1 出迎え 観劇 捻挫
三月×日土曜日。
その日島名二郎は、華輪美也と優子を迎えに、華輪邸の門へと車を進入させた。
錬鉄製の自動式の門を開き、背丈の高いカイヅカイブキが両側に植えられた、緩やかな上り坂になった左曲りの車道を進むと、邸の正面に出る。駐車場に車を止め、二郎は時刻を確認した。
午前十時五十分。十一時半の約束だから、かなりの余裕がある。
華輪邸は、福岡県西南部に位置する筑紫郡那珂川町に所在していた。町の主だった産業は米作を中心とした農業だが、福岡市の中心地から直線で十キロ、車だと三、四十分ほどの距離であることから、春日市、大野城市と並んで、福岡市のベッドタウンとしての開発が進んでいる。それでも華輪邸のまわりはいまだに田園風景が広がり、屋敷森で囲まれた華輪邸は、その大きさもさることながら、石垣を巡らし、あたりの土地より一段高いところにあることもあって、ひときわ目立っていた。奈津枝と二郎が住む大野城市の島名の家から、華輪邸までは車で十五分ほどの距離であった。
車を降り両手でスーツの埃を払うと、少し早く着きすぎたかなと思いながらも、二郎はそのまま玄関に向かった。三月に入って日差しに春の陽気が混じり始めたとはいえ、肌寒さが残る昨今だった。
玄関わきのアベリアの植え込みを見ながらベルを押すと、大杉フミが扉を開いた。
「ちょっと早かったかな」
二郎が言うと、
「もうお二人ともリビングのほうでお待ちですよ」
フミがにこやかに対応した。
「たぶん出られるには少し間があるでしょうから、よろしかったらお飲物でもご用意しましょうか、二郎様」
「ああ、ありがとう。それじゃ、インスタントでいいから、とびきり熱いコーヒーをブラックで」
そう答えながら二郎は靴を脱いだ。
玄関を入ってすぐに、二階に通じる幅の広い階段が正面に見える。その階段の手前に、左右にドアがあり、左側が応接室で右側がフミの私室と仕事部屋になっていた。階段の左側に奥へと進む通路があった。
スリッパを履くと二郎はひとりでリビングへと向かった。
応接室のドアの前を通り、通路の左にある、一メートルほどの目隠しの壁が途切れると、いきなり左手に眺望が広がる。邸を初めて訪れた人は、大抵ここで驚く。ホールとリビングをひとつにした大広間に出るからだ。(通路をそのまま進むと食堂のドアと、右に曲がる通路に出る)
大広間は、庭を望むことのできる全面ガラス窓の壁を北側と西側に有し、南西側の角には、書斎と納戸の二つの部屋が設けられている。そして、残りの空間の、書斎と納戸がある玄関よりの空間をリビングとし、あとをホールとしていた。リビングとホールの間に仕切りはなくひと続きになっており、ホールの北東側は食堂に面している。書斎と納戸まで含んだ広間全体の大きさは、ちょっとしたダンスホールほど並みであった。窓からテラスを通じて庭に出ることもできる。住居でありながら、大人数の客をもてなすための機能を備えた、社交場としての設計が華輪邸ではなされていた。
そのリビングのソファに、美也と優子が差し向かいで座っていた。大型テレビのスイッチは入っていない。リビングとされている空間は、目安で十畳ほどだ。
「優子が相手だと、えらく早いのね二郎さん」
「ええ。昨日から待ち遠しくて眠れなくてですね。お芝居の途中で居眠りしてしまわないかと心配です」
美也の軽口を軽口で受けながら、二郎は優子の隣に腰をおろした。
午後二時から開演のミュージカル劇の、優子のお相手というのが今日の二郎の役回りだった。美也がつき合いで購入したチケットが優子に渡され、それから二郎のほうへ話がきたという次第だ。そしてそれがすんだあとは、泊りがけで邸に招待されていた。招待されていたのは二郎だけでなく、一郎とめぐみ、それに浦島と、あの美也の知り合いだという榊欣治の五人だった。もちろんそこに、邸に住む優子と美也と亜紀代の三人が加わる。いい機会だし、一度ぐらい、親戚筋の若い人たちと一晩騒ぐのもいいかもと、これまた美也の提案だった。
そのプランに若干の修正が生じたのは二日前のことである。浦島が左足首を捻挫したのだ。この日美也と浦島は、華輪邸で一日中仕事の打ち合わせをする予定だったのが、そのせいで、美也が浦島の自宅に行って打ち合わせをすることになった。そして、観劇のいきに美也を浦島の家まで送り、帰りに美也をまた拾うというふうに話は進んだ。浦島は自宅で療養し、これで招待客がひとり減ることになった。
女中の川口早智が二郎にコーヒーを運んできた。
華輪家では、フミを除けば、家事にたずさわっている人間は通いである。近所に住む川口妙子と早智の母娘が、時間帯ごとに入っている。今日みたいに招待客がある時は、二人が同時に入ることもあった。
「あっちちち。熱いうえに、カフェインが利いているのがわかるような味だな」
二郎が言うと、優子が微笑んだ。優子は、あのパーティの夜と同じワンピースだった。季節が春先のせいか、パーティの時より軽やかに見える。
「いまは大学のほうは春休みですよね。旅行とかいかれましたか」
優子は首を振った。
「わたし、どうも出不精らしく、今日街中に出るのも久しぶりなぐらいです」
