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ヴォイドの屋敷はなるほど彼の言葉どおりの有様だった。庭はかろうじて雑草の処理はなされているが整えられているとは言い難く、屋敷にしても同様で、通いの使用人一人ではとても手が回らないのであろう、隅のほうには大きな埃りの塊もみてとれた。
ソーフヒートから送られてきた焼き菓子を手土産に訪れたエミリアをヴォイドは快く迎えてくれた。屋敷の有様に卑屈になることなく冗談交じりに屋敷を案内してくれた様にエミリアはむしろ好感を覚える。エミリアの周りの貴族は見栄を張ることをよしとしていて、それは時にとても滑稽なものとして彼女の瞳には映っていたから。
他愛もない話をして、小一時間ほどでダガール家を後にしたのだが、その時間は思いのほか楽しくてそれからは三日と空けずに通うようになった。エンリもターシャもエミリアのことを邪険にしたりしているわけでなく、むしろ気を使ってくれている。しかしだからこそ余計に肩身が狭いと感じることもあり、かといって他に行くあてなどないエミリアのいい気晴らしの場所でもあった。
その日も朝食を済ませた後でヴォイドの家に向かう支度をしていると仕事に向かう前のエンリが慌ただしくエミリアの部屋にやってきた。
「どうかしたの?仕事に行くのではなくて?」
「ちょっとその前に話しておきたいことがあってね」
「なにかしら?」
「こういうことに口を出すのはどうかと思ったんだけど、今日もダガール家に行くの?」
「ええ、そのつもりですわ」
「ターシャから聞いたけど、三日と空けずに行ってるみたいだけど」
「何が言いたいのかしら?」
エンリが来るまではヴォイドの家を訪ねるための服を気分よく選んでいたのだが、エンリの話に少々浮かれ気味の気分だったのが急下降する。
「姉さんが友人としてダガール家に行ってるのは理解してる。でもヴォイドは数年前から奥さん子供とは別居中で正式に別れるのも時間の問題だろうと皆知っている。そう言う家にウリウス・ヴィングラーの妻が出入りしているのは……人の噂になるのも時間の問題だよ」
「噂など……、わたくしにとってはどうでもいいことですわ。そう言うことに振り回されるのももうたくさん。世間がどう思おうが、ヴォイドとは幼馴染の友人として会っているの。エンリはわたくしから数少ない友人を取り上げるんですの?」
なにをむきになっているのだろうか。エンリに言葉を返しながらもエミリアの中の冷静な自分が皮肉に笑っている。エンリの言うことはいちいち尤もなのは分かっている。自分の行いが傍から見たらどう映るかということも。それでも。いやだからこそ、ダガール家の訪問をやめる気はなかった。
「同性の友人ならだれも何も言わないさ。大人としての分別を持った距離を取ってもらいたいということだよ。そもそもこんな話が義兄さんの耳に入ったらどうするんだい?」
どうするもこうするも、ウリウスが何かを思うことなどあるわけがない。エミリアの行動に関心などないのだから。たとえ、何か含む物を思うことがあったとしても、彼に何が言えるというのだろう。結婚当初から今までずっと自分を欺き続けていた、あの人に。
「ウリウスが知ったからどうだというの。幸せな家庭を築いているエンリにはわたくしたちの夫婦関係など想像もつかないでしょう。話はそれだけですの?」
固い表情でエンリを見やると、何とも言えない表情でエミリアを見ていたエンリはやがてあきらめたように視線を逸らし、
「ああ、それだけだよ。朝からすまなかった」
「いえ」
何か言った方がいいのは分かっていた。エンリも単に嫌味でこんな話をしたわけではないことも。それでも意地のようなものがあって、結局なにも言わないまま弟の後ろ姿を見送った。
「やあ、いらっしゃい」
出迎えてくれたヴォイドはいつものように優しい笑みを浮かべ、扉を開けてくれた。
「ミーサはいらっしゃらないの?」
「今日は休みなんだ。用事があるとかで」
「そう」
ダガール家唯一の使用人であるミーサは初老の婦人だ。これまでダガール家を訪ねたときは無愛想ながらも出迎えてくれて、茶を出したりともてなしもしてくれていたので、厳密に言うとヴォイドと二人きりという訳ではなかったのだが、今日は休みだという。
「…………」
どうしてこんなときに休みを取ったのか。出掛けにエンリとやりあったせいかなんとなく思うところがあり、居心地の悪い思いで屋敷に入る。
「これよろしかったら一緒にいただきませんか?なかなか美味しいお菓子なんですの」
気を取り直し、土産にと持ってきた菓子を差し出すと、ヴォイドは嬉しそうに受けとる。
「いつもすまないね。早速お茶をいれよう。座って待っていて」
「お茶ならわたくしがいれますわ。カップとポットはこちらですか?」
まさかヴォイドに淹れてもらって自分は座っているわけにもいかずに、エミリアは台所に立ち、カップとポットを用意して、暫し考え込む。
ええと、お茶の用意、お茶の用意?
