協力者
天井の穴から差し込む陽光、芝生に寝転んで日向ぼっこにいそしむ透子。縁側に腰を下ろして本を読む零毬。
「これが神域なんですね……きれいなお庭。戸棚の中は別の建物が入ってたり時間が止まってたり、人知の及ばないところが神様って感じですねぇ、零毬さん。」
「……人を導く宣教師サマが、そんなだらしない格好してて良いのかよ。」
「なーに言ってるんですかぁ! 散々働いた後なんですよ? 休憩は必要でしょう! あなたも休んだ方が良いのでは?」
「俺は疲れてねえ。」
手足をバタバタさせる彼女を珍獣を見るような目で一瞥し、青年はすぐ本に視点を戻した。
時間は少し遡って。禁足地の主を下し夜を明かした一行は、獅子に変化した零毬に乗って森を駆け抜けていた。
「体が軽い! いくらでも走れそうだ!!」
「ひょわあああぁ~!!」
「ふはは! いいぞ零毬、行けーっ!!」
悲鳴と歓声、両極端な声が、闇から解放された元禁足地に響き渡る。どんな大木も崖も飛び越えていける巨獅子には障害など無きに等しい。
軽快に跳ねて、走ってゆくうちに、元禁足地を抜けたらしく動物や人を見かけ始めた。
「零毬! 十時の方向に建物!!」
「了解ッ!」
主の声に従い方向転換すれば、ぎりぎり馬車が通れそうな荒い道。加速をつけた黒い獅子が悪党共の隠れ家へ。
木片が飛ぶ。人も飛ぶ。
ガラガラガラと音を立てて原型を失う家屋。
馬車くらいの大きさがある肉食獣相手に、なんの準備も無い人間など勝てるわけが無かった。
破壊、蹂躙、略奪、捕縛説法改宗を流れ作業で終わらせて。
「結局、あの場所に面白いものはなかったな。」
「お、主サマ。風呂上がったのか。」
ほこほことした暖かい空気を纏ってやって来た少女。
つまり今は、無法地帯を荒らし尽くした後。ネメシアが風呂に入りたいと強請ったので箱庭にて休息を取っていたのであった。
「まぁ、居場所のねえ小悪党が掘っ立て小屋建てて生活してるだけが殆ど、名のある犯罪者や組織は、南のどこかにある隠れ里で集会。人も物もそっちに移動しちまってるとなれば何も無くて当然だろ。」
「そして雑魚共は隠れ里の場所も知らんときた。あの楽団のお陰で、テフかチヨビレのどちらかだと予測できるから良いものの。」
話しながら零毬は本を閉じ、透子も起き上がる。昼食の良い匂いに、ぞろぞろと囲炉裏端に集う三人。
因みに今日は卵雑炊だった。
「いやーおいしかったぁ! 零毬さんって、ぱっと見粗野なのに色々出来ますよねぇ。」
「喧嘩売ってんのか? 飯食わせねーぞ。」
「違くて、ただ意外だなぁって! 今だってササッと片付けして、すぐ本を開いて熱心に勉強しているじゃないですか。本当に見た目にそぐわない勤勉さだなと思っただけですぅ!!」
「やっぱ喧嘩売ってんじゃねえか!!」
弁明になっていない弁明を繰り返す透子に零毬が掴みかかる。ギャーワーと騒ぐ二人に、話を理解できなかったネメシアが首を捻った。
「見た目と行動がなんだというのだ。」
「うーんと、人間というものはですねぇ、たいてい考え方や性格が見た目に現れるものなんですよ。そうでなくても人相で印象は変わります!
