日常系アニメの〈非日常〉
声が喉まで出かかったのだが、決して悲鳴を上げるわけにはいかなかった。
私は、手で口を押さえる。湧き上がってきそうになった胃の中のモノも、ぐっと堪える。決して、食事中に見て良い光景ではなかった。
生理的な現象の方はなんとか抑えられたものの、気落ちすることは防げなかった。
絶望的な光景を前に、私は膝から崩れ落ちる。
どうしよう――。
こんなのあまりにも『日常』からかけ離れているではないか――。
私がいるこの〈世界〉は、現実世界ではない。
日常系アニメ『夏空ふぃっしんぐ!』の世界である。
〈日常系アニメ〉とは、諸説あるが、一般には二〇〇二年より放映開始となった『あずまんが大王』を祖とする潮流であるとされる。その他の代表作は『らき⭐︎すた』『けいおん!』『ゆるキャン△』など。
内容としては、ありふれた日常を舞台に、何も起こらない平坦な日々をただ過ごすだけ、というものであり、登場キャラクターは原則的に女の子だけである。
登場キャラクターがほぼ女の子だけ、というのは、人によってはなんだか卑猥だと感じるかもしれないが、むしろその逆である。
男性を登場させないことによって、恋愛的な要素、性的な要素を排除していることが日常系アニメの強みなのだ。
女の子しかいないことで、逆に〈女の子〉が強調されない〈中性的〉な世界観なのだ。
なお、視聴者が美少女キャラから〈萌え〉を受け取るのは勝手である。ただ、それは決して意図されたものではない。
いや、作品としては意図されているかもしれないが、少なくとも、作中のキャラクターは意図していない。
さて、『夏空ふぃっしんぐ!』は、二〇二二年春に第一シーズンが、二〇二三年冬に第二シーズンが放映された王道日常系アニメである。
多くの日常系アニメがそうであるように、『夏空ふぃっしんぐ!』も、四コマ漫画が原作である。
キャラクターの名前の付け方からしても、住み込みで働く女の子が描かれていることからしても、世界観としては『ご注文はうさぎですか?』に近いかもしれない。
実際、『ごちうさ』は作者が最も影響を受けた作品の一つに挙げられていて、顔が丸くてロリ感全開の美少女造形など、作画的にも近いところがある。
ただし、『夏空ふぃっしんぐ』では、女の子たちの名前のモチーフはドリンクではなく魚の名前であり、働いているのはカフェではなく漁師宿である。『ごちうさ』よりもだいぶ古臭……いや、ノスタルジックな設定だ。
そして、なぜ『夏空ふぃっしんぐ!』の登場人物の一人に過ぎない能古木理栄こと私が、こんなメタ的な解説をしているのかというと、〈私〉は元々〈俺〉で、つまり、現実世界から日常系アニメの世界に転生してしまった元男なのである。
元の名前は、大塚潤斗といった。
なお、ここでいう〈転生〉というのは、赤ちゃんから人生をやり直したということではない。
能古木理栄としての人生のスタートは、アニメキャラである能古木理栄が生まれた時点、つまり、作品のスタート時点からであり、私の意識が宿った時点で、能古木理栄はすでに女子高生である。
〈俺〉がこの〈世界〉に転生してきたのは、現実世界で二〇二四年七月のことだった。
その時点で、この〈世界〉の作中時間としては、〈高校一年生の夏〉であった。メインキャラクターである凪、花蓮、理鮫、理栄はいずれも同い年の同学年なので、このように表現できる。西暦は分からない。
そして、今この〈世界〉の作中時間は、〈高校二年生の夏〉である。
普段日常系アニメを見ない人は驚くかもしれないが、多くの日常系アニメでは、作中時間がちゃんと進む。登場人物は歳をとる。高校一年生が翌年には高校二年生になるのである。磯野カツオが小学五年生の一年間をずっとループしている『サザエさん』とは違うのである。
