譲れないプリン
「理栄ちゃん、トイレ長かったね? 何してたの?」
一階のダイニングキッチン兼食堂に戻るやいなや、私の顔を見た凪が尋ねてきた。
あれ? もしかして怪しまれてる?……とも一瞬思ったのだが、凪のキャラを考えれば、単にデリカシーのない質問をされただけだろう。
私は、腹部を押さえながら、『ちょっとお腹が痛くて……』とか細い声を出す。
「そっか。理栄ちゃん、お大事に」
そう言うと、凪は、テーブルへと目線を戻す。
刺身や小鉢などの料理はすでに片付けられており、代わりに、テーブルの上には湯呑みが六人分置かれていた。
あがりのお茶ではなさそうである。
それぞれの湯呑みの隣には、小さな木製のスプーンが置かれている。
「理栄ちゃん、デザートのプリンよ。昨日の夜に作って冷やしておいたの。食べてみて」
満面の笑みの舞乃が、私を手招きする。
母親として、漁師宿の女将として、あまりにもできすぎた人である。
「……ありがとうございます」
正直、あんな光景を見たばかりで一切食欲は湧かなかったのだが、能古木理栄は〈無類の甘いもの好き〉という設定なのである。
アニメの第二シーズンの第三話目では、船酔いでぐったりしながらも、船上に持ち込んだタピオカミルクティーをガブガブ飲んでいた。腹痛ごときを原因にしてプリンを断ってしまえば、不審がられること間違いない。
私は、舞乃の手招きに応じて席につくと、ゴクンと息を呑んでから、右手にスプーンを持った。
『とりあえず理栄は早く食事の席に戻れ。中座が長いと怪しまれるから』
理栄が食卓に戻ったのは、理雨にこのように指示をされたからである。
たしかに理栄が『ちょっとお手洗いに行ってくる』と言って席を外してから、二十分近く経っていた。
とはいえ、凄惨な現場に理雨一人を残し、一人だけ先に平和な食卓に戻るというのはさすがに気が引ける。そのことを正直に理雨に述べた。
すると、理雨は『じゃあ、役割分担ってことで。俺がこの部屋で死体の処理を考えてる間に、理栄は下にいてみんなが二階に来ないように〈足止め〉してくれ。オーケー?』と言った。
非対等な役割分担だ。
面倒なところは理雨が被ってくれている。
私は理雨の〈男気〉に感謝する。そして、『お姉ちゃん、オーケー』とサムズアップをし、悪夢の部屋を出たのだった。
〈足止め〉。
バラバラ死体の処理を考えることに比べれば楽勝だ、と思っていた。しかし、いざ実行しようと思ったら、何をして良いのから分からない――。
「理栄ちゃん、めっちゃプリン削って食べるね? 一口が小さ過ぎない?」
凪にツッコまれて、私はハッとする。
無意識のうちに、やたら時間をかけてチョビチョビとプリンを食べている私がいたのだ。
何やってるんだ私。こんなことしても、何の足止めにもならないじゃないか。私だけプリンを食べる速度が遅くなっても、他のみんなのプリンを食べる速度が変わるはずがないのだから。
「……このプリン、すごく美味しくて、無くなって欲しくないなって思って」
「私、理栄ちゃんの言うことすごく分かるよ。食べるのもったいないよね」
「でしょ! 凪ちゃん、だから、ゆっくり味わって食べようよ!」
「残念だけど、美味し過ぎてもう全部食べちゃったんだよね〜」
凪が、空になった湯呑みを私に見せつける。元々プリンが入っていた痕跡がないほどに綺麗に完食済みだった。
「私ももう食べちゃいましたわ」
私が肝を冷やしていることなどつゆ知らず、花蓮までも空の湯呑みを見せてアピールしてくる。
柳夫妻も同様に空の湯呑みを私に提示した。
マズい。このままだと食事の時間が終わってしまう。
