倫理観
「ふわぁ~あ。」
大きな欠伸を、押さえる素振りすらしない零毬。それを諫めるどころか同じく気怠そうなネメシア。
「退屈だな……」
手配してもらったという馬車は、あくまでも同乗の許可を得ただけ。御者を兼任する商人の予定に合わせたのろい進み方の上、あちこちに立ち寄るたび積み荷の上げ下ろしを手伝わされていた。
「結局利用されてるじゃねえか……アホ女が。」
当のアホ女は出会う人々に片端から教えを説き信仰を集めていたので、彼女の目的とは合致している以上ただで利用されているともいえないのかもしれないが。
「透子様、そろそろ出発いたしますよ。」
「わかりましたぁ! それでは皆様、女神様の教えを胸に、善き日々を過ごせますように!」
爽やかに人々へ別れを告げる透子を、何人もの人が手を振って見送ってくれる。
「上手くいってるな、ウォギトと違って。主サマの助言が効いたか?」
「魔法治療を振る舞うなら説法の直後にしろ、と言っただけだがな。人間は扱いやすい、分かりやすく利益があれば寄ってくるし、同じ内容を聞き続ければ感化される者も出てくる。」
「人を癒す魔法……ね。主サマの魔法陣とは全く別物だよな。」
「世界を渡っていれば良くあることだ、同じ呼び名で違うものなど。起こす現象が同じで仕組みが異なると対処が面倒だった。」
「へぇ。」
増えた積荷の隙間に潜り込むように収まって、商人に声を掛けた。
「そろそろ俺たちのいる場所がなくなりそうだ。後どれ位で着くんだ?」
「心配ご無用! 次こそワタヌキに着きますからね。」
零毬の質問にからり笑って、商人は遠くを指差す。山間に張り付くような街並みと白い煙。
「あれが山の幸と温泉の街、ワタヌキですよ。」
ワタヌキは観光地や静養地としての面が強いらしく、整っていて落ち着いた印象を受けた。道行く人も小洒落た身なりのものが多く、ウォギトとは真逆といっていい雰囲気である。
商人と別れ宿を探す道すがら、湯気の立つ川を物珍しそうに覗き込んだ零毬が肩を跳ねさせた。
「主サマ、あれ!」
声を潜めながらも慌てた様子の従者に、同じ方へ目を向ける。
湯気の合間に人の頭ほどの大きな火の玉が三つ揺らめいており、よくよく見るとカエル形をしていた。おや、と眉を上げるネメシア。
「火の精霊ザラマンデルですね! 見るのは初めてですか?」
戦慄する主従に対し、透子があっさりそれに言及した。
「地下深くの燃え滾る川から生まれてくると言われていて、熱を発するものに寄りつく習性があるんです。ワタヌキはザラマンデルに愛された土地で、長い間人と精霊が共生している素晴らしい街だと聞いてはいましたが……当たり前のように姿を見せているとは思いませんでした! 本当に凄いところですよ!」
興奮する透子とは裏腹に、二人の脳裏に浮かぶ嫌な記憶。きつい長期戦、火傷の痛み。
「あんなのが街のあちこちにいて大丈夫なのか? 火事を起こしたり、溶岩と一体化して山みたいに大きくなったり、何でも真っ黒焦げにしたり、とか。」
「そぉんなこと彼らにはできませんよぅ! 見た目は炎っぽいけど触ってもほんのり温かいくらいですし、よほどのことがないと反撃もせず去ってしまいます。もし災害を起こせるような力があるとしたら、それは精霊の頂点、大精霊という伝説の存在ですよ!」
「へえ……」
(あのカエルもどき、ぶっ殺してよかったのか?)
(知らん、もう終わったことだ。百年以上経って問題ないならいいのだろう。)
(……襲われないといいな。)
表情だけで意思疎通しあう二人に気づかない、透子の蘊蓄語りは続く。
「かつてウォカナ列島の人々は、精霊、悪霊、悪魔をひとまとめに人外の化け物としていましたが、それもすべて無知故のこと。玻璃教はそこに知識という光をもたらしたのです!
