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また、あの香り。
夢の中から覚めた後、どこからともなくクランの香りが鼻先をかすめた気がして、エミリアは朝食を済ませると庭に出た。
生家に戻ってきてからすでに二週間が経過している。
週末ごとに戻ってくる二人の子供たちとも挨拶を済ませ、ターシャとの関係も今のところ良好だ。週末になるたびにウリウスから送られてくる贈り物を心待ちにしているようで、長期滞在をむしろ喜んでいるかのようだ。
屋敷は建て替えられたが、庭はエミリアが子供のころからあまり変わっていない。一応手入れはされてはいるが、専属の庭師を雇っているわけではないようだ。
記憶にある場所に向かうと、クランの香りが鼻をつく。
甘ったるい、この香り。
もう時期は終わりなはずなのにここのクランは今が旬とばかりに咲き乱れている。
「痛ッ……」
指先の痛みに我に返ると、無意識のうちにクランの花をむしり取ろうとして棘が刺さったようだ。
匂いもきついし、棘もある。
本当に腹立たしい。
忌々しい思いでエミリアは屋敷に戻り、リリイに指に刺さったままの棘を抜いてもらう。
「大丈夫ですか?」
「ええ、うっかりクランに触れてしまって。あの花、危なくないかしら?イアンもいるのにあんな棘のある花」
「そうですねえ、クランは花にしか棘がないんですよ。花のがくの部分にだけ鋭い棘があるものですから、気付かないで花を摘もうとしたら酷い目に会うんですよね。でもそうですね、香りもきついし別の花を植えたほうがいいのかもしれないですねえ」
花にだけ棘があるなんて、なんていやらしい花だろう。
「ちょっとターシャに話してみましょうか。一度庭師を入れて花を植えかえてみるのもいいかもしれないですし」
夜になり皆で食事を囲んでいた時にエミリアはエンリとターシャにその話題を口にした。
「お義姉さま、実はわたしも前々から思っていたんです。もうちょっと庭に手を入れて明るい雰囲気にならないかって」
「簡単に言うな」
渋い顔のエンリに、
「でもエンリ、わたくしがこの家に暮らしていたころから庭は変わっていないし、そろそろ趣を変えてみるのもいいんじゃないかしら?お庭を明るくして、イアンも遊べるように広場を作って、テーブルを出してお茶を飲むのもいいかもしれないわ」
「素敵。お友達を呼んで小さなパーティを開きたいわ」
「そんな大がかりなことをするのは時間も費用もかかりすぎる」
瞳を輝かせるターシャにさらにエンリは渋面を作る。
「時間なんて。一流の職人たちを呼べば大してかかりませんわ。それに費用のことなんか心配しないで。ここにいる滞在費用だと思ってわたくしに出させて頂戴」
「そこまでしてもらうわけにはいかないよ。滞在費用なら十分すぎるくらいもらってる」
「そんなことないわ。その代わり新しいお庭作りにはわたくしも口は出させていただきますわ。ターシャとイアンとで色々考えるのも楽しそうですし。ねえ、イアン?」
「うん、僕も新しい庭がほしいよう」
口の端にソースをつけて元気に頷くイアンを見て、エンリは小さく笑みを浮かべた。すっかり父親の顔になったエンリにエミリアの口元も自然に綻んだ。
食事を終え、部屋に戻ってしばらくするとエンリが訪ねてくる。
「あら、どうしたの?」
「姉さん、さっきの話だけど、本当にいいのかい?義兄さんに聞かないで話を進めても」
「もちろんよ」
ウリウスはエミリアがお金を使うことには一度も渋ったり口を出してきたことはなかった。それがこの生家のことだとしても。ここの改築費用もエミリアが請うままポンと出してくれた。
そのことについて何か思うことはなかった。それは当初からの契約に含まれていることだから。契約通り、エミリアは何不自由のない生活を与えられている。不自由があるのは心だけだ。
「……そう。ターシャもイアンもすごく喜んでいるよ。ありがとう。姉さんはまだしばらくこっちに滞在するつもり?」
「ごめんなさい、迷惑を掛けているなら」
「いや、違うんだ、全然迷惑じゃないよ。実は姉さんがこっちに来てることを聞きつけた人たちが是非挨拶させてほしいって何度かせっつかれていてね。体調がすぐれないからって断ってたんだけど、今回その庭が完成したらお披露目ってことで人を呼ぼうと思って。良かったらそれに姉さんもでてほしいんだ。もちろん無理にとは言わないけれど」
