婚約破棄されたので、殿下の代筆をやめました ~ところで殿下、あなたの"運命の恋"はすべて私の文章です~
「リゼット・ノアール! 今この時をもって、貴様との婚約を破棄する!」
王立学園の卒業記念夜会。
楽団の演奏がぴたりと止み、数百の視線が私に突き刺さった。
大広間の中央で声を張り上げているのは、この国の王太子エドガー殿下。私の婚約者──いえ、たった今、元婚約者になった方だ。
その腕には、ふわふわの金髪を揺らす小柄な令嬢がしがみついている。ミア・ベル男爵令嬢。ここ半年ほど、殿下がご執心だと噂の方である。
「貴様は冷たい女だ。十年もそばにいながら、一度として俺に心を見せなかった」
殿下は芝居がかった仕草で胸に手を当てた。
「だが、ミアは違う。俺はミアと手紙を交わす中で、はじめて本物の愛というものを知ったのだ!」
会場がざわめく。
ミア様は頬を染めて殿下を見上げ、私は──ええ、正直に申し上げて、少しだけ目眩がした。
だって、その手紙。
書いたのは、私ですもの。
◇
事の始まりは十年前、私たちが八歳で婚約した頃に遡る。
エドガー殿下は剣も乗馬もお上手で、見目も麗しい。ただひとつ、文章が壊滅的に書けなかった。
どのくらい壊滅的かというと、初めていただいたお手紙がこうだった。
『リゼットへ。こんにちは。おれはげんきだ。きみもげんきか。げんきならいい。エドガー』
八歳なら、まあ、許される。
けれど十二歳で書かれた隣国への親書の下書きが『このあいだはどうも。また来てください』だったとき、王妃様は真っ青になって私を呼んだ。
「リゼット、お願い。あの子の文章を、あなたが見てあげて」
見てあげて、はすぐに「直してあげて」になり、やがて「書いてあげて」になった。
式典の祝辞。議会での答弁原稿。諸侯への礼状。そして隣国ヴェルテとの外交書簡。
殿下の名で世に出る文章は、この六年、ほとんどすべて私が書いてきた。
誰にも言わない約束だった。王家の威信に関わるから、と。
私は王太子妃になるのだから、それも務めのうちだと思っていた。
だから半年前、殿下にこう言われたときも、断れなかったのだ。
「ミアに手紙を書きたい。お前が書け」
「……殿下。それは、さすがに」
「男爵家の娘に礼を尽くすのも、未来の王太子妃の務めだろう?」
務め、と言われてしまえば、私は書くしかない。
けれど、私にだって意地があった。どうせ書くなら、いい加減なものは書きたくない。
だから書いた。
ミア様からの返事を一通一通読んで、彼女が何に笑い、何に傷つき、何を大切にしているのかを考えて。
それから──私自身の小さな思い出を、少しだけ借りて。
去年の春、図書室でたまたま隣り合った、眼鏡に三つ編みの下級生がいた。名前も聞かなかったその子は、窓から見える中庭の花の名前を、ひとつずつ楽しそうに教えてくれた。
十年婚約していて、殿下と過ごしたどの時間よりも、あの午後のほうがずっと温かかった。
『あなたが中庭の花の名前をひとつずつ教えてくれた日から、あの庭を通るたび、僕は少しだけ物知りになった気がするのです』
……今思えば、あれは書きすぎた。
◇
「何か言うことはあるか、リゼット」
勝ち誇った顔の殿下に、私はゆっくりと淑女の礼をとった。
「婚約破棄、謹んでお受けいたします」
「ふん、殊勝なことだ」
「つきましては、本日をもちまして、殿下の代筆のお役目も終了とさせていただきますね」
一瞬、広間の空気が止まった。
「だ、代筆?」
「はい。祝辞、答弁、礼状、外交書簡、それからミア様へのお手紙。これまでお預かりしていたものすべて、明日からはどうぞご自分で」
「ば、馬鹿を言え! そんなもの、お前がいなくても──」
「ええ、きっと大丈夫ですわ。殿下なら」
にっこり笑ってみせる。
十年分の笑顔の中で、たぶん一番きれいに笑えた。
「それでは皆様、ごきげんよう」
背を向けた私の耳に、ミア様の小さな声が届いた。
「……代筆?」
◇
崩壊は、思ったよりずっと早かった。
三日後。隣国ヴェルテから、通商条約の更新について問い合わせの書簡が届いた。
殿下は自力で返書を書き、誰にも見せずに送った。
その内容が、のちに王宮の語り草になる。
『ヴェルテのみなさまへ。こないだの件ですが、だいたいそれでいいと思います。細かいことはよろしく。エドガー』
ヴェルテ側は、これを「条約の全面的な白紙委任」と解釈した。
外務卿が泡を吹いて倒れ、国王陛下が執務机を叩き割ったと聞いている。
さらに五日後、殿下は学園の講堂で、後輩たちへ激励の辞を述べた。
原稿なしで。
「えー、みんな、がんばれ。以上だ」の十一秒で終わったその演説は、「今年いちばん短い悲劇」として学生新聞の一面を飾った。
そして。
殿下はご自分の手で、ミア様に初めての手紙を書いた。
◇
「リゼット様。少し、お時間をいただけますか」
婚約破棄から十日。
ノアール侯爵邸を訪ねてきたのは、なんとミア様だった。
応接間に通すと、彼女は挨拶もそこそこに、一通の手紙を卓に置いた。
