虜囚
豪勢な料理、きらびやかな内装、踊り奏でる美しい女たち。
それらを冷めた目で眺めるネメシア。
現在、海のど真ん中を行く船の中で歓迎の宴が催されていた。
「美しく聡明な神姫様、あなたの慈悲深き選択に感謝を。これで我が国の繁栄も確かなものとなるでしょう!」
馴れ馴れしくも隣に座り、話しかけてくる詐欺師を無視して観察を続ける。従者、船の乗組員、人間ばかりだ。彼女と男を囲むように侍る白服たちだけが、詐欺師の手駒たる怪物のようだった。
「そういえば、あの黒猫は連れてこなかったのですか? まとめてお世話いたしますのに。」
「あれには留守を任せてきた。」
「そうですか! 守り神たる神姫様が不在となるわけですからな。その間の守り手というわけですか。」
うんうんと頷き納得したらしい詐欺師、ホウライの神姫という称号も、今は都合が良い。
それなりに宴に付き合った頃、疲労を訴え客間へ案内させることに成功した。歓待する気はあるらしい、広く贅を凝らした部屋ではあったが。
「……部屋全体に何らかの術がかかっているな。」
小さな窓に近寄る。暗い海、雲が多く星も見えない、そしてガラスに触れた指先に伝わる力の流れ。結界だろうか。
「まぁ良い。今は大人しくしているつもりだからな。しかし零毬を置いてきて正解だった。」
食事に入っていた薬物は、ネメシアには効かない。自分一人ならどうとでもなるという発言は本気だった。彼女は怒っていた。必ず身の程を思い知らせてやると決意して、ベタベタ触られるのにさえ耐えた。
「さて、目的地まで何日かかるのだろうか。」
来たる日のために、回復が優先と寝台に飛び込みさっさと眠るネメシアだった。
五日ほどかけて、船は港に辿り着いた。集った民が諸手を挙げて歓迎を示し、詐欺師は笑顔で手を振り返す。
詐欺師は詐欺師であるくせに一国の王であるらしかった。港から見上げることの出来る荘厳な宮殿へ向かったのだが、その間ずっと御輿の上で詐欺師に肩を抱かれ人間どもの見世物にされるという苦行に見舞われて、ネメシアはひどく疲弊させられた。
あれこれ手を出したがる使用人を追い払って、やっと一人、落ち着いて風呂に入れる。
「広い。高級。派手。悪くない、しかし味気ない……」
王宮の内装などは正直彼女の趣味に沿うものだったが、気が休まらず楽しめない。思考に余裕が出来ると、今度は零毬のことばかり考えてしまう。
あの類い稀な瞳が、生意気な声が、不器用な気遣いが忘れられない。
「私は、思っていた以上にあいつを気に入っていたようだ……」
溜息をつきながら湯船から上がる。客間と直結した風呂場だったのだが、室内に妙な気配の残滓を感じた。さっさと着替えようと、棚に目を移して。
「無い、無い? 無い!! どういうことだ、まさか……!?」
焦りのあまり着付けも適当なまま駆け出す。使用人を押し退け警備を蹴散らし真っ直ぐに詐欺師の部屋へ。豪華な大扉を吹き飛ばし対峙した男の手に、見間違えようも無い、あの簪が握られていた。すぐそばに頭だけの獣、妙な気配の正体はあれだったようだ。
「詐欺の次は盗みか? 王とは名ばかりの小悪党が!!!」
「あなたこそ、わたくしの花嫁となる自覚はおありですか? こんな安っぽい簪を大事にしたり、そんなふしだらな格好で歩いたりして。」
「御託はいい、それを返せ!」
パリ、ピリッと空気が啼く。更に踏み込もうとしたネメシアをせせら笑うように、詐欺師の手元に火の玉が現れ、朝焼け色の牡丹を照らした。
「貴様ッ!?」
「おやおや、随分必死なお顔で。そんなに大事な物なのですか?」
「貴様のようなゴミとは比べるべくもない!!」
暴言をぶつけられた男はさすがに頬を引きつらせたが、気を取り直すように笑顔を貼り付け、
「返してほしければ抵抗しないでくださいね?」
懐から銀の輪を五つ取り出した。宙へ投げられたそれらは意思があるかのように飛び、ネメシアの首、両手首、両足首に嵌まる。
不快そうな少女に満足げな詐欺師が近寄り、乱れている着物を整えたり、ピタリと嵌まった金属製の輪を撫でたりし始めた。その手つきや表情に、いつかの零毬と同じ熱を見たとき。
ゾッと全身が総毛立った。
「触れるな!!!」
バチンッ!
