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第二章:鉄の契約、あるいは冷たい共鳴

地下書庫を充満させていた古い紙の匂いが、王の侵入と共に、鋭い鉄の臭気へと塗り替えられた。

 松明の炎が、湿った石壁に巨大な影を落としている。

 

 王、アルディスは、無言で右腕の籠手を外した。

 金属が擦れる嫌な音と共に露わになったのは、肘の辺りまで赤黒く変色し、剥がれかけた鱗のように硬化した「錆」の皮膚であった。それは単なる病ではない。戦場で幾千もの命を奪い、その怨嗟を浴び続けた男が背負うべき、逃れられぬ呪い。

 

「……これを、食らえ」

 

 王の声は、凍りついた湖の底を歩くように、一切の抑揚がなかった。

 ユキナは静かに立ち上がり、王の前へと歩み寄った。彼女の漆黒のローブが、石床をわずかに擦る音を立てる。

 

 ユキナは自らの指先を保護していた、墨に汚れ、擦り切れた手袋を脱いだ。

 現れたのは、白磁のように白い、けれど指先だけがどす黒い墨の色に浸食された、細く、冷たい手。

 彼女はその指先を、王の無惨な錆の肌へと、躊躇うことなく這わせた。

 

 刹那――。

 

 地下室の空気が、キィィィィィ、という、耳鳴りのような悲鳴を上げた。

 王の右腕から、赤黒い錆の粒子が、生き物のようにユキナの指先へと流れ込む。

 それは、ただの痛みではない。王がこれまで切り捨ててきた敗者たちの絶望、裏切られた者たちの慟哭、そして王自身が胸の奥に閉じ込めてきた、凍てつくような虚無。

 それらが奔流となって、ユキナの血管へと雪崩なだれ込んでくる。

 

「……っ」

 

 ユキナは唇を噛み締め、膝が折れるのを堪えた。

 自らの腕の中で、新しい「紋様」が生まれる感覚がした。

 吸い上げた錆は、彼女の血の中で漆黒の墨へと変質し、やがて皮膚を内側から突き破るようにして、奇怪な文字の列――刺青しせいとなって定着していく。

 

 王の錆びついた腕からは、次第に金属の輝きが戻り、瑞々しい生身の肌が露わになっていく。

 その代償として、ユキナの首筋には、新しい、鋭い棘のような黒い紋様が、脈打つように浮かび上がった。

 儀式が終わると、王は深く息を吐き、自らの腕を確かめるように握り締めた。

 痛みは消えた。だが、目の前で荒い息をつき、首元まで黒い文字に侵食された少女の姿を見ても、王の瞳には慈悲の欠片も宿らなかった。

 

「……噂通りだな。他人のゴミを書き写し、己を汚すことで生きる。なんと醜く、そして便利な存在だ」

 

 アルディスは、ユキナの顎を冷たい指先で持ち上げた。

 ユキナの瞳を覗き込む。そこには、色彩を一つ失った、深い灰色の絶望が揺れていた。

 

「何が見える。我が錆を食らって、何を書き記した」

「……孤独、でございます、閣下」

 

 ユキナは、掠れた声で答えた。

 王の錆を吸い取った瞬間、彼女の脳裏には、どこまでも続く白銀の荒野が視えた。

 誰にも触れられず、誰の体温も信じられず、ただ「鉄の王」として君臨し続ける男の、凍土のような孤独。

 

「閣下は……この世界のすべての色を、すでにお捨てになられたのですね。だから、私の指先には……これほどまでに、冷たい墨しか流れてこない」

 

 王の瞳が、微かに揺れた。

 彼は不快そうに手を放すと、背後にある豪奢な椅子に身を沈めた。

 

「色など、我が覇道には不要だ。……代筆家。これより、そなたを我が直属の『記憶の守り手』とする。今後、我が錆をすべて食らい、この国の歴史と共に、我が身のすべてをその醜い肌へと書き写せ」

 

 それは、愛の告白よりも残酷な、生涯の拘束であった。

 王は彼女を救おうとしているのではない。

 自分の醜さをすべて預けられる「ゴミ箱」として、彼女という存在を永遠に地下へ幽閉しようとしているのだ。

 その日から、ユキナの生活は一変した。

 

 王は定期的に、夜の深まりと共に地下書庫を訪れるようになった。

 王の錆を吸い取るたび、ユキナの体からは一つ、また一つと色彩が消えていく。

 

 ある夜は、夕焼けの茜色が。

 ある夜は、月光の青みが。

 

 ユキナの視界は、次第に濃淡のある灰色の世界へと閉ざされていく。

 それと引き換えに、彼女の肌は、王から吸い取った呪いの文字によって、埋め尽くされていく。

 手首から肘へ、肘から肩へ。そしてついには、彼女の胸元の、最も白く、柔らかな場所までもが、禍々しい刺青で黒く塗り潰された。

 

 もはや彼女は、自分の肌の温かささえも、思い出せなくなっていた。

 王の手が彼女の肌をなぞっても、そこにあるのは、鉄のプレートを触っているような、無機質な感覚だけ。

 

「……どうした、代筆家。我が手が、冷たいか?」

 

 王が、嘲笑うように聞いた。

 ユキナは目を伏せ、わずかに震える声で答えた。

 

「……いいえ。……私には、もう何も、感じられないのです」

 

 その答えに、王の笑みが消えた。

 彼は、自らの「身代わり」として完璧に機能しているはずの少女の姿に、なぜか、説明のつかない苛立ちを感じ始めていた。

 

 世界から色を奪われた者と、最初から色を持たぬ者。

 二人は、冷たい石壁の奥で、互いの「欠落」を鏡のように映し合いながら、取り返しのつかない破滅へと、一歩ずつ足を踏み入れていくのであった。

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