何とか〈足止め〉をしなくては――。
私は、まるでお茶を飲むようにして、ズズズっとプリンを吸い込み、湯呑みを空にした。
そして、湯呑みの内側の底を舞乃に見せつけて、声を上げる。
「おかわり!!」
……空気が凍った。
それはそうである。各自に一つずつ配られた手作りプリンについて、〈おかわり〉などという概念はない。
舞乃が、眉を顰める。
「……理栄ちゃん、ごめんね。気持ちは嬉しいんだけどね。プリンは人数分しか作ってないの」
そんなことはもちろん分かっている。
分かった上で、私はあえて『おかわり!!』と声を張り上げたのだ。その狙いは――。
「舞乃さん、私、どうしてもこのプリンをもう一つ食べたくて……申し訳ないですが、今からもう一つプリンを作ってくれませんか?」
名付けて『ムチャブリおねだり』作戦。
手作りプリンを作るのには、当然のことながら、手間と時間がかかる。
卵液を泡立てるようにしてかき混ぜなければならないし、卵液と温めた牛乳とをゆっくりと合わせた後、丁寧に漉さねばならない。
その後、蒸す時間に三十分。冷蔵庫で冷やす時間で二時間。完成までに最低でも三時間ほどの時間がかかるのだ。
今からプリンを作れだなんて、完全なる〈ムチャブリ〉である。普通は『無理』と一蹴するだろう。しかし――。
「えーっと……材料が余ってたかしら……」
舞乃は、完全に作る気になっている。
これが舞乃のキャラなのだ。
舞乃は、自らの娘である花蓮や、花蓮の友だちのためならば、どんな苦労も厭わない。手間な家事労働も嫌な顔をせずにやる。舞乃は、破格の〈良い人キャラ〉なのだ。
「プリン大好きな理栄ちゃんのために、おばさん、一肌脱いじゃうわ」
エプロン姿の舞乃は、袖を捲り、席を立つ。
「舞乃さん、ありがとうございます。みんなも舞乃さんの作ったプリンを食べたいでしょ? プリンができるまでここで待ってようよ」
作戦成功である。これで三時間も時間が稼げる。
しかし――。
「ママ、待って!」
台所に向かおうとする舞乃の後ろ髪を、花蓮が引く。
「プリンは余ってるわ!」
椅子から立ち上がった花蓮の右手の人差し指は、まっすぐに一つの湯呑みへと伸びていた。
それは、私の隣の席に座る者のために用意されたプリン――理雨のプリンだった。
「ママ、わざわざプリンを作り直さないで大丈夫よ! 理栄、お姉さんのプリンを食べなさい!」
花蓮が叫ぶように言う。
たしかに理雨のプリンは手付かずのまま残っている。このプリンを私が食べれば、舞乃が新たにプリンを作り直す必要がなくなってしまう。
これはマズい。
しかし――。
「花蓮ちゃん、なんてこと言うの!? 理雨ちゃんが食べる分が無くなっちゃうじゃん!」
私に助け舟を出した――という自覚はないはずだが、同じく立ち上がった凪が、花蓮と張り合うほどの大声で叫んだ。
「花蓮ちゃんが言ってることは、理栄ちゃんに『泥棒をしろ』と言ってるのと同じだよ! 『あいつを適当に始末しとけ』ってヤクザの親分が子分に命じるのと一緒だよ!」
凪が用いた喩えは、日常系アニメとしてはギリギリのラインかもしれないが、今はあえて指摘しない。
凪の〈幼稚な正義〉に感謝する。
ぐぬぬ、と歯を食いしばった花蓮に、凪はさらに言葉を浴びせる。
「理雨ちゃんが可哀想だよ! 理雨ちゃんだってプリンを楽しみにしてたんだから!」
花蓮が反論する。
「別に楽しみにはしてないんじゃないの? そもそも、理雨は、昨夜、舞乃さんがプリンを作ってたことを知らないでしょ?」
「たしかにそうだね。じゃあ、別に食べても良いか」
……えぇ!?