零毬さんの場合、ツリ目かつ眉間にしわを寄せてるので怖そうに見えます。体格や筋肉量も華奢とはほど遠く、しかも歩くとき猫背! 威圧感増し増し!! 所作も雑なので、全体的にごろつきっぽいんですよ! 普通の人は近寄らないし、ネメシアちゃんくらいの小さい子を連れ歩いてると怪しまれても文句言えないんですってぇ!!」
「よおぉーしそこに直れ、殴り砕いてやらぁ!!!」
どう考えてもわざと扱き下ろしている女に拳を握るが、振りかぶった腕は小さな手に押さえられてしまう。
「おいっ、なんで――」
「有象無象が寄ってこない? 良いではないか、私だけに大事にされるのでは不満か?」
「………………そういうのズルいだろ、くそ……」
抗議しようと動きを止めた一瞬で、ネメシアの手は零毬の頭と顎下を捕まえた。うりうりと撫でながらそんな殺し文句を耳に吹き込まれ、零毬はふにゃふにゃと崩れ落ちることしかできなかった。
「飼い慣らされてますねぇ……」
「そもそも殴り砕いたところで零毬が大怪我するだけだ、透子もあまり下らんことを言うな。無意味にこやつが傷つくことは許容できん。」
「うっ、はぁーい。」
最後に透子にも釘を刺し諍いを終わらせたネメシア。犬猫の喧嘩を仲裁する飼い主の如しである。
「しかし、零毬も熱心すぎではないか? 箱庭にいる間、ほとんど常に魔法陣の暗記や書き取りをしているだろう。」
「だって数少ない俺の手札だからな。完全に暗記していつでも使える陣なんて、片手の指で足りるくらいしか無い。化物皮の変化も人前じゃ使いづらいし、前もって陣の組み合わせを試したり、道具を作っておいたり……出来ることはやっとかないと。」
「備えあれば憂い無し、ですね! 良い心がけだと思います!」
ニコニコ話していた透子だったがふいに困ったような顔になり、本当にアレでよかったんですかねぇ、と小さい声で言った。
「何のことだ?」
「さっきのアレだろ、ならず者共の前でやった寸劇。」
一通り無法地帯を滅茶苦茶にし終わったとき。最後の集落で獣姿の零毬を透子が倒す振りをすることで場を収めることに成功し、お陰でほとんどの者を円滑に改宗出来たのだが。透子はこの策を提案されたときからずっと、納得できていないようだった。
「あれでは、うち一人で全部解決したみたいじゃありませんか。もし一人だったら手も足も出ないどころか、禁足地をなんとかしようなんて思いもしませんでしたのに……嘘はよくないです、教典にもそう書いてます……」
彼女の手にある本の表紙。そのガラスの装飾は、敬虔さを示すように傷一つ、曇り一つ無い。
「まだそんなことを? 全員に損のない策だったろうが。私たちは注目を集めたくないのだから、貴様が引き受けてくれなくては困るのだ。」
「そうだぜ、それにお前がいてくれなかったら禁足地の主には勝てなかったぜ。お前の手柄だよ。」
「い、一番の功労者に言われても……」
「その一番の功労者が言ってんだよ。」
「気にするならば、さっさと信仰を集めきって教会本部まで案内してくれ。」
「それははい、頑張ります……」
純粋と単純はよく似ており、まっさらなものは塗り替えやすい。こうして、ろくでなしとひとでなしの言に乗せられる程度には。
結局丸め込まれたポンコツ宣教師をよそに、零毬は主へ目を向けた。
「次はどうするんだ?」
「変化した貴様に乗って移動するのに変わりは無い。だが、他の人間に見られないようにする必要もあるし、あまり早く人里に着いても怪しまれる。夜に移動しながら箱庭で時間を潰すのが良いか。おい透子、人の足でテフまではどのくらいかかる?」
「えっと……ちょっと待ってくださいね。地図のここら辺が現在地で、テフの関所がここなので……うん、二週間くらいですねぇ多分。」
「よし。ではきっかり二週間かけて、テフに向かうとしよう。」
旅は何事も無く進んだ。獅子変化による高速移動と箱庭の使用により、特に利点になったのは各々の自由時間が大きく増えたこと。
