夏休みだからこそ語りたい、アダルティーな動画の話。
夏休みである。
日がな一日、アダルティーな動画を漁っている思春期ボーイたちも、少なくはないだろう。
「一日何回できるかな?」
そんなバカなチャレンジが出来るのも、また若さの特権である。
先日、何かの切り抜き動画で、芸人たちが「アダルト動画に物語性は必要か、否か」を語っているものを偶然見かけた。「不要」が多数派であったが、ひとりは「インタビューから真剣に見る」というオチであった。
しかし、小説家になろうで、同じ質問をすれば、おそらく「インタビューから真剣に見る」が多数派を占めるのではないか、と筆者は考える。なにせ「物語」をこそ好む人種が、ここには多いはずだからだ(そんなこともないのか?)。
筆者も、もちろん「設定」には、非常に神経を尖らせる。非現実的なものにしても、そこに「真実のようなもの」があれば、「感情移入」も出来るからだ。それを単なる「生理的な処理」とはせず、更なるプラスアルファの意義を見出したいのであれば、つまりはそういうことである(どういうこと?)。―― そんなもの、「賢者タイム」に突入する頃には、どうでも良くなっているのが、あるあるさんとこの何とか隊ってものだけどね(盛者必衰の理を顕す)。
さて、近年の議題としては、やはりアダルト業界における「生成AIの使い方」が一番に上がる。モザイクを破壊するのは、人類の叡智、いや、AIの功績であるわけだが、問題は「顔を挿げ替える」ディープフェイクの技術である。
筆者は、もちろん「ディープフェイク反対派」ではない(ちゃうんかーい!)。実在の人物の肖像を勝手に使用するディープフェイクの生成には、基本的には反対である。しかしながら「架空の人物」のLoRAによる生成には「もっとどうにか、ならんのか」という気持ちが強い。
AIが生成した画像と、実在の人物の写真。
これらを比較した場合、ほとんどの人間が、最早、完璧には区別できないレベルにまでに、生成AIの技術は進化してきている。
だが、これはあまり知られていない話でもあるが、AIが生成した画像には、脳の一部の判別エリアが「まったく反応しない」という現象の報告が上がってきている。動かなくなるというのは「動作するまでもないフェイク」という判断が「脳のインプット機構の段階」でラベリング(=フィルタリング)されていることを示唆している。しかしながら「その他の思考的判断」が、答えを混沌とさせてしまっているというのが、実際のところだ。
話が逸れた。
筆者がディープフェイクに求めるもの。まずそのひとつに「瞳孔の調整」が挙げられる。
画竜点睛を欠く。
そのシーンが持つ「感情のパラメータ」に合わない瞳孔のサイズ。これがいわゆる「目が死んでいる」現象にも繋がっていると筆者は考える。稀に実在の女優でも「意に添わぬ」出演から、目が死んでいることがあるが、そんなものには、もちろん乗れないし、逆に痛々しくもある。静止画ならまだしも、それが動画にともなると、この違和感は大きく、まだまだ使えたものではない(……いったいナニにだ)。
次に求めるもの。
それは「男優のAI化」だ。むしろこちらの方が、筆者的には「急務」とも言える。
30~40代の絶賛中年太り中の男たちが、高校生役やら大学生役をしているのは「これは完全に虚構の世界での話ですよ」という意味合いでなら、かなり有効な手法だろう。しかしながら、単に人材の不足から来る老人ホーム的なお遊戯としてなら、それはプロとしてリリースしていい作品のクオリティには達していないと、筆者は熱弁する(何様だ)。
―― この積年の課題を一気に解決するのが、ディープフェイク技術。見る側にとっては、その大半が「記号でしかない」男優たち(レジェンドにはリスペクトだ)。こんなもの、すべて生成AIによる加工処理を行った方が「余計なノイズ」も無くなり、Z世代などには、特に快適なのではないだろうか。ついでに体型や肌の汚さも修正すれば、それなりにそれなりとなるだろう(以前にも、この話、ここでしたっけ)。
でまあ、こんな話をしたところで、夏休み世代の大半は、FC2やら、一般人の流出モノの方を楽しんでいると推測するので、商業セクシーの技術進化に関しては、現段階では大した興味もないかもしれない。筆者もまあ、実際のところは、そうかもしれない(そんなとこだけ、若いつもりか)。
◇
ここからは、筆者の単なる趣味の話。
とにかく筆者は「引きの映像」を好む。
ここでいう引きとは、被写体との「距離」のことである。「周辺の状況」込みでのシーンの観察。これは映画やドラマなどでも言えることだが、日本国内の映像作品の大半が、とにかくこれが「近すぎる」。日本家屋の狭さなどにも起因する問題だとは思われるが、すべて「寄りの場面」に耐えれるだけの技量を持った役者なんて、そうはいない。そもそも、そんな作りの映像コントロールは、見る側に過度なストレスを与えるだけだ(そして、見る側の脳もやがてバカになる)。
スマホの完全普及により、「日頃から親しむ画角サイズ」が世界的にも、急速に狭くなってきているようにも思える。このまま行くとスクリーンサイズでの映像をまともに撮影できるカメラマンが絶滅してしまうのではないか、という危惧の念すら、筆者にはある。―― まあ、そんなものは、今後、フルAIで映像を作るようにでもなれば、解決する話でもあるわけだが(ひでえオチ)。
コミュニケーションの苦手な人間の社会的激増と「主観映像」の隆盛にも、何らかの相関性があるのではないか、とも、ふと考えた。