そういったことは正直苦手なエミリアだが、滞在させてもらっている立場だし、弟のためだと思えばなんでもない。多分首都で催される会とは違ってこじんまりとしたものだろうし。どうせ皆が興味あるのは自分ではなく、夫のウリウスなのだ。いつまで夫婦でいるのかは分からないが。
「ええ、構わないわ。それなら早く取りかかったほうがいいわね」
「じゃあ、明日にでも心当たりの職人に声を掛けてみるよ」
翌日から慌ただしく始まった工事をエミリアはターシャとイアンと共に庭に出て眺めていた。
クランの花が職人の手によって無残に引き抜かれていく様をいっそ小気味よい思いで見つめる。
「お義姉さま、ここを広場にしてテーブルを置くのはどうかしら?」
「そうねえ、素敵ね」
ターシャの言葉に微笑みながら相槌を打つ。口を出すといったものの、そうする気は全くなかった。エミリアの希望ははクランの花をなくしてしまうことだけだったのだから、庭を広げようがテーブルを置こうが花を植えようがターシャの気に入るようにしたらいい。
屋敷を出て生家に閉じこもりやっていることと言えば花に八つ当たりすることくらいとは、われながら情けない。
イアンは男たちの仕事ぶりを見ているのが面白いらしく、いつまでも家に入ろうとしない。
「イアン、さあ、もう家に入りましょう」
何度もターシャが呼びかけるが、首を縦に振らないので、エミリアがイアンと一緒に庭に残ることにする。どうせやることなどないのだから。
「わたくしが見ていますからどうぞ用事を済ませて」
「でも」
「イアン、おばちゃんと手をつないで。もうすこし一緒にお庭を散歩しましょうか?」
「うん!僕、エミリアおばちゃんともうちょっとここにいるよ」
「まあ、そう?邪魔をしないようにね?」
よろしくお願いしますと頭を下げるターシャに笑みを返し、イアンの小さな手を握りなおしてエミリアは邪魔にならないように散策をする。
イアンの手は小さくて暖かい。子供の歩調はとてもゆっくりだ。歩くのが遅いせいもあるが、何か見つけるとすぐに足を止めて観察している。それは虫であったり葉っぱであったりするのだが、瞳をキラキラさせて懸命にしゃべりかけてくる小さな存在に胸が痛くなる。
シオンの手をこんなふうに握ったことがあっただろうか。息子とこんなふうに他愛のない言葉を交わした記憶すらない。
結婚して割とすぐにシオンを身籠り、十代半ばで出産したが、出産時の記憶がない。大量に出血したせいか、記憶があやふやであいまいなまま、はっきりと意識が戻ったのは出産して三日たってからだ。ひどく疲れていたせいか、産まれた赤子の顔を見せられても何の感情も湧かなかった。ひと月ほど、寝たきりの生活をしてようやく起き上がれるようになったころには死ぬ思いで産んだ実の子は人の子のように他人の腕の中で安らかに眠っていた。
何故、あの時取り戻さなかったのか。
若かったせい、疲れていたせい、ウリウスのせい。
本当は、違う。まるで他人を見るように自分を見てくる金茶色の瞳に傷つけられるのが嫌だったのだ。ウリウスと同じ、その瞳は何よりも冷たくなによりも恐ろしく、エミリアの心をえぐる。誰にも愛されていない現実を突きつけられる。
「イアン」
「なあに?」
「おばちゃんにイアンを抱っこさせて?」
少し不思議そうにエミリアを見上げた後で嬉しそうにうなずく。
小さな体を抱き上げる。
ターシャに愛され、エンリに愛され、幸福で膨らんだ柔らかな頬に自分の頬を押しつける。子供特有のにおいが鼻先をかすめる。
どうして、自分の子供にしてあげなかったのだろう。記憶にあるのは一度だけ。抱き上げたときに大きな声で泣かれた。そしてもう二度と抱き上げることはなくなった。自分が傷つけられるのが怖かったから。最後にシオンを抱いたのは今生の別れになるというその時で、その時はもうすでに息子には親よりも何よりも大切なものがあって、エミリアの手など必要ではなくなっていた。
胸が苦しい。
もうとうに手元から離れてしまった大切なものを思って、エミリアはにじんだ涙を隠すようにイアンの小さな身体をしっかりと抱きしめた。