思い切り平手打ちして後退る。頭を吹き飛ばすつもりでやったのに手の跡を残すに留まったことから、力を制限する呪具をつけられたのだと察した。
「全くじゃじゃ馬な……悪い子には返してあげられませんよ?」
「ふざけるなよ、私に気色の悪い目を向けるな!!」
気持ち悪さや穢らわしさに腕を擦る、そんな少女に下卑た笑顔で詐欺師は言い放った。
「七日後の婚姻の儀、本番ではわがままは言わせません。これも結婚するまでお預けです。まあ、儀式が終わったら気にすることも無くなるでしょうけれど。」
結局簪を取り戻せず警備に引きずられ、部屋に帰らされたネメシア。呪具のせいで力の放出が制限されること、詐欺師の意に反しようとすると身体が重くなり妨害されることをこっそり確認する。不快で不快で仕方ないが、力の回復と循環は阻害されていないので問題ない。そして行動を起こす日も決まった。
七日後、婚姻の儀とやらで、奴を破滅させる。
音楽と人の声が空気に満ちている。華やかに飾られた大通りを見下ろせば、気持ち悪いほど人がひしめいていた。キラキラ舞い散るのは金粉だろうか、気前の良いことである。
「神姫様、こちらにおられましたか。」
召使いの女たちが声をかけてくるのに振り向いた。促されるまま移動し、衣装や装飾品の並ぶ部屋の中で一際目立つ白無垢。
これから袖を通す、虜囚の証。
「よくお似合いです! 王もきっと喜ばれることでしょう!」
「さあ、王のもとへ!」
化粧を施され送り出されたら次は、二度目の晒し者。詐欺師と並んでまた御輿に乗せられ、ぐるりと町を一周する。
「王様万歳!」
「神姫様~!」
「おめでとうございます!」
次々投げかけられる祝福の言葉、勝ち誇った顔の詐欺師に舌を打ちそうになるネメシア。民衆は裏事情など何も知らず、円満な結婚であり、国に加護を与えるために神姫様が嫁入りを決めたことになっているようだ。
「まだまだ盛大に祝いますよ、夜には特別に花火も打ち上げます。去年の祭りに提供したものより派手にしますからね!」
「去年の……その頃から私に狙いを定めていたわけか。」
「一途でしょう?」
「……」
冬の冷気もものともしない、熱狂と歓声の中を御輿は進んでいく。
王宮には、町の広場に向けて張り出した舞台が備わっていた。お披露目を終えた詐欺師が演説のために舞台に上がり、その数歩後ろに立たされたネメシアは、静かに男の背を睨んだ。
大衆の面前で奴を殺す、絶好の機会。
退屈な自画自賛と大仰な嘘っぱちを滔々と語っていた男が遂に振り返り、妻を紹介する、と戯れ言を吐いた。手招かれゆっくり歩み寄ると、優越感に満ちた笑顔が目に入り、不快。不快な男がネメシアの手をとる。
「外つ国では面白い考え方がありましてな。左手の薬指は心臓と繋がった特別な指だというのです。相手の心を繋ぎとめるために、この指に指輪を嵌めて誓いを立てるとか。」
顔を寄せ、潜めた声で告げながら逆の手に指輪を持った。
「その心臓、わたくしに捧げて頂きましょう。」
それが首などに着けられた呪具の強化版と気づき、気取られぬよう身体に力を巡らす。ゆっくりと、白い指に指輪が通され――。
刹那、悍ましき咆哮が轟いた。
民衆のざわめきも楽団の演奏もピタリと止まり、詐欺師が意識を逸らした瞬間、すかさず指輪を弾き飛ばし距離を取った。いつの間にか少し離れた家屋の屋根に、黒い影が立っている。
「我はホウライの神姫様に仕えし忠実なしもべである!!」
響き渡る、聞けなかった、聞きたかった声。
生まれて初めて感じる胸の高鳴りに、ネメシアは両手をぎゅっと握り込んだ。声は続けて王の罪を告発する。
