所長 1 「再会」
「自分が所長をしている研究所に来ないか?」
大学時代に世話になった恩師から、そう誘いがあったのは、夏も終わりかけた九月も後半。
ちょうど柏木浩介が、自分の仕事に疑問を持ち始めていた時だった。
その頃彼は、とある大学病院で外科医をする傍ら、大学の講師として教鞭を執っていた。
もちろん、自分の研究も続けてはいたが、勤務医と大学の講師、その隙間を縫っての研究では、 『何もやっていないよりはまし』と言った程度だったのだ。
生活の為には、どちらも辞める訳にはいかなかった。
だから、この申し出は願ってもない事ではあったのだ……。
「お久しぶりです衣笠教授。……少し痩せられましたか?」
そこは、日掛生物研究所の来客用の応接室であるようだった。
浩介がそこを訪れた時、懐かし気に目を細めてその老教授は破願した。
「良く来てくれたね、柏木君。元気そうで何よりだよ」
握手を交わしながら浩介は、記憶にある衣笠の容貌よりも大分やつれてる事が気になった。
量の多い強そうな髪に白い物が増えて、人の良さそうな目尻の笑い皺も、深さを増していた。
「本当に、どこかお悪いのでは……?」
心配気に尋ねる浩介に”悪戯を咎められた子供”のようなおどけた表情をして見せて
「お医者様には、隠し事は出来ないねー。ここに、ちょっとタチの悪い出来物があってね」
そう言って、笑いながら自分の胃のあたりを指差した。
昔からこの教授は、こう言うとぼけた所のある人だった。言ってる内容の深刻さが、そのホワンとしたムードにかき消されそうになる。
「教授!」
慌てて立ち上がろうとした浩介を、右手を軽く振って制して彼は静かに呟いた。
「まぁ、それもあってね、君を呼んだんだよ。出来れば、私の後任としてここの所長を引き受けて貰いたいんだが……」
一研究員として誘われたのだとばかり思っていた浩介は、面を食らってしまう。
驚いて、黙ってしまった浩介にニコニコしながら彼は、
「君は、いくつになったのかね?」
脈絡のない質問をして来る。
「……二十九、ですが?」
――自分の年齢と、今の話と何の繋がりがあるのだろう?
「そうか、付き合っている女性はいないのかね?」
ますます脈絡がなくなって来る質問に、教授の真意を測りかねてしまう。
「……いませんが?」
今まで、女性との付き合いがなかったとは言わないが、如何せん、仕事柄『そんな暇がなかった』のだ。いやむしろ、『そんな暇があったら、研究に当てていた』はずだ。
「ははははっ。君は相変わらずだねぇ」
何故か嬉しそうに言う彼に、浩介は思いの丈をぶつけた。
「笑っておられる場合ですか? 治療はちゃんとなさってるんでしょうね? これでも、外科医の端くれです。私で良ければ、治療に参加させてください」
矢継ぎ早に問い掛ける浩介に、笑顔のまま衣笠は穏やかに呟いた。
「治療は、もう余り意味がないんだよ。もう、すでに末期でね。……まぁ、”医者の不養生” って奴の見本だね。”因果応報” の方が当たっているかもしれないが……」
今までとは違う、どこか自嘲気味なその笑いに、彼の心の奥底にある物を垣間見た気がして、浩介は何も言えなくなってしまった。