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まずは始まり

 うっすらとはいえ、空の全てを雲が覆い尽くしている。この分では常よりも早く夜が訪れてしまいそうだ。


 とはいえ、行き交う人の中に特に帰路を急ぐ様子は見られない。夏至を過ぎたが日はまだ長く、またこうも蒸し暑くては、街を静けさが闊歩する時刻は当分先になるであろうことは、ほら、大通り脇の歩道を駆けている小学生にすら解りきっている。


 道路は渋滞気味だがこれからもっと混み合うだろうし、コンビニの前に傘は並べられていない。


 居酒屋の従業員はクーポンを配っているし、休憩をとっていた店の札も『営業中』にひっくり返された。


 つまり、何かを思わせる予兆なんてどこにもなく、まるでいつもと変わらぬ日常だった。


 そんな日常を作る背景として、ランニングをする老人、無闇に広がって場所をとる学生達、荷物を籠に満載した自転車とそれを押す女性、上着を脇に抱えて汗を拭くサラリーマン等が、肌に纏わりつく暑さの中を泳いでいた。






 俺の人生を一変させる出来事が起こった日の事は、今もよく覚えているし、これから先も忘れたりはしないだろう。


 その日、俺はいつものようにマンガ研究会の部室で、部員共が語る新作アニメの品評に耳を傾けてから帰宅していた。


 なんだか遠回しな言い方だが、実のところ、俺はマンガ研究会には所属していなかった。あそこに所属していた連中に対して悪意は抱いていなかったが、さりとて共感もしていなかったのが、入らなかった理由だ。


 あの頃の俺への社会的な評価のリストには、間違いなくオタクの三文字がトップに入っていたと思う。


 少なくとも外形的な行動から見れば(そして社会的な評価とは、他者から見える表面以外の何物でもない!)俺は間違いなくオタクだった。漫画を学校に持ち込んで読み、深夜アニメの大部分を話題として共有でき、同人誌を書いている連中と親しく会話していたのだから。


 だがそれでも、俺は連中に、肚を割って話した事など一度たりともなかった。


 他の奴らに対するのと同じように、あくまでも社会に許容できる範囲の人物を装いながら、己の内に溜まる毒をひたすらに煮詰めていた。


 いまでもそうだが、俺はアニメが好きだ。それも名作と呼ばれる作品だけではなく、粗製乱造された代物もだ。

 

 安易なアニメに対する批判(“安易なアニメ”に対する批判でも、アニメに対する“安易な批判”のどちらでも良し)に『記号的だ』というものがある。


 それ自体は中々に反論しがたい。というか、端的に事実だ。


 しかし、この批判をする人間がしばしば陥っている思考停止がある。それは『記号的=悪』という考えだ。


 オリジナリティ(オリジナルであるかどうか判断できる程の知識も持ち合わせていない癖に)とやらが持て囃されるこの時代においては、記号的であるというのは、致命的と言わないまでもかなりの減点要素となる(偉大なるマンネリズムと何処が違うのか明確に主張できる人間なんてどれ位いるのかね?)。


 だが、芸術史でわざわざページが割かれるギリシャ彫刻など、記号のオンパレードだ。


 男も女もみんな素っ裸に彫刻してしまったもんだから、違いを出す為に特徴的な小道具を持たせて、ようやくこの彫刻が誰なのか示していた。


 極論すれば、付随する小道具を取り換えるだけで有名どころは軒並み揃えられる事になる。これが記号的でなくてなんだと言うのだろうか?


 ま、こんな事を迂闊に公言すると頭の悪い連中から非難囂々となるので言わないが(興味のある人は下の段を読んでね)、でも俺は逆にこう考えている。『記号的であるというのは、称賛に値する点である』と。



(ちなみに、俺の意見に対する反論は『ギリシャ彫刻はこれこれこういった理由で、記号的ではない』が正解。

俺の主張は『“記号的”であるが事が非難に値する』ならば『“記号的”であるアニメと同じく“記号的”であるギリシャ彫刻も非難すべき』ということ。よって俺の主張を論駁するには前の命題(文章)か、後の命題が偽(間違っている)であると証明すればいい。この場合、『ギリシャ彫刻はこれこれこういった理由で、記号的ではない』という命題を、現実に存在する証拠と無矛盾に論理を立てる事が出来れば、俺の主張を論駁できる。

更に言うと、前の命題を偽であると証明しても俺の主張を論駁できる。その場合『“記号的”という特徴によってのみ非難されているのではない』という主張(命題)を証明すればいい。こちらの方がむしろ一般的かもしれないけど、この命題を証明するには『アニメに対する批判が立脚する論拠の内、“記号的”を除き、且つギリシャ彫刻と共通しない論拠を提示する』義務が発生する。