『ミアへ。げんきか。おれはげんきだ。こんどまたあおう。エドガー』
「…………」
「…………」
私は黙って天井を見た。
十八歳になっても、そこは変わっていなかったのですね、殿下。
「昨日、殿下からいただいたお手紙です」
ミア様の声は震えていた。怒りか、悲しみか、あるいはその両方か。
「リゼット様。あの手紙を書いていたのは、あなたですね」
言い逃れはできなかった。私は小さく頷いた。
「申し訳ありません。あなたを騙すつもりは──いえ、結果として騙してしまいました。どれほどお詫びしても足りな」
「違うんです」
ミア様が、私の手をがしりと掴んだ。
「私、中庭の花の話なんて、殿下にしたことはなかったんです」
「……え?」
「あれは去年の春、図書室で、隣に座った上級生の方にお話ししたんです。その方は、私のくだらないお喋りを、最後までちゃんと聞いてくださって」
私は、ぽかんと口を開けた。
「だから手紙を読んだとき、てっきり、あの方が殿下に私の話をして、殿下がそれを覚えていてくださったのだと……それが、嬉しくて」
「ま、待ってください。あのときの子は、眼鏡に三つ編みで」
「殿下のお目に留まってから、周りに言われて変えたんです。気づかれなくて当然です」
ミア様の大きな瞳から、ぽろりと涙がこぼれた。
「あの夜、代筆と聞いて、やっとわかりました。私が好きになったのは、あの手紙を書いた人です。殿下じゃありませんでした」
「ミ、ミア様、それは、その」
「リゼット様」
「はい」
「これからも、お手紙を書いてもいいですか。今度は、ちゃんと、あなた宛てに」
……困った。
十年の婚約で一度も向けられなかった種類の真剣な顔を、まさか恋敵だったはずの方から向けられるなんて。
「……お友達としてでしたら、喜んで」
ミア様は泣きながら、それはそれは嬉しそうに笑った。
◇
王宮では、ついに国王陛下が真相を知ることになった。
ヴェルテとの条約問題を収めるため、外務卿が過去六年分の外交書簡を洗い直したのだ。そして気づいた。殿下の筆跡と、書簡の筆跡がまるで違うことに。
問い詰められた殿下は、あっさり白状した。
「リゼットが勝手に書いていただけだ」と。
陛下の雷が落ちた。
王太子の位は「当面、預かり」。殿下は再教育のため、王都を離れた修道院付属の学舎へ送られることになった。
聞くところによると、最初の課題は「一日一通、自分の言葉で手紙を書くこと」だそうだ。
宛先は、いまのところ誰もいないらしい。
◇
「リゼット。ヴェルテ王国から、使者がお見えだ」
さらに数日後。
父に呼ばれて応接間に入ると、見慣れない青年が立っていた。
銀の髪に、落ち着いた灰色の瞳。胸にはヴェルテ王家の紋章。
「突然の訪問をお許しください。ヴェルテ第二王子、シリウス・ヴェルテと申します」
その名前には覚えがあった。この六年間、外交書簡の宛名として、何十回も書いてきた名前だ。
「条約の件でしたら、外務卿が──」
「いいえ。今日は、あなたに会いに来ました」
シリウス殿下は、懐から紙の束を取り出した。
見覚えのある便箋。見覚えのある字。
私が書いた、エドガー殿下名義の外交書簡だった。
「六年間、この手紙を読んできました。条文の解釈について書かれた一通にさえ、こちらの国の民への気遣いがあった。無理な要求を退ける一通にさえ、次に繋がる逃げ道が用意されていた」
彼は静かに言った。
「僕はずっと、この手紙の書き手と話がしてみたかった。そして先日届いた返書を読んで、確信しました。書き手は、エドガー殿下ではない」
「……あれは、ひどかったですものね」
「ええ。とても」
思わず笑ってしまった私に、シリウス殿下も少しだけ口元を緩めた。
「リゼット嬢。これを、受け取っていただけますか」
差し出されたのは、封蝋の押された一通の手紙だった。
「ヴェルテでは、求婚の前に手紙を送る習わしがあります。すぐに答えをいただこうとは思いません。ただ──」
灰色の瞳が、まっすぐに私を見た。
「いつか、返事を書いてほしい。今度は誰の名前でもない、あなた自身の名前で」
◇
その夜、私は机に向かった。
シリウス殿下の手紙には、ところどころ、インクで塗りつぶした書き損じの跡があった。六年間、一度の乱れもない書簡を送ってきた人の手紙とは、とても思えなかった。
便箋を広げ、ペンにインクを含ませる。
十年間、数えきれないほどの文章を書いてきた。祝辞も、答弁も、恋文も。
けれど、自分の名前で、自分の気持ちを書くのは、これが初めてだった。
書き出しを何度も考えて、何度も消して。
結局、いちばん素直な一行から始めることにした。
『シリウス様。
お手紙、ありがとうございました。
六年間あなたの書簡を読んできましたが、書き損じのあるものをいただいたのは初めてです。
実を申しますと、私もこの一行目を、もう五回書き直しました』
最後の行に、私は自分の名前を書いた。
リゼット・ノアール。
たったそれだけのことが、どうしてこんなに嬉しいのだろう。
私はしばらく、インクが乾いていくのを眺めていた。




