酩酊に沈む街
ぱたり、閉じた戸に寄りかかって溜息をついた少女。
「だめだったのか?」
「ああ、のれんに腕押し、というやつだ。」
寝台に寝そべってくつろいでいた零毬に近付き押し退け、自分も寝転んで彼の胸に頬を寄せるネメシア。
「全ての後処理が終わって四日、透子が部屋に閉じこもるようになって四日……なんなのだまったく。」
何度目かもわからない溜息、これは落ち込みからではなく、呆れたり面倒さにうんざりしている意味合いの方である。
「チヨビレを出る直前くらいから、やけに気落ちした様子だったな。周りに何か言われたとかじゃねえか? 別にアイツのことなんかどうでもいいだろ、置いて先に進んだっていい。」
「だがな、祝福はもう集まりきる寸前だし、こちらの内情を受け入れた協力者は結構貴重なのではと気づいてしまったので、少し惜しいと思うのだ。透子が塞ぎ込んだ原因がわからないままでは、次の協力者をつくったときに轍を踏むやもしれんし。」
「そうは言ってもな、俺からすればアイツは甘ったれてるだけだぜ? 辛い辛いって表に出してれば周りが何かしてくれる人生だったんだろうな、幸せなヤツ。」
棘を隠そうともしない零毬の物言いに、ネメシアは数回瞬き、思考と視線をくるりと動かした。
「……零毬、透子と話をしてこい。」
「はぁ!? 嫌だよ逆効果だろ仲悪いんだから!」
「信者仲間や私が行っても碌な反応が無かったのだ。様々な条件で試すのは検証の鉄則、無理にでも会話して反応を報告しろ。他に条件が合う者もいないから仕方ない、そうだろう?」
「……わかった。けど最近俺使いが荒いと思う。」
「埋め合わせは必ずしてやるとも。」
文句を言いつつ主に激甘な零毬、すぐさま行動。同じ宿の別の部屋なので、訪ねることに苦は無かった。一応戸を叩いてみるが、わざとらしいくらい憂鬱さのこもった声で
「気分が優れないので後日お願いします……」
と返ってくるばかり。
(さてどうすっか……)
悩みながらふと外を見る。今にも降り出しそうな、薄暗い曇天が見えた。
部屋の前から去っていく足音に、そっと詰めていた息を吐き出す透子。彼女は布団を引き被って、何もかも拒絶するように真っ暗闇の中に閉じこもったまま過ごしていた。食事もとらず、時間も忘れて。
ぱらぱら、雨粒が窓や屋根に当たるささやかな音が、布を通り抜けて耳に届く。心地良い音に微睡んでしまいそうになったとき。
がたがた、ばんっ!
「ひえっなんですか!? ……れ、零毬さん……」
驚きすぎて布団ごと飛び上がり、その拍子に目に入った、窓の外枠にしがみつく零毬にしばし絶句。
先程の騒音はどうやら彼が窓枠に降り立ったからだと理解した頃、その不審な知り合いが口を開いた。
「早く入れてくれよ、雨で滑って落ちそう……」
ここで「知りません」と突っぱねられないのが、透子が透子たる由縁であった。
「何してるんですかまったく! さっさと出てってください!」
窓を開け、零毬を中に引っ張り込み、また布団に潜り直してそんなことを言う透子。もちろん出て行く気など無い零毬が一歩近寄った途端、彼女はサッと首を引っ込めてしまう。
「いい年してカタツムリの真似か? 俺の主サマが困ってんだよ、なんで引き籠もってるのか言え。」
山になった布団にずかずか近づきしゃがみ込んで話しかけるが、彼自身これで解決できるとは思っていなかった。
そもそもこんな態度を取る相手に悩みなど話すまい、この女から拒絶を引き出し、主を説得して置いていこう。
そんな考えをしていたために、次の言葉に面食らうこととなる。
「口の堅さに自信あります?」
「え、なんか話す気になったのか。なんで俺に? 他の奴に話しとけよ。」
「零毬さんが言えって言ったくせになんなんですか!? しかたないでしょ同志に話せるわけないしネメシアちゃんは理解してくれなさそうだったんですぅ!!」
勢いづいたのかそのまま話し始める透子、籠もって聞こえにくい声に嫌な顔をしつつ聞くだけ聞いてやろうと耳を寄せる零毬。
「ほら、司祭様が悪魔だったっていう衝撃の事実が発覚したでしょう? アレについて、うちは教義に従って真実を公表するべきだと主張したんですが……チヨビレの方々に猛反対されたんです。悪魔の司祭は教会の運営・統率だけでなく島全体の統治にも関わっていたそうで、公表したら民は大混乱に陥ると。会議に出ていた同志たちまで隠蔽に賛成して……」
辛いことを思い出した幼子のように、言葉につまり、語る声も涙で滲んでいく。
「む、無責任なことを言うなって、人々を、我々を不幸に突き落とす気かって言われたんですよぉ! うちは当たり前のこと言っただけなのに! 島を守ったり悪い人捕まえたりしたのうちなのにぃ!!