世界の秩序の化身たる精霊とは共生出来ること、
反対に友好的に見せかけ人を食い物にする悪魔という存在のこと、
生物の負の感情から発生する悪霊のこと。
区別をつけ正しく対処出来るようになって人々の生活はまた一歩良くなったわけですね! まあワタヌキは玻璃教の渡来前から精霊と共生していて、だから凄いんですけれど!」
「……興味深いが、そろそろ休む宿を決めないとまずいのでは?」
「あっそうでしたね! これは失礼!」
話を切り上げ動き出す三人を、カエル火の玉がゆらゆら見送っていた。
その後、なんとか高くも安くもない宿で手を打った一行。
「部屋は二つとれましたよ! 宿泊客は露天風呂を自由に使っていいそうです!」
「おう、ありがとう。」
鍵の片方を零毬に渡した透子が、当たり前のようにネメシアの手を引く。
「さ、行きましょう!」
「待てや! 俺の主サマをどこ連れてくんだよ!!」
「男女で部屋を分けるのは普通のことでは?」
「主を他人に任せる従者がいるか!? 今更なんなんだよ。」
「ここは温泉が楽しめるんです! もちろん男女別! 零毬さんはネメシアちゃんの入浴を手伝えないんですから、うちと一緒の方が都合が良いでしょう?」
それは確かに……と引き下がりかける従者を見て、当の少女はくいくい、と透子に繋がれた手を引っ張り、一言。
「風呂の時は頼らせてほしいが、部屋は零毬と取る。零毬と一緒でないと、安心して眠れない。」
当事者からの訴えに、透子はウッと息を詰まらせガクリと項垂れた。
「わかりました……ネメシアちゃんがそう言うなら。」
そんなひと悶着もあったがワタヌキでの活動拠点を確保できたので、各々動き始めることとなった。
透子は元々ワタヌキにいた少数の信徒と合流し、説法と施しを絡めた布教活動を開始。
零毬とネメシアは情報収集のため街へと繰り出す。
「……少々当てが外れた。」
「なにがですか?」
道すがら団子屋を見つけ休憩中、主のごく小さな呟きに思わず聞き返す零毬。ネメシアは、雲に隠れる峰を仰ぎ見たまま答えた。
「ワタヌキに近づくほどグリフィスの気配が強まっていたのでな。さっそく大きな成果を得られるかと思っていたのだが、さらに山の向こう側だとは。」
その言葉に意識を切り替えれば、山から吹き下ろす風に少女と同じ気配を感じる。
「ふぅん……化物皮があれば、主サマを抱えて山越えるくらい出来たんですがね。」
「今はどうにもならん。しかも、山から怪物がやってくるという話もちらほら聞こえる。我々の知らない危険があるかもしれない、無理は禁物だ。」
「そうですね。」
からり、竹串を空の皿に置いて立ち上がる二人。
「さて、次はどんな店を探す? 酒か、衣服もありではないか。」
「煙草の葉が無くなってきたから、煙草屋にも行きたいですね。」
急がぬ目的より今を楽しむ方が重要と、また店の物色に戻るのだった。
「透子、上手くいっているようだな。」
「ネメシアちゃん、零毬さん!」
別行動して数週間たったある日、夕食をとろうと入った店で偶然合流した三人。店内には他にも玻璃教徒がおり、奥の座敷に集まっていた。
「街を巡っている間も時折見かけていたが、ワタヌキでは随分馴染むのが早いな?」
「ええ! 元々ここで暮らしていた同志の努力と精霊の存在から、ワタヌキの方々には玻璃教の教えに拒否感や異物感がほぼ無かったそうなのです!」
誇らしげに腕を振りふり、早口で語り出す透子。
「教会本部から遠いために信徒や高位聖職者の移住がままならず、勢力拡大が難しかったのも昔の話! 宣教師として様々な権限を任されたうちの名において、聖職者の任命や教会支部の設立交渉を進め、本日ついに! ワタヌキにおける玻璃教の存在と活動を国公認のものとしていただけることになったんです~!! 今はそのお祝いをするところだったんです!」