「そうなのよ。いい若い女の子が一日中こんな邸にいるなんて、どうみても不健康よね。もっと出歩いたり遊ばないと。二郎さんも、この休みの間に優子をどんどん誘ってちょうだい」美也が言った。
「ご進言ありがたく受け取らせていただきます。僕でよかったら、それこそいつでも優子さんのお相手をさせてもらいますよ。ただ、僕より優子さん次第でしょうけどね。それはいいとして、浦島の足の具合はどうなんですか」
「けっこう大変みたいよ。わたしも電話で話しただけなんだけど、レントゲンでは骨には異常はないらしいわ。それにしてもあんな体して捻挫するなんて、なんか滑稽よね。浦島って叩いても死なないみたいじゃない。声がいいのと頑丈さが、まあ彼の取り柄なんだけど。ほら、あのホラー映画のホッケマスク被ったの……」
「ジェイソンですか」
「そう。浦島見てると、わたしあれ思い出すのよね。ホラーじゃなくて、コメディだけど」
優子が吹き出しそうになるのを右手で押さえた。
「そりゃ、可哀相すぎる」
そう言いながら二郎も、笑いが混じるのはどう仕様もない。
いまや浦島は、華輪コーポレーションの代表となった美也の右腕として確固たる地位を築いていた。いまだに肩書はないが、若い美也と重役たちのパイプ役として手腕を振るい、春仁のいたころと段違いの勢いであった。美也の秘書と運転手役もするなら、先月も、エステサロンの海外視察としてハワイに八日滞在した美也に、浦島だけが同行していた。そんな二人の仲を、やっかみ半分に疑う者もいたが、美也と浦島では月とスッポンで、いくらなんでもそりゃないと、一笑に付す者がほとんどであった。
予定通り、十一時三十分に三人は二郎の車で華輪邸を出発した。
革製の書類カバンを手に提げた美也が後部座席で、優子が助手席という配置である。今日の美也は白のシャツブラウスに、身体にぴたっとフイットした紺色のパンツスーツ姿だ。そういうビズネスライクの服装も、美也はパリッと着こなす。
車の中で三人は他愛ない会話を交わした。もっぱら美也と二郎が話し、優子は聞いているだけであった。
「お仕事のほうはどうです。うまくいっていますか」
「いまのところはね。オープンしてまだ三ヵ月ほどだから、完全にうまくいっているとは言えはしないけど、固定客もついてきたし、売り上げのほうは伸びてきているわ。そっちはどうなの」
「おかげさまでと言いたいところなんですけど、僕は経営のほうはよくわかっていないんですよ。これといったトラブルもありませんから順調なんでしょう」
「頼りない返事ね。あなたがもっと気を入れたら、シマナもずっとよくなるんじゃないの」
「そんなことしたら、頻繁に優子さんを誘えなくなるじゃないですか。島名家の出来の悪い次男としては、これでも一生懸命努力しているつもりなんですけどね」
福岡市の南区にある浦島の住まいに着いたのは、十一時四十五分をすぎたころであった。四戸を組み合わせた二階建ての賃貸である。建物の中央に二階に上がる階段があり、その前に三段の石段があった。一階と二階に左右それぞれ二戸ずつで、浦島の住まいは一階の左手の物件だった。
車を前に止めると、タイミングよく浦島がドアを開いて姿を見せた。どうやら車の音で気づいたようだった。ネズミ色のスウエットの上下を着、左足に包帯を巻き松葉杖をついた格好は、図体が大きいせいか、痛ましいというより、美也の言うようにどこかユーモラスな感じさえした。さすがに、石段の下まではおりてこようとしない。
「どうもすみませんね。ご迷惑をおかけして」
車からおりた三人に、浦島がばつの悪そうな顔で言った。目元と唇に苦笑が混じっている。
「大変ですね。浦島さん大丈夫ですか」優子が言った。
「騙されてはいけません。浦島は優子さんの同情を買おうとしているんですよ。見てください。この大げさな松葉杖に包帯」二郎が揶揄した。
「二郎さん、なんなら私と変わってもらってもいいんですよ」
「そうはいかないよ。僕にはこれから優子さんをエスコートするという大役があるんでね。たまには、僕がナイトをつとめてもいいじゃないか」
美也と優子がそんな二人を笑った。
「それより、ほんとうに大丈夫なの」
美也が浦島の足の包帯に目を止めて言った。
「ええ、心配してもらうほどはないですね。一週間から十日ほどで治る予定ですから。昨日までは疼いていましたが、腫れもだいぶひいてきましたし」
「捻挫って馬鹿にできないので、無理されずにきちんと治したほうがいいですよ。三年前に捻挫して、いまでも調子の悪い友だちがいます」優子が言った。
「なんだかそう言われると、かえって怖くなってきます」
「あ、ごめんなさい。わたしそういうつもりじゃ」
三人がそんな優子を愉快そうに見つめた。
「それじゃ、お芝居の帰りにまた迎えにきてね」
美也がそう言い、二郎と優子は車のほうへと戻った。
「二時からの芝居だと、まだ早すぎるんじゃないですか」
そう問いかける浦島に、運転席側のドアを開けながら二郎が答えた。
「だからその前に、優子さんと二人きりで食事をするのさ。そういう予定に変更になったんだよ。君が捻挫してくれて、じつは僕は感謝しているんだぜ」
二郎はニヤリと笑うと車に乗り込み、美也と浦島を残して、優子が同乗した車を発進させた。
時刻は、十二時になろうとしていた。