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最終章:静寂の碑、あるいは涙の色彩

あれから、この国にどれほどの「春」が通り過ぎただろうか。

 鋼の国は、かつてない繁栄を極めていた。

 人々の体を蝕んでいた「さび」の呪いは、あの日を境に急速に弱まり、街には活気と色彩が戻った。広場では子供たちが歌い、市場には瑞々しい果実が並ぶ。

 かつて絶望の象徴であった「代筆家」という職も、今や歴史の片隅に追いやられ、人々は文字に頼らずとも、愛を語り、思い出を語れるようになった。

 だが、その繁栄の源である玉座に座る王――アルディスの瞳には、依然として「色」が宿ることはなかった。

 王宮の最も奥深い、かつて「地下書庫」と呼ばれた場所。

 そこは今、王以外が立ち入ることを許されぬ、静寂の聖域となっていた。

 アルディスは、年を重ねてもなお、衰えを知らぬ強靭な肉体を維持していた。あの日、ニイラが命懸けで吸い取った「心臓の錆」は、彼に死を許さぬほどの生命力を与えていた。

 けれど、その瑞々しい肌に触れる者はいない。

 王は生涯、きさきを娶らず、誰とも寝所を共にすることはなかった。

 王は、書庫の中央に置かれた「漆黒の彫像」の前に、ゆっくりと腰を下ろす。

「……ニイラ。今日、庭に雪が降ったぞ」

 王は、像の冷たい指先をなぞる。

 彫刻ではない。それは、すべての「錆」を吸い取り、自分自身の余白を黒い文字で埋め尽くした代筆家、ニイラの成れの果てだ。

 全身を覆う極彩色の紋様は、月光の下で、恐ろしいほど鮮やかに煌めいている。

 彼女の髪は白雪のように白く、肌は鉄のように硬く。

 微かな……本当にかすかな呼吸の音だけが、彼女がまだ「死なせてもらえない」ことを告げていた。

「そなたが言った通りだ。……世界には、多くの色彩が満ちている」

 アルディスは自嘲気味に笑った。

 王にはすべてが視えていた。街を彩る花々も、豪華な宝飾品も。

 だが、色彩を取り戻せば取り戻すほど、それらは浅ましく、空虚に見えた。

 彼にとって、この世で唯一「本物」と呼べる色は、自分の罪と痛みを一身に引き受けて沈黙した、彼女の**『漆黒』**だけだったからだ。

 王は、ニイラの黒い肌に刻まれた、一文字一文字を指で読み取る。

 

 これは、あの戦場で捨てた部下たちの名前。

 これは、己の覇道のために切り捨てた愛。

 これは、誰にも言えなかった、王としての孤独。

 

 ニイラの体は、アルディスの人生そのものを書き記した「生きた石碑」だった。

 彼女は、彼からすべてを奪ったのではない。

 彼のすべてを、自分という器の中に、永遠に繋ぎ止めてくれたのだ。

「……そなたは、我が『身代わり』だと言ったな」

 王の瞳から、一滴の雫がこぼれ落ち、ニイラの黒い頬を伝った。

 それは色を持たぬ、けれど誰よりも濃厚な「色彩」を帯びた涙。

 

「だが、逆だったのだ、ニイラ。……我が、そなたの余白であったのだ。そなたがいなければ、我が人生には、一文字の価値さえも宿らなかった」

 王は、決して開くことのない彼女の瞼に、そっと唇を寄せる。

 鉄のように冷たい感触。

 そこには、かつて彼女が求めた「熱」も、自分が独占していた「声」もない。

 

 あるのは、取り返しのつかない沈黙。

 そして、命を削って自分を生かした女への、永遠に癒えることのない「魂の錆」。

 窓の外、雪は激しさを増していく。

 真っ白な世界。

 かつて彼女が見たいと願い、そして見る直前にすべてを失った白。

 

 王は、沈黙を守り続ける漆黒の像を抱きしめた。

 繁栄を極める国の王でありながら、彼は一生、この地下室の静寂から逃げ出すことはできないだろう。

 

 彼女が墨を食んで書き上げたのは、王の命ではなく、**『自分がいなくなった後の世界で、王が一生自分を愛し、悔み続ける』**という、最も残酷で美しい「呪いの言葉」だったのかもしれない。

 漆黒の像の指先が、ほんのわずか、動いたような気がした。

 あるいはそれは、吹き込んだ風が悪戯しただけだったのか。

 

 夜が更けていく。

 色彩のない王と、墨を食み尽くした代筆家。

 二人の物語は、語り継がれることなく、降り積もる雪の下で、ただ静かに、永遠に凍りついていくのであった。


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