1 砂木登場
砂木が華輪邸に着いたとき、時刻は午後七時四十分になろうとしていた。
パトカーの赤色灯が宵闇の中でひときわ目立つなか、タクシーから降りると、門の脇に立っている二人の警察官に手帳を示して目礼し、緩やかな上りになった道を先へと進んだ。ポケベルが鳴り、県警に連絡を取ってからここまできていた。
道が左にカーブする地点あたりで眺望が開けた。外から見てもかなりの邸だとは思っていたが、いやはや相当のものだ。初めて目にする華輪邸に、小柄な砂木は目を見張った。広大な庭があり、邸の前には県警や所轄署の車両が止まり、捜査員たちが動きまわっている。
不穏な雰囲気を漂わせながら静かに佇む華輪邸へと足を進めながら、砂木は、自分が日常とかけ離れた世界へと入り込んで行くような気がした。
邸の玄関口に着くと、鑑識をはじめとし所轄である筑紫野署や県警の捜査員たちで邸内は騒然としていた。上り口のところで、県警の沢口と所轄署の刑事と思える男が話している。
砂木に気づいた沢口が声をかけてきた。
「刑事官から連絡は受けている。お手やわらかにな」
四十代半ばの沢口は、すらりとした外見の長身の人物である。既婚者だが子供はない。髪に櫛目の入った目鼻立ちの整った容貌に加え、ネイビーブルーのスーツを着こなしたさまは颯爽としていた。階級は警部だ。
「いやだな沢口さん。僕がきたからには、どんとこい百人力じゃないですか」
砂木は、わざとらしく胸を張ると右手で叩いてみせた。
「――とにかく、あまり荒らさないようにしてくれよ」
慎重、堅実を第一とする沢口は、そんな砂木を心配そうに見つめた。
三十は過ぎているはずだが、埴輪を連想させる、一筆書きで描いたような砂木の顔にはどこか年齢を見きわめにくいところがある。真っすぐな眉、大きくない目、高くはない鼻、普通の口。特徴がうすいというのか、それが特徴というのか。体格のほうも小柄で、背丈は警察官採用ぎりぎりの一六〇センチほどしかなく、撫で肩で、捜査員の中にいて、目立っていて目立ってないところがある。刑事には見えず、年齢だけでなく、砂木はいろんな点でつかみどころのない男でもあった。それに、いつもチャコールグレイのスーツ姿だ。
「それで事件の概要はどういうものなんです。たいそうなお邸ですし。――そうそう、門からここまでくるのにも歩くとけっこうありますよね。お金持ちの人って、疲れないんですかね」
「ちょうどいま警部に話していたところです。巡査の報告程度ですけど、よろしかったら一緒に聞かれませんか」
綿貫と名乗った所轄の刑事がそう言った。中年の、左の生え際の髪の毛が薄くなりだした、実直な父親という風貌だ。がっしりとした顎と日に焼けたような赤銅色の肌をし、背が高くないのでずんぐりして見えるが、グレイの背広に紺のネクタイをしめた体は引きしまっていた。
被害者の名が華輪美也であること。チョコレートに混入していた青酸系と思われる毒物での死亡だと考えられること。そして美也が死亡するに至った状況を、簡潔に綿貫は説明した。話に無駄がなく、有能なとこを綿貫は見せた。
「毒入りチョコレート事件。ありそうでいて滅多にない事件ですね。計画殺人がぷんぷん匂ってくるじゃないですか。この邸といい、じつにクラシックミステリの世界ですよね」
わけのわからないことを口走る砂木を、沢口と綿貫は呆れた表情で見つめた。
咳払いをし、「毒物の入手先を特定するのが、まず先決だと思います」綿貫が話を現実の世界に戻した。
「ええ。すぐにでもそちらのほうに手をつけてください。所轄内で劇薬を保管しているところで盗まれた届けが出ていないか、またはその形跡がないかどうか。県内は私のほうで指示を出しておきます。と言っても、綿貫さんのことだから、すでに手配はお済なのでしょう」
沢口を前に、綿貫は口角を上げてうなずいた。
と、「そううまく運べばいいですけどね」砂木が水を差すようなことを言う。「計画性の高い犯人だったら、そのへんも考慮し計画を立てて実行したはずですよ。そうなると、毒物の入手経路を切り札にしていては、捜査は暗礁に乗り上げるかもしれませんね。ま、だから僕が呼ばれたのでしょうけど」
沢口と綿貫の顔を見て、慌てて砂木はつけ加えた。