ぐいぐい引っ張られ何故か宴に参加することになった主従。ネメシアは他の信徒たちにも大変な人気で、零毬が何かするまでもなく、なにくれと世話を焼かれていた。
「……なんで初対面なのに好意的なんだ?」
「可愛い女の子が、苦労しながら健気に頑張っているんですよ!? 優しくしたくなるのは自然でしょう!」
珍しく零毬の隣について、さあさどうぞ! と透子が酒を注ぐ。一瞬いぶかしがるも酒の誘惑には勝てず、杯に口をつける零毬。
「宴を始めましょう! 皆さん、どんどん注文しちゃってくださーい!」
料理が卓上に並び、参加者にも酒が行き渡り、目にも耳にも騒がしくなってきた中。零毬も酔いが回ってきていた。
「山菜うどん美味いな。山菜特有の風味と甘めの出汁が絡んでどんどん食えるし、天ぷらはもっと良い! サクサクの衣、塩だけの味付けが旨味を際立たせて、口に残ったえぐみと塩味を酒で流し込む! 飯も酒も上質な良い店だなあ!」
「上機嫌ですね。」
初めのうちこそ従者らしくと気を張っていたものの、場の空気、つまみにぴったりの料理、傍らに酒とくれば呑兵衛の自制心など脆いもの。気づけば欲望に任せて杯を干していた。空になるたびに透子が酌をするのも拍車を掛ける。
酔いながらも、明らかに何か話のありそうな透子を横目で観察。珍しくネメシアが零毬の傍を離れているのも、他の人間に構われているからであり狙って作られた状況なのは分かっていた。
しかし話があるのはこちらも同じ。
「透子、お前なんで俺と主サマを離したがるんだ?」
先手を取って切り込んだ言葉。少しの間考えるような沈黙を挟んだ後、彼女が距離を詰めてきたので青年も体を傾ける。いわゆる内緒話の体勢だ。
「はっきり言わせてもらうと、あなたの振る舞いはおかしいんですよ。従者という割に態度が大きいし、主への遠慮も見られません。傍に控え護っているようで、周囲への警戒が薄い。見せかけだけに感じます。うちには、他に頼る当てのなくなったご令嬢に、これ幸いとすり寄って甘い汁を啜っている悪党にしか見えないんですよ!」
完全に糾弾する声色で述べられた内容に、少なからず透子への評価を改める。人となりを見極める力は本物なのかもしれないと。
その上で、
「立ち振る舞いに関しちゃ、何も言い返せねえなあ。生まれも高貴じゃなけりゃ従者としての教育を受けたこともねえ。命を拾われた恩義から、勝手に着いてってるだけなんでな。しかし赤の他人に引き離されなきゃいけないような後ろ暗いことは無い、お門違いって奴だぜ宣教師サマよ。」
誰かにツッコまれた時用に考えておいた答えを嫌味込みで返した。やたらネメシアに構っては二人の時間を奪うお節介焼きに、もう随分辟易していたので。
実際ネメシア当人から拒絶されたこともある透子は悔しげに顔を歪め……だがなおも納得していない様子。
「まだなにか?」
苛立ちを隠さず問うと、一度ぎゅうっと目を瞑って、しばらく逡巡した後苦々しげな声で喋り始めた。
「うちは……もちろん分かっているんです、勝手な印象で人を判断してはいけないと。でも直感をどうしても無視できなくて。」
「あ? 何ボソボソ言ってんだ。」
「うぅーめんどくさい! もう直接言っちゃいますね! あなたがネメシアちゃんに向ける目が、主従じゃなくてもっと熱量を持ったものに思えるんです! 自分に縋る幼女に悦に入ってる変質者なんじゃないかって、なら彼女を保護しなきゃって必死だったんですよぅ!! ……でもそこまで言うなら、うちの勘違いか強すぎる敬愛とかだったんですかね?」
