暗い穴
翌日。
ルルが花が長持ちするようにきちんと始末してくれたおかげか、昨日帰って来た時は少し萎れかかっていた花も元気を取り戻している。
今日はシオンが忙しいのか朝食は一緒ではなく一人で朝食を終えて、入浴を済ませる。身なりを整えながら花を眺めているとルルがやってきた。
「チルリットさま、シオン様がお呼びです」
「え?はい、分かりました…」
いつもはベルでわたしを呼ぶのに?ベルが壊れたのだろうかと不思議に思いながらも急いでシオンの部屋に向かう。
扉をノックし、シオンの返事を待ってから部屋に入った。
シオンは書斎机に座っていた。珍しく本も読んでいない。
「シオン様、おはようございます。ルルさんから呼ばれたのですがベルが壊れたのですか?」
机の上にはいつも二種類のベルが置いてある。ルルを呼ぶものとわたしを呼ぶもの。そのうちの一つ、わたしを呼ぶベルが見当たらない。
「いや。もう必要がないから処分した」
「?」
必要がないとはどういうことなのだろうか。小首を傾げるわたしを一瞥する。
「今日からもうお前は僕の所有物ではなくなる。だからもう呼ぶことはない」
「え……」
心臓が大きく跳ね上がる。
「あ、あの、それはどういうことですか」
絞り出すように出てきた言葉は自分でも情けなくなるくらいに震えていた。
「その通りの意味だ。お前の今後については父上にもちゃんと話はつけてある。屋敷を出て街で暮らせ」
足が震える。
街で?街で暮らす?
屋敷を出て?
シオンから離れて?
「い、いや、です……」
「いや?嫌とはどういうことだ。そもそもお前に選択権があると思っているのか?」
「で、でも、わたし、無理です…。街で、孤児院で暮らすなんて」
「孤児院ではない。アリアのところだ。アリアも了承している」
アリアの?
昨日のやり取りが頭をよぎる。シオンがアリアに前に頼んでいた件と言っていたが、そのことなのだろうか。前からシオンはそんなことを考えて、昨日アリアのお店に連れて行ってくれたのもそのためだったのだろうか。
「もちろんここに戻ることはもうないだろうし、今後一切ヴィングラー家とかかわりを持つことはなくなるからそのつもりでいろ。準備をしろと言っても荷物も大してないだろうから二日後にはここを出てもらう」
ヴィングラー家とのかかわりを断たれるということはシオンとのかかわりもなくなるということか。
視界がゆがんだと思ったら大粒の涙がこぼれた。
いきなり暗くて深い穴に放り込まれた気分だ。
「綺麗な服も立派な部屋もいりません。なんでもしますからここにおいてください…」
「泣くな。僕は泣く女が嫌いだ」
苛立った口調でシオンはわたしから目をそらすが、涙を止めようにもどうしようもなく流れ落ちる。
泣いてはいけない、と思えば思うほど。
「なんでもするといいながらお前に一体何が出来る?茶を入れるか?果物でもむくか?そんなのはすべてお前以外の誰かで事足りる。そもそもー…」
少しの逡巡の後。
「そもそもお前を所有物にしたのは僕の大嫌いな母上がお前を毛嫌いしていたからだ。子供じみた嫌がらせだが、もうそれにも飽きた。お前を所有する意味もない」
「う……」
思わず嗚咽が漏れた。駄目だ。
これ以上もう無理だ。
立っていられない。
「もう行っていい」
最後までシオンはわたしを見ない。
本当は駆け出して自分の部屋に戻りたかったが足の動かし方がよく分からなくなってしまってよろめくようにシオンの部屋を後にした。
部屋に戻りベッドに突っ伏して嗚咽をこらえる。
もしも泣いている声が隣室のシオンに聞こえてしまったらと思うと枕を押しつけて出来るだけ声が漏れないようにした。
涙はあとからあとからどうしようもなく流れる。
勘違いをしていたのだ。
ずっと手を引いてくれると言ったから。
嵐の夜にわたしのもとに真っ先に戻ってきてくれたから。
それは単なる気まぐれでシオンにとっては街で見かけたあの惨めな犬に肉をご馳走してやった程度のことだったのに。わたしはすっかり勘違いをして肉を持っていないシオンにつきまとい多分鬱陶しくなってしまったのだ。
わたしの何かを差し出せばこれまで通りここにいていいというのならわたしは喜んで差し出したい。けれどもわたしには何もない。差し出せるものと言ったら自分自身しかなくて、もうシオンにはそれは興味がない代物なのだ。
「う、え、……」
心がじくじくと血を流す。
痛くて痛くてたまらない。
どうしたらいいんだろう。
どうしよう、
どうしよう。
いつかこんな日が来るんじゃないかとおびえていた。
何もできないわたしに不相応な生活、そんなの長く続かないと思っていた。それでもわたしはできるだけ長くしがみついていたかった。シオンがいたから。シオンがわたしに触れてくれるから。わたしは少しだけ自分の身体が好きになった。シオンが所有してくれるから、自分の身体を大事にしようと思った。シオン以外の誰にも触れてほしくはなかった。
でももうあの冷たい手がわたしに触れることはないのだ。
布団の中にもぐりこみ膝小僧を抱えて丸くなる。このまま小さくなって消えてしまいたい。
その日一日わたしは布団の中で泣き続けた。ルルが何度か食事を持ってきてくれ呼びかけてくれたがまともに答えられたか記憶にない。




