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馬車はほどなく一軒の建物に着く。ウリウスに促されるまま大人しく従い、建物の一室に通される。薄暗い部屋には甘ったるい香が焚かれ、部屋全体がぼんやりと形のないもののように見える。変わった一室だ。部屋におかれているのは大きなベッドと小さなサイドテーブル。その上で焚かれていた香はクランの匂いによく似ていた。
一緒に置かれていた水差しの中身を香の上にぶちまけると断末魔の悲鳴のように細い煙を一筋残して、消えた。サイドテーブルは水浸しで、こぼれおちた水が絨毯に吸い込まれていく。
「今ドレスを用意させている。少し待っていてくれ」
そうか、流石に今回の出来事は想定外だったらしい。ちょっとだけ愉快な気持ちになり、ベッドに腰かけたウリウスの前に立つ。
無表情に自分を見上げるウリウス。いつも、この人のこんな顔を見てきた。というかこんな顔しか見た覚えがない。でも、多分自分も同じだ。鏡のように自分たちはお互いに同じ表情で、お互いを見ている。全く共通点のない壊れた夫婦だったというのに。
いつでも冷静沈着で事務的なウリウスに覚える苛立ちを、もしかしたら彼も自分に覚えていたのかもしれない。
シワだらけのドレスに手をかけ、ゆっくりと脱ぐ。時間をかけ、薄絹を一枚一枚剥がしていく。下着姿になると、それにも手をかける。どうせウリウスのことだからドレスから下着一式装飾品に至るまですべて揃えてくるに違いない。今身に付けているものは何も要らない。
思い返してみるとウリウスに裸体を見せたことは一度もなかった。
昔は羞恥の気持ちが強すぎていつも暗闇で、できるだけ肌を見せないように隠しながら抱かれていた。
それなのに、今、エミリアは一糸まとわぬ姿を堂々とさらしている。
金茶色の瞳を静かに受け止め、エミリアはウリウスの頬に手を伸ばす。
まるで腹を空かせた二匹の獣だった。箍が外れた野生動物のようにお互いを貪りあう。先程まで身体を苛んでいた鈍い痛みはいつの間にか快楽になりかわり、身体の芯を熱くさせ、さらに貪欲さを増す。
まだ完全に乾いていない引っ掻き傷に舌を這わせると、幼いころうっかり舐めてしまったなにかの味を思い出す。何かを舐めたり口に入れるのは、本能に近い衝動なのか。考えることを放棄してしまった獣は競い合うようにお互いのあらゆる場所を舐めてしゃぶる。
自分がこんないやらしい女だと、今の今まで思ってもいなかった。
多分、この香りのせいだ。頭の芯がしびれるほどの甘い香りがクランの女を連想させる。
それがよりいっそうエミリアの感情を揺さぶり、声をあげさせた。
眠っていた訳じゃない。ただ、ふりをしていただけだ。肉食獣が存分にむさぼりつくしたあとの満たされた気だるさに似た気持ちで。全裸のままうつ伏せているエミリアの体に肌触りのよい布がかけられ、隣にいたウリウスが身を起こす。
ウリウスが身支度をしている音だけが部屋に響く。
何か、言ったほうがいいのだろうか。ぼんやりとした頭で考える。何を?
身支度を終えたのだろう、ベッドがきしみ、少し冷たい掌が目を閉じたエミリアの頬にかすかに触れる。
彼の手がいつも少しだけ冷たいことに、エミリアは初めて気付いた。結婚してもう十年以上たっているのに。
「エミリア、起きてくれ。ここは君一人で置いておける様なところではない。馬車まで送ろう」
「…………」
緩慢な動作でゆっくりと眼を開き、のろのろと上半身を起こすエミリア。ベッドの端に新しいドレスや下着が奇麗に並べられているが、一瞥しただけで一向に手に取ろうとしないエミリアに業を煮やしたのかウリウスが代わりに一つづつエミリアの身体につけて行く。下着を着け終わると、香油まで塗り込まれた。身体に残っていた情欲の残滓のようなものが香油の香りによってかき消されていく。
性的な感情の一切感じられない手つきで一心に全身に香油をすりこむウリウスを見下ろす。慣れた手つきをどう解釈すればいいのだろう。クランの女にも、同じことをしていたのだろうか。獣のようにむさぼり合い、情事のあとにはこんなふうに、大切なものを扱うかのように、同じことを。
突如耐えがたい苛立ちが湧き上がり、エミリアはウリウスの手を振り払うと、自らの手で手早くドレスを身につける。鏡台のない部屋だったので、ウリウスから距離をとった端に腰掛け髪を梳かし、身支度を整える。どうにか見苦しくない程度になるころ、ウリウスが静かに丸めた書簡をエミリアに手渡す。
「わたしの署名は済ませてある。あとは君が署名をし、好きな時に出せばいい。ソーフヒートの屋敷も君の好きにしていい。売るなり住むなり」
エミリアは動かなかった。
正確にいえば動けなかった。
望んだ結末だったはずだ。こうも簡単に決着がつくことだとは思ってもいなかったが、自分が踏み出した一歩だったはずなのに、いざ踏み出した場所は何もない荒野で、恐怖で身体がすくんでしまったかのような。
手にした書簡がとてつもなく重いものに感じられ投げ捨てたくなった。
何か言わなければいけないのではないか。ここでもまたある種の焦燥感に駆られる。
「行こう」
視線を書簡に落としたまま、ウリウスに促され、立ち上がる。
薄暗い廊下を抜け、外に出るとすでに辺りは薄闇に包まれていた。
「エンリには帰りが遅くなると使いを出しておいた」
「あなたは……行かないのですか?」
エミリアを馬車に乗せ、その場に佇むウリウス。
「わたしはここで」
思わず伸ばしかけた手を、ウリウスは優しく握った。
「生活の心配ならいらない。君が今まで通りの生活を送れるように手配は済ませてある。安心してほしい」
そんなことじゃない。そんな心配をしているのではないと言いたかったが、言えなかった。そういうことを素直に口に出せていたら多分こうはならなかった。
「すまなかった」
別れ際、頬に口づけをする際、小さくかすれた囁きがエミリアの耳に届いた。
これだけは結婚以来欠かさなかった送迎の約束事。どちらからともなく決められて、いつの間にか恒例となった。
「行ってくれ」
ウリウスが傍に立つ御者に言葉を掛ける。
ドアが閉められた。
「…………」
何か、言いたかった。何かを言わなければと思った。
けれど言葉にはならないまま、馬車が出発する。
ウリウスの長身が、遠ざかるに従って闇にまぎれて行く。
視界が歪み、涙が頬を濡らす。
無関心が辛かった。優しい言葉が欲しかった。優しく抱きしめてほしかった。拒否することで関心を買いたかった。冷たく対応することでどこまで許してもらえるか知りたかった。
恋になるかもしれない、とあの日、夜のバルコニーで思った。金茶色の瞳に見つめられたときに。だから求婚を受け入れた。この人のことを好きになることがあるかもしれない、と。でも違った。多分初めて彼を視界に入れたあの瞬間から、自分は彼に恋をしていたのだろう。そしてその恋はいつまでも実ることなく片恋のまま終わりを迎えてしまったのだ。
号泣した。
人目もはばからず、声をあげて泣き崩れる。
エミリアの声は馬車の車輪の音にかき消されて誰の耳に届くこともなかった。