透子はまだこの地に留まっている人間を見かけるたびに説法しにいき、零毬は余念無く自己強化に励む。そうやってくるくると働く者たちを観察して楽しむネメシア。
「透子を秘密の共有者に引き入れて正解だったな。驚くほど動きやすくなったし野宿する必要も無くなった。」
「確かにな、食料も寝床も心配しなくていいから、俺も楽になったし助かった。……なぁ、変化についてなんだが、どうにも姿の切り替えに時間が掛かっちまって悩んでんだよ。やっぱり陣札で制御するべきか、他に良い方法があるか?」
「意識するだけで扱えるという優位性を捨ててどうする。言葉でも仕草でもいいから、切り替えるきっかけ、合図を定めるのはどうだ。」
「これしたらこうなる、って行動と結果を紐付けるわけか。良いかもな! じゃあ問題はどんな合図にするか……大きな音は立てず、拘束されても使えそうな方が良いし……難しいな。」
「貴様にとってやりやすい方法を見つけなければならん。せいぜい頑張るといい。」
たまに助言をやったり茶化したりするうちに国境へ辿り着いた。人がいない隙に道へ出て、さも普通に旅をしてきましたが、という顔をして関所へ。
「ごめんください、玻璃教の宣教師――」
「透子様ですね!!?」
「ひょえっ!?」
入って名乗ろうとした瞬間どやどやと寄ってくる人、人、人。何か言う暇も無く担ぎ上げられ一行が連れて行かれたのは、教会の東テフ支部だった。透子だけ奥の部屋に通され、説明無しで放置された主従は顔を見合わせる。
「……一体なんなんだ?」
「外にやたら人間が集まっているようだったし、聞きに行ってみよう。教会内の者はそれどころではないようだからな。」
ぱたぱた駆けずり回っている修道女らを横目に建物を出ると、すぐに人垣に道を塞がれた。当たり前のような動きでネメシアを持ち上げ、向こう側を見て貰う零毬。
「ふむ? 道の中央に木の台を積んで、簡易な舞台を作っているぞ。その周囲を兵士が固めて人だかりを近づけんようにしている。あと、あからさまに身なりの良いものが数人……なるほど、禁足地浄化についての質疑応答と、勲章授与を行う予定らしい。土地の権利がどうの信者の入植がどうのと話しているな。」
「さすがの地獄耳!」
状況を把握した辺りで壇上に人が立った。波が引くように静かになる群衆、高位の聖職者らしき老人がよく通る声を張り上げた。
「一等宣教師にして救世主候補、透子様! 壇上へお越しください!!」
教会の門が開く。
純白の法衣に身を包み、目元以外の全てを布で覆い隠した姿で現れた透子。繊細な鎖飾りや小さな鈴があえかな音色を奏で、気圧されそうな神聖さを発する。実際に人々の息を呑む音がいくつも聞こえてきた。
しずしずと歩いていく透子を見守っていると、ふいに身の内がざわぞわ蠢く不快感に襲われ顔を歪める零毬。
「どうした?」
「いや、急に気持ち悪く……」
「……チッ! あの法衣のせいだな。鈴が音を発するたびに浄化の力を撒き散らしているようだ。呪いを取り込んで利用する貴様との相性は最悪、急いでこの場を離れた方が良いだろう。歩けるか。」
「そこまでひどくはねえよ。」
お偉方と透子の問答に背を向け、二人はこっそりと人混みから抜け出すのだった。
「ちょっとぉー!? お二人とも、なんで見ててくれなかったんですか、うちの晴れ舞台!! めちゃめちゃ緊張しながら歩いて、でもネメシアちゃんたちが見ててくれるはずと思って探したらコソコソ離れていくところで!! すごく見捨てられた気持ちになったんですけどぉ!!?!?」
「うるさい。」
「うるせぇ。」
合流できたのは数日後のこと。話をしようと手近な宿に入った直後喚きだした女を軽く流して、建設的な話題へと切り替える。
「地図見た感じ、テフってかなり広いよな。ここからどう動く?」
「裏社会の動向を探りながら旅自体も楽しみたいのだが。ちゃんと計画を立てるには、各地にお詳しい宣教師どのの知恵を借りたいのだが、なあ?」
