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チルチルチルリット  作者: けろぽん
<番外編>恋になるかもしれなかった
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 曇ったガラス窓から入ってくる光が薄暗い室内をぼんやりと照らしている。古びた調度品にうっすらと積もった埃がどことなく退廃した雰囲気を醸し出しているのにどこからみても非の打ち所のなく美しく整えられた場所よりも落ち着くような気がした。


「今日は、あまり天気が良くないですわね」

「うん、雨にならなければいいね。でも、雨になってしまってもわたしは構わないかな」

「どうしてですの?」

「そしたらエミリアを引きとめる口実になるだろう?」

「今日のヴォイドはなんだか変ですわ」


 返答に困るようなことばかり口にする。


「そうかなあ?まあ、舞い上がっていることは確かだけど、うん確かにエミリアと再会してからずっと変なのかも」 

「……わたくしもまさかヴォイドに会えるとは思ってもみませんでしたわ。でも考えてみればそうおかしなことでもないですわね。幼いころ親しくさせていただいていましたから」


 エミリアの言葉にヴォイドは懐かしそうに目を細める。


「小さいころからエミリアは可愛らしかったからね。親同士が親しくしていたことは幸運だったよ、僕にとって」

「あら、わたくしも同じ年頃の子どもと遊べるのを楽しみにしていましたのよ」

「それは楽しみにしていた意味が違うよ。エミリアにとってわたしはただの友達だったのだろうけど。わたしの初恋の人だったから」


 心臓が小さく音を立てる。


「そんなことは初耳ですわ」

「そりゃあそうだよ、初めて喋ったんだから。もう会うことはかなわないと思っていたから墓場まで持っていくつもりだったけど、思いがけずに再会を果たせたからついでに告白するよ」


 冗談めかして言いながらも、ヴォイドの瞳は笑っておらず、エミリアは動揺を隠して努めて明るい声を出す。


「まあ、それならもっと早くに言って下されば。もしかしたら違う今があったかもしれませんわよ?」


 微笑みを見せながらも自分がうまく笑えているのか分からない。動揺をきちんと隠して平静を装えているだろうか。


「高嶺の花だと思っていたからさ。まあ、今となってはもう手が届かないくらいの高嶺に行ってしまったけど」

「大人になったら口も御上手になられたんですわね。わたくしなど高嶺にあっても忘れられてしまった花ですわ。誰もわたくしになど興味がありませんもの」

「そう思っているのは自分だけだ。自分がどれ程魅力的なのか分かっていないんだね。自分に焦がれている男が夜も眠れないなど想像したこともないんだろうけれど」

「…………」


 何故。こんな話になっているのか。

 いつもはもっと昔話を面白おかしく語り合っていたのに。この雰囲気のせいで笑いがぎこちないものになる。


「ミーサはこんな風にお休みを取ることが多いのですか?」

「いや、滅多にないね。今日はお孫さんの具合が悪いそうで、見ていないといけないらしい」

「まあ、もうお孫さんがいらっしゃるの?」

「そうらしいね」


 そう言いながらも年齢からいって驚くほどのことはないかと思いなおす。シオンがエミリアの歳で子供を持ったとしたら自分に孫がいてもおかしくないのだ。


 そう、もうそんな年でもあるのに、何をふらふらとしているのか。

 エンリの言うとおりだ。形だけとはいえ社会的地位のある夫を持つ身である。尻軽女と噂されても仕方のない軽率な振る舞いをしていることに気付きながらもあえて続けていることに何の意味があるだろう。


  もしかしたらここでの軽率な振る舞いがソーフヒートにいるであろうウリウスの元に届いてなにか変化がおこることを期待していた?

 生家に来てからすでにひと月が経過しようとしているが、エミリアの生活といえば場所が変わっただけでやっていることは何も変わらない。

 自分は一体何のためにここに来たのだろうか。

 進むべき道が見えない。未来も何も。暗闇の中一人放り出されたような不安しかない現実。誰でもいいから、差し出してくれた手にすがりつきたくなる。


「今日、エンリに怒られてしまいました。人の噂になるような行いは慎めと」

「それはまた、ずいぶんとしっかりした弟だね、エンリは。昔はエミリアの後をただちょこまかとついてくるばかりだったのに」

「ええ、でもエンリは昔からしっかりとした弟でしたわ。家の再興を誰よりも考えて。安心して家を任せておけます。わたくしももっと姉らしくしっかりしなくてはなりませんね」