……結局、司祭様はうちがくる直前に殺され成り代わられたことになって、うちは余計なことを言う前にとチヨビレを追い出されたんです……」
「やけに別れ方があっさりしてると思ったら、そういうことだったのか。」
「どうしても納得いかなくて、でも真実を話したらって考えると、たぶんいい方には転ばないのも分かって……でも嘘は悪いことで、でも本当のことは誰かを不幸にして……」
零毬がいることを忘れてしまったのか、ぐるぐると同じこと繰り返し始めた布団の山。ポンポン叩いて正気に戻そうと試みるが。
「誰かを傷つける真実なんざ世の中には腐るほどあるだろ。そんなのでここ数日引き籠もってたのか?」
「“そんなの”じゃあないんですっ!!! 教典も、周りの人達も信じられないってことなんですよ!!? 教えを信じたら幸せでいられる筈だったのに、それが『正しく』なかったらどうしていいか分からないじゃないですか!!! ……ずっと、ずっとそれだけを頼りに生きてきたのに、絶対だと信じていたのに……! 全部嘘だったんだぁ、じゃなきゃ今こんなに苦しんでる説明がつかないよぅ……!!」
そのあとはもう、言葉にならない唸り声か嗚咽しか聞こえなくなってしまった。
(……幼稚だ。一つのものに依存して、それが信じた通りのものじゃなかったから勝手に裏切られたと思い込んで、へそを曲げてるだけのでかいガキじゃねえか。)
床に座り、自らの太ももに肘をつき白けた目をした零毬は多分に呆れを込め、布団の小山に詰問し始める。
「つまりなんだ? てめえは玻璃教を信じて生きてきたんじゃなく、玻璃教に生かされてきたから信じてたわけか。家畜みたいだな。」
返事はない。
「信じられないと文句を言い、正しさがわからないとのたまい閉じこもる……まさか今まで人生の選択全てを他者任せにしてきたのか?」
ぐず、と鼻を啜る音がした。
「誰かのお墨付きをもらえなきゃ何一つ出来ねえってのか、このいくじなし。」
「何もおかしくないでしょう!? 誰だって不安や恐怖や責任から逃げたいのが普通でしょ! 何も考えずに幸せになりたいでしょ!? うちは普通です、何にもおかしくなんか無い!!!