「も、もちろん……。もちろん、犯人はどこかでヘマをするはずですから、毒物の入手先から割れる可能性は捨てきれませんよ。僕が言っているのは、あくまで可能性のひとつとして、そういうこともあるかもしれないとお話ししていることをお忘れなく」
「砂木、まだ捜査は始まったばかりなのだから、そう先走った思考はせずゆっくりとな」
沢口が釘を刺して、綿貫のほうへ顔を向けた。
「綿貫さん、死亡推定時刻は監察医の報告を待たなくても、六時半ごろとわかってますし、それを元にしたアリバイ調査は役に立たないでしょう。話を聞いたかぎりでは、チョコレートの中に毒物が入っていたとみて間違いないでしょうから、犯人が毒を混入した時間を特定することもできないなら、殺害するのにその場にいる必要もないことになりますね。そうなると、チョコレートの箱を、誰がいつおいたのか、それが捜査の要になります」
「その時間についてはある程度わかっているんですよ」綿貫が言った。「四時半ごろに、被害者の美也の部屋に爆弾を仕掛けたという不審者からの電話があったので、調べてくれないかという電話を浦島、華輪コーポレーションの社員のひとりですが、その彼から連絡を受けた家政婦の大杉フミが、被害者の部屋を、手伝いの者と一緒に調べたらしいんです。結果、爆弾らしきものもなく、その時に間違いなくチョコレートの箱もなかったと証言しています。ですから、チョコレートの箱が被害者の部屋におかれたのは、午後四時半から、被害者が発見する六時半ごろまでの間ということになります」
「四時半から六時半、時間にして二時間か。内部にいた者でなく、外部からの侵入者ということもありえますか」沢口が言った。
「そうですね。なにしろ、玄関を入ってすぐがこのように階段となっていますから、二階の被害者の部屋にチョコレートの箱をおいてくるなんて、往復でも一分もかからないでしょう。それでも、被害者の部屋の位置を知っておかなければいけませんから、行きずりの者の犯行ではないと思われます」
「この玄関の扉は常に鍵がかけられているのですか」
「そのへんのことについては、まだ詳しい内容を聞いておりません」
「いま話にあった爆弾の電話ってなんでしょう。それもやはり犯人からのものなんですかね。それと、なぜ浦島という社員のところにそんな電話があったんですかね」
唐突に砂木が二人に向かって言った。
「偶然とは思えませんから、関連があると考えていいんじゃないでしょうか。それと被害者の華輪美也は、電話があった時刻に浦島のアパートにいて、爆弾の電話はその美也にあったみたいです」
「となると、妙な話ですよね。この事件の最大のポイントは、チョコレートがいつおかれたのかという時間です。犯人としては、少しでもわからないようにしておいたほうがよくないですか。それなのに、爆弾みたいな電話をして、部屋の中を探させようとしている。まるで、その時にはなかったことを確認させているみたいです。あるいは、四時半から六時半の間にチョコレートはおかれたのだと、こちらに教えたいみたいですよね。それともうひとつ、どうしてこの邸に直接電話をせず、他の場所にいる被害者のところへ電話をしたのでしょう。二度手間ですよね」
「で、砂木警部補はそれをどう考える」
やれやれというふうに沢口が首筋を撫でた。
「ううん、わかりません。たぶん四時半から六時半の間におかれたことを知らせたほうが、犯人にとっては得策だったのでしょう。それとも、四時半までにはおかれていなかったという事実のほうかな。いや、この推理自体が見当はずれで、犯人にはべつな目的があったのかもしれません。しかし爆弾が仕掛けられていると聞けば、バカバカしく思えても、これだけの邸に住む人なら、用心のため一応見てみますよね。犯人だってそれぐらいは承知のはずだ。となると、僕の最初の推理は正しいのか……」
「この馬鹿者が!」
春先の雷鳴の如く、背後からどやしつけるような声が鳴り響いた。
三人が振り向くと、いつのまにきたのか強矢刑事官が傍らに立っていた。
五十七歳になる福岡県警きっての巨漢だ。ダークスーツをまとった腹のせり出したビヤ樽然の身体は、巨漢というよりデブの印象が強い。大きな耳、短い首、先端が丸い鼻に、ほうれい線の深い顔をしている。体つきはセイウチだが、目は虎か豹のそれだ。唇をへの字にし、苦り切ったいまの表情は、仁王然としていた。
