3 爆弾と猫とチョコレート
「アンデルセンの『人魚姫』をアレンジしたミュージカルでしたけど、ハッピーエンドでよかったですね」
午後四時五十分。帰りの車の中で二郎が言った。
「ええ、音楽も振り付けも素敵でした。それより二郎さん、お話のほうはちゃんとわかられているんですね」
「どうしてです」
優子は思い出したようにして笑った。
「だって、途中で二郎さん寝ているんですもの」
「僕は悲しい場面は苦手なんですよ。なんていうか……それに、最後のハッピーエンドが見れたら、それで僕は満足するんです。しかし……やはり気づかれていましたか」
「隣にいるんですよ。いびきかかれたらどう仕様かと心配で。おかげさまで、お芝居に足りなかったスリルとサスペンスを味あわせていただきました」
二郎は力なく笑うしかなかった。
途中で優子が洋菓子屋に寄り、浦島の家に着いたのは五時十分ごろであった。
車から降りチャイムを鳴らすと、二人を美也が出迎えた。
「どうだった、ミュージカルは楽しかった」
ええと優子が返事をし、三人は奥のリビングへと入った。
フローリングの床にカーキ色のカーペットが敷かれている。中央にテーブルがあり、捻挫したほうの足を投げ出すようにして、カーペットに座った浦島が、そのテーブルの上で資料やノートやファイルやらを、美也の書類カバンにつめているところだった。
「忘れ物はないな」
自分自身に確認するようにまわりを見て、浦島がカバンを美也に渡した。
「これお土産です」
優子が洋菓子屋の箱を差し出した。
「すみませんね。気を遣っていただいてもらって。あっ、お茶でもいれましょう」
右手を使って不自由そうに立ち上がりかけた浦島に美也が言った。
「お茶はいいわよ。すぐいくから」
「ケーキはどうするんです」
「いえ、それは浦島さんのぶんで、わたしたちのはべつにあるんです」
「いいよな、病人はやさしくしてもらえて」二郎が言って、浦島の左足を蹴る真似をする。そして、「ベッドがないけど布団敷いているのかい」
「ええ、このテーブルをどけて寝ていますよ」
「その足だと布団敷くのも大変ですよね。いまのうちに敷いときましょうか」
「大丈夫ですよ、優子さん。そんなに心配しないでくださいな」
「ほんとうにいいんですか。それにお食事はどうされているんですの」
隣接したキッチンを優子は見やった。食卓の上に、ピザの空き箱とコーラーの缶が二つおいてある。それを除けば、中年男のひとり住まいにしてはきちんと片づいている。
「ほんとにお気遣いなく。なあに、あとで、ホカ弁でも配達してもらいますよ」
浦島が安心させるように笑顔し、ふっと思いついたように口にした。
「ところで、そちらのほうでなにか変わったことはありませんでしたか」
「変わったことって」二郎が逆に尋ねた。
「じつは四時ごろ妙な電話があってですね」
「そのことはもういいわよ」美也が言う。
「よくないですよ。やはりお二人にも知っておいてもらったほうが――じつは四時ごろにここに電話があってですね。最初に私が取ったんですけど、名乗りもせずにいきなり美也さんと代わってくれと言うんです。失礼にもほどがあるし、名前を聞いても答えないし、変な電話だとは思ったんですが、一応美也さんに取り次いだんです」
「そう。それで」美也があきらめたように口を開いた。「わたしが代わるとね。男とも女ともつかないかすれ声で、華輪邸のおまえの部屋にいま爆弾を仕掛けたと言うのよ。そしてすぐに電話は切れたわ。ただそれだけのこと。ほんと、くだらない」
「そりゃ大変じゃないですか。それでどうしたんです」二郎が言った。
「美也さんは悪戯だからほっとけばいいって言うんですけど、万が一のことがありますからね。私が邸のほうに電話を入れましたよ。フミさんが出て、それから美也さんに無理にでも電話を代わってもらいましたが、これといってなにもなかったみたいです」
「だから悪戯だって言ったでしょう。よりによって爆弾なんて、ほんとバッカみたい。気にする必要はないのよ。そんなことしたら、かえって相手の思うつぼだわ」