凪が振り翳した〈正義〉の手は、呆気なく振り下ろされた。
〈バレなきゃ大丈夫〉という悪の理論を前にして。
私は焦って凪に言う。
「凪ちゃん、ヤクザの親分が子分に気に入らない奴を殺させるのはアウトなんだよね? 警察にバレなければ良いっていう問題じゃないよね?」
「まぁ、でも、ヤクザに命を狙われるってことは、狙われる側もそれなりに悪いことをしてるだろうから……」
そういう問題ではない。
「じゃあ、理雨ちゃんが戻って来ないか、私が見張ってるわね」
舞乃は、腕捲りをした袖をそのままに、台所ではなく、食堂の入り口へと向かった。
悲しいことに、『ムチャブリおねだり作戦』は失敗。
いや、失敗しただけならばまだ良かった――。
「そういえば、理雨ちゃんはどうして戻って来ないんだろうな? 便所に行く、って言ってから、もうだいぶ経つが」
女性陣のやりとりを見ていた葉宇男が気付いてしまったのだ。
理雨が戻ってこないことの不自然さに。
『たしかに全然戻ってこないわね』と舞乃。
『トイレにしては長いよね』と凪。
『本当にトイレに行ったのかしら?』と花蓮。
「いやいや、絶対にトイレだよ! 私も腹痛だったし、理雨もきっと腹痛なんだよ!」
花蓮が不穏な疑問を投げかけたので、私は慌てて取り繕った。
「きっと昨夜食べたものにあたったんだよ!」
「昨夜食べたもの? 私たちも理雨と理栄と同じものを食べたけど、なんともないんだけど。凪もなんともないわよね?」
「うん。元気だよ」
「いやいや、私と理雨だけ食べたの! その……生牡蠣を」
私は咄嗟に作り話をする。
「私と理雨とで昨日の夕方、二人で釣りに出かけたんだ。その時に堤防に美味しそうな牡蠣が付いてるのを見つけたから、そのまま食べたの。生牡蠣を」
我ながらあまり上手くない嘘である。いくら離島暮らしをしているからといって、そんなワイルドで向こう見ずなことを女子高生がするはずがない。
「えっ!? 理栄ちゃん、本当!?」
凪にもさすがに怪しまれたか――。
「そんなことしたら絶対にお腹壊すじゃん!! 理栄ちゃん、大丈夫なの!?」
――怪しまれていなかった。さすが〈天然系ヒロイン〉。チョロい。
「今は夏だものね。この時期の牡蠣は冬に比べて危険だわ」
花蓮お嬢様も無事に騙せた――と思いきや――。
「でも、理栄、さっき『二人で釣りに出かけた』と言ったけれど、本当に二人だったかしら? たしかもう一人……」
「いないよ! 姉妹水入らずの磯釣りだったよ!」
「……まあ、張本人が言うなら間違いないわね」
……危なかった。昨夕釣りに行ったもう一人の存在――総家砂乎のことを思い出されてしまうところだった。
せっかくこれまで話題に一切出ず、忘れ去られているというのに。
それにしても、花蓮は凪と比べてだいぶ手強い。
「理雨ちゃんも理栄ちゃんも牡蠣にあたっちゃったのね。私を呼んでくれたら、その場にガスバーナーを持って行って調理してあげたのに」
舞乃も私のことを信じてくれているようだ。
「……でも、理栄ちゃん、今は全然元気そうね。プリンも飲むようにしてたいらげていたし」
「いえいえ、腹痛には波があって。さっきは大丈夫だったんですが、また痛い。うぅ……」
私は両手でお腹を押さえる。
「じゃあ、もう食事は終わりにした方が良いわね」
「いえいえ、そんなことはなくて。ああ、腹痛の波がまた収まったらまたプリンが欲しくなってきました。いただき!」
私は理雨の分のプリンを手に取り、湯呑みを口に付けると、ズボッとダイソン並みの吸引力で吸い込んだ。