「砂木おまえは何度言われたらわかるんだ。捜査らしきものもまだ始まっていないのに、そうやたらと理屈をこねくりまわしてどうする。それが捜査の邪魔になっているのがわからんのか。まったくおまえの悪い癖だ」
目をしばたたいている砂木を尻目に、ご苦労様ですと沢口と綿貫が挨拶した。
「刑事官がこられるとは思ってもいませんでした」沢口が言った。
「一応わしも現場を踏んでおこうと思ってな。なにしろ華輪家といえば、名の通った資産家だ。それ相応の配慮もせにゃならんなら、そのつもりで捜査にも当たらんとな。で、状況はどうだね、沢口君」
打って変ったものわかりのいい顔を向けて強矢が言い、いまわかっていることを沢口が説明した。
「なるほど。どうみても計画的犯行だな。で、いま邸の者たちは」
「食堂に集まってもらっています」綿貫が言った。
「それじゃ、まだ鑑識のほうもすんじゃおらんみたいだから、先に挨拶だけでもすませとこうか」
強矢がもう一度じろっと砂木を睨みつけ、綿貫を先頭に、四人は食堂へと向かった。
玄関の通路を真っ直ぐに行った突き当りに食堂がある。リビングとホールの広さに驚き、鑑識が忙しく働く姿を目にしながら強矢たちは食堂へ入った。
清潔で明るい印象の部屋だった。厨房が隣接し、事件の関係者たちが思い思いに椅子に座っていた。中央に白いテーブルクロスのかけられた大テーブルがあり、大皿に盛ったおにぎりとお茶の用意がされている。天井からはシャンデリアが二つ下がり、白い壁には天然木の腰壁がしつらえてあった。入口を入って左手の壁に、果実をモチーフとした静物画の油絵が掛けられ、正面の壁には掛け時計があった。
砂木は自分の腕時計を見て、掛け時計の時間が合っているのを確認した。
いきなり入ってきた四人の男たちを、食堂にいた者たちは緊張した面持ちで迎えた。男が三人、女が七人だった。男のひとりが、左足に包帯を巻き、そばに松葉杖をおいているのが刑事たちの目を引いた。
腹を突き出した強矢が、咳払いをしてから口を開いた。
「福岡県警の強矢と申します。そしてこちらが、捜査主任の沢口警部と所轄の綿貫部長刑事です。今回はまことに……」
強矢の挨拶は単刀直入のもので、みなのおかれている状況を話し、捜査に対する協力を頼み、すみやかな解決を約束した。続いて沢口が、事情聴取や指紋採取などのこれからのことを話した。
「指紋だって! 犯罪者扱いはごめんだね。なにもしていないのに、なんでそんなことをされなくちゃならないんだ」
モスグリーンのセーターにコーデュロイのズボンの男が、抗議の声を上げた。
「そうおっしゃられずに、捜査の手順としてご協力願えないでしょうか。犯人扱いしているのではなく、犯人のものと識別するために、あなたがたの指紋を必要としているのです。そこをご理解いただきたい」
「そんなこと言って、ほんとうは俺たちを疑っているんだろう。これだけは言っとくぞ。つまらないご体裁を聞く耳はないからな」
「それでは、はっきり申します。現段階ではあなたがたも容疑者です。いまのところ誰ひとりとして容疑は晴れておりません」
「なんだって、俺たちのうちの誰かがやったというのか」
「兄さん指紋ぐらいかまわないだろう。警察だって、証拠がないと僕たちを犯人にはしないよ。それに言われる通り、指紋を採取しないと捜査は進まないだろうからね」
隣に座っていたスーツの男が言った。兄弟らしく容貌に似たところがある。ただ、抗議しているほうが、目の大きな男っぽい顔立ちなのに比べ、弟のほうは優男で、受ける印象はだいぶ違っていた。
「わたしもいや。指紋を取られるくらいなら逮捕されたほうがましですわ。自分の家にいるというのにさっきから指図されてばかり、もううんざりですわ」
フリルのついたブラウスの、中年の品のある女が強い調子で言った。優美な眉をたわめ、唇をいくぶん前に突き出している姿には、かたくなになっている様子が感じられた。
「亜紀代さんどうしたの。そんなにむきになって。あなたにしては珍しいわね。指紋を取られるとまずいことでもあるの」
横から、端正な顔立ちの五十年配の女が口にした。男のようなショートカットで目尻の上がった目が、きつい感じを与えている。