どんどん尻すぼみになる言葉、申し訳なさそうに身を縮こめながらそっと相手の顔を伺う透子。見上げた零毬の顔は、見えなかった。
口は片手で覆い隠され、首ごとあさっての方向に背けられていたからである。想像と違う反応に首を傾げ、次いでいつまで経っても動かない青年にまさか、と呟く。
「まさか本当に、ネメシアちゃんをそういう目で……!?」
「ち違うってのまさかそんな風に思われてたとは意外すぎて驚いただけだ!!!」
「ええ〜ホントですか〜あやし〜い! 後ろ暗いことは無いんでしょう、こっち向いて顔見せてくださいよぅ!」
「うるせえ!!」
「なんだ、急激に仲良くなったな二人とも。」
「なってませぇん!」
「冗談きついですよ主サマ!?」
ネメシアがひょっこり割って入ったことで会話は中断、そのまま宴はお開きになった。
既に習慣となった透子との入浴を終え、部屋に戻ってきたネメシアは嗅ぎ慣れない匂いに気づく。開け放った窓の縁にもたれかかって、零毬が煙管をふかしていた。
「…………ああ、そんなに時間が経ってたか。悪い、今消す。」
「別に構わん、そのままでいろ。」
一拍遅れてネメシアを視界に収めた彼が火を消そうとするのを、言葉少なに制止して布団に転がる少女。義肢を外して眠る体勢を整えるのを見守った後、零毬は外へと視線を戻した。
まだ消える気配の無い街の明かりに星が滲む。細く長く吐き出された煙が、紺色の空を染めては散る。ネメシアと同じく湯上がりの浴衣姿で、彼はひどく気の抜けた、穏やかな顔をさらしていた。
「今日買った新しい煙草か。」
「おう、今までのと全然匂いが違うだろ。百年も経ってるだけあって、高品質で安価な物が山ほどあった。一番時間の流れを感じたかもな。」
「しかし、たばこ屋には随分長居していたな。何を探していた?」
「昔のと同じやつを。アンタは嫌がるけども、俺にとっちゃ思い入れの強い特別なやつだからさ。」
「で、見つかったのか?」
「いいや……百年前と同じ商品なんかあるわけ無いとよ。無いなら諦めもつくから別に良かったんだ、新しいのも美味いし。」
「そちらの匂いの方が私は好きだな。薄荷に似ている。」
「そっか。」
最近は気を緩める暇も無くずっと作り笑いか仏頂面しか見せなかった青年が、感情を表に出している。些細な雑談にも変化する表情を眺めて幸せそうに笑うネメシア、それに気づかないまま零毬は煙管の灰を捨てた。
のそりと布団に潜り込んだ彼にすぐひっつき、そして剥がされる少女。
「ネメシア今何月か分かってんのか? もう七月にさしかかるんだよ夏なの、しかも湯上がりなんだから、くっついたら暑くて眠れねえよ!」
「ならば少し寒いくらいがいいのか?」
むすっと頬を膨らませ、ネメシアが宙に指を走らせる。その軌跡が光の線として残り、陣を成す。
途端に部屋の温度が下がった。
「は!? さっむっ!!?」
「ほら、これなら文句なかろう。くっつけ。心配せずとも外に影響はないし長続きもしない。」
「いや聞いてねえよ……」
暖をとるために仕方なく、という感じでも抱え込まれてご満悦のネメシア。それに溜息をつき身震いしながら眠ろうとする零毬。
そして翌日。
「あ”のな”ぁ”!! 前もっゴホッゲホ、言ったが人間は弱っへぶしょい!!!」
「わかった、わかった私が悪かった。説教も後でちゃんと聞くから今は横になってくれ、顔が真っ赤だぞ。」
見事に零毬は風邪を引いてしまったのだった。
「なかなか派手なくしゃみが聞こえたんですけど……って、あーあ! 零毬さん風邪ですか!? どうせ湯冷めでしょ! ダメじゃないですかしっかりしてくださいよぅ、ネメシアちゃんにうつっちゃったら大変!」
