。さきほど部屋で感じた、いわれのない不安が優子をとらえた。
フミは受話器をおくと、震えている手を唇にあてがった。顔を蒼白にし、いまにもよろめきそうだ。彼女が七十近い老女にすぎないことを、優子は目の当たりにする思いがした。
フミが悲痛な面持ちを三人に向けた。
「は、春仁様が……春仁様が、倒れられたそうです」