「しかしですね。やはりこういうことは。それに、初めてじゃないですし」
「初めてじゃないって」二郎がさらに驚いたような顔をする。
「やはり、お二人ともご存じないんですね。じつは先月ごろから、嫌がらせとしか思えない手紙が美也さん宛に、会社のほうへ送られてきているんですよ。死ねとか出ていけとか、カミソリの刃が入ったやつなどがですね」
「美也さん、ほんとうのこと?」
優子の問いに、美也はうんざりしたようにため息をついた。
「そうよ。八通ほどもあるかしらね。消印は市内で、宛先と宛名が定規をあてたような直線で書かれているやつ、もちろん差出人の名はないわ」
「それって、警察に届けたほうがいいですよ」二郎が言った。
「いやよ。それぐらいのことで警察と関わりたくないじゃない。そんな恥ずかしいまねをしてごらんなさい。あなたのお母さんに笑われるわ」
奈津枝のことが出てきた瞬間、四人の間に気まずいものが走った。しかし、そんなことは気にかけないというふうに、二郎が言った。
「でも、やはり警察に連絡すべきですよ」
「そうですとも」浦島が言い、「わたしも」と優子が言い添えた。
「とにかくそのことはいずれわたしのほうでなんとかするから、みんなは気にしないで。それに、このことは誰にも言わないでいてよ」
美也はきっぱりとそう言った。
表まで送ろうとする浦島に、そんなことしなくていいからと言って、美也と優子と二郎の三人が、車で帰途についたのは、五時四十分だった。
車中で浦島の足のことを心配する優子に、「ジェイソンは大丈夫ですよ。なにしろ不死身ですから」と二郎が言い、話がミュージカルの途中で寝ていたことに移ると、「ああ、なんて僕は不幸なんだ。どうして僕だけがこんなにも言われなくちゃいけないんだ。きっと、フミのババアが睡眠薬を僕に飲ませたんですよ。あの出がけに飲んだコーヒー。あの中に入れられていたんですよ。なにもかもフミの計略です。それに気づかないで、こんな目に遭ってしまうなんて、ああ、なんて僕は不幸なんだ」
二郎が大げさに騒いでみせた。しかし、そういうことをしても嫌味がないのは二郎の持ち味であった。
「あなたには呆れ返るわ。自分がしたことをフミのせいにできるんだから、まったく、どういう頭の構造をしているの」
カバンを膝にのせた美也が、後部座席からそう言った。
邸の門を開けて通り抜け、車道を入ってすぐに二郎がブレーキを踏んだ。道の真ん中に、太った猫が寝そべっていた。クラクションを鳴らすと、猫は大儀そうに見やっただけで、どこうともしない。
「ちくしょう、猫まで僕を舐めてやがる」
二郎があと二回クラクションを鳴らして、ようやく猫は仕方ないというふうに上体を持ち上げた。それでも、こちらを丸い目でじっと見つめると、やおら後ろ足で腹を掻き始めた。
「あの野郎」
二郎が車のドアを開け、片足を出したところで、猫はぴんと耳を立ててヒゲを動かした。そしてようよう右に移動し始めた。ゆったりとした動きのうえに、ご丁寧にも足を止めると、車のほうを一度振り返る。二郎が唸りながらふたたび車のドアを開けて出ようとすると、そんなことはないのに、ふんと鼻を鳴らしたように見える動作をした。
「あの猫、近所の猫ですか。まったく態度が悪い」
「いえ、見かけない猫です」
「猫相手に、そんなにむきにならなくてもいいでしょう」
「はい、はい。猫さまたちにはかないません」
猫が通りすぎるのをたっぷりと見届けてから、二郎は車を進めた。玄関口で、美也と優子を先に降ろした。
クラクションが聞こえたらしく、すでにフミが扉を開いていた。
「どうかされましたか。表でクラクションの音がしましたが」
「車道に太った猫がいたんです」優子が言った。
「猫が二郎さんを鼻で笑っただけのことよ」美也が腕時計を見る。六時三分だ。「駐車場に車があったけど、みんなはもうきているの」
「一郎様とめぐみ様はお着きです。いま、リビングのほうにいらっしゃると思います。榊様のほうはまだおみえになっていません」
