表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

街角

作者: 白井 純

短編の三本目であります。


男と女の関係というものは、昔から様々な物語の中で描かれてきました。


私も、物書きの端くれとして、その尻馬にのってみようかと思いまして。



楽しんでいただければ、幸いでございます。

 空が青い。

 私はこれで何度かも知れぬため息を吐き、店の奥に掛かった時計を眺めた。

 私を残して、時が止まっていたのなら――そういった、私の馬鹿げた希望をせせら笑うかのように、針は、変わらず進み続ける。文字盤は、変わり続けて、進み続ける。

 時計が。

 往来を行く、私とは元来、何の関係もない人々が。

 空を見上げた私を、その行為を邪魔するかのように浮かぶ、白い塊が。

 

 その全てが、私を嘲笑しているかのようであった。


『待ち人、来ず』


 元旦に引いた御神籤は、どうやら真実を告げているらしかった。

 どれほど待ったであろうか。

 彼と待ち合わせた時間は、「とうに」という言葉を使うことすらおこがましいほどに。

 遠く過ぎ去ってしまっていた。

 

 もう少し。

 もう少し。

 

 どれほど、自分に言い聞かせたであろうか。

 空けたカップも、一つや二つではきかない。

 たまらなく悔しい。

 そして、それ以上に悲しい。

 顔を上げていると、涙の雫を人に見られるのではあるまいかと危惧した。

 咄嗟に見つめたテエブルの木目が、気づけば人の顔を成している。

 彼は、元来そこにあるはずのない口を、にたり、と歪めた。

 木目が、ものを言った。


「お前は、何をやっている」


 うるさい。

 お前までもが、私を笑うのか。

 お前などに言われずとも、判って居る。

 いや、私は、判っては居なかったのだ。

 正しく言い換えれば、判ろうとしなかったのである。


 判ってしまえば、認めてしまえば楽になれる。

 けれど、それは私にとっては殊更に困難であった。

 

 あの男は、決して来ることはない。


 これが、答案の提出を数時間延ばした挙げ句に出した、不出来な学生の回答である。

 ああ、すっきりだ。

 清々した。

 胸のつかえが取れるようである。

 こんなことであれば、もっと早くに認めてしまえば良かったのだ。

 そうしていたならば、此処で不味い茶に、高い金を支払うことも無かっただろうに。

 ようやく、得心がいった。


 私は、捨てられたのだ。


 空が喧しいほどに青い。


「今、お前はどのような気分であるのだろうか」


 黙れ。今はお前の声など、私は聞きたくないのだ。


 思えば、当初より明らかであったのかも知れない。

 それを私が常のごとく、答えを先延ばしにし続けただけなのかも知れない。

 いや、きっとその通りである。

 

 分不相応であるのは、とうの昔に理解していた。

 理解しているつもりだった。

 あの男が私を好いてくれるなど。よくよく考えてみれば、これほどに馬鹿な話があるだろうか。

 恐らくは、私の何らかを哀れみ、一時の夢を見せてくれただけであるに違いない。


 そうでなければ、このように考えてみるのはどうだろうか。

 あの男は、とんでもない悪漢だったのである。

 仲間内と共謀し、私を誑かすための算段を練っていたのだ。

 そうしていたづらに私を喜ばせ、こうして突き落とした時の面つきを、今頃高みの見物と洒落込んでいるに相違あるまい。

 私は、あの男の手のひらの上で舞い踊っていたに過ぎないのだ。

 何も知らずに、ただ馬鹿正直に。

 ああ、なんと道化のようであったのだろうか。


 木枯らしの腕に叩き落とされた木葉らが、道端でくるくると踊っている。


「お前のようではないかね」


 馬鹿にするんじゃない。

 やめてくれ。不愉快だ。


 つまり、私は騙されたのだ。

 なんだ、ならば今現在は、実に素晴らしい境遇ではないか。

 私は、解放されたのである。

 私は、自由だ。

 もう二度と、金輪際。

 私は彼に気を使わずとも良いのだ。

 周囲の目に怯えなくとも良いのだ。

 彼に嫌われることを恐れる心配は、する必要が無くなったのである。

 なんと、素晴らしい日ではないか。

 印度の独立なぞ、比べものにもなるまい。

 今日という日を、私自身の祝い日と定めるとしよう。

 皆、祝うがいい。私という一人の人間が、解放されたこの喜びを。

 

 私は、今現在。

 とても幸福であるはずなのだ。

 果てしない喜びに満ちているべきなのだ。

 それなのに。

 それなのに、何故にこれほど涙があふれ出るのだろうか。

 息が詰まる。

 この流水は、何が何でも止めねばなるまい。

 そうしなければ、空に。人に。時計に。木目に。はたまた木葉に、また何と笑われてしまうだろうか。

 必至に息を堪え、心の内に引っ込め、引っ込めと盛に念じた。

 けれど、どんなに念じたところで、それが通ずることはなかった。

 涙は堰を切って、止め処なく流れ出てくる。

 やめてくれ。


 こうなると予め判ってさえいれば、何も知らなければ良かったのだ。

 あの男の笑顔も。

 あの男の優しさも。

 あの男の温もりも。

 そうであったなら、私はこのように苦しまずに済んだのである


 涙は、私の体内にある水を、全て絞り出すつもりであるらしい。

 どうせならば、水だけでなく、体の全ても持ってゆくがいい。

 そうして青い本流となり、あの腹立たしい青空の中へと、混ざってゆくのだ。

 そうすれば、どれほど楽になれるだろうか。

 