「いや、透子、これは私のせいだ……」
「? お布団取っちゃったりしたんですか? まぁとにかくは隔離と静養ですね。ネメシアちゃんはしばらく私と一緒に過ごしましょう! 零毬さんの看病は、教会の者を派遣しますから安心してください!」
「だのむ”……」
そうして部屋を出るもなお零毬を気にする様子の少女に、透子はしゃがみ込んで手を握り、語り掛ける。
「ネメシアちゃんが暗い顔してても彼は良くなりませんよ。大丈夫、我々はこういう時の対処も慣れてるので、すぐ治りますよ!」
「魔法で治せるのか?」
「えっと、ただの風邪だと余程体が弱ってない限り、自己治癒の方が早いので……魔法は使わず普通の薬や食事で治すことになると思いますよ。とにかく大丈夫! ですから出掛けましょう! せっかく女子二人ですから楽しい事しに行きましょう!」
ね? と笑って小首を傾げた透子に、ネメシアは仕方無さそうに頷き返した。
一方零毬は、布団に包まりながらとりとめなく考え事。
(くそ、しんどい……こんなひどい風邪なんて何時ぶりだ? たしかじいちゃんと暮らし始めてすぐも寝込んだことあったな……)
(じいちゃんが作ってくれた卵粥がすげー美味かったのを覚えてる。)
(だからネメシアにも作ってやりたくなって……あぁ、また作るって言ったのに作ってないな。元気になったら……うん、そのためにも寝よう。)
(透子に預けて、本当に良かったんだろうか?)
熱に体力を奪われ、途切れ途切れの思考。自分を振り返りながら連れて行かれる主を思い出し、心配が頭を掠めつつも眠りに落ちていった。
「零毬。」
「……ネメシ、ぁ、主サマ?」
「気を張らなくていい、二人きりにさせてもらった。」
額に冷たいものが当てられた感触と、名を呼ぶ声に目を覚ます。かさりと紙が擦れる音、ふっと意識が鮮明になった。
「透子たちの魔法ではすぐ治せないらしくてな。試しに魔法陣を作ってみたのだが、楽になったか?」
「ん、少しは……なあ、大丈夫だったか? 透子と一緒にいて。」
「教会の仕事について行くかたちだったので自由には動けなかったが、それだけだ。むしろ信徒仲間に対して皆口が軽くて助かったぞ。ちゃんと元気になってから情報共有しよう。あと数日は療養に専念しろ。」
「……わかった。」
透子と一緒にいて楽しかったか、という言葉を呑み込んで目を閉じる零毬。足音が離れ扉を開閉する音がした後、しんと静まりかえる部屋。
(ネメシアに不都合無いなら、それで良かった……良かったはずなのに、なんで俺はこんなにイライラしてんだろう。)
その後更に三日間寝て過ごすうち、不快感はどんどん大きくなっていく。今日も足取り軽く少女と連れだって歩く透子を、窓から見下ろして負の念を送ることしかできない。
「最初は嫌がってたネメシアも、今や楽しそうに出かけていくようになっちまって……」
ちらと己の手首に視線を動かす。
「契約がある以上、俺がいらないと思われてる訳じゃない。不安に思う必要は無いはずなのに、胸の内側を引っかかれるようなこの気持ちはなんだ……!?」
考えるほどドツボにはまっていく思考、情けなさに膝を抱えながら俯く青年。ビュオ、と強い風が吹きつけ更に身を縮こめる。
「……何もしない時間は嫌だ、悪い方にばっか考えちまう。なにやら天気も崩れてきたし、今日はどうやって暇を潰すかな。」
雨が降り出す前に閉めようと窓に手をかけて……彼は何かに気づく。
そのまま窓から出て、屋根の上へと登り出した。
(気持ち悪い気配が漂ってきた……ネメシアたちが向かったのとは逆方向……山から?)