そして、湯呑みを上に掲げて、言う。
「舞乃さん、プリンおかわり!!」
名付けて『ムチャブリおねだり作戦リターンズ』。
私は気付いたのだ。
大の甘党である能古木理栄は、二つ目のプリンを食べたら、当然、三つ目のプリンを欲しがるであろうということに。
理雨の分のプリンも無くなったので、もうこの場にはプリンは残されていない。
つまり、舞乃が三時間かけてプリンをまた作るしかないのである。
「よぉし、食いしん坊の理栄ちゃんのために、おばさん、手に塩かけちゃおうかなぁ」
「舞乃さん、ありがとうございます。他のみんなの分もお願いします」
了解、と嬉しそうに言い、舞乃が台所に消えて行く。
私は、残された面々である、凪、花蓮、葉宇男に向かって笑顔を見せる。
「みんな、舞乃さんがプリンを作る間、ここで楽しみに待ってよう。それまでの時間潰しは……そうだ。しりとりをしよう。最近、必勝法を見つけたんだ」
必勝法って何それ、教えてよ、とみんなが食いついてくる。そんなの私も知らない。ただ、みんなを〈足止め〉するという目的はどうやら果たせそうだ。私はほっと胸を撫で下ろす――。
――まさか、次の瞬間、舞乃ができあがったプリンを持って小走りに戻ってくるなど、想像だにしていなかったのだから。
「理栄ちゃん、朗報よ。冷蔵庫を見たら、まだもう一つプリンがあったわ」
「えぇ!? どうして!?」
「……あれ? どうしてかしら?」
『もう一つのプリンの謎』をいとも簡単に解いたのは、花蓮だった。
「分かった! お客さんの分よ! 昨夜から泊まってるお客さんが一人いたでしょ。砂乎が」
ああ、と私以外のみんなが納得したように声を漏らす。
――最悪だ。みんなが砂乎の存在に気付いてしまった。
「あれ? そういえば今朝は砂乎の姿を見ていないなぁ」
葉宇男が首を傾げる。
「……砂乎、どうしたのかしら?」
花蓮も心配そうに声を落とす。
こういうときに誰よりも予感がはたらくのが凪である。
「部屋で死んでるんじゃん?」
花蓮と葉宇男が、ハッとして同時に口を押さえる。
もちろん、一番心拍数が上がっていたのは、ほかでもない、私である。
「……な、凪ちゃん、変なこと言わないでよね。二時間ドラマじゃないんだからさ」
「二時間ドラマ? 何それ?」
ジェネレーションギャップが出てしまった。
今の若い子はテレビなど見ないのだ。山村紅葉や船越英一郎という大御所の名前すら知らないのである。それはともかく――。
「凪ちゃん、ここは平和な漁師宿だよ。お客さんが部屋で死んでるだなんてだなんて、物騒なことは起きないでしょ」
本当はもっと物騒なことが起きている。死んだ上で、さらに四肢がバラバラに切断されているのである。それでも、私は平然を装う。
「多分、お腹を壊していて部屋から出られないだけじゃないかな? 昨日食べた生牡蠣であたったとか」
「あれ? 理栄、さっき、生牡蠣は姉妹二人で食べたって言ってなかった?」
「え? そうだったっけ? 記憶が曖昧で。あはは」
ダムの決壊を誤魔化すことは、もうできなかった。
「プリンだとかしりとりだとか言ってる場合じゃないわ。みんな、砂乎の客室まで様子を見に行きましょう」
花蓮の掛け声に、私以外のみんなが『おーっ』と言って握り拳を挙げている。
ここで同調しなければ逆賊とみなされかねないと心配した私も、同じように『おーっ』とやる。
あまりにも短い〈足止め〉だった。理雨、ごめん。