何しろお茶を自分で用意したことはここ十数年なかったことだったのでその手順を思い出そうとするのに時間がかかる。
「いいよ、お嬢様は座っていなさい」
いつの間にか背後に立っていたヴォイドが笑いながらエミリアの手からポットを奪う。
ダガール家に通うようになってからヴォイドは時折エミリアのことをお嬢様と揶揄するように呼ぶことがあった。たとえばそれは今回のように普通は難なくできてしまうことに酷く時間がかかったりするときなどだったが、エミリアは正直なところ、ヴォイドからそう呼ばれるのが嫌いではなかった。
しょうがない人だねえ、君は。と、ヴォイドの優しいまなざしを向けられると彼の手のひらの中で転がされているような不思議な安心感を覚える。
「わたくしだってお茶くらい……」
淹れられますわと強く言いきれるほどの自信は全くなかったので曖昧に言葉を濁す。
ヴォイドが台所に立ち慣れた手つきでお茶をいれているのをぼんやりと見つめながら少々危機感を覚える。お茶のひとつも淹れられないのはちょっと考えものではないだろうか。
ふと、記憶にある少女が嬉しそうに頬を紅潮させながら笑っていたのを思い出す。
お茶を淹れてくれて、それがとても美味しかったのだ。正直に伝えると、さらに嬉しそうに、シオンに飲んでもらえるように練習したのだといっていた。
大切な人のために努力するその姿勢はほほえましくもあり羨ましくもあった。エミリアもそんな風に誰かのために何かをしてみたかった。
「さあ、どうぞ、お嬢様」
「ありがとうございます」
差し出されたのは無骨な形をしたカップ。ヴィングラー家では見たこともない頑丈そうであることだけが取り柄なカップはこの場によく似合っている。
「エミリアが来るたびにおいしいお菓子を持ってきてくれるから有難いよ。男のくせに、といわれるけど、甘いものが大好きなんだ」
「本当ですの?では今度はもっとたくさんお持ちします」
「嬉しいなあ、こんな繊細なお菓子はこの辺じゃあ食べられないからね」
持ってきたのは極薄く焼いたクッキーを甘いクリームで何層にも重ねたもの。少しの衝撃で粉々になってしまうので確かにソーフヒート周辺でしか売っているのを見たことがない。何年もこのお菓子はエミリアのお気に入りで、ウリウスから送られてくる荷物の中に厳重に梱包されて必ず入れてあった。
あら?
いままで何とも思っていなかったことがふと心に引っかかる。
何故こんなに送るのに手間のかかる物がいつも送られてくるのだろう?
自分がこのお菓子が好きなことなど知らないはずなのに。
いや、単なる偶然だろう。そもそもウリウスが荷物を見つくろっているかどうかも怪しいものだ。適当に使用人に送らせていると考えるほうが自然で、ならばお気に入りのお菓子が入っているのも納得だ。
ヴォイドは個包装された包み紙を丁寧に開きながら、
「なんだかこのお菓子はエミリアみたいだね」
「ええ?わたくしがお菓子ですか?」
「うん。綺麗で、繊細で、壊れやすい」
こちらを見つめながら菓子を口にするヴォイドになぜか自分が食べられているような錯覚に陥り、慌てて視線を逸らす。ただ、目の前で菓子を口にされているだけなのに、その仕草が嫌に艶めかしく意味をもつもののように感じられて。
いやだわ。
何でもないことに意味を持たせて一人で気恥かしくなるなど馬鹿げている。
心を落ち着けようとエミリアはゆっくりとヴォイドの淹れてくれたお茶を口に含んだ。