「ああそう。それじゃ、先に二人に挨拶しとこうかしら」
美也がカバンを持ったままリビングに向かい、優子も、フミに洋菓子の入った箱を手渡してあとに続いた。
一郎と亜紀代がリビングにいて、めぐみがちょうど、庭に面したテラスから入ってくるとこだった。ソファに座っていた一郎が、二人が入ってくるのを目にして立ち上がった。
「どうも今日はお招きいただいてありがとうございます。そうそうにお邪魔させていただいています」
ラフな服装の一郎が言い、ホールを小走りに横切ってきた、細身のジーンズ姿のめぐみは、息を切らしながら黙って会釈した。
が、ふっと気づいたようにしてそのめぐみが言った。
「二郎さんは一緒じゃなかったんですか」
「すぐくるわよ。車を止めるのに手間がかかっているんじゃないの」
美也がそう答えながらソファに座り、優子に一郎とめぐみも腰をおろした。
「優子さん、お芝居のほうはいかがでしたか」
一人掛けの椅子に座った亜紀代が、ものやわらかに尋ねた。
「叔母様にも、お見せしたいぐらい素敵でしたわ。でも、二郎さんは途中寝ていましたけど」
亜紀代が笑い、あのバカと一郎が呟いた。その隣で、めぐみがお手上げのポーズを取った。
少しの間、劇のことに話が集中した。
「美也様、お食事のほうは予定通り、七時からでよろしいでしょうか」
フミがそこへ、そう尋ねにきた。
「ええ、そうしてちょうだい。みんなも揃っていることだし」
「まだ榊様がおみえじゃありませんが」
美也がうっかり忘れていたというふうに目を見開いた。
「ああ、そうね。でもかまわないわ。予定通りでいいわよ。そのうちくるでしょうから。それに、榊は今夜のオマケみたいなものだから」
「榊さんと美也さんは、どういうお知り合いなんですか」めぐみが言った。
「彼とはね、わたしがこっちに出てくる前の佐賀にいたころの知り合いなのよ。でも、恋人とかそういう関係じゃないわよ。そのころわたし結婚していて、榊はその旦那の知り合いだったの。で、その旦那と離婚して福岡に出てきたのだけど、その時、いろいろ動いてくれたのが榊なのよ。前の旦那は横暴で、すぐに手をあげるような人でね。榊には迷惑をかけたわ。ああ見えて、意外と榊はめんどうみがいいのよ」
「へええ、そういう知り合いだったんですね」一郎がうなずいた。「それにしても、今夜みたいなメンバーで集まるなんて、なかなかいいアィデイアですよね。僕も前から、華輪の同じような世代だけでゆっくり話してみたいと思っていたんです」
「ごめんなさいね一郎さん。そこに、わたしみたいなオバサンが混じってしまって。できるだけお邪魔にならないようにするから、許してね」亜紀代が言った。
「あ、すみません。そんなつもりじゃ……それに、そんなことはないですよ。亜紀代叔母さんは、うちの母なんかに比べていつも若々しいですし、僕たちの取りまとめとして……それに」
「そんなに無理なさらなくてもよろしくてよ」
亜紀代が愉快そうに微笑み、一郎の焦った様子は、その場にいる者たちの失笑を買った。
「やけに楽しそうじゃない。どうしたの」
二郎が入ってきて、どかりと一郎の隣に座った。
「おまえが、芝居の途中で寝ていたことを話していたんだ。寝顔が、ひどい間抜け面だったそうじゃないか」
一郎が失言の話を逸らすように、二郎に向かって言った。
「またその話かい」二郎が両腕を広げて、ソファの背にもたれかかった。「神様、いつになったら、僕の犯した罪をお許しくださるのですか」
「もう大げさなんだから、さて、わたしは荷物をおいてくるわ」
美也が書類カバンを手に提げて、二階へと歩いていった。
そして数分後におりてくると、フミを呼んで、ふたたび二階へと一緒に上がっていった。
「どうかしたのかしら」
優子の問いに答える者はいない。
つぎに美也とフミがおりてきて、フミはそのままキッチンのほうへ歩いていき、美也はリビングに戻ってきた。右手に赤い平べったい箱と、ハガキ大サイズのクラフト紙の封筒を持っている。
美也が唇を尖らせて元の席に座り込んだ。そして、見てよこれと、手にしていた箱と封筒をテーブルにおいた。