山から怪物がやってくる、そんな話を思い出したと同時に視界に入る“それ”。
熊のような巨体の何かが、山を駆け下りてくる、そして勢いのまま街の外壁に飛びつく!
ドガン!!
巨体に見合った重い衝撃音、ざわつく街。鋭い爪で壁を登ってきたそれの顔は、痩せこけて性別も年もわからなくなった人間に似ていた。
「キャーッ!!!」
「なんだあれ!?」
怪物に気づいた者が口々に悲鳴をあげて逃げ出す。騒がしさを気にするでも無く、緩慢な動きの怪物。
(うわ、見た目からしてやばそうな奴。心配した振りしてネメシアの所に行けば、安全確保出来る上に透子の邪魔もできる、さっさと逃げよう。)
非常時にも小狡い考えで行動指針を定めた零毬、しかし一歩踏み出すかといった瞬間、視界がひっくり返った。
「はっ!?」
空を見下ろした刹那、己が宙に投げ出されたと知る。あわや墜落死というところでなぜか勢いが弱まり、怪我無く着地に成功。ばっと顔を上げれば、元いた屋根は吹き飛んでおり周囲には瓦が散乱していた。
怪物の視線を直感的に認識、即座に逃げる零毬。
外壁頂上から飛び降り、彼を一直線に追う怪物。
(なんで俺に向かってくる!? と、とにかく街の中を逃げ回るのは悪手、外に出ねぇと……! ネメシアがこの状況に気づいてくれるかどうか、今の俺に戦う力は無いってのに!!)
背後に迫る圧。
肩越しに振り返った目前、怪物の腕。
「ッ!!?」
その時零毬の右手、常に着けていた飾り篭手が光を放った。球状の障壁に守られ、鞠の如くすっ飛ぶ青年。
「びびったぁ、さっき無事だったのもこれのお陰か!」
怪物の腕力を物語る勢いだったが、またしても無傷。着地地点が外壁近くだったのも都合が良い、と笑う。
「ちんたら登ってたら追いつかれる。周りに人も居ねえ。これなら、あちらさんに外に出してもらった方が早いな。」
外壁を背にして棒立ちになる。彼めがけ疾駆する怪物が、ガパリと大口を開いて。
音を置き去る衝撃波が壁を貫いた。
木々を薙ぎ倒し直線状に、大地が削り取られる。ドシドシと削り跡の終端まで走った怪物だが、獲物の姿は見えず。後ろ足で立ち上がりふらふら首を揺らした数秒後、躊躇いなく茂みの一つに飛び掛かった。
「くそ、なんでばれた!?」
四度目の障壁発動、しかし上からのしかかられる形になったせいで身動きが取れない。
「――――――イィィイナァァァ……」
障壁に爪を立てる不協和音。混じる干からびた声。
「ホォォシィィイィナアァア!!」
怪物はただ一点、彼の飾り篭手を凝視していた。
(まさかこいつ、ネメシアの力に惹かれて寄ってきたのか!? それなら本人の方に向かうだろ、いや今は先に……!)
握り締めた小刀を、拾った木の枝に走らせる。
怪物の重みで障壁ごと地面が沈み始めた。
「できたっ!」
ガリッ、最後の線を刻みきって“武器”を構え、
「食らえや!!」
大きく開かれた口へ突き入れる。刻んだ『火焔』の陣、弾ける光と熱。
「ギィィィヤアアアアァアァッ!!!」
絶叫し後退る怪物、慌てて距離を取りつつ目は離さない。
口から、眼窩から炎を上げ、喉が焼き潰れたか声も途絶えた……が。
――ズシ。
「まだ動けんのかよ、てめぇまともな生き物じゃねえな……?」
ゆっくり、確実に、歩いてくる怪物。
思考を巡らせながらじりじり移動していくが、零毬も既に手詰まりであると自覚していた。
(手持ちの小刀じゃ石に刻めない。木じゃ強度が足りない。札型は作ってる暇が無いし……逃げようにも、しっかり俺を捕捉してやがる。あとは、何か無いのか!? くそっ……!)
