第三章:極彩色の絶望、あるいは一度きりの夜
地下書庫の窓から見える空が、何色であったか。
ユキナはもう、それを思い出すことができない。
昨日までわずかに残っていた、夕焼けの残り香のような「赤」が、今朝、ついに視界から剥がれ落ちた。
暖炉の火はただの白い揺らめきになり、王の頬を伝う鮮血さえも、どす黒い墨の滴にしか見えない。世界は完璧なモノクロームへと完成され、ユキナはその中心で、透明な標本のように静止していた。
「……今日は、これを持ってきた」
深夜。重い鉄扉を開けて現れたアルディス王は、手にした包みを無造作に机に置いた。
中から現れたのは、人界の職人が数年をかけて織り上げたという、極彩色の刺繍が施された絹のドレスだった。
かつてのユキナなら、その目の覚めるような美しさに、わずかでも心を震わせたかもしれない。だが今の彼女にとって、それはただの「ざらついた、重い布」でしかなかった。
「……ありがとうございます、閣下。ですが、私のような影の者に、このような贅沢は……」
「黙れ。そなたは我が身代わりだ。我が汚れをすべて引き受けている者が、汚らしい端切れを纏っているのは我慢ならぬ」
王は傲慢に、けれどどこか焦燥を含んだ手つきで、ユキナの肩にドレスを掛けた。
王の指先が、彼女の鎖骨に触れる。
そこには、昨夜吸い取った王の絶望が、鋭い茨の紋様となって黒々と定着していた。
指先が肌を滑る。
普通ならば、羞恥や熱情を感じるはずの距離。
だが、ユキナの肌は、死んだ木のように冷たかった。王の指の熱も、布の滑らかさも、彼女の神経には一切届かない。
「……何を感じる。この布は、そなたに喜びを与えるか?」
王の問いは、祈りのようでもあり、呪いのようでもあった。
ユキナは目を伏せ、わずかに首を振る。
「……何も。ただ、閣下の指先が置かれている場所に、わずかな『重み』を感じるだけです」
王の手が、ぴたりと止まった。
彼は、自らが作り出したこの「完璧な器」の空虚さに、初めて恐怖を感じていた。
錆を吸わせれば吸わせるほど、自分は軽やかになり、瑞々しい命を取り戻していく。しかし、それと引き換えに、目の前の少女は「人間」であることを辞めていく。
彼女は、王が捨てたすべてを詰め込んだ、生きたゴミ箱へと変わり果てていた。
「……脱げ。今すぐ、儀式を始める」
王の声が、わずかに震えていた。
ユキナは静かにドレスを脱ぎ捨て、黒い紋様に覆われた背中を王に向けた。
王は、自らの胸元にある、今にも心臓を突き破りそうな巨大な錆の塊に手をやった。
その錆は、王が今日、敗北させた敵国の王族から吸い取った呪いそのものだ。
ユキナが王の背後から両腕を回し、その冷たい胸に触れる。
「……あ……っ……」
流れ込んできたのは、これまでの比ではない、圧倒的な「死」の重圧だった。
何百人もの断末魔が、文字となってユキナの指先を駆け上がり、脊髄に突き刺さる。
彼女の視界が、一瞬、真っ白に弾けた。
吸い取られた錆は、ユキナの背中で漆黒の羽のような、禍々しい刺青へと姿を変えていく。
一文字、一文字。
それは、王が犯してきた罪の記録。
それは、王が失ってきた愛の墓標。
ユキナの意識が、深い墨の海へと沈んでいく。
朦朧とする意識の中で、彼女は感じた。
王が、自分の冷え切った手を、驚くほど強く握りしめていることを。
「……代筆家、死ぬな。……我がすべてを背負ったまま、勝手に消えることは許さぬ」
王の声が、遠くで響く。
その声には、道具を慈しむ以上の、狂おしい執着が混じっていた。
儀式が終わる頃、ユキナの肌から白さはほぼ消失していた。
代わりに、全身を覆う黒い紋様が、夜の闇を反射して鈍く光っている。
彼女はもはや、一人の少女ではなく、王の歴史を記した「生きた石碑」そのものだった。
嵐のような痛みが過ぎ去り、静寂が戻った書庫の中で。
王は、ぐったりと自分の腕の中で力尽きているユキナを、抱き上げた。
彼女は軽い。命を糸に変えて使い切ったかのように、驚くほど軽かった。
王は彼女の、墨に染まった頬をなぞる。
「……色彩のない我が世界に、そなただけが、これほど鮮やかな『黒』を刻みつけるのか」
王は知っていた。
いつか彼女の肌がすべて黒に染まったとき、自分の「錆」を預ける場所はなくなる。
その時、自分は正気に戻るのか。それとも、彼女という唯一の理解者を失い、本当の怪物になるのか。
眠るユキナの睫毛に、一滴の涙が溜まっていた。
それは色を持たぬ、透明な、けれど誰よりも熱い拒絶の雫。
窓の外、雪が降り始めた。
真っ白な世界。
明日になれば、王はまた彼女を「道具」として呼ぶだろう。
そしてユキナは、微笑むことさえ忘れた顔で、その呪いを受け入れる。
二人の運命は、もはや解けないほどに固く結び目を作っていた。
一人が輝くために、もう一人が泥に沈む。そのあまりにも美しい地獄から、逃げ出す方法など、誰も知らなかった。