およそ縦二十センチ横三十センチ、厚みが二センチほどの箱だった。赤いリボンがかけられ、同じ赤系の包装紙でくるまれている。リボンには二つ折りのカードが挟まれていた。
美也が封筒を逆さにして振ると、数枚の紙切れがテーブルの上にこぼれ出た。いずれも美也のグラビア写真であった。エレガントビーナスのパンフレットから切り取ったものや、情報誌に掲載されたものや、折り込みチラシとして使用したものなどいく種類かあった。微笑みを浮かべている美也、キャッスルタウンを背景にした美也、インタビューに応えている美也、快活そうな美也、フアッショナブルな美也。そのどれもが傷つけられていた。顔や身体がカッターで切られ、針で刺され、黒マジックで塗りつぶされ、焼け焦げのついたものさえある。その暴力の痕跡に、リビングの、いままでのなごやかな雰囲気は一度に吹き飛んだ。
「こりゃ、ひどいや」
二郎が喉になにか詰まらせたようにして言った。
「どうしましたのそれ!」
亜紀代が、椅子の上で顔色を失って叫んだ。
「どうもこうも、いま上にいったら、デスクにおいてあったんです」
「いまですか」
一郎が驚いたように問い返す。その右隣ではめぐみが、組んだ両手を硬く握りしめていた。
「ええ。誰かの贈り物かと思って箱を持ち上げたら、下から、このグラビアの入った封筒が出てきたの。びっくりよ。それで、誰が持ってきたのか確かめようと思ってフミを呼んで見せたのだけど、知らないらしいの。いま川口にも聞いてもらっているんだけど」
「それにしても悪質もいいとこだな。カード見てもいいですか」
「いいわよ。ほんと、いやになるわ」
二郎がカードをリボンから抜き取って開いた。うんざりした顔をして、みんなにまわす。
カードには、のたくった蛇のような黒い文字で、『毒入り』と記されていた。
「どうやら、贈り主にユーモアのつもりはないみたいですね」二郎が言った。
「そうね。もしユーモアのつもりなら、センスが悪すぎるわ」美也が無残な有様の自分のグラビアを手にし、そのまま吐き捨てるように続けた。「こんなことする人は、間違いなく病気よ」
フミが小走りにきた。
「川口に聞いてまいりましたが、そのようなものを預かった覚えはないそうです。それに誰がおいたのかも心当たりがないとのことです。こんな不祥事があって、まことに申し訳ありません」
留守を任されている者として、フミはすまなさそうにしていた。
「早智さんのほうにも聞いてくれた」
「ええ。左様でございますが、早智がなにか」
「ううん、なにもないわ、確認したかっただけ。わかったわ、ありがとう。それにただの悪戯でしょうから、そんなに気にしないで」
申し訳ありませんと、フミはもう一度頭を下げてさがった。
「やれやれ、なんだか悪いことしたみたい」
フミのうしろ姿を見ながら美也はそう言うと、リボンをほどいて包装を開いた。
チョコレートの詰め合わせの箱だった。見るからに外国製のものだ。上箱を取ると、赤、青、緑、黄、金、銀の、色のついた銀紙に包まれた一口サイズのチョコレートが行儀よく並べられている。
綺麗ねと美也が口にして、青色のものを一個つまんで銀紙を開いた。
「もしかして、まさかとは思うけど、食べるの?」
二郎が目を丸くした。
「だって、おいしそうだし、チョコレートに罪はないんですもの」
「そんな。もしほんとうに毒が入っていたらどうするんです」
優子が慌てて横から言った。
「美也さん、そのまま警察に持っていかれたほうがいいです」
めぐみも言った。
「もし――もしもよ。こんな悪戯をしている人が、わたしたちの知っている人だとしたらどうする? それでも警察に持っていったほうがいいと思う」
空気が張りつめたようになり、誰も口を開こうとはしなかった。
「でしょう。大丈夫よ。陰湿な嫌がらせはできても、本気で人を殺せるような度胸のある人は、そう簡単にいないわ。それに本気で殺すつもりだったら、毒入りだなんて言わないで黙って殺すはずよ」
