反逆
竹を組み、縛る。柵の出来を確認して、零毬は息を吐く。後は庭に立てればよし、次は橋の塗装直し……と予定を脳内で構築しながら庭を見渡して、ん? と首を捻った。
「主サマー? ちょっとよろしいですか?」
「なんだ。」
「花が散らずにあるのは、主サマの御力ですか?」
零毬の指す先、満開の花が揺れていた。彼は花について詳しくないが、庭が四季に合わせて分類されているのは分かっていた。なにせ季節を代表する有名どころが区画毎に咲き誇っていたので。
「桜が花びら一枚落とさないのはどうやっているんでしょう? 時期でない花が平然と満開でいるし。」
「私の持つ技術によるものだ。……ふむ。貴様には習得させる必要があったな。作業を中断し、ついてこい。」
「えっ?」
習得? と逆方向に首を傾げながら零毬はネメシアを追う。土間に作りたての柵を置き家にあがって、ネメシアの部屋へ。寝台と文机しかない部屋で、指示通り机の前に座った。
「この本のこの頁だ。」
納戸から出てきたのは恐ろしく分厚い本で、普通の少女なら持ち上げられなさそうな重厚感だった。ネメシアは人外だからか片手で持ってペラペラ頁をめくる。
手のひら大の正方形の中にびっちり何かが描き込まれた図と、それについての説明が載っていた。
「なんですか、この気持ち悪い……線の塊? 模様?」
「魔法陣、と言っても分かるまい。これにはたくさんの種類があり、一つ一つ効果が決まっている。貴様はこの、標本化というのさえ覚えれば良い。標本化の陣を小さな杭に刻み植物に挿し込めば、状態を保つことが出来るのだ。」
外的要因の損傷には弱いがな、と零毬を睨むことも忘れない。
「しばらく貸してやる。木片かなにかに刻む練習でもしろ、採取直前に使わねば箱庭まで花が保たない。」
「目立たない大きさの物に、この細かいのを刻む……って、む、無理ですよ! 人間にゃ無理! 主サマがつくった方が早――」
「下僕の分際で主を使おうと? いい度胸だな。」
「申し訳ありませんでした。」
圧に負け頭を下げる零毬だった。
「っあーー! 指攣った……!!」
(無理だろもう! 針でチマチマ削るしかないし目がおかしくなりそうだし!)
「人間はつくづく不便だな。」
(こいつは人を馬鹿にしかしねえ!!!)
ありとあらゆる罵倒を呑み込んで考える。米粒に字を書くより難しいこの難題をどう解決するか。
「これ、簡略化出来ないんですか?」
「知らん。考えたことも無い。」
にべもない。ネメシアはいつもこうであるが、唯一知識を持っている者であるのにその態度はどうなんだと思わずにはいられない。
頁をめくる。本の最初の方に、魔法陣の構造について説明があった。
「……効果を決める図形と、それを繋ぐ線で出来てんのか。でも配置と繋ぎ方に制限があって……うわ、線の長さにも制限……ふーん、これは複雑になるな……」
本の内容に没頭する零毬を眺めていたネメシアは、何か思いついたように立ち上がった。納戸から紙束と筆記用具を取ってきて、思考を中断させられ不満顔の零毬に押しつける。
「な、なんです?」
「やってみろ、簡略化。貴様の考えを書いて見せろ。」
「えぇ……? 出来るかもわかんねえのにそんな。」
「出来なかったとしても私は損をしない。貴様は試行錯誤して私を楽しませれば良い。」
「は?」
酷い言い草に眉をつり上げる彼を気にせずやってみろと本を指で叩く。零毬も書きとめる物が欲しいところだったので我慢して、筆を取った。
まず魔法陣の基本法則。
頁をめくって標本化の陣を確認、必要な要素の書き出し。
真面目な顔で白紙に書き込んでいく零毬をじっと見つめ。
「貴様、読み書きする時さえ片目では不便では無いのか?」
「ずっとこうなので。邪魔しないでくれません?」
また集中を切らされて嫌そうな彼に、何故かネメシアも不服そうにしていた。
時間は過ぎていく。零毬の知らないうちに、暦は二月終盤に突入していた。
簡略化を試み始めてそう経ってはいないが、零毬は限界だった。机に上半身を預け呟く。
「腹減った……」