 もしくは、天に召します大神よ。

 あなたはどれほどに情けないことを人に課したのでございましょうか。

 私達の祖先が紅の果実を口にしたばかりに、私達は知恵を余計な知恵を得ました。

 その知恵は、我々の心を此処まで面等にしてしまったのでございます。

 もし、初めから知恵の実をお作りにならなかったら。

 もし、心を我々にお与え下さらなかったら。

 私は、私達は。

 これほど苦しむことはありませんでしたでしょう。


 気に入りだった服の袖で、涙を拭う。

 汚れなど、構うものか。

 そうだ。いっそう、この服を破り捨ててしまうのはどうだろうか。

 あの男が好きだと抜かした、この服を。

 そうすれば楽になれるのやも知れない。

 もしか、この店を打ち壊してしまおうか。

 どうあっても私は、何かを破壊しなければならない。

 何かを完膚無きまでに破壊し尽くさねば、寧ろ私の身が砕け散ってしまいそうなのである。


 いや、砕けてしまった方が良いのかも、判らない。

 此処で砕けてしまえば、店の者が床の塵と共に、私を外に出してくれるだろう。

 そうして、あの木々の葉をなぶり続ける木枯らしに、ゆっくりと身を任せればいいのだ。

 やがて彼は私を更に砕き、塵と区別が付かないようにし。

 それから空へと巻き上げてもらうのだ。

 あの気持ちの悪い青の中へ、私を混ぜ込んでもらうとしよう。

 そうだ。

 次の恋人は、あの木枯らしがいいだろう。

 ものは言わない。此方に何かを求めもしない。

 上出来ではないか。


 顔を上げる。

 いつの間にか、白い塊は消え失せていた。

 あの邪魔の無くなった空に。

 あの寒気のする空に、私も混ぜてもらうのだ。

 これほどに醜い、面倒な女であっても。

 空であれば易々と受け入れてくれる。


 不味い茶の金を支払い、店を出る。

 空が青い。

 まことに腹立たしいばかりに、青いのである。

 人のめっきりと少なくなった通を、誰も気にしまいとばかりにくるくると回りながら、歩く。

 冬が足音を立てて近づいてくる世間というものは、実に私にとって心地よいものであった。

 まず、だれも彼もがオウバアの襟を立て、そそくさと歩いてゆく。

 誰も、私のことをあざ笑ったりはしないのだ。

 ざまあみろ。

 そして私の新しい良い人は、そのたくましい腕でもって、私の涙を乾かしてくれる。

 かさかさと五月蠅い、余計な踊り子が付いてきてしまうのは難点であったが、それしきのことは我慢せねばなるまい。


 しかし、彼は中々私のことを砕いてはくれなかった。

 どれほど回っても、飛んで、はねて、踊っても。

 私の体は、憎らしいほどにしっかりと、一つの肉塊として感じられるのである。

 それどころか、本来は果たしてくれていたはずの仕事まで放棄してしまったようだ。

 涙が、一向に乾かないのである。

 どうしたことだろうか。

 やはり、私ごときが誰かを愛そうとすること自体が、間違いであるのだろうか。

 

 私は、くるくる、くるくる回る。

 邪魔な枯れ葉と共に、かさかさ、くるくると回る。

 やがて、私の回りには、枯れ葉とは違う、なにか丸いものが漂っていた。

 水のように見えるのだが、それが何だか。

 私にはとんと見当が付かなかった。

 

 私は回る。

 地球も回る。

 地球は私を乗せているが、私は地球を乗せることが出来なかった。


 木枯らしに抱かれて。

 町の空気を切り裂いて。

 私はくるくると回り続けた。


 どれほどそうしていただろうか。

 どん、という音と共に、私の回転はそこで止まってしまった。

 全く、私の楽しみを邪魔するとは。

 新しい彼氏との踊りを邪魔するとは、何処の不躾者なのであろうか。

 

 憎たらしい気持ちを一杯に、顔を上げる。

 そこには、私が捨てたはずの。

 私が捨てられたはずの。

 あの男が突っ立っていた。

 息を切らして、脱いだオウバアを脇に抱えて。


「ごめん」


 男は言った。

 どうしても、外すことの叶わない用が入ってしまったのだ。

 どうにか早く済まそうと思ったのだが。

 消え入るような声で、彼は言った。

 人間の言葉では表現することの出来ないような、顔をしていた。


 やめてくれ。

 その顔が、私を砕くのだ。


 彼は、私を抱きしめた。

 何も言わずに。

 どれほど、走ってきたのだろうか。

 尋常、彼から薫っていた煙草に、汗が混じっていた。

 しかし不思議と、嫌悪感は感じなかった。

 

 その腕は、木枯らしほど強くはなかった。

 しかし、その腕の中は木枯らしでは到底及ばないほどに、温かかった。

 

 やめてくれ。

 その温もりが、怖いのだ。

 その優しさが、嫌いなのだ。

 その優しいお前に嫌われてしまうことが、私は何よりも恐ろしいのだ。

 

「ごめん」


 もう一度、彼は言った。

 彼の胸の中は濡れていた。

 それが、男の汗なのか。

 私の涙なのか。

 それはもう、判らなかった。

 私が何故泣いているのか、それも判らなかった。

 私は泣いた。

 男も泣いた。

 

 ただ、ひたすらに。

 空が青かった。

 私が捨てた木枯らしが、枯れ葉をかさかさ言わせながら。

 踊って、通り過ぎていった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