「そんなことないわ姉さん。ただいやなの――そう、わたし怖いの。美也さんがあんなことになって、もう、わたしどうにかなりそう」
亜紀代と呼ばれた女は両手を髪にやると、激しく頭を振った。年配の、この中でもっとも高齢に見える小柄な女が、歩み寄ってなだめた。
その時ドアが開いて、捜査員のひとりが一階のほうの鑑識の仕事が一段落したことを告げにきた。
強矢が鷹揚にうなずき、「まあ、なんですな。いろいろご不満や、失礼なこともあるかもしれませんが、これも捜査を円滑に進めるためでして。みなさんもどうかそのことをご理解いただきたい。これからのことはあとで連絡しますので、いましばらくご辛抱のほどをよろしくお願いします」
強矢が目配せし、刑事たちは食堂をあとにした。
* * *
手袋をはずして合掌すると、刑事たちは二度目の黙祷をした。
黒ビニールで加工された遺体収納袋のジッパーを閉じる音が響き、被害者の遺体が運び出される。救急隊員が到着した時点で、美也はすでに絶命した状態であった。
遺体を目にした砂木は、電車の車内広告あたりで、美也を見たことがあるのを思い出していた。番号札がおかれた、床の人型の白いテープを見ながら、砂木は華輪美也の横たわった姿をもう一度頭の中で描いた。
時刻は九時十分。現場の検分が終わったところだった。状況が状況なだけに、殺害のおこなわれた場所から、これといった手がかりを得るのは難しかった。被害者は数人の見ている前で絶命し、時刻もはっきりしている。持ち出されたチョコレートやグラビアなどからの、鑑識の報告を待つしかないというのが、四人の刑事たちの一致した意見だった。
鑑識員がやってきて、沢口に全員の指紋を採取できたことを報告した。
「手数がかかっただろう」
若い鑑識員は苦い笑いを浮かべただけで、なにも言わずに立ち去った。
二階では、チョコレートがおかれていた美也の私室の調べが、まだおこなわれているはずだった。
「それで刑事官はいかがされます」
「現場も見たことだし、いたらかえって邪魔になるだろうから、とりあえずわしは退散だな。あとはよろしく頼む」
沢口にそう言って、強矢は砂木を振り返った。顔つきが険しさを帯びた。
「いいか砂木。わかっていると思うが、おまえは万が一のための布石みたいなものだからな。おまえのここでの役目は、観察して推理して、解決への手助けをすることだ。解決へのヒントを見つけるんだ。それに手がかりを。布石は布石らしくしておけばいいんだ。余計なことはするな。決して率先しようなどとはよもや思うなよ。くれぐれも捜査を混乱させる真似だけはするな。わしに恥をかかせるような真似はするな。そして、なにか気づいたら沢口警部に報告しろ。いいな」
砂木は愛想よくうなずいた。
県警の捜査一課にいながら、どの班にも所属しない遊軍というのが砂木の位置であった。直属の上司は刑事官の強矢で、いまここにいるのも、その強矢からの指示だった。砂木は俗にいうキャリア組のひとりである。キャリアは配属された当初から警部補の階級を与えられ、二年ほどで警部に昇進するのが通例となっている。それなのに砂木はいまだに警部補のままであった。キャリアの落ちこぼれ、または顔の造作からハニワと砂木は県警内で称されていた。
疑わしげな目で砂木を見、まだ言い足りなそうな表情をしながらも、もういいというふうに掌を振ってから、巨漢の強矢は歩み去った。
「よくわかりませんが、大変そうですね」
刑事官のうしろ姿を見送った綿貫が、同情するような眼差しで砂木を見た。
「いつものことです。もう慣れちゃっていますよ」
砂木は微笑んでそう答えた。
「さて、ここでわれわれのできることはもうないみたいだから、聴取に移りましょう。綿貫さん、どこか部屋をひとつ借りてもらえませんか。それと一番最初は、家事を取り仕切っている婦人から始めたいと思っていますが、いかがです」
「大杉フミですね。邸に一日中いたはずですから、一連の流れを聞くには彼女が最適でしょう。私のほうはそれでかまいませんよ。それに、華輪家に長年奉公していますから、人間関係にも詳しいでしょう」
そう言いながら、綿貫はすでに関係者のいる食堂へと向かっていた。