……だって、本当に、うちにはこれしかなかったんですよぅ、誰かに認めてもらえる手段が……! うちを助けてくれたのは、支えてくれたのはこれだけ、だったのに! 大事な宝物だと思っていたものが、ぐずぐずに腐っていた気持ちが! あるいはそんなもの幻だったと知ってしまった気持ちが、あなたなんかに分かるわけない!!」
「わかる。」
即座の肯定に、泣き叫んでいた声が戸惑ったように途切れた。
沈黙に透子の荒い呼吸が響く。
いくらか経って、少し落ち着いたが震えの残る声が問い返した。
「わかる、ってなんですか、適当なこと言って。どうせ、いつもみたいにうちを嘲笑ってるんでしょ……!?」
「思い込みだけで判断するのは良くない、そう言ったのはお前だろ。よく聞け、ちゃんと見ろよ、俺は今、お前をわらっているか?」
雰囲気をがらりと変えた青年の、静かな語りかけ。常の底意地の悪さを感じさせない凜とした声に、そろりと透子が布団を退ける。
いつの間にか背筋を伸ばしていた彼の、その表情は。
「お、おかえり零毬、どうだった……浮かない顔だな。」
「首尾は上々だよ、俺はちと柄にもないことしちまったが。」
のそのそ戻ってきた零毬が、ひょいとネメシアを膝に乗せて座り、その後頭部に顔を埋める。スゥーッと息を吸い込む音を聞きながら、彼の手の甲を撫でて続きを促すネメシア。
「話してみてもやっぱり甘えたクソガキだったからさ、普段の苛立ちも込めてボロクソに言ってやってたんだけど。」
「ふむ。」
「でも、透子がやけくそになって喚いた内容は、すごく俺にも当てはまってた。特に最後のは……信じて頼ったものに裏切られた気持ちは……。
それでハッとしたんだ、俺があいつを嫌いなのは根本的に“同類”だからだって。んでちょっと昔の自分に向けたようなこと言っちまって、はあ、あー俺があんなポンコツ女に優しい言葉なんか、あーあーもう本当柄じゃないっていうか思い返すと俺きもちわりい…………」
自己嫌悪と嫌な過去の想起ですっかり気分が沈んだ様子の零毬、そんな彼を気遣うことも忘れるほど、ネメシアは思いがけない結果に驚愕した。
「あれだけ毛嫌いしていた透子に、優しく? 自分自身に重ねて見たと? は? これは流石に想定外、というか私以外に心を砕き情を向けたということはつまり――――――浮気!?」
「ンなワケ!!!!!!!」
「うるっさいですよ他のお客さんに迷惑ですよ!!!!!!!」
青年の喉から人生一番の大声が飛び出したのとほぼ同時に、負けない声量で透子が怒鳴り込んできた。
肩で息をして睨み合う両者。耳を押さえていた少女が、軽く頭を振ってため息をついたことで沈黙は破れる。
「まったくどちらも喧しい、さっきの衝撃がどこかに行ってしまった……。で、立ち直ったばかりの透子は何の用だ? 出立の相談か?」
「あ、はい! その節はご迷惑をおかけして申し訳ないです……! もういつでも出発できますが、お二人、は…………」
透子の視線がふと下がり、言葉を途切れさせる。青年の膝の上に座った少女が、遊ぶように揺らす爪先。冷たい銀色と、幼気な白肌の脚が交互に着物の裾から覗くのをじっと見つめ、女は勢い良く首を傾げた。
「うちの覚え違いでなければ、ネメシアちゃんは両足とも義足だったはずでは!?」
「グリフィスがある程度集まったので、さっそく左足を造り直したのだ。片方でも自前の足があると動きやすさが段違いでな。」
「す、すごいですねぇ……!? でも周りの人に訝しがられません?」
「そりゃ心配ないぜ、今までも義肢についてとやかく言われたことないだろ? いらない注目を集めないように、違和感を弱める陣札を常に使ってんのさ。」
「へぇ~!」
あれこれ話がとっちらかったりしたが、三人はようやくナバラの宿を後にした。見送りの人々は列を成して尽きぬ賛辞と感謝の声を浴びせ、当人の悩みをよそに高まる聖女の名声を示していた。
そのあとは今まで通り教会のテフ西支部を訪ねて布教活動……の予定だったが、道中得た情報により変更を余儀なくされることとなる。
街道から外れ、人目を避けながら疾走する黒獅子の背にて呟く透子。
「一体何が起こっているんでしょうね……街に住む人も、行商人も残らず連絡がつかなくなるって、どんな異常事態ならそんなことになるのか見当もつきません。」
聖女の名の下に集まった嘆願、その内容は、隣国の首都ハイリにいるはずの人々と一切連絡が取れず安否も不明なので調べてほしい、というものだった。