そう、空腹。ここしばらく水しか口にしていない。ただでさえ冬の山は食糧に乏しく、しかも聖地には動物がほとんどいない。今までは雪をかき分けて秋の名残を探したり、釣りで魚をとっていた。
それが、箱庭で魔法陣の研究を始めたことで時間が確保できなくなってしまったのだ。
(ネメシアの寝てる間に外に出ようとしてもすぐ気づかれるしな……)
ちらりと寝台で横になる少女を見た。最初こそ零毬の様子を見ていたネメシアだったのだが、今は飽きたのか寝てばかりいる。そして、起きても進歩が無かったり外に行こうとしていたりすると、
「つまらんな。」
と言い捨てるのだ。
腹が立って意地になって、食事を諦めて魔法陣の研究を続けていたが、空腹に支配された頭はやはり役に立っていない。
「駄目だな、人間食わなきゃやってられねえんだ。はあ、死ななくするなら、飢えも感じなくしてくれ……」
ふらふらと外へ向かう。そっと振り向くと、珍しくネメシアは眠ったままだった。
化け物に変身し岩壁をよじ登っていく。下では番犬が無意味に吠え散らしていた。目指しているのはあの隠れ家である。
「番犬どもが食えりゃ良かったのに。」
喧しい吠え声にウンザリしながらぼやいた零毬、実は飢えに耐えかね、この間番犬に齧り付いたことがあった。食いちぎるまでいったが直感的に食えない、と思って吐き出し、それ以来挑戦していない。
辿り着いた穴倉にドサリと倒れこむ。腹が減って、動くのが辛かった。それでもここまで来たのは、なけなしの食料のため。
厳重に隠したハチミツ。
貴重な食べ物で、更に貴重な甘味。
「ふふふ、久々の食い物……」
「気味の悪い笑い方だな。」
「ヒィッ!!?」
裏返った悲鳴、取り落とした小瓶が音を立てて転がる。
聞こえるはずのない少女の声。
おそるおそる振り向いた先ではネメシアが、小瓶を拾い上げ興味深そうに眺めていた。
「あ、あ、主サマ……?」
「何をアホ面さらしている。聖地は私の領域、主が庭を歩き回るのがそんなにおかしいか。」
「いいえ……」
動揺に震えている零毬。しかしネメシアがおもむろに小瓶の蓋を開けたので我に返った。
「ちょっ!?」
「なんだこれは。食い物がどうとか呟いていたな?」
「っ返せ!!!」
初めてネメシアに対して怒鳴った。
零毬は追い詰められていた。飢餓で、心労で、僅かにあった人外への恐れや敬意が吹き飛んで、勢いのまま飛び掛かる。
押し倒してその手から小瓶をむしり取るのと、小さな手が彼の首を捉えたのはほぼ同時。
「下僕の分際で!!」
命が抜き取られる感覚。ぐわん、と視界が揺れ、力が入らなくなった。
「「あ」」
するりと落下した小瓶。カン、カラ、と跳ねた後、呆然とする二人の目の前で、穴倉の外へ消えていってしまった。
慌てて下を覗き込んでも、何処にも見当たらない。荒々しい岩肌と高さを考えれば、小瓶が駄目になっているであろうことは確実だった。
「…俺のハチミツ……」
その場に崩れ落ち、地面に拳を打ちつけ悔しがる。土埃を払って立ち上がったネメシアは、零毬の様子に戸惑った声を出した。
「そんなに重要な物だったのか?」
「あったり前だ!! 最後の食料、唯一の楽しみだったのに…!」
「貴様は死なないはずだ。食べることは人間にとってそれほど重要な娯楽なのか?」
「違ぇ! 死活問題だよ! 腹減ってどうしようもねえの、いっそ飢えも渇きも感じなくしてくれれば良かったのに!!」
「……………飢え、渇きとはなんだ?」
予想外の問いに今度は零毬が戸惑う。まじまじと少女を観察して、それが本当に知らないものを聞いたときの反応だと確信した。
(ああ、人間じゃないって、こういうことか……)
同じようなかたちなのに、中身はきっと似ても似つかないのだろう。
零毬が飢餓で狂いそうになっていても、ネメシアは変わらず首をかしげるだけなのだろう。
どうあがいても埋まらない隔絶を目の当たりにして。
(こいつは知らないんだ、俺が味わってる苦しみを。なのに、俺から食い物を奪いやがった……
この、ひとでなし、が!)