「民よ、その男に騙されてはならない! 神姫様が婚姻を望んだなど真っ赤な嘘!! 怪しげな術で手ごめにしようとしている罰当たりだ! 我が主を解放せよ、さもなくば、神姫様を貶めるこの国には災いが降り注ぐだろう!!!」
「真っ赤な嘘はそちらの方だ、低級な妖め! 神に仕える者は神聖な白を纏うもの、皆も聞いただろうあの悍ましい咆哮を、皆も見えるだろうあの穢れた黒き獣が! 戦士たちよ、邪悪なるものを討伐せよ!!!」
流石詐欺師と言うべきか、即座に言葉を返し兵を指揮する男。しかし人々が動き出すより先に、あちこちで爆発音と火の手が上がった。悲鳴と怒号の合唱。弾ける火花からして夜使われるはずだった花火を利用したのか。大混乱に陥った状況に、詐欺師が取り繕えない舌打ちをこぼし、鬼の形相でネメシアに手を伸ばした。
「放せ、どこに連れて行く気だ!」
「予備の指輪があれば全て丸く収まる……おのれ畜生ごときがわたくしの邪魔を……!」
何を言っても耳に届かない様子で、乱暴に少女を引き摺りながら男は舞台を降りようとする。
今が好機、とネメシアはある魔法陣を解除した。
しゅるりと縮む手足、掴んでいた重みが無くなり体勢を崩す男。
呪具が肌から離れた一瞬奔る雷。
砕け散る銀の輪と切り裂かれた白無垢が、無様に落ち這い蹲る詐欺師の眼前に散らばった。呆然と男が見上げた先に立つのは、白と金の鎧に身を包む、幼くも凛々しい戦乙女。彼女が黒い剣を振り上げた。
スカン! と軽い音で剣が床に突き刺さる。
「逃げ足の速い奴め。」
なんらかの術を用い姿を消した詐欺師、苛立ちを顕わにする声に紛れ身軽な着地音が背後から聞こえた。
「ステキな格好だなぁ? あのクソ野郎からの贈り物か?」
「いや。主君に仕えていた頃の装備だ。素っ裸では逃げられんからな。」
ズカズカ無遠慮に近づいた零毬が、白い布切れとネメシアの反応を見て不機嫌そうな雰囲気を少し緩める。二人が見つめ合うこと少し。
「……何故来た。貴様にここまで来る理由など無いだろう。」
「は? それこそテメェに関係ねぇだろ! わざわざ拾って生かして、それなのにあっさり捨てるひとでなしにはな!!」
「捨て去る相手に箱庭をやるわけなかろう! 私は、貴様を解放してやったつもりだった! 共に居ることを拒んだのは貴様だろうが!!」
「な、違う! たしかに隠れ家に籠もってたが、感情を制御する魔法陣の研究をしてただけで! 余所余所しかったのは、アレは本当仕方なくて!!」
「はぁ!? 何のためにそんなことを……私が嫌いならここまで来るわけないし……?」
「逆だよ!!! ずっと傍に置いて欲しくて、迷惑かけないようにって――」
とすっ。
言い争っていた二人が同時に視線を落とす。矢が刺さっていた。顔を上げれば燃える町並み、逃げ惑う人々、混乱を脱し隊列を組む兵士。王宮内からもたくさんの足音。ネメシアが剣に手をかざせば、呼び戻されるようにそれが手元に返ってくる。
「……お互い何かすれ違ってたってことで、まず逃げようぜ?」
「そうだな。しかし私は王宮にまだ用がある、ついてくるか?」
「ここまで自分の意思で来てんだぞ、否があるかよ!!」
黒い爪と黒い剣が共に閃き、襲い来る者どもをまとめて両断するのだった。
「で、用ってなんだよ。気に入った宝をかっぱらってくとかか?」
「近いが少し違う。」
ネメシアの先導で廊下を駆け抜けていく。迷いなく進んだ先、厳重な警備を斬り捨て結界を蹴破り辿り着いた扉を開けると。
「おぉ、王様っていうだけあるな……!」
ギラギラと宝石の輝く彫刻や、箱いっぱいの金銀が収められた宝物庫だった。しれっと手近な金細工を懐に入れる零毬。