美也はかまわずチョコレートを口に放り込んだ。噛みしめ。と、妙な呻きをし、美也が両手で自分の喉元を押えた。
どう見ても下手な芝居だった。
「美也さんにはかなわないな」
二郎がぼやいた。
「どう、あなたも度胸試ししてみない」
美也が箱を持ち上げ、二郎に差し出した。
「えっ、僕もですか」
「そうよ。わたしにいいとこ見せてよ。一郎さんはどう」
「いや、僕はいいです」
一郎が気味悪そうに身を引いた。
「兄弟そろって尻込みしたら、あまり格好よくないですね」
二郎が緑色のぶんを一個つまみ取った。銀紙をはずし、じっとチョコレートを見つめてから、目を閉じて口に入れた。
めぐみが不安そうな面持ちを二郎に投げかけている。
一、二、三秒ほど経って、「なんてことはない、ただのチョコですね。アチャラものだからかなり甘いや」目蓋を開いて二郎が言った。
「あたりまえじゃないの。めぐみさんもどう」
めぐみはちょっとためらったが、ひとりで可笑しそうに笑い、右手を赤いぶんに伸ばして持ち上げた。
「だめよ。赤はわたしのラッキーカラーじゃない。わたしのものよ、取っちゃだめ」
そう言われて反射的にめぐみは、それを戻すと、右手をチョコの上で迷ったように動かし、けっきょく金色のぶんを取った。
「優子は」
「それじゃわたしは、めぐみさんのと同じのを」
優子が金色のを取る。
「亜紀代さんは」
「わたしはいいわ。それどころか、もう食事も喉を通らないぐらい」
亜紀代は眉をしかめて辞退した。なにか思いつめたようにしている。
「じゃ、わたしは赤いのをもうひとつ」
美也が赤いのを取って、優子とめぐみを見やった。
「食べないの?」
優子とめぐみは顔を見合わせて笑い、互いにおそるおそるチョコレートを口にした。
「どう、おいしいでしょう」
美也に言われ、優子とめぐみはうなずいた。
「そうなのよ。ただの嫌がらせなのよ。こんなことに負けちゃいられないわ。笑われてたまるもんですか」
二個目のチョコレートを口に入れ、その途端美也の表情が変わった。目が驚いたように宙の一点を凝視したかと思うと、苦悶の色が顔全体に浮き上がった。慌てて口を押え立ち上がりかけたが、手足に力が入らないのか、そのまま床にくずおれた。異物を吐き出そうとする不快な音が、それに続く。
美也の急変にみなは棒立ちになった。互いの顔をうかがうような余裕はない。咄嗟に、床で悶え苦しむ美也の姿を呆然と見下ろしてしまっている。
空気を引き裂くように、めぐみが悲鳴を上げた。二郎が名を懸命に呼びながら、美也の身体にとりつく。美也の両肩に手をかけ、どうにかしようとするがどうにもならない。
「優子さん、救急車だ! 救急車を早く!」
優子がリビングの電話の受話器をつかんだ。
奥からフミたちが駆けてきて、異常な光景に息を呑んで立ちすくんだ。
「なんなんだ! いったいどうしたんだ!」
一郎が、ただでさえ大きい目を剥いておらび、亜紀代は両手で顔を覆ったまま、ひとりで声を張り上げていた。
ぜえぜえと、美也のしていた苦しそうな呼吸音が途絶え、痙攣がなくなり、そして静かになった。
一分ほどの出来事だった。
二郎がゆっくりと立ち上がった。その足元で美也は、意識のないまま、唇から涎を垂らし断続的に身体を震わせていた。栗色の長い髪が床にしどけなく広がっている。
「優子さん、警察にも電話したほうがいい。それにもう、みんな、なにも触らないほうがいい。ここにいて、動かずに警察を待つんだ。証拠隠滅の疑いなんてかけられたらたまらないからね」
「美也さんは死んだのか。死んでしまったというのか。おい、なにがあったんだ。これはどういうことだ」
一郎が二郎の左肩をつかんでゆさぶった。
「僕にわかるはずがないだろう!」
一郎の手を払いのけ、二郎が怒声を上げた。
やっと事件が起こりました。犯人はわかりましたか?(笑)
次の章から警察の登場となります。小説内で、もっとも長い章です。
で、そこに入る前に、ここらで一度息をつこうと思います。続きの更新は7月に入ってからの予定です。
よろしくのほどを。