数人の有志がハイリへと向かったがやはり音信不通となり、もはや手の打ちようがないと思っていたところだったらしい。神の導きのように救い手がやって来たと縋りつかれ、当然調査を引き受け今に至る。
「ハイリは、ちょうどワタヌキと山を挟んだ反対側にあるのだな。」
「ワタヌキの山といえば、怪物が降りてきたり主サマの力が風に乗って流れてきたりしたところか。絶対グリフィスがあるよな。」
「……嫌な予感がする。」
普段は何に対しても危機感らしいものを持たない主が、珍しく声をこわばらせた。その事実に薄ら寒いものを覚えつつ、獅子は一路ハイリへと駆ける。
ハイリは、山を背にした城塞都市だった。堅牢そうな壁と鉄の門扉がどのような侵入者も阻むのだろう……本来ならば。
門は開けっ放し、屈強な門番は座り込んでうんともすんとも言わず。
通りのあちこちに人が転がり、いびきをかいたりヘラヘラ笑ったりしている。
建物の中も、人間以外の生き物も同様に。
皆顔を赤らめ、幸せそうな表情でぼんやりその場に留まるばかり、街全体が酩酊したような有様だったのだ。
「どうなってやがる、老若男女問わず酔っ払って寝入ったような面してんぞ。しかもこの空気、ホウライの聖地みたいだ。」
「聖地? 確かになんだか温かくて心地良いですね……」
「貴様らは既に私の力に適応しているから平気だろうが、常人にはまさしく毒と言っていいほど濃い力場になっている。不幸中の幸いは、街と外を切り離す方向に働いているお陰で、人間共の状態が保存されていることか。」
聞いた話では一月以上音信不通だったはずだが、倒れ伏した人々に飢えてやつれた様子は無い。適当な子どもを触って調べていたネメシアの発言に零毬が手を打ち鳴らした。
「切り離す……保存……そうか、箱庭! もしかして、自由に出入り出来るわけじゃないのか、ここ。」
「そうだな。おそらく外から中へは、物理的に地続きだから入れる。しかし中から外へは力場に遮られ、人間には越えられず、そうしてさまよううちにあてられて、昏睡してしまうのだろう。まあ、想定した中ではましな状況よ。最悪住人全て化け物に成っていたかもしれないのだから。」
「ネメシアちゃんは力を回収できるんですよね? 早く助けてあげましょう!」
「待て。元凶をどうにかするのが先だ。」
「元凶?」
おもむろに紙束を取り出した少女。零毬と透子も身を寄せてその手元を覗き込む。
紙を捲り指で文字を追い、また捲り……
暫くしてその動きを止め、探し出した文字列を読み上げる。
「ホウライの玉柱。落札者、ハイリ地質学研究所。」
顔を上げれば自然と、山に続く階段が目につく。白い石で出来た階段の先に、これまた白い石造りの、飾り気のない建物があった。
「あそこか。」
「あそこだな。街のあちこちに看板もあったし、力の流れも一致する。行くぞ。」
そう言って三人ぞろぞろと連れ立って歩き出す。道路や人間を踏み壊すと後が面倒なので獅子変化は使わなかったのだが、そのせいで主従が道中の店に目移りしまくり、
「なあ、あれ! 外つ国の酒を取り扱ってるみたいだぜ、見てぇ!! 覗くだけ、覗くだけだから!!」
「おいあの店、覚えのある名だと思ったら、昔ホウライで簪の出店をやっていたところだぞ!? 良く存続しているものだ、折角だから見ていこうではないか!!」
「ダメですよぉ、全部解決してからにしましょうよぉ!!! お店の人も倒れたまんまですし!!!」
「見るだけだからその方が良いんだよ!」
結局しがみついてくる透子を引き摺って観光を満喫。研究所の金属扉の前まで来るのに随分時間がかかってしまった。
ようやく目的地に辿り着いた一行だったが、扉を開けずにそっと目配せし合う。
中から、明らかに何者かの動き回る物音がするからである。
「…………つ、つい最近入り込んでしまった人がいるんですかね?」
「馬鹿を言うな、ここは力の渦の中心だぞ。ただの人間がここまで来られるわけがない。この先にいるのは、既に心身が変質した化け物だけだ。身構えておけ、二人とも。」
固唾を飲むお供を尻目に、ネメシアは扉に手をかける。すぅと息を吸って、一気に扉を押し開いた。
「……誰もいないな?」
建物は内壁も白く、荒れているわけでもなく清潔な印象を受ける。完全に外つ国仕様の建築らしく明かりは全て電灯のようだ。
長い台といくつか並ぶ簡素な椅子、この部屋は受付なのだろう。上がり框がないので土足で進み、さて複数ある扉のどれから行こうか、と見回したその時。
「すすみませせんんん、お客さまでですか!」
バァンッ!!