彼は、少女を相容れない許し難い敵として認識するに至った。
「……もういいです。すみませんでした。」
「あっ、おい?」
もうなにも見たくないと目をそらして、飛び出していく零毬は見なかった。
ほんの僅かに変化したネメシアの表情を、迷子の子どものような顔を。
箱庭に戻り数日後。飢餓感を怒りという原動力に変えて、深く集中することに成功した彼は魔法陣をすさまじい勢いで解読していた。
おあつらえ向きに、邪魔なネメシアは何処かへ出かけると言って不在。
「今までから察するに、アレが俺から命を取り上げるには、触る必要がある。逆に言えば、触られなけりゃ戦えるはずだ。」
零毬が書いているのは傀儡化の陣。あの神もどきと戦うための武器であり、自由になるために必須の手段だった。他にも、幾つか別効果の陣を用意しておく予定だ。
「アレが帰ってくる前に、準備を終わらせちまいたいな。……絶対出し抜いてやる。」
雪が溶け始める頃、ネメシアは聖地へ戻ってきた。神事で使われる広場を転移場所として降り立ち、冷たさの和らいだ空気で時間の経過を感じる。
「少し、あちら側に長居しすぎたか……」
整備された道を見上げた。真っ直ぐ進めば、箱庭に帰り着ける。カランと黒漆塗りの下駄を鳴らし歩き出した。
神事のためであっても人の立ち入りが許される場所は少ない。石造りの道が終わり、細い土の道が森の中を、そうとわからないように更に続く。そこに踏み込もうというとき。
「お帰りなさいませ、主サマ!」
「……出迎えとは殊勝なことだ。」
零毬が姿を現した。ひどく気が昂ぶっていると一目で分かる顔だった。他人の感情を推し量れないネメシアさえ、ただ事ではないと身構える程に。毛皮を着て変化する男に対し、少女も重い下駄を脱ぎ捨て足袋だけで地面を踏みしめる。
「俺、やっぱり主サマの下僕じゃいられないんですよ。もう我慢ならない。
……引き摺り降ろしてやる!」
飛来する爪の斬撃、弾く少女の手には黒い剣。森からぞろぞろと番犬ども。
「完成させたか。」
ぎゅっと少女が眉をひそめる。悪辣な笑顔で青年は肯定した。傀儡は忠実に、少女に襲いかかる。
一刀で二匹斬り、次を躱して地を蹴る。零毬へ肉薄するその目前に犬が割り込んだ。
「ちっ!」
真っ二つの死骸の向こう、既に距離をとっている標的に舌を打つ。傀儡とした番犬を盾にし、斬撃を飛ばす姑息な戦法。矮小な人間の抵抗。
「叩き潰してやろうぞ!!」
少女が高く剣を掲げ雷を呼ぶ。雷が目を、森を焼いた。視界を失った犬どもの悲鳴。これで終わりと振り下ろした剣はしかし、がしりと捕まった。
零毬が、頑なに隠してきた右目を見開いていた。
一瞬ネメシアが呆ける。咄嗟にのけぞった喉元を爪が掠った。白い肌と着物はすぐに紅く染まる。
「ハハ、ひとでなしでもこの目は不気味か?」
見せびらかすように右目を示し嗤う青年。その瞳は外周が青、内側が薄茶、狭間に緑が遊ぶ妖しい色をしていた。体勢を立て直したネメシアが袖で首を拭うと、傷は既に無い。が、少女は頬を紅潮させ怒りに歯を剥いて青年を睨んだ。
「着物を駄目にした償いも追加だ!」
表情の割に動きは冷静、雷と剣で木々を薙ぎ払い逃げ場を奪ってくる。零毬も不利を覆そうと指揮をとる。
番犬の群れが互いの視界を遮った。躊躇なく斬り込むネメシア。すぱぱ、と軽々両断された仲間が散る中、刃を逃れた個体が牙を届かせた。柔肌を裂かれ血を流す少女は、見た目の痛々しさに反し苛烈に攻める。
「降参してくれたらヤサシクしますよ主サマ!」
「ぬかせ!!」
爪と剣がぶつかり火花が散る。
怒号をぶつけ合い睨み合う。
網のごとき軌跡で迫る斬撃を剣が払い除けそのまま首を狙う。防御した腕から軋む音、しかし刃は毛皮を通らなかった。反撃の爪が薄い皮膚を裂く。
ネメシアは一方的に傷だらけにされているが、後が無いのは零毬の方だった。
「貴様の盾はあと幾つ残っている?」
群がる犬どもを斬り捨てて零毬に微笑むネメシア。戦闘力の差は圧倒的。盾無しで距離をとるのは難しいと、彼も分かっていた。だから。
「……突撃!!」
だからこそ手札を切るのだ。
「正気か!?」
号令になだれ込む傀儡。四方八方が番犬の姿で埋め尽くされる。戦いの体すら取らない数の暴力。もみくちゃにされ、食い千切られる少女の悲鳴。
バチッ!
