第一章:黒き滴(しずく)の沈黙
その場所には、色がなかった。
王宮の地下、幾千もの書物に囲まれた「静寂の書庫」。
そこは、人々の記憶が風化し、文字に刻まれなければ昨日さえも失われてしまうこの国において、最も尊く、そして最も呪われた聖域であった。
代筆家の女、ユキナは、冷たい石の床に膝をつき、一枚の白紙を前にしていた。
彼女の指先は、絶え間ない代筆の代償として、爪の付け根までどす黒い墨に染まっている。それは洗っても落ちることはない。彼女がペンを握るたび、その血管を流れる黒い血が、指先へと集まり、文字となって紙に吸い取られていくからだ。
ユキナの魔力は、特異であった。
彼女は市販の墨を使わない。彼女が記す一文字一文字は、自身の「生命力」そのものを黒い液体に変えて吐き出したもの。
代筆家として誰かの記憶を書き留めるたび、その代償として、ユキナ自身の世界からは色彩が一つずつ、静かに剥がれ落ちていく。
「……代筆家様。どうか、これを」
地下室の小さな鉄窓から、震える手が古い手紙を差し入れる。
窓の向こうにいるのは、明日の朝には愛する妻の顔を忘れてしまうという、忘却病に侵された男だった。
ユキナは無言でそれを受け取った。
彼女は、男が差し出した手紙に宿る「記憶の残香」を、自身の指先から流れる墨でなぞり、新しい羊皮紙へと定着させていく。
ペンが紙を削る、微かな音。
文字が刻まれるたび、ユキナの碧かった瞳は、僅かに灰色へと濁っていく。
一頁を書き終える頃、男の記憶は鮮やかな物語として紙の上に蘇り、代わりにユキナの視界からは、今朝まで見えていた「街路樹の緑」が、永遠に失われていた。
「ありがとうございます、代筆家様。……ああ、妻の声が聞こえるようだ」
男は涙を流して去っていく。
ユキナは、その感謝の言葉さえも、自分を通り過ぎていく風のようにしか感じられなかった。
色彩を失うことは、感情を失うことに似ている。
温かさも、喜びも、痛みさえも。文字を記せば記すほど、彼女の心は白黒の標本のように乾き、静止していく。
ユキナの生活には、装飾というものがない。
地下室に置かれた、寝心地の悪いベッドと、墨の汚れを隠すための漆黒のローブ。
食事は、味覚の衰えた彼女にとって、砂を噛むような作業に過ぎない。
孤独であった。
けれど、ユキナはそれを受け入れていた。
「記憶」こそがこの国を繋ぐ唯一の鎖であるなら、自分がその「繋ぎ目」として削れていくのは、至極当然の理なのだと。
いつか、自分の世界からすべての色が消え、自分自身が透明な「無」になるその時まで。
彼女は、他者の人生を黒く書き写し続けるだけの、生きた書架であればよかった。
しかし、そんな彼女の凍りついた日常は、ある吹雪の夜、地下室の重い扉を叩いた**「色彩のない王」**によって、決定的に崩れ去ることになる。
現れたのは、この国を統べる主、アルディス王。
彼はあまりにも膨大な「国民の絶望」をその魂に受け止めすぎた結果、自身の心が真っ白に漂白され、己の名前さえも忘却の縁に立たされていた。
王は、墨に汚れた少女を、射抜くような冷徹な瞳で見下ろした。
その瞳には、慈悲もなければ、生への執着さえも見当たらない。あるのはただ、自分が消えてしまう前に、この国の「最後の言葉」を誰かに刻ませようとする、狂おしいほどの虚無だけだった。
「……そなたが、命を墨に変えて食らう、代筆の魔女か」
ユキナは無言でペンを置いた。
彼女は視ていた。王の背後に広がる、果てしない白銀の荒野を。
そこには、彼女が失ってきたどの色よりも、深く、残酷で、けれど美しい**「絶望」**が満ちていた。
これが、自らのすべてを漆黒の文字へと溶かし、一人の王の魂に永遠の傷を刻む、最後の物語の幕開けであった。