視線を向けられて溜息一つ、拗ねるのをやめた透子が地図を指し示した。
「テフはウォカナ列島で一番広い国で、教会支部も東、南、西と三カ所にあるくらいです。内陸では農業、沿岸部では漁業が盛んで、美味しい食事と季節ごとの行楽が有名ですよぉ。今の季節なら海ですね、海! 多くの催しに人が集まるので、南支部があるナバラって都市に行くのはどうでしょうか? 情報収集も出来るしチヨビレ島への船も出ていますよ!」
「都市か……人が多けりゃ悪党もいそうだな。あの楽団の足取りが掴める可能性もあるだろうよ。」
「ふむ。異論は無い、それで行こう。」
そうと決まればさっさと出発、と荷物を纏め、透子の希望で教会に挨拶をしに立ち寄った。
出立を告げられた教会関係者が色めきたち、使いを走らせ、頼んでもいない馬車を手配してまで盛大な見送り行列を作り上げるとは思いもせずに。
「私はこういう風に見世物にされるのは大嫌いだ……嫌なことを思い出す。」
「今、見世物にされてんのは透子だけどな。」
ぶっすりむくれたネメシアが零毬の膝で縮こまり、そんな少女を隠すように抱えて、零毬は透子の背を見上げた。車上に立って忙しなく手を振っている彼女に浴びせられる感謝や激励、ウォギトでの旅立ちに似た絵面だが規模は段違い。
「ありがとう! これからは禁足地の主に怯えずに、漁に出られるよ!」
「改心してまともに働いてみます、ありがとうございました!」
「聖女様、これからも頑張ってください!」
「せーじょさまバンザーイ!」
「……ん? 聖女様? 誰が。」
「そうなんです、禁足地浄化の功績が大きすぎて、一足飛びに最高位の聖人認定されて。この間の式典で聖女の証を授与されたんですよ!」
「ふーん。」
完全に興味が無い声色で相槌を打った零毬、ネメシアは不機嫌が極まって一言も発さない。二人の反応に気まずさを覚える透子。
早く解放されたいと願う三人の内心に対し、見送る人々の列は長く、熱気に満ちていた。
その後、一行はありったけの好待遇でナバラまで送り届けられた。現地でもほぼ同様の歓迎を受け、更に聖女としての挨拶や説法を求められ駆けずり回った結果、透子は。
「爆睡してんな、起きねえぞこりゃ。『夜は花火を打ち上げてくれるそうです、楽しみですね!』とか言ってたのにな。」
「過労もいいところだ、寝かせてやろう。」
特別待遇で泊まれることになった高級宿にて、いい寝具に陥落し、幸せそうに眠っていた。
「主サマから過労を気遣う言葉が出るなんて……成長したなぁ!!」
「感涙するほどか。失礼な奴め……む、始まったようだ。」
遠い炸裂音が耳朶を打ち、二人は窓の外に目を向ける。宿の目の前は砂浜、開放的な大窓から見渡せる海。空に咲く花が水面を染め、闇に紛れる船影を浮かび上がらせていた。
赤に白、青に緑、かつて見たものとは比べものにならない極彩色が踊る。
揺れる波に反射する輝きが闇に映える。
「すげぇ、船上で打ち上げてんのか! 海に映って二倍楽しめるのか……夜なのにめっちゃ明るくて面白いな。」
窓辺に張り付いて花火に見とれる男を見て、起きる気配の無い女を見て、少女はこっそり拳を握り締めた。
「どうせなら波打ち際まで行って見ようではないか。」
「は? ……っおい!?」
大窓から飛び降りてひらりと着地、青年を見上げ手招く。驚きこそした彼も一瞬だけ変化を使ってすぐ続き、誰にも知られず宿を離れていく二人。
浜に下りる。乾いた砂が指の隙間で遊ぶこそばゆさ。他の人間はいない、花火の音と潮騒だけの、望み通りの夜だと逸る鼓動。
ぱしゃん。
片足がさざなみを踏みつけたと同時に、大きな手が少女の右手を掬い上げ振り返らせた。
「何処まで行くんだ? 海に映り込む花火も綺麗だが、捕まえられないのは空のと同じだぞ。」
いつものように少しだけ眉を寄せた零毬が、珍しく満面に喜色を浮かべたネメシアを見つめる。
