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店の中は薄暗く、恐る恐ると言った体でゆっくりと足を進める。テーブルは全部で10席もない。店の奥にはカウンターも見える。この店の規模が大きいのか小さいのか、こういった店に入るのが初めてのエミリアには良く分からない。
食べ物と酒の匂いと人の体臭と饐えたような正体不明の匂いが店全体に漂い、戸惑いを覚える。
想像していたのとまったく違っていた。清潔で明るいイメージとかけ離れたここは、場末の酒場といった言葉がふさわしく思える。来る店を間違えたのかと踵を返しかけたその時、カウンターの奥から声を掛けられた。
「誰?あんた?」
かすれた低い声に、思わず飛び上がりかける。良く見るとカウンターの奥に肥えた女がひっそりと座っているのが見える。
きついウェーブのかかった髪をそのまま下ろし、化粧気のない顔でこちらを睨むように窺っている。手伝いの女なのだろうか。
「こちらにミレア・マーダーさんがいらっしゃるとお聞きしたのですが、御在宅でしょうか?」
女は不躾にエミリアの全身を眺めまわして鼻を鳴らす。
馬鹿にしたようなその態度に面食らいながらも、辛抱強く返答を待ったが、いつまでたっても返事は帰ってこない。どうやら答える気はないようだ。
「ご在宅でしたらお呼びいただけませんでしょうか?」
仕方なく繰り返すと、
「何か用?ここはあんたみたいなお上品な人の来るところじゃないと思うけど」
お上品なという言葉は彼女にとってもちろん褒め言葉ではないようだ。初対面の女にそんな態度を取られる覚えはなく、さすがにエミリアも少々頭にきた。
「あなたには関係のないことですわ。わたくしはミレア・マーダーさんに用事があって参りましたの」
少しだけ語気を強めると、無表情のまま女が立ち上がり、カウンターに近付き、身を乗り出す。
「だから一体何の用?あたしがミレアだけど」
「えっ」
驚いてまじまじと相手を見つめ返す。
背丈はミレアのほうがエミリアよりも若干高いだろう。エミリアの二倍はありそうな二の腕やウエストの線はなかなかの迫力だ。十年以上想像していたたおやかなクランの花の人とは似ても似つかない容貌に面食らう。
もしかしたらウリウスはこう言った感じの人が好みなのだろうか。周りではあまり見かけないタイプだけれど。だとしたら自分など全く好みの範疇に入っていない。いまさらながら自分の貧相な身体を曝け出してしまったことに羞恥を覚える。
「なんだい。人の顔をじろじろ眺めて」
「あ、いえ」
慌てて視線を逸らす。
一体ここへ自分は何をしに来たのか見失いそうになる。愛人と対峙しに来たのではないのか。ウリウスと話をするために。
もう一度、顔をあげ、
「あの、わたくし」
「なんか飲む?」
「え?あ、はあ」
女はカウンターの内側で作業し、カウンターの上に乱暴に杯を置いた。
「ありがとう、ございます」
「ここは飲み屋だからね。営業時間外だけどさあ。金はきっちり取るよ。座れば?」
女の言葉に恐る恐るカウンターに近付き並べられていた椅子の一つにそっと腰掛ける。
「わたくし、エミリア・ルイ・ヴィングラーと申します。突然の訪問を」
「知ってる」
「え?」
「あんたが入ってきたときから分かったよ。ウリウスから聞いていた通りの人だったし。こんなとこにそんな恰好で来るような人って言ったらウリウスの関係者しかいないだろうからね」
「……あ……そう、ですか……」
ミレアの口からウリウスという名が自然に飛び出し、なぜかそれにひどく動揺する。ウリウスが自分のことをどんなふうにミレアに伝えたのか気になったが、そんなことよりも。ウリウスの愛人だというミレア・マーダーの口からいかにも呼び慣れた感じでウリウスの名を口にしたそのことのほうが。
心を落ち着けようと、杯に入って飲み物を一口口に含むと、その強い酒の刺激に思わずむせる。
「おや、お口に合わなかったようだねえ?」
咳き込むエミリアに愉快そうなまなざしを投げるミレアに咳き込みすぎて涙の浮かんだ眦を向ける。
どうやらミレアは自分に好意は欠片も持ち合わせてはいないらしい。もちろんそれはエミリアも同じだ。お互いに粗探しをしようと探り合うような視線を向け合う。
「失礼しました。突然お伺いしたのはミレアさんにお礼をと思いまして」
「御礼?」