緊張と距離を保ったままの両者。
ゴゥと吹き抜けた風が曇天に切れ間を作る。
差し込む光の帯を絶つように、怪物の頭上に飛び上がった影一つ。
「透子……!?」
「成敗っ!!!」
天高く掲げられたその両手に輝きが集い形を成す、ガラスの如く透明で、宝石の如く細工された巨大な槌が具現する。
全身全霊で振り下ろされた槌が、怪物の脳天へ。
ズドンッ!!
「……いやー危なかったですね! お怪我はありませんか?」
地面にめり込んだ槌、その下から黒いモヤが立ち上り消えたのを確認して、彼女は青年に手を差し伸べた。緊張の糸が切れ座り込んだ零毬は、その手に目もくれず主の姿を探す。
「ネメシアちゃんなら同志に預けてきましたよぉ。一緒に来たがってましたけど、流石に危険ですから……」
「零毬!!!」
雷鳴にも似た呼び声。義足とは思えない速さで駆けてくる少女に透子は驚き、零毬は何故か顔を伏せてしまった。
「透子、街がなかなかの混乱ぶりだった。信徒たちが不安がっていたし戻ってやってくれないか、私は零毬と話がある、気にしないでくれ。」
早口で捲したてて透子を追い払い、ネメシアは手のかかる従者を見下ろす。いがぐり頭をがしりと鷲掴んだ彼女が何事かを唱えると、二人の姿は瞬く間に消え失せるのだった。
微かな風と、水路を流れる水の音。花の香り。
見慣れた箱庭の、玄関前の芝生に移動したネメシアと零毬。俯きっぱなしの零毬の膝に乗り、その頬をぺちぺち叩く。
「ほら、邪魔者はもういないぞ。何故そんなに気落ちしているのか、私に話せ。」
その言葉に彼の唇が引き結ばれるのを見て、時間がかかりそうだと判断した少女。ならばその隙に離れていた時間を埋めようと、好き勝手にじゃれつき始める。髪を撫でたり、顔を覗き込んだり……軽く抱き付いて胸にすり寄った時、零毬の腕がするりと背に回りネメシアを捕らえた。そして小さな声を絞り出す零毬。
「あの女は頼りになるか?」
「……は?」
「従者としては同性の方が都合良いしさ、俺はただの人間だから、魔法陣を使っても弱い、脅威も退けられない――あのポンコツ女に助けられるくらいに! 不愉快だ、ムカつく、あんなのに劣る俺も、何も知らねえで俺たちの間に割り込むあの女も、それで平然としてるアンタも!!
アンタの一番近くは俺の場所だろ!?
守ってくれよ、そういう約束だろ……?」
激情に任せ爪を立てんばかりに小さな体を強く抱きしめた。伝わる服越しの温もりも振動もイライラを増すばかり、答えを急かそうとしてふと思考が止まる。
(振動? なんの?)