「零毬、右目を開けろ。こんな夜を片目でしか見ないのは無粋だぞ。」
「会話になってないんだが……まぁいいや。」
パッと開かれた瞳。
華の残り火を映して煌めく、少女の宝物。
見惚れて動かない彼女の手を優しく引いて、青年は波の届かないところまで下がって座り込んだ。汚れないようにと膝上を示され、しかしそれを断って隣に腰を落ち着ける少女。真夏でも夜風を浴びていると肌寒く、寄り添う体温が心地良い。
ばんっ! バラバラバラッ。
どぉん、ザアアァ……。
間断なく打ち上げられる花火、舞い散る火の粉と打ち寄せる波は時折似た音を立てて、空と海が一体となったような錯覚を誘う。
光と音の演舞に魅せられて、しばらく呆然と空を仰いでいた零毬。繋いだままだった手を引っ張られた気がして、ぼうっとしたまま首を動かした。
ぱちりと目が合う。
咲いては散り、照らしては陰る花火に二人の顔も照らし出され、互いの表情すらよく分かった。甘えるようにもたれかかってきたネメシアから期待の色を読み取って、きゅぅっと体の芯が縮むような感覚と緊張に冷や汗が流れる。
そっと肩に手を回して引き寄せる、これは簡単。
震えを抑えながら逆の手で頬に触れると、嬉しげで楽しげな少女がゆるりと瞼を閉じた。
暴れる心臓の音が伝わりそうな近さ。
更に距離を詰め、口付ける。
少女の拳が鳩尾にめり込んだのは、そこから実に一秒後のことだった。
「ッ……! う゛ゥ……!」
「貴様……!! ここまでお膳立てしてやったのに、する所が額!? 信じられん!!! 人間女性でも百人中百人が『それは無い』と言うだろうよ!!!!」
腹を押さえてひっくり返った男に容赦なく罵声をぶつけるネメシア。追撃とばかりに彼に飛び乗れば「ぐえっ」と悲鳴が漏れた。
胴体にまたがり胸ぐらを掴む少女。夜空の花火を背景に夜明けの空色が冷たく睨みつけ、怒りを訴えてくる。その姿は非常に絵画的だが、人外の威圧が感動に浸ることを許さない。
「……アンタさぁ、自分の姿を考えてから言えよ! 俺は確かにろくでなしだけど、常識や良識を持ってないわけじゃねえ! いくら人外で長く生きてても、見た目幼児にそういうことするのはちょっとだいぶどうかと思うの!!!」
「捨てろそんな考え!!」
「いやいやいや!? 前にも言っただろ、大人の姿になってからって! それじゃだめなのか!?」
「ダメだ!!」
完全に駄々っ子の物言いである。
どふっ、と零毬の胸板にネメシアの頭が落ちた。軽い咳き込みの合間、珍しく弱々しい少女の声。
「貴様から、最近あの熱を感じられんのだ……。人間の生態やら恋愛やらを本で調べて、どうにか引き出してやろうと頑張ったのに……!」
「あ~……うん。」
ぐりぐり胸板に顔を押しつけむずがる少女に、悩ましげな表情をしつつその頭を撫でてやる青年。ついでに起き上がって、あやすように抱え直した。
「なぁ主サマ。人間について調べたならわかるだろ? その『熱』はさ、大の男が幼女に向けたら一発でお終いなんだよ。だから俺は、ほんの少しも漏らさないように、バレないように圧し殺してて……でもそれがアンタは嫌だったんだな。」
「良いだろう、二人きりのときくらい!」
「俺不器用だから、上手く気持ちを切り替えられる自信が無かった。あと、その姿にうっかり欲情でもしたら引き返せなくなりそうで……」
「本当に面倒な奴だな! 倫理など簡単に放り捨てられるくせに、何故こんなことで強情になるのだ!?」
「俺にも越えたくない一線くらいあるんだよ!!」
切実な男の声に少女が一瞬黙る。
次に、降参と言いたげに手と首を振った。
「はぁ。もういい。あくまでそれが必要だと主張するのなら仕方ない。だが、主たる私の意に逆らうのだから罰は受けてもらうぞ。」
「おう、好きにしてくれ。」
説得に成功したと一安心した零毬、軽く目を閉じて主の沙汰を待つ。
素直な下僕に、ネメシアはにっこりと笑って。
ガブッ!
