別れと挨拶
屋敷の前の広場には立派な箱馬車が扉を開けて停まっている。御者がわたしを見て無言で頭を下げる。
すでにわたしの荷物は箱馬車の中に置かれていて、開いた扉からそれが見えた。
ちらりと見えた中はまるで小さな個室のようになっていてとても居心地がよさそうだが初めて箱馬車に乗るというのにわたしの心はまったく弾まない。これに乗ってウランゴート家と言う全く会ったことのない貴族の家に行き何日か滞在して王宮に行くことになるのかと思うと緊張で嘔吐きそうになる。
扉の横には無表情にイリヤが立っていて、ウリウスとイリヤのたった二人に見送られる形でわたしの屋敷での生活は終わりらしい。
「ではチルリット、気を付けて」
「……いろいろお世話になりました」
早くわたしに馬車に乗って欲しいのがありありと見てとれる態度のウリウスに機械的に頭を下げる。
一応イリヤにもお世話になりましたと頭を下げて足を踏み出そうとした時。
「お待ちになってください」
屋敷から掛けてきた使用人はいつかエミリアのお茶会に誘ってくれたその人だった。
「なんだ」
「申し訳ございません、エミリア様、こちらです」
息を切らしかけてきた使用人は遥か後方からやや速足でやってくるエミリアを呼ぶ。
「エミリア?一体どうしたというのだ」
「わたくしにもお別れの挨拶をさせていただきたくて参りましたの。まあ、ずいぶんと急なお話でしたこと」
エミリアは意外そうな表情のウリウスに冷たい視線を送る。
「お別れの挨拶?」
「あなたはご存じないかもしれませんがそれなりに交流はありましてよ」
「まあいい、早くしてくれ」
エミリアと言いあう時間すら惜しいとでもいうようにウリウスが肩をすくめて手を振る。
「エミリア様、お世話になりました」
「そんなことはよろしいの」
エミリアはわたしの目前まで近付いてくると、使用人から何かを受け取り、わたしの首にずっしりと重いそれを掛けてくれる。
わたしの首に掛けられたのはたくさんの宝石がちりばめられたネックレスで、宝石の価値が分からないわたしにもたぶんとんでもなく高価なものだと分かる代物。
「あ、あの。こんな高価なものもらえません。エミリア様、わたし、前にシオン様のことを頼まれていたのに何もできずに……」
途中でわたしの唇にエミリアのしなやかな白い指が触れ、言葉が途切れる。エミリアが身体を寄せ耳元で囁く。
「わたくしからの餞別です。生活に困った時は遠慮なく売ってちょうだい」
身体を寄せられたときに鼻孔をくすぐった甘い香りに一瞬気をとられ、エミリアの言った言葉が耳を素通りする。
生活に困ったら?側室になるというのはもしかしたら貧乏な生活になることと同義なのだろうか。不思議そうにエミリアを見つめているわたしに艶やかな笑みを浮かべて。その美しさに見惚れた。
「別れの挨拶はすんだのかね?」
若干苛立ちを含んだウリウスの声にエミリアが身体を離した。
「では」
「すみません、これはこちらでいいんでしょうか」
一頭の馬を引きながら馬の世話をしているルカウドが厩のほうからやってきてウリウスに声をかける。
「なんなんだ、一体、誰が馬を持ってこいと言った。しかもこれはシオンの馬ではないか。今シオンはここにいない」
「え、あれ?おかしいな」
ルカウドは首をかしげながらいなないている馬を宥める。
シオンの馬……。
懐かしさにわたしは思わずその馬に近付いて首筋に手を伸ばし、意外に固いその毛に久しぶりに触れた。
この馬で花畑に連れて行ってもらって、帰りに置いてけぼりにされてことを思い出し、口元がゆるむついでに涙腺も緩む。
「ええい、もういい、チルリット、早く馬車に乗るんだ」
「御館様」
一体いつの間にそこにいたのかルルが制服ではない服を着用して大きな荷物を持って立っている。
ルルが制服でないところなど初めて見たので目を丸くしていると、
「突然で申し訳ございませんがわたくし今日限りお暇をとらせていただきます」
「何を言っているんだ、こんなときに。とりあえず今は忙しい。お前はシオン付きの使用人であるからシオンが戻ってきたら話を聞こう」
「数日前にシオン様付きではなくなりましたので、わたくしの役目は終わりました」
「勝手に終わらせるな。こんなに突然辞められてはあとの者が困る。ともかく今は忙しい。後にしてくれ」
「すでに引き継ぎは終えてあります。わたくしは雇用主に忠誠を誓った身でありながらそれに反することをしてしまいました」
ルルの言葉にウリウスの表情がこわばる。
「…………何をしたと?」
「ルカウドに馬を連れてこさせたのはわたくしです。シオン様に頼まれましたので」
「シオンに?」
「はい、そして、自分がここに到着するまで時間を稼げと」
は、とウリウスの口が歪む。
「今日この時間に出立するということはわたし以外誰も知らないはずだ」
「もちろんです。ですが、手はずを整えたものがおられます。わたくしは屋敷に出入りするすべてのものを把握しておりますので」
聞こえてきた軽やかな馬のひづめの音にその場にいた者たちの視線が集中する。
正門からまっすぐこちらにやってくるその影に、わたしの身体から力が抜ける。
「チルリット!」
馬車の辺りで馬からひらりと降りたシオンに身体を抱きしめられた。
もう二度とこの腕に抱かれることはないと思っていた。乾いた埃とシオンの匂い。
「シオン様」
声がかすれる。
う、と喉の奥が引きつったと思ったら堪え切れなくなった嗚咽が漏れてわたしは小さな子どものように声を上げて泣き出してしまう。
すごく、すごく心細くて立っていられないほど心細くて。
本当はわたしのほうこそシオンさえいてくれたらそれでよかったのだ。
何もできなくて他人に疎まれていたわたしを所有してくれたシオン。
世界中のどこにもなかったわたしに居場所を与えてくれたシオン。
そのシオンと引き離されたらわたしの居場所はまた世界中のどこにもなくなってしまう。
もう絶対離れないようにわたしはシオンの身体に手を回し、シオンも泣きじゃくるわたしの髪を撫でながら優しく抱きしめてくれた。