必要以上の力が掛けられたとわかる音を立てて、すぐ近くの扉が開け放され丸眼鏡の女が現れた。小さめの体躯に見合わぬ白衣をひらひらさせて、不自然に重なったような奇怪な声を発しているが、ぱっと見は人の形を保っている。
「ぱパトロンですかッ見学くくですかッ、ままさか研ん究者死志望で!?」
「なんと言っているか分かりにくい、しかも煩い。」
喚きながらグイグイ迫ってくる女。透子、零毬の顔を覗き込み、余した袖をバタバタ振り回してくる。
しかし、ネメシアを見つめると急に黙り込み、その肩に両手を置いた。
「なんだ。」
「………………石を奪イに来たんデスね?」
低く歪な問い。
がぱりと裂けた口がヨダレを垂らす。
そのまま、のしかかるように少女の頭に食らいかかり――――。
「主サマに何しやがる!!!」
黒い獣の足が豹変した女を蹴り飛ばした。
ドガッ、どたん。壁に叩きつけられ床に落ちた化け物。袖に隠れていた腕が蛇の如く伸び、先端に手……ではなく口がついているのを見て透子が顔を歪める。
「ししし侵入者ァ!! ドどろぼうう! 誰かァ!」
「複数の口で喋ってたのか、通りで煩いわけだ。やっちまっていいんですよね?」
「当然。黙らせろ!!」
「せ成果を盗みに来たんですねエエェ!!?」
「盗っ人から買い付けて研究したくせによく言うぜ!!」
長い腕を振りかざす女だったが、はっきり言って動きは鈍い。瞬きの間に肉薄した零毬に反応も出来ず、あっさりと黒い爪に引き裂かれた。
四方八方に赤が飛び散る。
「なんでぇ、弱いじゃねえか。」
「元の思考が残っていたようだし、己が変質した自覚も無かったのかもしれんな。人であると思い込み、身体も人に近い構成だったから脆かったのだろう。」
「あの、殺さずに元に戻してはあげられないんですか?」
「出来なくはないが、私にやってやる義理はない。所詮盗っ人共だし、むしろ力の回収のためには殺した方が早いからな。」
「そっか、そうですよね……すみません。」
「わかったらさっさと駆除にかかれ。」
女が出てきた扉をくぐると騒ぎに寄ってきただろう白衣の集団が。口々に悲鳴を上げ、人の形が一斉に崩れ化け物に変わる様はまさに悪夢のよう。
ネメシアが放った雷で弾け飛ぶ血は花の如く、更に地獄絵図を上塗りした。
「ギャアアアアアァァァァッ!!!」
「助ケテ、ダスケテ!!」
「うちたちが悪く見えそうな絵面……気が引けますぅ……」
「透子貴様、こやつらが街に行っても大丈夫に見えるのか? 目玉を取り替えてやろうか?」
「見えませ~~~~~ん大丈夫ですわかってますぅ!!」
迷路のような研究所内を突き進み、進路に立ち塞がる元人間を壁ごと斬り捨てたある時。主従はおろか透子にもわかるほど空気が変わった。
「ここか!」
「ここだな!?」
ネメシアと零毬が同時に叫び、障害をぶち破り入ったその部屋。中央の台に鎮座するグリフィスの塊。
「あったぁ! ……ってがっつり欠けてる!?」
「なんでしょうこの部屋、作業場……?」
一瞬喜ぶも欠けた柱に素っ頓狂な声を上げる零毬と、恐る恐る足を踏み入れ中を観察する透子。
部屋の壁に沿ってぐるりと机、その上に壁から張り出した棚、ズラズラと並んだ様々な工具と資料。工具の傍にグリフィスの破片が散らばっていることからして、解析のために砕きでもしていたのだろうか。
「これが、街全体に異変が広がった原因だな。」
「どういうことです? 量自体は隠れ里に集まってたのと変わらないような。」
「例えるなら……大きな氷と小さな氷ではどちらが先に溶けてなくなる?」
「ええと、もちろん小さい方ですよね。」
「グリフィスは細かくなればなるほど崩壊が早まり不可視不定形の力に戻る性質がある。過ぎた力に晒され変質した者は更に力を求めてグリフィスを粉砕し、力場は部屋から溢れ建物から溢れ街を覆った、というところだろう。とはいえ、崩壊はここまで早いはずないのだが……」