「あったぞ!」
美術品も貴金属の塊も放り捨て、何かを探していたネメシアが声を上げた。
「俺が作った簪? なんでここに。」
「奴に盗まれていてな。全く不届きな輩だ! 厳重に隠したところで、私の力を宿しているのだから探すのは容易いのに馬鹿なことを。」
その簪だけ大事そうにしまって、すぐ宝物庫を出た少女。それを追いかけつつ納得いかない顔をする青年。
「それだけ? もっと何かなかったのか? せっかく王宮を漁れるのに……貴重なものや凄いものがあったろ?」
「あの男は機嫌取りと自慢を兼ねて、様々なものを見せびらかしてきたが。」
いったん言葉を切り、振り返るネメシア。
「貴様の瞳より美しい宝石は無かった。貴様の簪より身に着けたい装飾品も、貴様との生活より楽しませてくれる歌劇も、心惹かれる美術品も無かった……私の心を満たせるのは貴様だけだ。
貴様は他の何より特別な宝だ、誇るがいい。」
何食わぬ顔で放たれた殺し文句。衝撃で固まる彼に気づかず少女はまた歩き出し、零毬は震える身体や滲む涙を必死に抑えてついて行くほかなかった。
「……アンタの趣味変わってるよ。捨てられたゴミ拾って宝物だなんて、幼子じゃあるめえし。」
「節穴な奴らが見落とした宝を見つけただけだ。そもそも他人にとやかく言われたところで私の好きなものは変わらん。」
「ンンッ!? ひぃーっこのひとでなしがさぁ……!!」
急に奇声を上げて悶える零毬に怪訝な顔をするも、迫り来る足音に臨戦態勢を取る。
「……っと、このままじゃ囲まれる! 壁ぶち抜いて外に出るか!?」
「そうしよう、行くぞ!」
斬撃と蹴りで砕け崩れる壁、飛び出した二人はくるり踵を返し更に斬撃の嵐を放った。敵陣の先頭を巻き込みつつ周りの壁を切り裂いて、建物を崩落させ後続も潰す。
チラリと視線を合わせ、どちらからともなく笑ってまた走り出す二人。
「しかし詐欺師はどこへ行った? 人質ならぬモノジチが有効に見せかけておいたのに、簪の近くにはいなかった。」
「確かに出てこねえのは不気味だな。兵士は人間みたいだし、化け物は温存されてる? それとも人前では出せないのか?」
「奴の首は獲って帰りたいが……おっと!」
飛び退いた地面を矢の雨が襲う。二階廊下に弓兵が展開し、こちらを狙っていた。正面からは刀を携えた兵士が走ってくる。
「ちっ、しつこいな!」
「ネメシア! こいつらおかしいぞ、人間の膂力じゃねえ!」
「術がかけられているようだ! 暗示、いや洗脳か!?」
雷で降ってくる矢を払い除け弓兵どもを焼くが、仲間が死んでも平然と列を組み直し、刀を持つ兵士に当たっても構う様子が無い。
刀持ちの兵士らと取っ組み合っていた零毬が、なんとか競り勝ち胴を切り裂く。鮮血が飛ぶ中次へ襲いかかって見事首を獲り、牽制に振り回す爪が数人の手足を奪い、包囲網に隙が出来はじめていた。
「零毬走れ!!」
毛が逆立つような力が周囲に満ちる。黒き剣に導かれ、真っ白な光が焼き払う。遅れてきた雷鳴は犠牲者には届かず、黒焦げの物体が残るばかり。
「さっすがぁ!」
警告に迷わず従った青年が、雷撃の範囲外にて囃し立てた。
絢爛豪華な宮殿に目もくれず駆ける。ふと思い出したように傍らに問う零毬。
「この二週間足らずで随分力が回復したんだな。雷バカスカ撃って大丈夫なのか?」
「稼いだ時間を限界まで回復につぎ込み、増幅させたからな。万全とは言えずともまだ余裕はある。」
「そりゃ良い! 王宮の裏手、山を越えたところに浜があって、そこに舟を隠してある。とりあえずホウライに帰るってことでいい……よな?」
