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第四章:心臓の墨、あるいは永遠の静寂

ユキナの視界は、ついに「光」そのものの輪郭を失いつつあった。

 

 かつて世界に溢れていた色彩は、すべて彼女の指先から吸い込まれ、漆黒の文字へと変えられた。今、彼女の瞳に映るのは、濃淡のついた不確かな影の世界だけ。

 自分の手がどこにあるのか、鏡に映る自分の顔がどんな絶望を浮かべているのかさえ、もはや判別できない。彼女の体は、王の痛みを書き写すためだけの、冷たく乾いた「紙」へと成り果てていた。

 そんな静寂を、断末魔のような鉄の軋みが引き裂いた。

「……う、ぐ……あああぁっ!」

 地下書庫に転がり込んできたアルディス王の姿は、見るに堪えないものだった。

 右腕から始まった錆は、今や彼の喉元を這い上がり、顔の半分を赤黒い金属のうろこで覆っている。何より恐ろしいのは、彼の胸元――心臓がある場所が、脈打つたびに嫌な音を立てて硬化し、赤黒い錆の粉を噴き出していることだった。

 敵国が遺した、最後にして最強の呪い。

 王の心臓そのものを鉄に変え、国ごと沈黙させる「鋼の埋葬」。

「閣下……!」

 ユキナは感覚の死滅した足で、這うようにして王へ駆け寄った。

 王は彼女の細い肩を掴み、その重みで共に床へ崩れ落ちる。王の肌から伝わる熱は、すでに人界のそれではなく、炉から取り出したばかりの熱せられた鋼のように、ユキナの指先を焼き焦がさんばかりだった。

「……食らえ。……ニイラ、すべてを……我が心臓を、救え……」

 王は朦朧もうろうとする意識の中で、初めて彼女の本名を呼んだ。

 代筆家という役職名ではなく、ただ一人の女としての名を。

 その響きが、感覚を失っていたはずのユキナの胸を、鋭い針で刺すように貫いた。

 ユキナは、震える手で王の胸元に触れた。

 彼女には、わかっていた。これまでの「錆」が泥水だとしたら、今、王を蝕んでいるのは、煮えたぎる溶岩だということを。

 

 吸い取れば、器は壊れる。

 書き記せば、筆は折れる。

 

 それでも、ユキナは微笑んだ。

 色彩も、温もりも、触覚も失った彼女に唯一残されたもの――それは、この「色彩のない王」の痛みを、世界で自分だけが引き受けているという、狂おしいほどの自負だった。

「……承知いたしました、閣下。……すべて、私の肌に書き写しましょう」

 ユキナは王の心臓に、自らのすべてを重ね合わせるように抱きついた。

 

 ドクン。

 

 巨大な鼓動と共に、王の錆が、熱い鉛の流れとなってユキナの全身を駆け抜けた。

 熱い。熱くて、痛い。

 自分の血管が、一本ずつ墨に塗りつぶされていく。

 自分の肺が、文字のすすで塞がっていく。

 

 ユキナの背中、腕、足、そしてついにその頬にまで。

 王の罪、王の絶望、王の孤独が、極彩色の紋様となって爆ぜるように浮かび上がる。

 それは、夜の闇よりも深く、けれど燃える宝石よりも鮮やかな、呪いの完成形だった。

「あ……が、はっ……!」

 ユキナの口から、どす黒い墨が溢れ出した。

 彼女が記し続けた「言葉」が、ついに器を突き破ったのだ。

 

 一方で、王の体からは死の色が消えていく。

 顔を覆っていた金属の鱗は剥がれ落ち、瑞々しい肌が戻り、止まりかけていた心臓が、力強い鼓動を取り戻す。

 

 王は、目を見開いた。

 自らの腕の中で、命の光を失い、全身を漆黒の紋様で塗りつぶされていく少女を見つめる。

 

「……ニイラ? ニイラ、待て! これほどまでとは……我は……!」

 王が彼女の顔に触れようとしたとき、ユキナの瞳は、もう何も映していなかった。

 彼女の髪は、根元から真っ白に変色し、肌は黒い文字の重みに耐えかねるように、彫像のような冷たさを帯びていく。

 

 ユキナは、最後の力を振り絞って、王の頬に手を添えた。

 彼女の指先からは、もう一滴の墨も出ない。

 

「……閣下。……これで、私の……代筆は、おしまいです……」

 

 掠れた声は、風に散る灰のように儚かった。

 ユキナの視界からは、光さえも消えた。

 最後に彼女が視たのは、王の瞳の中に宿った、自分という存在への、生まれて初めての「悲しみ」という色だった。

 地下書庫に、静寂が戻る。

 

 王、アルディスは、完璧な健康を取り戻していた。

 かつてないほどに力に満ち、王としての威厳に満ちた肉体。

 

 だが、彼の足元には、全身を墨のような紋様で埋め尽くされ、瞬き一つしなくなった「生ける石像」が横たわっている。

 彼女は死んでいない。微かな、あまりにも微かな呼吸を続けている。

 

 だが、王がどれほど呼びかけても、その漆黒の肌を揺さぶっても。

 彼女は二度と目を開けず、二度と言葉を発することはなかった。

 

 彼女は、王のすべてを書き写し終えたのだ。

 その代償として、自分自身の「存在」という余白を、一文字も残さずに使い果たして。

 

 王は、冷たくなった彼女の手を握りしめ、咆哮した。

 色彩を取り戻したはずの世界が、彼にはあの日よりも、ずっと醜く、空虚な灰色の荒野に見えていた。

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