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「エミリアさま?大丈夫ですか?」
飛び出してきたエミリアの勢いに戸口に立っていたアギトが驚いて声を掛けてくる。
「アギト、お願いがあるのです。どこかで桶に一杯のお水を調達してきては下さいませんか」
「お水、ですか?分かりました」
「わたくしは店の中にいますので、お願いします」
すぐに戻ってきたエミリアを見て、ミレアはおや、と不思議そうな顔をする。エミリアはカウンターに近付くと、自らの髪飾りをはずしてカウンターの上に置いた。綺麗にまとめあげていた髪が肩に落ちる。
「先程いただきました飲み物の料金です。わたくし、お金を持っておりませんのでこれでお願いいたします」
「……これじゃあちょっともらいすぎだね」
髪飾りを一瞥し、鼻を鳴らすミレア。
「お店を少し汚してしまうご迷惑料も込みということでお願いいたします」
と、そこに水の入った桶を持って店に飛び込んでくるアギト。
「ありがとう」
「なんだい、あんた」
声を上げるミレアを無視してエミリアは桶を受け取ると、そのまま蹲っているウリウスに近付き、思い切り桶の中身をぶちまけた。
「わあっ!な、な!?」
アギトがどこから水を調達してきたのかは知らないが、冬がすぐそこまで来ているというこの季節、水を頭からかけられたらたまったものではなかったらしく、蹲っていた人影は飛び起きた。
「お、御館様……?」
驚いているアギトに桶を返して来てくれるように頼み、エミリアは水を滴らせながら茫然とこちらを見つめているウリウスに近付き、自らのドレスのスカートでウリウスの顔をぬぐう。それだけで黒ずんでいたウリウスの顔が少しだけきれいになる。
「エミリア……なぜ?何故こんなところに?」
整えられていない髪は皮脂と埃にまみれている。以前は威厳を演出していた立派な口髭も今や見る影もなく伸び放題でだらしのない印象だ。どろりと濁った茶金色の瞳は、動揺のためか忙しなくあちこちを彷徨っている。
「あなたを迎えに来ました」
「…………なにを」
顔を歪めて小さくつぶやき、ウリウスは視線を逸らし、頭を抱え込む。
「帰れ。ここは君が来るようなところではない。わたしのことは放っておいてくれ」
「三日後に国王の前で弁明せなばならないこと、お聞きしました」
「誰からその話しを……あの二人か。今更無駄なことを」
「わたくしのせいですわね」
「いいや、君のせいではない。わたしは分かっていたんだよ、エミリア。権利を譲ることが何を意味するのか。だが、それで構わなかった。シオンも君もいなくなった今、ヴィングラー家は必要ない。もともとわたしには不釣り合いな場所だ。ルータスとロックが何を言ったのかは知らないが、わたしの中でこうなることはもう決まっていた。あの時言った通り、今後の生活は心配しなくていい。屋敷と少しばかりの財産は君の名義で残してある。だから、もう、誰に何を頼まれたとしてもわたしを気にかける必要はない」
それだけを言うとウリウスは疲れたかのようにうつむき、もう行ってくれ、とばかりにエミリアの手を振り払った。
このウリウスを見て、あのウリウス・ルイ・ヴィングラーだと分かる人はおそらくいないのではないだろうか。エミリアの前で膝を抱えているのは覇気のない、厭世感にまみれた、しょぼくれた初老の男。
そうか、疲れたのか。
耐えきれないほどの重圧に耐え、ウリウスも常に許容量ぎりぎりだったのかもしれない。そのうえ一人息子には家を捨てて行かれ、長い間自分を省みることのなかった妻には離縁を突きつけられて、とうとう許容量を超えてしまったのか。
ゆっくりとエミリアは立ち上がり、ウリウスを静かに見下ろした。
本当に、もう駄目なのかもしれない。
この人も自分も、何もかも、すべてが遅かったのだ。
いつも見上げるばかりだった、自分の夫がこんなに小さく見えたのは初めてのことで、目から滲んだ涙がポロリと零れ落ちた。
「立ちなさい、ウリウス」
静かな口調で命令をするエミリアを呆気にとられた様子で見上げる。