「はい。主人のウリウスが大変お世話になった方だとかねがねお噂は耳にしておりましたの。いつか御礼をと思っておりましたが、機会がなく今日この日になってしまったことお詫びしますわ」
「別にあんたに礼を言われるようなことは何もしちゃいないけど」
「いいえ、ウリウスがこのようなところに来てしまうのも、すべてわたくしの至らなさからでしょうから」
エミリアは意識して口角をあげ、笑みを浮かべる。
「ふうん、自分が至らない妻だってことに自覚はあったんだね。でもさ、大体あんた、もう妻じゃないんだろう?離縁状を置いてきたって話だけど?」
そんなことまで知っているのかと唇が引きつる。
「はい、確かにお預かりしましたけれど、それはまだわたくしの手元にございます。ですからわたくしはまだウリウス・ルイ・ヴィングラーの妻、のエミリア・ルイ・ヴィングラーですわ」
「へえ。いざとなったら金蔓を手放すのが惜しくなったのかい?なーんにもしないでぜいたくな暮らしが出来るんだもんね」
「金蔓?そんな下品なこと、思ったこともございませんわ。あなたこそ、そうではなくて?」
「ああ、そうだよ。女手一つで子供育てるには何かと大変だからね。援助してくれるっていうなら喜んで受けるよ?お上品なこと言ってたって生活できないからね、こっちは」
「…………」
エミリアは泣きたいような気持で唇をかむ。金蔓などと思ったことなどないけれど、傍から見たらそう見えるのだろうか。それともウリウスがミレアにそう言ったのか。
「ウリウスと、あなたは一体どういったお知り合いですの?」
「さあて、一体どういった知り合いだろうねえ?なーんにも聞いてないのかい?一体何年夫婦をやってきたのか知らないけどさあ。ウリウスが喋ってないことをあたしがしゃべるわけにはいかないしね」
嫌な女。
さっきからエミリアが触れて欲しくないところばかりを的確にえぐってくる。
「でしたら、直接ウリウスにお聞きしますわ。あの人はどこにいるんですの?」
怒りをこらえながらにじみ出る腹立たしさに音を立てて椅子から立ち上がるエミリアに、全く動じもせずにミレアは顎をしゃくる。
「どこって、いるじゃない、そこに。あんたが入ってきたときからずっとさ」
「……え?」
ミレアが顎で指した場所に恐る恐る視線を向ける。
目を凝らすと、テーブルとテーブルの隙間、壁際の薄暗がりの中に人影が蹲っている。
「もうさあ、いい加減営業妨害なんだよね。いつまでも飲んだくられてると。こないだもふたりの男が訪ねてきたんだけど追い返しちゃうし。その二人が言ってたんだけどなんか大変なことになってるそうじゃないか。面倒事はごめんだよ。あんた、妻だっていうならちゃんと連れ帰ってよ」
「…………」
なんという言い草だ、と憤りを覚えてミレアを睨みつけると、意外なことに先程までのうすら笑いを浮かべてはおらず、真摯なまなざしでエミリアを見ていた。
もしかして、彼女なりに心配しているのだろうか。
そうっと人影に近付くと、途端に据えた臭いと酒の臭いが鼻につく。
ここに入ってきたときの異様な匂いはどうやらウリウスから発せられていたものらしい。
蹲ったウリウスはピクリとも動かずに眠っているようだ。
驚いたことにウリウスの格好はエミリアと最後に別れたときのままだった。あの時から着替えもせずにいたのか。全身が薄ら汚れて異臭を放つウリウスはエミリアが知っているその人とは全くかけ離れていた。
嫌味なほどにすべてにそつがなく、気が利きすぎるほどだった。他人に不快感を与えるような姿を一度だって見たことがない。いつも身ぎれいにしていたし、着ているものもセンスのいいものだった。それが今や見る影もない。
「ウリウス?あの、起きてくださいませ」
悪臭に顔をしかめながら手を伸ばし、うずくまる影を揺さぶる。触れた衣服は何故なのがしっとりと湿ってべたついている。
何の反応も示さない影を少しだけ力を込めて揺さぶると、小さく呻き、エミリアの手を虫を追い払うかのように振り払った。
振り払われた時にぶつかった手の痛みに、しばし呆然とする。
こんな態度を取られたのは初めてだった。いつも紳士的で、自分には声すら荒げたことのないウリウスが、今や呑んだくれたゴロツキだ。
こんなところを見たくて来たのではない。
こんな彼を知りたかったわけではない。
耐えられなくなり、立ち上がると、扉に向かって駆け出す。
「お帰りかい?」
後ろから投げかけられたミレアの声に振り向きもせずに店を出た。