「当然だ、よもや貴様、私が本気でこの地に留まる気だと思っていたのではあるまいな。」
「だって褒美と称して身体を……とか言ってたし、箱庭造りに利用するためならあの野郎の嫁になっちまうかもと思ったんだよ! だから急いで来たんだぞ!!」
「私を何だと思っている!? この身はあんな下郎にくれてやれるほど安くはない! 貴様が来ずともあの詐欺師は消し炭にしていたところだ!」
「……じゃあ俺の心配しすぎだったか、よかった……」
あれ? じゃあ俺に対しては? と彼が考えかけたのを妨害するように、弓の鳴る音。通り過ぎる矢。
「またかよ面倒くせぇ……!」
「違うぞ零毬! 本命の、お出ましだ。」
眼前に広がる大庭園。ここさえ抜ければ山を下りるだけ、しかしそうはさせぬと立ち塞がる妖の群れ。見覚えのある獣の首はともかく、大太刀を手にした巨躯の白服が目を引く。化物皮が嫌がるようにざわめいたのを零毬は感じ取った。
妖どもを盾にして弓兵隊を展開する詐欺師の姿を確認し、視線を交わす二人。
「私があの大太刀使いを相手取る。奥にいる人間どもをやれ。」
「おう!」
ゴォッ!!
振り抜かれた刃を、大地を這うように駆けて潜り抜ける。飛び交う獣の首を通りすがりに切り裂きつつ、飛ぶ矢を確実に避ける。ここが正念場だと示すように、矢からも警告めいた悪寒がした。
「獣は殺せ! 女も手足が欠ける程度なら構わん!」
声のした方をギラリと睨む。振るう爪、五つの斬撃が空を裂き、しかし獲物に届かずかき消された。詐欺師が鈴を鳴らし、結界を張ったのだ。それならば守りごと砕いてやる、と彼は両足に力を込めた。
一方ネメシア、隙の大きい長物と小柄で素早い彼女は相性が良かった。跳ね回るように撹乱、翻す黒い刃。だが白服は倒れない。斬っても血が出ないどころか、手足を切断してもすぐ元通りになり、動き続ける。
何度目かの薙ぎ払いを躱し、少女は曲芸のように大太刀の峰に降り立った。そこから跳躍、反動で地にめり込む大太刀。白服の肩に着地し頭を蹴り飛ばすまで、一連の動作は一瞬で、蝶が舞うようだった。べちゃりと落ち、頭巾や面布の間から零れたのは泥。身体の方の断面がウゾウゾと盛り上がり、泥の頭が生えた。
「泥人形……あぁ、術の大元は地中か。」
即座の無効化は難しいなと呟き、白服の手を逃れ距離を取る。さっと戦況を確認。
詐欺師の一団は庭園に不釣り合いな土壁を使って戦っていた。壁から壁へ飛び移り弓兵を無視して敵大将を狙った零毬が、泥の鞭に叩き落とされネメシアのところまで転がってくる。
「いっっってえ! クソッ!」
「庭園全体に土を操る術が埋め込まれていると見た。いつ足を取られるかわからん、ここで戦い続けるのは危険だ。貴様、アレは持っているか?」
「アレ? ……あー、一応。」
「よし、ではここを出るぞ。」
飛ぶ首の追加は無し、泥人形が大太刀を構え直し、弓兵がキリキリと弦を引き絞る。二人はそれらに背を向け、一路外へと走り出した。
「零毬、一つ寄越せ! 残りを地面に打て!」
「あいよ!」
「絶対に逃がさんぞ! 前進せよ、奴らを追え!」
足元が見る間に泥濘んで無数の泥の手が生えるが、石杭が泥に突き刺さると周辺のものは崩れ去る。
「こちらの傀儡化の方が強いのだ! 私に効くだけはある!!」
「なんでアンタが得意げなんだよ!?」
右手で杭を投げ、左手で範囲外から伸びてくる泥を払い除ける忙しい青年。その背を少女が守る。ズン、ズン、と重たい動きで、しかし巨体の割に素早く追ってくる泥人形が大太刀を振り上げた。二人まとめて間合いに入る、その瞬間。
ドッ!!!
