所長 4 「別れ」 最終話
翌日、一睡も出来ずに考えた末、浩介は、衣笠の申し入れを受けることにした。
それを伝えた時、衣笠は嬉しいと言うよりは、何故か、申し訳なさそうな複雑な表情を見せた。
「ありがとう、恩に着るよ」
そう言うと、深々と頭を下げる。
「やめて下さい! さぁ、頭を上げて」
頭を下げたままの衣笠の背に手を当てた浩介は、その余りの細さに、衣笠の病状が末期状態であること悟らざるを得なかった。
「ただし、ひとつ条件があります。ちゃんと治療を受けること。もし、それを聞いて下さらないのなら、この話はお受けすることはできません。いいですか? 私はあくまで、教授が留守の間の代理の所長です。病気をきちんと治して、早く戻って来て頂かないと、困りますからね」
そうきっぱり言う浩介に衣笠は、例の「悪戯を咎められた子供のような顔」をして
「はい、分かりました先生」
右手をちょっと挙げて、おどけて見せた。
衣笠から、所長の職を引き継いだ四ヶ月後の翌年二月、彼は帰らぬ人となった。
何度か見舞いに行った病室のベットの上で、彼は浩介に語ったものである。
「実はね、源一郎の亡くなったカミさんって言うのはね、私の初恋の人でね。その人を、彼と争って、負けたんだよ」
懐かしむように遠くを見る目に、今はもう、悟ったような穏やかな表情しか浮かんでいなかった。
「あの子供達は、彼女に良く似ているよ……。存外、私はロマンチストでね」
そう言って、やはり穏やかに笑っていた。
あの笑顔が、今も浩介の脳裏に焼き付いて離れない――。
衣笠の訃報を聞いたその日、一日の仕事を終えた浩介は、珍しく時間通りに自室に戻った。
その部屋を浩介は、衣笠が使っていた時のそのままの手を入れない状態で、使っていた。
白衣をソファーの背に脱ぎ捨てると、そこに座り込む。
疲れていた。
身体がではない、心が。
自分が他人の死にこんなにショックを受けるとは、浩介は思いもよらなかった。
外科医と言う職業柄、患者の死に立ち会う事は、別に珍しいことではなかったのだ。
十八の時、自分の母親が交通事故で死んだ時だって、こんな気持ちにはならなかった。
「お前は、冷たい人間だな……」
そう言ったのは、父親だったか――。
”酒を飲みたい” 初めてそう思った。
――こういう時人は酒を欲する物らしい。
「一番大きな本棚の右上の棚の奥に、とっておきのお酒があるから、良かったら飲んでね」
いつかの衣笠の言葉を思い出して、そこを探してみる。
ウイスキーのボトルが出て来た。
それを手に取ると、指先が何か小さな紙の様な物に触れた。
ボトルの裏側に小さなメモが貼り付けてある。
『柏木君。余り、飲み過ぎないように』
そう書かれてあった。
そしてその言葉の下に、衣笠の似顔絵が描いてある。
細長い顔にもじゃもじゃ頭、そして目尻の人の良さそうな笑いじわ。
それは、学生時代レポートの採点と共に良く描かれていた見覚えのある物だった。
「……また、あの人は、こう言う……」
子供のような所のある、ユニークな人だった。
余り激する事のない穏やかな、人を包み込むような優しい不思議なオーラを持った人。
目頭が熱くなる。
流れ落ちる物は、もっと熱かった。
自分は、こんなにもあの人を好いていたのか。
トントン!
ノックの音と共にドアが開いた。
浩介は驚いて振り返る。
そこには、彼よりも驚いた顔をした「二人の藍」が立っていた。
「先生!? どうしたの!? どこか痛いの!?」
音声多重放送のような二人の声が響く。
「いや、何でもないよ。大丈夫。ちょっと、目にゴミが入っただけだよ。どうしたんだい?」
ボトルを棚に戻し、二人をソファーに座らせる。
「二人だけで来たのかい? 前田さんが心配するだろう?」
「大丈夫よ! ちゃんと言って来たから!」
ね、とニコニコしながら、二人の藍は顔を見合わせる。
「はい、先生! これプレゼント!」
そう言って二人で一つの、可愛くラッピングされた小さな包みを差し出した。
――プレゼント? 今日は何かの日だったろうか?
「開けてみてもいいかい?」そう断って包みを開ける。
出てきたのは、手作りらしい、ハート形のチョコレートだった。
「は、……」
思わず笑いがもれる。
そうか、今日は 二月十四日 ”バレンタインデー”って 奴か……。
「ありがとう、嬉しいよ。先生、初めてもらったよ」
浩介は、二人の頭を代わる代わる、くしゃくしゃっとかき回す。
衣笠が、何故いつもこうしていたのか分かった気がした。
「一緒に食べようか?」
「うん!」
満面の笑みを浮かべる、二人の幼い藍達を見詰めながら、浩介は心の中で呟いた。
――教授、あなたの残した物は、私が守って行きます。
ご心配なさらずに、ゆっくり休んで下さい。
あのいたずらっ子のようなおどけた目をして、衣笠が、笑っているような気がした。
おわり
皆さんこんにちは。
蒼いラビリンスの番外編「所長」。全4話完結です。
何故「柏木浩介」が主人公の「拓郎」を差し置いて主役を張っているのかと言うと……。
単に、私のタイプだからです。(笑)
ここには、のんびりと番外編を単発で、更新して行きたいと思います。
お付き合い下さると、嬉しいです。