「何を愚痴愚痴と下らないクダを巻いているのですか。さっさと立って、屋敷に戻り、酒を抜き、身形を整えなさい。お話はそれからにしましょう」
「話?話すことなど、なにも、ありはしないよ。君こそ、さっさと帰るがいい」
「いいえ。話すことはたくさんありますわ。ヴィングラー家の今後のこと、今までのこととこれからのこと」
愉快そうなかすれた笑いでウリウスはその身体を震わせる。
「今後のこと?君には全く関係のない話しだ」
「いいえ、関係は大いにありますわ。わたくしはいまだにあなたの妻です。財産をいくらわたくし名義にしようとも、ヴィングラー家の財産没収となった場合には妻であるわたくしの財産も当然没収されるでしょう」
「な。な、なん?だと?一体、何をしていたんだ君は!」
思わず立ち上がりエミリアに詰め寄ろうとしたウリウスがよろけて足をもつれさせたところに、エミリアが手を差し出し、その身体を抱きとめる。
「……なぜ、離縁状を出さなかった」
「出したくなかったからです」
自分の発する異臭を気にしてか、距離を置こうとするウリウスを逃すまいとしがみつく。
「全て失うことになる」
「いいえ。あなたの妻であるということだけは残ります。あなたが、わたくしのことをどんなに厭わしく思っていたとしても、単なる世間体だけの関係であろうとも。あなたに、手を触れてもらえない惨めな自分に耐えられそうもなく、離縁を申し出ましたが、たとえ名前だけのものであろうとも、わたくしは……あなたの妻で居続けたいのです。ようやくそのことに気がついた愚かな女ですが、そんな女に、もう一度やり直す機会を与えては下さりませんか」
つっかえながら、エミリアは言葉を紡ぐ。自分の心中を吐露するという行為は、思っていた以上に気恥かしい。拒絶されたらと思うと、恐怖で身体が震えるほど。それでも、もうこれが最後だと思えば。恥や外聞や自分のくだらないプライドなど捨ててしまえば、案外言葉を口にするのは簡単だった。
今更、と手を振り払われてしまうだろうか。
顔をあげて、金茶色の瞳を見るのが怖い。
長い沈黙の後、ウリウスの静かな声が、耳に届いた。
「何故、君に離縁状を託したのか、分かるかね。わたしが、出したくなかったからだ。君と縁が切れてしまうことが恐ろしくて、自分で出すことはとても無理だったからだ」
そこで小さく息をつく。
「君を、この腕に抱きしめたい気持ちがあるが、わたしのこの状態ではそれは憚れる」
「構わないですわ。わたくしが、その分、あなたを抱いて差し上げます」
水を含んだウリウスの身体に手を回し、エミリアはその胸に顔をうずめ、流れ出る涙を隠した。
ぎこちない手つきで、ウリウスの手がエミリアの背に回される。
「今更だが、その、わたしの身体は随分と臭うのではないか?」
広い胸に顔をうずめたまま、エミリアは小さく吹き出す。
「鼻がもげてしまいそうですわ。ですから帰りましょう。難しいかもしれませんが、わたしたちの息子のシオンのためにも、ヴィングラー家のために今からでもできることをふたりで考えましょう」
「シオンの?」
「はい。あの子がもしも、何か人生で躓いてどうしようもなくなってしまったときに、屋敷で笑って迎えてあげられるように」
「……………」
ウリウスは深い、深いため息をゆっくりとつく。
「ああ、そう、か。……そう、だった」
何か、ふっ切ったように顔をあげ、
「すまない、そういうわけだからわたしは帰ることにするよ」
「ふうん、そうかい。じゃあ、元気でね」
「ああ」
カウンターの奥のミレアに声を掛ける。ミレアは何でもないことのように普通に返事をする。エミリアの場所からはミレアの表情が読み取れなかったが、それでよかったのかもしれない。
いまだにしっかりと歩けないウリウスを支えながら、エミリアはよろめきつつも歩き出す。途中でアギトが手を貸してくれたので、店を出るときに振り返り、深々とお辞儀をした。ミレアは何も言わなかった。エミリアも。
頭を上げると同時に店を出て、それきり、エミリアはもう二度とこの店に足を踏み入れることはなかった。