俺が“頭の悪い”と馬鹿にするのは、その論拠を提示する事無く非難をするのから。議論という観点からみれば、駄々をこねるクソガキと同程度の知性しか持っていないという証明となる。

まあ、以上の文も相当に大雑把で、専門にしている人から見ればちゃんちゃら可笑しいだろうけど、興味をもった人がいたら、大学教授や弁護士といった議論を専門的に行っている職業の方から話を聞く事をお勧めする)



(という訳で話の続きに戻るが)そもそも記号とは英語でアイコンと発音する。これは、語源的にはアイドルと同じであると言われている様に、ある種、無駄を削ぎ落とした理想的な状態である事を含意している。


 つまり記号的な存在とは、理想的な存在であるとも言えるのだ(と、暴論をぶちかましてみる。ただこれって、逆説的に考えてみると、小説の類でのキャラクターの魅力とは行動原理そのものよりも、それに対する細かな設定にこそ宿ると考えられないだろうか? 例えれば、同じ熱血バカのカテゴリーに入れられようとも、肉付けが異なるからこそ、それぞれに魅力的なキャラクターになるといった感じに)。


 要は人間として安易に理想化されたキャラクターは、であるがゆえに理想的な人格であり、ある種の嗜好を持つ者達(別にただ一種類の嗜好ではないが)を誘蛾灯の様に引き付ける。


 例えば俺のような、人間をツブすのが大好きな連中を。


 ツブす。そう、俺は人間をツブすのも、人間がツブれていくのも、どちらも大好きだ。


 肉体を屠すのも、精神が潰されるのも、どちらもとぉっても大好きだ。


 いくら体が傷つけられようとも心折れない瞳が、


 肉体もろとも未来も押し潰されたような絶望の悲鳴が、


 心が喪われても惰性で生き続ける空虚な表情が、


 明日を無くしたせいで自殺する人間の背中が、


 俺は、大、大、だぁい好きだ!


 だが、この歓びが満たされる事は少ない。俺達が今こうして呼吸している現実は、そんな行為を易々とは許してくれないからだ。


 だから俺はアニメが大好きだ。キャラクターでいくら『遊ぼう』とも罪に問われることはないし、理想化された人間とは、そうでない人間よりもずっと大きな歓びを生み出すからだ。


 つまり俺にとってアニメとは、壊しがいのある玩具(の種)が溢れるほど仕舞い込まれた引き出しと同義だ。


 ね? アニメって素晴らしいでしょ?


 などと世迷言をほざいているが、俺は俺自身が異端である事を充分に理解している。この世界の多数派たる感性の持ち主達から見れば、俺は限りなくおぞましい人格破綻者として排斥されてしまう。そんなのはこちらとしても御免だから、誰に対しても同じように仮面の陰に隠れて接していた訳だ。


 その中でも、マン研の奴らとは比較的長い時間を共有していた(決して親しかった訳じゃない)


 理由の一つには俺がアニメを含むサブカル好きだった事だが、もう一つ理由があった。


 それは、奴らは意外と他者に対して寛容だったからだ。


 オタクとは所詮マイノリティだ。社会での支配的な価値観に背を向け、自らのコミュニティを維持して生きているオタク達は、外部からの攻撃に対しては譲歩しないが、自分達以外のコミュニティに対しては割と寛容だ(って言うか、冷淡だよね。互いに輪を造って内側だけを向いて話しているから、触れ合うのは背中だけなイメージ?)。


 そういった意味では、多数派であるが故に自身の価値観に疑いを抱かず、無自覚に同意を求めて来る他の連中はよりはよっぽど一緒に居て楽な存在だった。


 それでも俺とマン研の間には確実に溝が在ったが。


 どれほど入り浸ろうとも、俺から話題を振ることはなかったし、奴らが俺を積極的に誘う事もなかった。


 その扱いこそが俺にとって最も居心地が良かったのではあるが。


 そんなこんなで時間を潰してから、いつも俺は一人ぼっちで帰宅の途につくのが日常だった。


 そしてそれはあの日でも違いはなく、蒸し暑さですら例年通りの一日で、まったくもっていつも通りの日常として過ごしていた。これから起きる出来事を予想する事もなく。


 さて、長々と話し込ませて貰ったが、ここからようやく本題に入る(いやホントに長かったでしょ。ここまでおよそ三千五百文字。これから先はサクサク進む予定です)


