世間
季節が移り変わろうとしていた。
朝晩の冷え込みはまだまだ厳しいものの肌を刺す空気の冷たさがだいぶ和らいでいた。
わたしは久しぶりに庭に出て冬果の木を見上げていた。冬果の季節も終わりなのかあれほどあった冬果ももう数えるほどしかなくなっている。
「…………」
木の幹に手を回す。
わたしの両腕に余るくらいの木の幹。
シオンの植えた木。
体調が回復してからシオンはとても忙しそうで、たまに食事を共にするくらいしか一緒に過ごすことはなくなっていた。食事中に交わす言葉もほとんどなく、忙しさのせいかいつも不機嫌そうな表情で気安く声をかけられる雰囲気でもない。
「何やってんの木に抱きついて」
声に振り向くとヒリトが立っていた。
結局冬果を取ってもらったお礼も約束をすっぽかしたお詫びもしないままだったことを思い出す。
「なんか久しぶりにチルリットと会えたな。元気だった?」
屈託のない笑みを見せるヒリトに、わたしはあわてて謝る。
「ごめんなさい。自分で約束しておいて冬果を取りに行かなくて」
「いやそりゃいーけど。何?また食べたくなった?取ってやろうか」
「ううん。いい。もうあんまりなくなったんだね」
「時期も終わりだからな」
「そう」
ヒリトは少し眩しそうにわたしを見て、
「実は親父からあんまり屋敷に出入りするなって言われてて」
「え、どうして?」
「チルリットと喋ってるとこ誰かが告げ口したみたい」
「?」
わたしと喋っているところを告げ口されるとなぜ屋敷に出入りするなという話になるのだろう。
不思議に思いながらもいつかエミリアから投げつけられた言葉を思い出す。あれはシオンが旅立つ日だった。周りからどんな風に噂されているのか知っているのかと言っていた。いやらしい、とも。どういう意味だったのか気にはなっていたが、シオンが慌ただしく出立していったのでそのまますっかり忘れていたけれど。
意味は分からないながらも自分という存在が蔑まれている雰囲気だけは伝わった。
「おまえ、さー」
ヒリトは言いにくそうに鼻の頭をかく。
「シオン様の何?御学友とか遠縁のお嬢様とかじゃなかったの?」
「……違う」
「だ、って、お前まだ10歳だろ?見た目は変わってるけど普通の子供じゃん」
「ヒリトがどういう風にわたしのことを聞いたのかは分からないけどわたしは普通じゃないよ。いらない子供だったのを拾ってもらってここに置いてもらってるの。学校だって行ったこともないし友達もいない」
「じゃあ今からだって普通の子供になればいいじゃないか。友達なんか学校に行けばすぐにできるし」
「…………」
普通の子供?
何となく違和感を感じて黙りこむわたしにヒリトが近付く。
「それに……俺たち、もう友達だろう?」
急にヒリトがわたしの手を取った。わたしより一回り大きく力強いごつごつした手。
心がすっと冷える。
「離して」
わたしの呟きが聞こえなかったのかヒリトは手を離さないどころかますます力を入れて握ってくる。
友達…、って、わたしは欲しかったんだっけ?わたしは学校に行きたかったんだっけ?生まれて初めて友達が出来たというのにあまり嬉しくない。ヒリトの言葉が全然心に響いてこないしとりあえず手を離してほしい。
「手を離して。わたしはシオン様の所有物だから」
「なんだよそれ、所有物って。俺からもシオン様に頼んでやろうか?チルリットを学校に行かせて、普通の生活を送らせてくれって」
「…………」
分からない。本気でそんなこと言っているのだろうか。ここに置いてもらっているだけでもありがたく思っているのに普通の生活を送らせてくれなんて言えるわけもない。
「僕に頼みたいことがあるなら今聞こうか」
不意に冷たい声が割って入ってきた。
はっと顔を上げるといつの間にかシオンがすぐそばに立っている。
「シオン様、どうしてここに」
「南棟に向かう途中でお前が見えた」
ヒリトの手から力が抜けたので素早く両手を抜き取りもう掴まれないように後ろ手に隠す。ついでに一歩ヒリトから距離を取る。
「…………」
おそらく間近で顔を見たのも喋るのも初めてなのだろう、何となく気圧された様子のヒリトをシオンは冷たく一瞥し、
「言いたいことがないのなら僕はもう行くが。いろいろ忙しい」
背を向けようとするシオンに、
「あの、チルリットを所有物にしてるって本当ですか。おかしくないですか」
「別におかしくない」
「だって、チルリットは人間ですよ。物じゃない」
「答える義務などどこにもないが馬鹿にも分かるように説明してやるとチルリットの衣食住のすべての面倒を見ているのが僕だから僕がチルリットのことを所有物にしようがペットにしようがお前に口を出される筋合いなどどこにもない」
「そんなん、おかしい……!シオン、様はチルリットが周りでどういう風に噂されているのか知っているんですか」
「いいや。知らないが想像はつく。だがそれがどうしたというのだ?」
ぎりぎりと音がしそうなくらいヒリトが悔しそうに歯を食いしばる。
「あんたはいいだろうけどチルリットが可哀そうだろう!」
感情が高ぶりすぎたのがいきなりシオンをあんた呼ばわりしだしたヒリトに驚く。このままでいくとそのうちシオンに掴みかかるのではないだろうかと危惧するほどに。
「ヒリト、やめて」
どうしていいのか分からなくなった。ヒリトはなんでシオンにこんなことを言うのか。わたしはそんなこと望んでいない。
「シオン様、こちらでしたか。御館様がお呼びです」
屋敷のほうからルルが近づいてくるのが見えて正直ほっとした。
「今行く」
「チルリットのことを思うんなら、きちんと学校に行かせて普通の生活をさせてやれよ!」
シオンの足が一瞬だけ止まるがすぐに振り返りもせずに行ってしまう。
入れ違いにルルが厳しい顔をしてやってきた。
「何かあったのですか?ヒリトの声が聞こえてきましたがシオン様に対してされてよいことだとは思えません」
「別に…俺が直接雇われてるわけじゃねーし」
「そうですか。では明日からテイトには暇を申し渡しましょう」
「え」
「……とこう言い渡されてもおかしくはありません。己の立場もわきまえられないほど子供だというのならば今後一切屋敷敷地内の立ち入りを禁じますので肝に銘じておきなさい」
「……分かりました」
「待ってください、わたしももう戻ります」
立ち去ろうとするルルを呼びとめ、小走りに駆けよる。冷たいようだが今はヒリトと一緒にいたくはなかった。
まるでわたしの代弁者のようにシオンに喰ってかかるヒリトに少し腹も立てていた。多分彼はわたしのためを思って言ってくれたのだろうということは分かるが、はっきり言って大きなお世話だ。
「ルルさん、わたしの噂って何か聞かれてますか?」
並んで歩きながらわたしが聞くとルルは困ったような顔になり、
「ヒリトが言ったのですか?」
「詳しいことは言いませんでしたが」
「チルリットさまが気になさることではありません。世間というものはいろいろ想像したがるものなのです」
世間。
わたしの今の世界は非常に狭い。わたしの部屋とシオンの部屋、浴室とたまに庭。そして関わる人と言えばシオンとルルと…片手で足りるほどの人しかいない。世間といったものが一体わたしの世界のどこに存在しているのかは茫漠とし過ぎていてさっぱり分からなかった。