「“崩れ落ち地に還れ”!!」
顔面にあたるところへネメシアの投げた杭が深々とめり込み、続いた命令によって動かぬ土塊となった。こんもりと山が出来上がったが、そのすぐ横の地面が隆起。新たに人の形をとり始める。
「面倒な……」
「げっ、敵の増援が来ちまった!」
ぬかるみ道が終わりと思えば、兵士たちに先回りされていた。背後の弓兵は容赦なく矢を放ってくる。挟み撃ちだ。
「ネメシア、出来るだけ派手に目眩まししてほしいんだが、いいか?」
「ああ!」
小声でやりとりしつつ、目の前の敵を屠る。袈裟に横一文字に踊る剣、ネメシアの周囲に空白が生まれた一瞬、すかさず雷を呼んだ。
暴力的な光が眼を灼くのと、
「ぐ……っ!」
零毬の圧し殺した悲鳴が聞こえたのはほぼ同時だった。
土の防壁が崩れ無傷の詐欺師が顔を出す。無差別に落とされた雷によって花木は煙を上げ、泥濘は蒸気を発し、周囲は白く煙っていた。兵士へ指示を出そうと口を開きかけ、動きを止める。揺れる白煙の間にそれが見えたのだ。
黒き獣は、先程までとはすっかり姿を変え完全な四足歩行になり、体高六尺ほどに巨大化し、傍にいた哀れな兵士を一人噛み砕いていた。ぐるり首が巡り、目が合う。
――グルァアアアァアァア!!!
咆哮と衝撃波、モヤが吹き飛び視界が晴れた。不気味にうねる毛並みを晒し、黒獅子は蹂躙を開始する。
「弓兵隊! 構え――」
「うわああぁ!!?」
「なんだあの化け物!?」
一拍遅れて恐慌状態に陥る兵士たち。暗示がかき消されるほどの威圧と瘴気に、人間は役に立たぬと判断した詐欺師が泥人形を作り出す。瞬く間に兵士を鏖殺した獅子が、男に躍りかかった。
「俺以外が化物皮を着たら、あんなもんになるんだな。やばいな……」
「言っとる場合か!? あの一瞬何が起こった、腕はどこにやったのだ!!」
庭園の外、少し下った山の中に二人はいた。悲鳴や吠え声が聞こえてくる方を振り返ってのんきなことを言う零毬、それを叱り飛ばして、ネメシアは適当な紐で彼の右肩口を縛る。
零毬の右腕は、上腕の半ばからすっぱり無くなっていた。
「アンタが大技使って隙が出来たとき、詐欺師が何か投げたのが見えて。咄嗟に手を伸ばしてそれを捕まえたら、泥人形の刀を避けられなくてよ。ついでに背中の矢も抜いてもらっていいか?」
「……随分平気そうだな? 血も流れ出ていない、何をした?」
「痛みや恐怖、怪我で動けなくならないように、戦うためにありったけの陣を組み合わせてきた! ただ書いたり身に着けるだけじゃだめだと思って、石に刻んで呑み込むまでしたんだ。石が無事なら大丈夫だ、まあ副作用とか考えてないから後の方が怖いけどな!」
口調は軽いが、彼に余裕があるわけではない。右腕も化物皮も失い、体中に傷を負っていた。矢を引き抜くとき少し呻いたあたり、痛覚を完全に遮断できているわけでもない。ただの強がりを、それでも崩さず歩き出す。
「しかし、腕を切り落とされながらよく化物皮を他の人間に着せられたものだ。よくやったな。」
「ちょっと囮になってくれれば御の字ってつもりだったんだが、アレは予想以上だ。」
足元がおぼつかない零毬を、そっと支えるネメシア。こうなった以上詐欺師の殺害は後回し、逃げて傷を治してやらねば、と考えているうちに視界が拓ける。森が終わり、平坦な岩場を挟んで砂浜が見えた。
「岩場の先端部、下に空間があって、そこに舟を隠してある。先に行って、舟を出してくれ!」
「……わかった。」
慎重に零毬から身体を離し、駆け出すネメシア。とはいえ然程の距離も無く、手早く岩陰から小舟を引っ張りだせた。
「こんな物で海を渡ったのか、あやつ。陣で強化しても無茶は無茶だったろうに。」