「いっだぁ!!?」
痕を残すくらいに、でも噛みちぎらないように、完璧な力加減で喉元に歯を食い込ませる。痛みに跳ねる筋肉の動き、流れ出す血の味、汗の匂いすらも堪能して、最後にぺろり、と傷を舌でなぞってから口を離した。
ゆっくりと上下する喉仏、男の体から微かに震えが伝わり愉悦に拍車をかける。
唇を血で紅く染めた、ひとでなしが笑う。
「こっの、マセガキがよぉ!!」
「そうだ、その目が見たかった!!!」
不意打ちで劣情を煽られ化けの皮を剥がされた零毬。いつかと同じ熱っぽい瞳に、少女の声が興奮で上擦った。
「信じらんねえ! 騙し討ちかよ!? 横暴、わがまま、ひとでなし!!」
「ふふん、私を思い通りに動かそうなど千年早い! さて満足した、帰るぞ。」
綺麗な花火も海も、もう二人の眼中に無い。子どものように言い争ったり笑ったりしながら、なんだかんだ楽しそうに宿へ戻っていった。
翌日。
「そうですかぁ。綺麗な花火、うちも見たかったです。ところで零毬さん、首の包帯はどうしたんですか?」
「なんでもねえから触れんな。」
ぷい、とそっぽを向いたままの青年に透子は不思議そう。その視線を切るようにネメシアが割って入った。
「実は昨夜の帰り道、身の程知らずにも私を誘拐しようとしてきた悪漢共がいてな。」
「ええっ!?」
「当然返り討ちにして尋問した。すると隠れ里について知っている者がいたのだ。」
「おお、さすがですね!」
「場所はやはりチヨビレで合っていた。九日後に一番の目玉である大競りが行われて集会は終わりらしい。つまりそれまでに現場を押さえねばグリフィスも悪党共も取り逃すことになってしまう。」
「……つまり、遊ぶ暇なくチヨビレ島に行かなきゃいけないんですね!? わかりました、船をとれるか交渉してきますね!!」
疑いもせず部屋を飛び出していく透子。
「で、いつまでそうしているつもりだ? 透子に不審がられていたぞ。」
「誰のせいだよ。」
依然として顔を背け、壁により掛かったままの零毬。しかしネメシアが一歩近付いた途端、肩を跳ねさせ同じだけ離れた。
その様を鼻で笑ってさっさと部屋の隅へ追い詰め、へそを曲げた猫にするように甘ったるく話しかける。
「ではどうして欲しいのだ? 言ってみるがいい。」
服を引っ張って無理矢理屈ませ、指の背で包帯越しの噛み痕を撫でればあっという間に耳まで真っ赤になる。
「やっやめろ! 思い出させんなよ!! すぐ出るんだろ、荷物片付けるぞ!」
あわあわして小さな手を振り払い逃げた彼。心底愉快そうに笑ってから、ネメシアも手伝おうと追いかけた。
『聖女様』の効果は抜群で、本日出航するチヨビレ島行きの船に、様々な手順をすっ飛ばして乗り込むことが出来た一行。他の乗客からの不躾な視線を気づかないふりでやり過ごし、割り当てられた一室に急ぐ。
部屋に入り鍵を掛け、透子は荷物を降ろしてぐっと背伸びをした。
「んー、疲れましたね~! 出航時間ギリギリでドキドキしましたぁ!」
「何言ってやがる半分くらいお前のせいだったじゃねえか! 通り道で揉め事があって馬車が使えなくなったのは仕方が無かった、お前がもめてる奴らに説教しにいきやがったから、時間の余裕が消し飛んだんだよ!!」
「あれを素通りしたら聖女の名が泣きますよぉ!!」
またしても些細な事から言い合いを始めた二人に対し、手を打ち鳴らして注目させる少女。
「二人ともこちらへ来い。あと声量を落とせ。」
「はーい。あっ、その袋は楽団から荷物を取り返したときの?」
「なんですかそれ、うち知らないんですけど。」
「とりあえず零毬、右手を出せ。」
言われるがまま差し出す手。そこに装着された飾り篭手に、ネメシアの白い指が触れる。宝玉が色を失っているのを確認して、袋から中身を取り出した。
出てきたのは金色に輝く腕輪。全体的に細く上品な造りなのが、一つだけ嵌まった大ぶりの石を引き立たせている。
夜空の色だ、と零毬たちが思った瞬間石はほどけるように崩れ、篭手の宝玉へと吸い込まれ……不思議なことに宝玉は、ネメシアの瞳の色に染まった。
「エネルギーの充填はこれだけで十分そうだな。」