「そうだね、彼はとてもよくやっている」


 エミリアはカップに残っていたお茶を飲み干し立ち上がる。


「ああ、いいよ、片付けなんか。それよりお代わりは?」

「いいえ、大丈夫です。雨になる前に御暇させていただきますわ。片付けくらいやらせて下さい」


 カップを持って台所に立つ。

 ヴォイドに背を向け、ついでのように言った。


「ここにくるのは今日を最後にしようと思います」


 ごとん。

 エミリアの手から滑り落ちたカップが大きな音を立てる。しかしカップの無事を確かめることなどできなかった。


「そんなこと言わないで」


 後ろから抱き締められ、耳元にヴォイドの息がかかる。

 突然のことに足が震え、その場で崩れそうになる。


「本当は嘘をついた。ミーサには休みを取らせたんだ。エミリアと二人きりで逢いたかったから」


 貧相に見えていたヴォイドの身体はこうやって抱きしめられると思っていたよりもがっしりとしているのが分かる。エミリアの身体がすっぽりと包みこまれてしまう。

 温かい、ぬくもり。

 もともと異性と触れ合うことなどほとんどなく経験もなかったエミリアは十数年ぶりの抱擁に自分を見失いそうになる。自分をこんなに欲してくれる人がいるなんて。


「こんなこと……、許されません」


 震えを押さえて必死に声を絞り出す。


「許されない?誰に?ここには誰もいないよ。わたしとエミリアの二人だけだ」


  ヴォイドの言葉が熱い吐息混じりにエミリアの耳朶に絡み付く。それがエミリアの身体の奥で忘れたふりをして封印していた部分を刺激する。

 なんて甘美な囁き。二人きり。誰も、いない。自分と、自分を欲している男がいるだけ。


 ごつごつとした男の手のひらで頬を撫でられ、背筋にピリピリとした感触が走る。首筋にヴォイドの唇が触れ、長年放置されたままのエミリアの女の部分が過敏に反応し、思わず小さな吐息が漏れる。


 そう、こんなこと特別なことじゃない。誰に許しを請うことでもない。結婚後に何度か言った夜会にもそういう男女が何人かいた。夫ではなく、妻ではない異性を伴い、周りもそれには触れない。公然の秘密の関係。そう、だって、ウリウスも、ウリウスだって、ウリウスが。


 十数年ぶりに夫以外の男の手がエミリアの乳房に触れたとたんに、反射的に身を捩ってヴォイドの抱擁から逃れる。


「やっぱり、こんなこと……わたくし、わたくしは……」


 混乱していた。ヴォイドから距離をとるように後ずさる。

 そんなエミリアを見てヴォイドは小さく苦笑し両手を上げる。


「ごめん、もうなにもしない、何もしないよ。そんなに怖がらないで」


 その腕にもう一度抱かれたかった。

 このままここにいたら、今度こそ自分を律することはできないだろう。


「やっぱり今日はもう帰ります」

「今日は?ではまた来てくれる?」

「……ヴォイド、わたくしは」


 エミリアの言葉を遮るようにヴォイドは手を伸ばしてきた。

 びくりと身体をこわばらせるエミリアを宥めるようにそうっと優しく髪に触れる。


「ずっと……こうして君に触れたかった。やっと、触れることが出来た」


 髪に触れた手が頬に降りてくる。優しい、優しいその手つきに、涙がにじむ。こんな風に優しくされたくない。虚しさしかない現状を変えてくれるかもしれないと、身も心も投げ出してしまいそうになる。そうしたらもしかしたら満たされることがあるのかもしれない。今よりも少しは楽になるのかもしれない。けれど、このままの状態でヴォイドを受け入れることはしたくなかった。


「来週、この時間にまたお伺いさせていただきます」


 エミリアの言葉にヴォイドはとろけそうなほど嬉しそうな笑顔を浮かべて見せた。


「来週、待ち遠しいよ。その時はもっとゆっくりしていって」


 無言のまま曖昧に笑みを浮かべて見せ、エミリアはダガール家を後にした。




 戻ってきたエミリアをターシャはどこか気遣わしげな表情で出迎える。イアンだけはいつものように屈託のない様子でエミリアの帰りを喜んでくれた。

 少しだけイアンの相手をしてリリイに疲れたので先に休むといいおいて自室に戻る。


 小さな机に向かうと、長い時間を掛けてウリウスに向けて手紙を書く。

 毎週送られてくる贈り物の御礼と辞退。そして離縁を申し出る手紙を。


 書き上げた後、何度も読み直し丁寧に封をして机に置く。ベッドに潜り込んで、夢も見ないで眠った。

 翌朝目が覚めた後、変わらず机の上に置かれていた手紙を手に取る。


 一晩で何か変化が起きるかもしれないと思ったが、心は意外なほどに穏やかだった。


 小さなため息をひとつつき、部屋を出てリリイに急ぎで出しておいてくれるよう手紙を託した。



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