最後の一日
頭がひどく重く、目が開きにくい。泣き過ぎて目が腫れあがっているからだろう。泣いてもわめいても朝が来る。世界はわたしの気持ちになど頓着せず回っているのだ。
眠ったのか眠ってないのかすら定かではなくベッドの上で窓の外がだんだん明るくなるのを眺めていた。涙は時々思い出したかのように流れたが止まらないほどではなくなっていた。
ぼんやりと空を眺めていると昔を思い出す。粗末な家畜小屋の隅で空を見上げていたころ。そのころに戻るだけだと思ったらなんてことのないような気もする。
ただ、シオンがいなくなるだけ。
「ふ……」
また涙がパタパタ音をたてて落ちる。
「チルリットさま」
声に顔を上げるといつの間にか枕元にルルが立っている。窓に目を向けると外はすっかり明るくなっている。
「温かいスープをお持ちしました」
「…………」
「お飲みください。飲まれるまでわたくしはここから動きません」
ぼんやりと首を振るわたしに有無を言わさずにスプーンを握らせる。
スープを一杯飲み干すのにかなり時間がかかった…のだろうと思う。時間の感覚がよく分からくなっていた。ルルは最初に宣言した通りわたしがスープを飲み干すまで無言のまま辛抱強く待っていた。味は全く分からなかったが少しだけ身体が温かくなったのを感じる。
空になったスープ皿をわたしの手からそっと受け取る。
「チルリットさま、今日一日あなたのお世話をするようシオン様から言いつかっております」
「もう、チルリットさまじゃないんです」
老婆のようにかすれた声。
「もうシオン様の所有物でなくなったわたしは単なるチルリットです…」
またもや大粒の涙がこぼれた。悲しいとかつらいとかいった感情がわき起こる前にシオンの名を出すだけで涙腺が壊れる。
「……いいえ。チルリットさま、わたくしがこんなことを言うのは非常に僭越なのですが、シオン様がされた行動はチルリットさまのためを思ってのことだということを忘れないでください」
「…………どう、いう…こと、ですか?」
わたしのためを思って?
その言葉はルルの優しい気遣いとしか思えなかった。
「それ以上は申し訳ございませんがわたくしの口から告げるべきことではないのです。さあ、入浴のお手伝いをいたします。立ち上がれますか?」
「……はい」
沼のそこを歩いているような気分だったがどうにか浴室までたどり着く。
「街で暮らすにはこの髪は目立つのでお切りしますがよろしいですか」
髪の毛のことなんかどうでもよかったので無言で頷く。
結局わたしの腰まであった髪は耳の下あたりまでバッサリ切られた。随分頭が軽くなったがただそれだけ。
「アリアさんのお店のあるところは治安がいいところですし心配はないのですが、王都は人が多く集まる故に近付かないほうがいいところもありますのでお気を付けください。勿論普通に生活する分には何も心配ありませんが」
ルルは街で生活するために必要なことをこまごまと並べ立ててくれているが言葉は意味のない雑音のようにしか感じられずにわたしはただただ頷くだけだった。
部屋に戻り荷造りを始めるがもともとわたしの荷物などないのですぐに終わる。ぼんやりとしているわたしに代わってルルが荷物をまとめてくれた。中に何が入っているのかすら興味がなかった。
「街で暮らすのに必要なものは一通りすべて向こうにそろえてありますから」
いらなくなった物なんかそのまま放りだせばいいのに。
何から何まで至れり尽くせりに用意なんかしてくれるとまたわたしは勘違いしてしまいそうになる。もしかしたらシオンの優しさにつけこんでここにとどまることが出来るかもしれないと。
みすぼらしい野良犬のように惨めたらしくシオンの前に情けない姿をさらせば彼はまたわたしに肉を与えてくれるかもしれないと。
「すみません、ちょっと疲れたので休ませてください」
「分かりました。いつでも食べれるように軽食を用意しておきますので」
起きていたら本当に今すぐにシオンの部屋に走って行ってすがって泣いてわめいてしまいそうだったのでわたしはベッドにもぐりこみ目を閉じる。
そうしたらシオンが考え直してくれるというのなら喜んでそうした。けれどもしも今以上にシオンに嫌われたり鬱陶しがられたりしたらと思うと何もしないほうがましだとも思った。
眠ってしまおう。
眠くなくても目を閉じて暗闇の中嫌なことを思い出さないようにすればいい。少し前までは簡単にできていたことだ。
次の日わたしはルルに連れられて屋敷を出た。
見送るものは誰もなく、わたしは一年近く過ごした屋敷をあとにした。