「おいおい、それってグリフィス――」
「こっこれ!! 災厄を呼ぶとされる曰く付きの装飾品ですよ!?」
零毬の驚きを吹き飛ばす、透子の叫び。うるささに思わず耳を押さえる主従。
「夜闇の如く深い黒に銀の斑点、間違いありません! 気狂いの職人が出所不明かつ正体不明の石を埋め込んだという品々で、存在するだけで人々の不和を生み怪物を引き寄せるとかなんとか……造った職人も最期は怪物に成ってしまったなんて噂もあるんですって!」
「やけに詳しいな。」
「性質が性質ですから悪魔との関連性が疑われていて、発見したら回収して本部で封印処置を行うようにとお達しがあったので。情報は同志の集合知ですよぅ!」
「ほう? 本部で回収・封印か。それは良いことを聞いた。」
重要な情報に口角を上げるが、今深入りするべきでは無いと自制しネメシアは語るべきことを語る。
「これらに使われている石こそがグリフィス、私たちの探し物なのだ。グリフィスは純粋な力の結晶であるがゆえ、周囲に不自然な影響を与えてしまう可能性が高い。透子が今言ったような事例もそうだし、ワタヌキの怪物もグリフィスにあてられて変質した生物だった。これが集められているだろう隠れ里でも怪物が発生するかもしれん。人間以外にも注意を払うように。」
主の言葉が終わるのを待って、すっと零毬が手を挙げる。
「ハイ、主サマ。」
「なんだ。」
「そういやワタヌキの怪物は、この篭手が欲しいとしつこく狙ってきました。更なる力を得ようとするなら、大元の主サマを狙うもんじゃないんですかね?」
「逆だ、大元だからこそ怪物共は私を避ける。力の支配権は私にあり、奴らの力を回収できる天敵なのだから。」
「ハイ、ネメシアちゃん。」
「なぜいちいち手を挙げる? なんだ。」
「つまりグリフィスと悪魔は関係ないってことですか?」
「悪魔とやらにお目にかかったことがないからわからんが、グリフィス自体は私の一部でしかないぞ。」
「そうなんですね……」
話を飲み込むのに時間が掛かりそうな様子の透子を放置して、ネメシアは備え付けの寝台に転がった。固い箱に布をかぶせただけという寝心地に、船旅中は箱庭に引き籠もろうかとつい考えてしまう。
彼女の機嫌はともかく、静かになった部屋の雰囲気は穏やかで、船特有の環境音が遠く近く聞こえてくるばかりだ。
ゆらゆら揺れる船の、どこかが軋む小さな音。
白波の弾ける音。
「海賊だー」という、誰かの叫び声。
「ん?」
「は?」
「えっ?」
ドパァンッ!!
重い何かが水に落ちたらしい爆音と同時に、大きな揺れが三人を襲った。
勢い良く寝台から振り落とされたネメシアを、慌てて受け止める零毬。
ぐわんぐわんと揺れ続ける船、なんとか足を踏ん張り壁に体を打ちつけながらも外へ出ると、船内に逃げ込んでくる乗客たちとすれ違う。
甲板に上がってすぐ、敵船の姿が目に入った。
「お客様、部屋へ避難していてください!」
船員が叫ぶ間にも次々放たれる大砲、足元の不安定さはひどくなる一方。
「うちがなんとかします!」
主従に遅れてよたよたやって来た透子に、船員は怪訝な顔をした。彼に口を挟まれる前にネメシアが問う。
「向こうの船に乗り移る方法はあるか?」
「もちろん! 最近は出番のなかった、うちの魔法が役に立つときです!」
祈るように手を組む。紡がれる言の葉に従い風が三人を包み込む。
ふわりと足が床を離れ、次の瞬間『射出』としか表現しようのない勢いで風を切って空を飛んでいた。そのまま敵船に突っ込むかと思いきや着地直前に再度の強風、待ち構えていた海賊を押し退け上手く降り立つ。
敵地、野次馬無し、傍らにいるのは事情を共有した者だけとなれば、遠慮する必要は無い。得た力を試す機会に、零毬は獰猛な笑みを無意識に湛えていた。
すぅ、大きく息を吸って目を閉じる。
一呼吸分の沈黙。
カッと見開く両目、
湧きたつ瘴気、
纏う漆黒の毛皮。
咆哮一つで海賊共を縮み上がらせ、呪いの化身が嗤う。
「本当に可哀想な奴ら、狙った船に俺たちが乗ってたのが運の尽きだったなぁ!」
一方的な、獅子の狩りが始まった。