悲鳴に呼応して、空が光る。追撃を掛けようとした零毬は直感に従い全力で飛び退いて。
閃光。
遅れた音と衝撃で吹っ飛ぶ零毬。ネメシアの呼んだ特大の雷が周囲を蹂躙したのだ。消し炭の真ん中、ぼろぼろのネメシアが立ち上がる。
「貴様……! よくも私をこんな目に!!」
布切れになった着物を必死に押さえ若干涙目で零毬を罵った。動きづらそうにしながら剣を振り回す。
(あと一歩……!)
この時零毬はほんの少し、気を抜いた。作戦成功で有利に持ち込んだこと、化物皮がネメシアの剣を防げたことで勝てると思ってしまった。混乱しているのか、めちゃくちゃな動きをするネメシアに接近。
(剣を受け止め、その隙に最後の切り札を使う。それで終わり――)
剣の軌跡が、やけに白く目に焼き付いた。ぼたっ、重い物が落ちる音。
肘上から無くなった右手。
「――――ッアァァアァ!?」
悲鳴を上げながらも逃げた。間合いに入った途端的確に急所を狙ってくる剣。冷徹な少女の顔。
(演技かよクソ!!! 油断させるために、斬れない振りしたってのか!?)
激痛と出血。
鈍る感覚。
よく見れば剣はいつの間にか光を纏っていた。三撃、毛皮をものともせず貫く切っ先。胴体に穴を開けられ堪らず零毬は倒れた。
「貴様は考えが足りん。勝てない勝負を仕掛けたり、こんな分かりやすい引っ掛けにつられたり、な。」
ピッと剣の血を払いながら歩くネメシア。零毬を見下ろし、その腹を踏みつける。苦悶の声と共に血溜まりが広がった。その体が弛緩したのを確認して、胸ぐらを掴む。上半身を無理矢理起こされた零毬、睨む眼光は鋭いが、虚しい程抵抗できていない。
「なんだ、もう力尽きているも同然ではないか。よくまだそんな目ができるな。」
さあ、終わりにするぞ。
その言葉に抵抗するかのように、ネメシアの背後で足音。二人とも聞き飽きた、犬の駆ける音だ。
「最後の一匹か! なんの足しにもな――」
ネメシアが目を見開く。その手から剣が落ちる。
「ありがとよ、侮ってくれて。」
零毬は嗤っていた。
倒れ込む少女、その足を咥えた犬の牙に刻まれた陣は、生命力の簒奪。陣を通して動くだけの力を取り戻した零毬は最後の切り札を取り出す。
「下僕になんのはテメエだ!!」
傀儡化の陣を刻んだ、石の杭。ネメシアの体に突き刺し、陣に光が宿り発動したのを確認して。
「はは、ハハハッ……やってやった!! やったんだ!!! どうだオラッ、散々見下しやがって! 俺の勝ちだろ!!?」
すっかり汚れた金髪を鷲掴む。ガクガク揺すっても抵抗しない姿に気を良くし、笑みを深める様は悪人のそれ。満足げに頷き、手を離して座り込んだ。
「よし、よし…疲れた。あとは休んでから考えよう、箱庭に帰るぞ。」
緊張が解けてガクガクする足で、なんとか立ち上がる。命令に反応した一人と一匹。軽快な足取りでついてくる番犬、ズルリと重そうな動きで立ち上がる少女を見てから背を向ける。歩いて帰るのも面倒だな、なんてくだらないことに思考を傾けながら歩き出した。
「貴様は本当に考えが足りん。」
驚愕に開いた口から血が溢れる。視線を下げれば胸を貫く黒い刃。
「侮ったのは確かだ。貴様の陣は思ったより出来が良かった。この私がレジストに時間を掛けてしまうとは……」
剣を引き抜かれ支えを失い、地に伏す。必死に首を捻って振り返って、目撃した。
切り札だった石杭がぼろぼろと崩れ落ちていくのを。
「化物皮にしろ魔法陣にしろ、私に致命的な不利をもたらすようなもの、与えるわけが無かろうに。」
下克上は失敗。
最後に聞こえた声は、憐れむような色だった。