「……ふっ…………くくく……ッ!」
「いや笑ってんじゃねえよ!!! このッ、ぐ、剥がせねえ……!」
怒りのあまりぶん投げようとするも当然力で負け失敗。もはや隠す気も失ったらしいネメシアが声を上げて笑う。
「あははは! ふふっくふふ、ははは! あぁうん悪かった、そんなに拗ねるな、愛い奴だなあ全く!」
続いた言葉に、抗議は呑み込まされた。少女は青年の頬に手を添えてうっそりと微笑む。
「もちろん貴様が心を乱しているのには気づいていたとも。だが、透子に張り合い精一杯に威嚇する姿、隠しきれていない嫉妬の表情が、とても“良い”な……と思ってしまって。ついつい対処を先延ばしにしてしまったのだ、許せ。」
「今、俺が悩んだり苦しんだりしてたのを楽しんでたって言ったか? このひとでなしが!」
「ふふふ! それも久しぶりに聞いたな! だってしかたないだろう、二人きりでは見られなかった姿で、なおかつ透子に向けるぶっきらぼうな態度は私にはしないものだ。
私は零毬のすべてが欲しい。
貴様の表情、感情、言動を余さず見て、記憶したかったのだ。」
美しい夜明けの色に混ざるどす黒い執着。背筋を走るゾクゾクした感覚が恐怖か悦びか区別もつかず、冷や汗を浮かべ固まった彼の首に白い指が掛かる。
「ところで、貴様は誰のものだったかな?」
「貴女のものです……」
「よろしい。」
望んだ回答だったようで、何事も無く手を離して青年の正面に座り直す少女。約束を違える気は無い、次からはやらない、と手をヒラヒラ動かし、更に言葉を続ける。
「透子に貴様と会うのを妨害されていたのも事実なのだがな。さて、貴様はどうやら、私が透子のことを気に入っていると思ったようだが……それは違う。透子は所詮犬、零毬と同じ扱いには決してならない。」
「なんだそりゃ。」
「番犬や猟犬を思い出せ。私にとって“犬”とは道具、役に立つべきもの。対して“猫”は、そこにいるだけで良いものなのだ。透子がどんなに役立とうとも、私に尽くそうとも、私が奴を猫として扱うことはない。」
「それがアンタの中の線引き……ってことか。ふーん、だとするとあいつにも少しだけ同情するな……」
「私のかわいい飼い猫も、これで安心できただろうか。」
ころりと雰囲気を変えて、からかうように笑うネメシア。今更羞恥心を思い出し目を逸らして、そうなんじゃないですかねと返した零毬だった。
そんな仲良し主従が宿に戻ると、部屋の前で待ち構える女が一人。
「透子! さっきは助かった、ありがとうな。ここで何してるんだ?」
「どういたしまして。零毬さんは元気になりましたしさっきも怪我は無かったみたいなので、どうしてもお話ししたいことがあったんです。お部屋に入りましょう。」
部屋に上がり込んだ透子が『防音の魔法』なるモノを振りまき始め、零毬が文句をつけるより早くネメシアが囁いた。
「すまん、零毬。」
「は?」
「準備オッケーです! お二人とも座ってください、お説教を始めます!!」
「はぁ??」
強制的に座らされ、仁王立ちする透子を見上げた。心なしか、軽蔑の眼差しを向けられているような。
「聞きましたよ、ネメシアちゃんと同じ布団で寝ていたって!! やっぱり稚児趣味の変態だったんですね! 破廉恥! 最低!!」
「ちっっっっが、はぁ!? なんでそれを!」
「簪を介して婚約していてもダメなのかと、ネメシアちゃん本人から聞かれましてねえ!! 幼くしての婚約は御家の事情とかであってあなた方には関係ないでしょう!? 嘘を教えて手込めにしようとしているじゃありませんか!!!」
「誤解だ!!!」
「これだけじゃありません、普段から常識や倫理観の欠如がちらほら! あなたがわざと教育していないのか否かは置いといても、二人共に教育が必須と判断しました! 覚悟してください、真っ当な倫理観だけでもたたき込みますからね!!」
なんてことをしてくれたんだと隣を見やれば、ネメシアも口を滑らせた自覚はあるようで正座したまま項垂れていた。
(くっ、このひとでなしを、何も知らねえ奴に預けんのは早すぎたんだ! 次からは怪しまれてでも傍にいるか、いや人間文化についてもっと教えるのが先だな。)
「聞いてますか!?」
「はい……」
何はともあれ、この場を穏便に乗り切るには、神妙な顔で聞いているふりをしなければ。
そんなことを考えるろくでなしに、奉仕活動の強制参加が言い渡されるまで、あと半刻。