ネメシアの解説を聞いた零毬が、グリフィスに軽く爪を立てる。ガリ、と爪の跡が刻まれるのを見て、苦いような寂しいような表情になった。
「昔は専用の道具じゃなきゃ歯が立たなかったってのに、随分脆くなっちまって。」
一方その主は特に気にせず破片を回収していく。
「とにかくグリフィスさえ確保できれば、宙に漂う力を回収する用意が整う。ちょうど良いからここでもう片足も造ってしまいたいのだが。」
「試料ニ触ルナァ!!」
「返シテェッ!!!」
「後は任せて大丈夫そうか?」
「お任せを、主サマ!」
信を置く従者の返事に笑みを浮かべ、ネメシアは漂う力場をたぐり寄せ始める。
妨害しようとやってきた元研究員、しかしギラリと牙剥く黒獅子が、主に近づくことを許さない。
響く咆哮。
手当たり次第に爪を振るっていると、豆腐のように仲間がバラバラにされるのに怖じ気づいたか、廊下の先に逃げていく姿が。
「あ、街に逃げられたらまずくありません!?」
「力の回収を始めてしまったから、街の人間の酩酊はすぐに覚めてしまうぞ。大混乱になるだろうな。」
「追いかけますっ!!」
「音や気配からして、生き残りは逃げた奴らだけか。サッと始末してくるんで、主サマはここに!」
「うむ、行ってこい。」
急ぎ外へと飛び出した二人、見下ろす白い階段、敵影は三。
「零毬さん、変化して乗せてくださいよぉ!」
「やだよ俺一人で間に合うし。のろのろ走ってるうちに全部片付けちまうぜ!」
足の遅い透子を置き去りに、零毬は一番近い獲物目がけ跳んだ。
風切り音を纏い落下する彼の足が元研究員の頭蓋を捉え地に叩きつける。鈍い破裂音を立てて、それは真紅の大輪を描いた。
着地後間髪を入れず振り抜く腕、黒い斬撃が飛び二体目もバラバラに切り裂く。
足裏にこびりついた血肉を石段でこそげ取りながら、最後の一体を見据える青年。
「あいつだけやたらに遠いな。急ぐか。」
男は流れる涙をそのままに足を動かし続けていた。
何の変哲もない日常だったはずだ。石や土、地中の物が大好きな、周囲からは変人と称される限られた仲間と好きな研究に打ち込む幸せな日々。お金がなくて困ったこともあれど、とある切っ掛けで援助を受けられるようになって解決し、設備だって整った。
それが、突然の大きな音に「なんだろうね」と話しかけた助手が、化け物とすり替わっていて。
仲間たちの悲鳴と血の臭いが己の五感に届いた瞬間から、男はある場所を目指し駆けだしたのだ。
もうすぐだ、階段を下りきったらすぐ。
光と薬瓶を組み合わせた意匠が見間違えようのない大扉、いつだって手を差し伸べてくれる拠り所へ走る。
いつもより指と関節が多い自分の右腕にも気づかないまま、扉を叩こうとして。
「やっと追いついたぜ。」
ぐるん、景色が回転。衝撃と共に視点が定まり、最期に男の目に映ったのは。
霞む青空を背に牙を剥き出して嗤う、黒い獣の姿だった。
「手こずらせやがって……」
爪を濡らす血を振り飛ばし呟く。すっかり街まで降りてしまい、そこかしこから目覚めた人々の気配を感じて少々焦る零毬。流石にこの状況と姿を見られてはまずい、誰か来る前に去らねばと踵を返し地を蹴った。
「悪魔だああぁ!!!」
「ッ!?」
思わず踏み留まって振り返る。しかし人の姿は無い。それなのに声は近くから聞こえる。
「奴にみんな殺される! 誰か、誰か助けてくれえぇっ!!」
ついさっき刎ねた首が、濁った目を見開きつばを撒き散らして叫んでいた。
爪を振るい黙らせるが遅く、教会の扉が開く。
咄嗟に近くの森に逃げ込むが魔法に追尾され、光の輪に縛られ敢えなく地に転がることに。
「捕らえました!」
「返り血に塗れている……なんと悍ましい……」
信徒らしい二人の男が彼を引きずり出し、その周囲を煌めくガラスに似た武器を握る者たちが取り囲む。
一等白い長衣を着た者から強い浄化の力を感じ、不快さに顔をしかめた。
(最悪だ……! 相性が悪すぎる、これだから白服は!)