浜に舟を置いて振り向けば、零毬も岩場の端に辿り着くところだった。
「その身体では降りられまい! 今行く!」
身軽に跳びあがり、手を伸ばしながら駆け寄ろうとした、その時。
ドォンッ、と。銃声がこだました。
零毬が、何かに押されたかのようにたたらを踏み、震える左手で腹を抑えた。
ぼたぼた音を立てて、あるいは静かに身体を伝って、青年の足元に真っ赤な水溜まりが出来る。
ネメシア、と動いた唇から零れたのは、声ではなく血だった。
がくりと膝をつき、倒れ伏す零毬。その向こう側、あの詐欺師が銃を構えていた。銃口から立ち上る一筋の煙。
「わたくしのモノにならないなら、死ね!」
このために温存していたのか、妖の大群を呼び寄せる男。
牙を剥く異形。
しかし少女めがけ殺到した怪物どもは、走り抜けた雷に縫い止められた。
「なっ!?」
細くも強く煌めく、光の鎖に縛られて魑魅魍魎が道を開ける。驚愕に瞬いた直後には、少女は眼前に移動していた。
感情の一切を排した美しい顔に、湧き上がるのは恐怖だけ。
「もはや私が手を下す時間も惜しい。」
ネメシアは手の届く距離に近づきながら、何もせず背を向けた。少女に襲いかからんと動いた男、だがバラバラと己の懐から落ちた物に動揺し、青ざめる。
くどいほど身に着けていた装飾品……魔除け厄除け、契約の証、男を護っていた物が全て砕け散っていた。
鎖が解ける。妖の視線の先は、ネメシアでも、零毬でもなく。
「今まで食い物にしてきた奴らに、魂まで残さず貪られるがいい。貴様には似合いの末路だ。」
その言葉を最後に、ネメシアは詐欺師に対する全ての興味関心を捨てた。
駆け足で戻り、血だまりにためらいなく踏み込んで零毬を助け起こす。溺れたような水っぽい呼吸音の後、ごぽりと大量の血を吐く彼。ぽろぽろと、血に混じって石の欠片が落ちる。傷という傷からダラダラと血が流れ続けていて、その量が致命的なのは明らかだった。
「零毬、なんでもいい、願いを言え。契約さえすれば死なずに済む。」
青年の頭を抱えるように抱きしめ囁いた。ぐったりした体が微かに強張り、弱々しく瞼が持ち上がる。死に瀕してなお美しい右目。
「どうした、言え。何でもいいから。」
言葉を重ねるネメシアに、零毬は答えない。どこか幸せそうな表情を浮かべる姿に何故か、腹の底が冷えるような感覚を覚えた。
「……いら、ない。何も。」
「は? 馬鹿を言うな! 死にたくないと、前のように言えばいいだけだぞ!」
「……ふふ、本当に、さ。なんか……満ち、足りた、気分で……」
既に焦点の合っていない目が、懸命に少女を見上げている。
「欲しいものは、もう貰った……俺を、たからものって、それ……だけで……」
「生き延びれば幾らでも言ってやる、そんなこと! だから……」
ぐいと引き寄せて額を合わせる。契約に必要なのは、偽りの無い願い。僅かでも希う心。心に直接触れて探し出そうとして、何もないことに愕然とした。言葉通りの、暖かな満足感があるだけ。それも命と共に薄れ消えていく。
「だめだ零毬、どこにもいくな。私を、わざわざ連れ戻しにきたのだろうが。貴様も帰らねば意味が無いだろう!? おい……っ!?」
ふつり、何かが切れてしまったような感覚。腕の中からずり落ちかけた身体を、慌てて支え直す。かくんと首が揺れて、血の気を失った白い喉が晒された。
「……零毬?」
返事は無い。閉じかけで止まった瞼、虚ろな双眸。どんなに強く抱きしめても、どんなに耳を澄ませても、何も感じ取れない。鼓動、呼吸、血液の流れ、喧しいくらいだった生命の音は全て消え失せ、空っぽになってしまったことだけがわかる。
最後に残った微かな温もりまでなくなって、冷え切ってしまっても、それでもネメシアは零毬をただ抱きしめ続けていた。