 あの夏の日、いつも通りの帰り道。


 いつも通りに人畜無害を装いながら、やっぱりいつも通りに人間が降ってこないかと心のどこかで願いながら歩いていた。


 先に断わって置くが、別に俺が一番好きな死体が飛び降りだという訳じゃない。


 たしかに接地した衝撃で突き出した大腿骨や、放射線状にぶち撒かれる脳髄、勢い余って鼻と眼窩の区別もなくなった顔など、わくわくしてしまう点は多いが、所詮は原型を留めている死体でしかない。


 まあ、だからといってもっと派手な死体、例えば轢死体なんかを期待すると、漏れなく列車の遅延が付いてきてしまうのが難点ではあるのが。


 そんなこんなで、俺はそこら辺に人間が墜ちてくることや、あるいは目の前の歩行者を車道に蹴落とすことを夢想しつつ、信号が赤に変わるのを待っていた。


 そこに大きな破裂音が響いた、のだと思う。


 こんな不確かな言い方は、もはやその瞬間が遠い過去になってしまったから、というのではなく、


 その前後の出来事は当時の俺の知覚の限界を超えていたのが原因だ。


 その時のことを覚えている限りで表現すれば、


 まず耳に衝撃が来た。つまり俺はそれが何かの音だとは気づいていなかったわけだ。


 続いて反射的に衝撃が来た方向に顔を向けた。そして、凄まじい勢いで迫る白色に驚いて、


 今度は物理的な衝撃で体が吹き飛ばされた。


 正直なところ、痛みを感じる暇はなかったと言うべきだろうか。


 自分の体に何が起こったのか把握するよりも早く、俺は何か、推測するにビルの壁面だろうが、に叩き付けられていた。


 その衝撃で意識を失わなかったのが幸いだった、とその瞬間の俺も思ったし今でもそれは変わらない。


 なにせ自分がもうじき死ぬという確信を握りしめていられたのだから。


 事故に遭った俺はへたり込むような形で座っていた。感覚が意識にまで上ってこなかったが、目前に見える俺の下半身は膝と踵が同じ側にあったし、そこからの出血も起こっていた。


 俯いたままの頭を動かして周囲に目をやろうと望んでも、首はまったく動かなかったし、


 なによりも俺の後頭部は脳ミソもろとも頭蓋が砕かれて穴が開いていた。


 あの感触は、どれ程経とうとも色褪せない。


 損傷した部分そのものからの刺激は喪われたが、その周辺からの痛みを伴う熱さと、それとは逆の血が漏れ出るうすら寒さ。


 正反対の感覚が混ざらずに脳髄をかき乱す。


 触覚の無い脳ミソなのに、何が触れながらぬめり落ちて行くのまざまざと知覚し、


 その気持ち悪さに吐き気を催しても、肺の辺りに板でも差し込まれた様に、それ以上は昇ってこない箇所がある。


 普段なら有り得ない位置に重さを見出し、


 そこに血が溜まりつつあることを否応なく自覚させられる。


 ああ、もうじき俺は死ぬな。


 声を出さずに、思った。


 まあ、声を出したくても不随意筋による自発呼吸以上はやりようがなかったんだが。


 とにかく、俺はもう自分が長くないこと、それこそ数分から数秒の命しかないことは分かっていた。


 無念だったかと聞かれれば、そうだ、と答えよう。


 しかしそれ以上に、俺は納得していた。


 これが俺の結末か。神様とやらもなかなか粋な真似をしてくれるじゃないか、と。


 きっといつの日か、俺は腹に溜めこんだ毒で自分を殺し、そして他の奴らも殺していただろう。


 それは確定した未来であり、問題は時期でしかない。


 ならば、その前に俺を殺してしまうのが、正しい判断だ。


 同時に、僅かな慈悲で俺自身を割と俺好みの死体に仕立て上げてくれたのだ。


 本音を言えば、もっと腹腸が飛び散っているほうが好きなんだが。


 でも、これはこれで満足でもある。散らかし過ぎると掃除が大変だし、血は染みつくと落ち難いし。


 何より俺と違って普通の人間である家族には衝撃が強すぎるだろう。


『だからここいらで手を打つか』


 感覚が消えゆく指先を、随分と暗くなった視界に収めながら、俺は呟いた、つもりになった。


 もうとっくに口は動かなくなっていたが、呼吸も既に擦れてる。


『ああ、でも』


 残り僅かな力を使って、唇を笑みの形に変える。


『人間を殺したかったなぁ・・・』


 それを最後に、俺の意識は闇へと沈んだ。


 その時点で、俺の脳が意識を保てなくなったのか、それとも感覚器官からの情報処理が出来なくなったのか、


 どちらなのかは定かでないが、


 とりあえず満足だったのは、


 間違いない。


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