かつての仇敵が脳裏にちらつきつつ打開策を考えていると。
「すみません! ちょっと待ってください!!」
(透子! やっと来たのか、足おっそ……)
人垣に阻まれ姿は見えないが、確かによく知る女の声がした。若干へばっていそうな荒い呼吸も聞こえ、早く助けろと言いかけるも声を発することはできず。手足のみならず口も魔法の制限を受けているようだ。
零毬の目の前に立っていた長衣がくるりと向きを変え、透子がちらりと見える。息を整えた彼女と、性別もわからないほど肌を隠した何者かはヒソヒソ話し合いを始め、この状況をどうやって誤魔化すのかとハラハラして待つことしばし。
長衣の者が深く首肯し、信者たちに向き直るとこう告げた。
「聖女様より証言を得られた。そこの悪魔は街に呪いをかけ、山の上の研究所を襲った張本人だそうだ。本部へ連行し浄化の儀を行う故、準備に取りかかれ!」
(…………は!?)
わっと歓声が上がる。聖女の働きを褒め称える者たちに引き摺られ、どこかへと運ばれていく零毬の内心はぐちゃぐちゃだ。
(う、売られ……!? いやいや透子に限って有り得ねえ、この場では誤魔化しきれないと踏んで誤解に便乗した? でもそんな頭があるとも思えねえし、じゃあ教会の偉い奴に言いくるめられちまったのか? くっそ、あいつ分かりやすいから顔さえ見れば判断つくのになあ……!)
身じろぎさえ怪しいほどに拘束具を着けられながらも必死に、目だけで透子を探す。終いにはギリギリ座っていられる狭さの檻に押し込まれ、ガシャンと鍵をかけられた頃にやっと、彼の前に透子が現れた。
(…………あー、こりゃだめだ。)
予想の埒外、どうしようもない状況と悟り力が抜ける。女の顔には仏のような、微笑んでいるようにも見える無表情が貼り付いていた。表情筋さえ喧しい透子ではできそうもない、静謐な雰囲気。これは透子ではない。
およそ意思を感じられない声で紡がれる聖句、白く霞んでいく思考。
(主サマ、ネメシア、俺どうしたら、クソ……)
別行動を悔やみ心の内で何度も主の名を繰り返すが、為す術なく零毬の意識は沈んでいった。
沈黙した獣になんの感慨も無く背を向けて、聖女は歩き出す。
教会周辺には多くの人が集まって、長い眠りから覚めた混乱とさっきの悲鳴で不安に駆られ救いを求めていた。導かれるように進み出て視線を集める聖女。
「皆さん、もう大丈夫です。悪魔は封じましたから。」
不安に思うことなど何もないのです。
続けた言葉に力が宿り心を強制的に落ち着かせ、人々は自然彼女を信じた。
聖女が光を放つ。
“祝福”が満ちた証である光輪が形成され、神々しい姿にざわめきが広がる。人々が頭を垂れる。
長衣に隠されて、含み笑いは誰の耳にも届かないまま。