高校で出会った仲間たちが、高校を卒業し、別々の大学に進学し、大学も卒業し、それぞれ仕事に就く。変わりゆく関係性と変わらない友情。そこに日常系アニメの美学があるのである。
『夏空ふぃっしんぐ!』もタイトルからは季節が固定されそうな印象を受けるが、ちゃんと季節の変化があり、四季の巡りとともに登場人物は大人になっていく。
話が逸れた。何が言いたかったのかといえば、〈俺〉は『夏空ふぃっしんぐ!』の〈世界〉に転生してから、能古木理栄として一年間も生きたということである。
元々の〈俺〉は、三十歳過ぎの男だったけれども、女子高生としての生活もそれなりに板についた。甘いものは大好きになったし、スマホのフリック入力は早くなったし、間違って男子トイレに入ることも無くなった。
自分の裸体を見て興奮することもなくなった。他の女の子と一緒にお風呂に入る時は未だにドキドキするが、それも多分〈同性に抱く憧れの範囲内〉だろう。
なお、なぜ〈俺〉が『夏空ふぃっしんぐ!』の〈世界〉に転生することになったのかについては、面白い話でもないので、ここでは省略する。
とにかく、能古木理栄として生まれ変わった〈俺〉、もとい、〈私〉は、能古木理栄の人生をそれなりに楽しんでいた。いや、かなり楽しんでいた。
もっとも、全く苦労が無かったかといえば、そういうわけではない。月に一度の腹痛が……とかいう次元ではない苦労がたしかにあった。
なんといっても最大の苦労は、この〈世界〉の世界観を維持することである。すなわち、この〈世界〉が、平和でほのぼのした日常系アニメの世界であり続けるために、私は黒子役として暗躍していた。
たとえば、登場人物間の話題がブラックな方向に行きそうになった時は、ゴホンと咳払いをし、『ところで』と言って別の話題を提供した。
ほかにも、間違っても異性間でけしからんことが起こらないように、若い男性客が泊まりに来た時には、『これ絶対に内緒なんだけど、あの人、ギャンブル狂いで多額の借金があるんだって。しかも、今、本土で八股かけてるらしい』とかあらぬ悪評を吹聴した。
この〈世界〉の〈日常〉を、私は縁の下で支えてきたのである。そこには並々ならぬ苦労があったのだ。
しかし――。
間違いなく、今回の事件は最大のピンチである。
バラバラ殺人なんて、どう考えたって『日常』ではない。
異物感で言ったら、〈酢豚にパイナップル〉なんてレベルではない。〈酢豚に毒ムカデ〉くらいの異物感だ。もしかしたらそれ以上かもしれない。〈酢豚にクトゥルフ神〉とか。
毒ムカデ入り酢豚を出した中華料理屋の客足が途絶えて潰れるように、クトゥルフ神を呼び寄せてしまった中華料理屋が周辺地域ごと滅ぼされてしまうように、バラバラ殺人を引き起こしてしまった日常系アニメは、終わる。
当然だ。そういうドギツイもの、そういう辛いもの、そういう悲しいものを見たくない人たちが日常系アニメの視聴者層なのだ。
視聴者の期待をモロに裏切ってしまったアニメの行く末としては、もう、打ち切りしかないのである。
アニメの打ち切り――すなわち、この〈世界〉の終焉。
『夏空ふぃっしんぐ!』の大ファンである〈俺〉として、作中の能古木理栄である〈私〉として、それだけは絶対に防がなければならない。
ゆえに、私は立ち上がった。
打ちのめされ、唖然としていても、物事は少しも好転しない。
なんとしてでも、平和な〈日常〉を取り戻し、維持をするのだ。
目の前の〈非日常〉をなんとかして、〈日常〉にアレンジするのだ。
そのためには――。
まず、助けが必要だ。
私は、パジャマのズボンのポケットからスマホを取り出すと、SOSの『LATIN』を送った。