辞令書が来たよ
いつも以上に経理課社員達のデスク周りは雑然としていた。
今は3月前半で、棚卸しこそ毎月の必須業務だが、4月に入ると決算で修羅場と化す・・・そのため今は皆がちょっと気が張り始め落ち着かないので、片付けも雑になるのだろう。
「神谷、ちょっと」
珍しく祐一より早めにデスクについている部長の大塚が手招きをする。
「何でしょうか?」
タイムカードを押しながら答えると、早く来いと言わんばかりに必死で手招きされるので、面倒くせえ〜と思いつつ大塚のデスク前に行く。
部長が小さな声で
「実はな、辞令が出てな」
「はあ」
「お前、今日付けで秘書室に転属になったんだよ」
若干青い顔で大塚がモソモソと辞令書らしき物を取り出した。
「え~、ちょっと困りますよ移動とか、4月の決算どうするんですか?」
若干、鼻白む祐一。
「そりゃあお前、俺のセリフだよ~」
「はぁ・・・」
「けどまあ栄転だからなぁ。おめでとう」
「はぁ、ありがとうございます? ですかね。俺は別にこのままでいいんですが・・・」
そう言いながら、大塚から差し出された辞令書を祐一は受け取った。
辞令書には確かに祐一の名前と本日付けで重役専属秘書室に転属という文字がデカデカと黒いゴシック体でプリントされている。
「それとなあ、会長と社長が揉めててな」
大塚が突然、神妙な顔をする。
「お前の取り合いになってるんだよ」
「・・・は?」
「ちょっと行って仲裁して来てくれんか? 専務が困っとるんだ」
――会長と社長、何やってんだ?
「え〜? そんなの俺、困りますよ。仕事も経理で置いといて貰っていいんですけど・・・」
人間、栄転よりも我が身がかわいい時もある。
「しょうがないだろう、俺だってお前が抜けたら楽ができんようになるが、辞令書が来ちゃったんだからさ〜」
大塚はトホホといった感じで本音を言ってしまった。
「それ、言っちゃうんですね・・・」
呆れる祐一。
しかし・・・
「辞令なので仕方ないですよね・・・」
そして、ううむと首を捻ると
「所で部長、秘書室って何処でしたっけ?」
大塚は白目になった。
「あ、そうだ大塚部長。今日報告しようと思ってた事なんですが」
「お、おう。何だ?」
気を取り直した大塚が椅子に座り直す。
「俺、婚約したんで今年の秋頃迄には籍を入れます。扶養家族申請をしないといけないんですが、大丈夫ですかね・・・」
「大丈夫だ。俺に任せろ」
つい眉根を寄せてしまう祐一。
「はあ。じゃあ、宜しくお願いしますね」
「婚姻届を役所に提出したら手続きができるようになるからそれからだな」
「了解です、あ、婿養子なんで俺の苗字が変わっちゃうんですけど・・・」
「あー大丈夫だ。俺もそうだったから手続きは分かっとる」
「え、部長婿養子だったんですか?」
コクリと頷く大塚部長。
「だからな、何時も早めに自宅に帰るようにしとるんだ。まあ何にしろ、その手続きは俺が馴れてるから安心しろ」
ちょっとだけ大塚を頼もしいと思った祐一である。
入社してから多分、初めてだな、と思ったのが微妙な所ではあるのだが・・・
「それと経理の仕事も心配するな。お前がやらんでも他の連中もちゃんと仕事はできるから・・・多分」
何とも締まらない感じで大塚は話を締め括った。
デスク周りの片付けは後回しでいいので、最上階の秘書室に顔を出しに行ってこいと大塚に言われてエレベーターに慌てて乗りこんだ祐一である。
『兎に角、専務を助けてやってくれ・・・』
小声でそう言われたが、何で自分のことで揉めているんだろうと眉を顰める。
――隼雄社長も辰夫会長も、そうそう揉めそうにはない・・・かなぁ〜・・・いや、しそうだな。
異世界に行ったときの様子を思い出して、ちょっとだけ自信が無くなった。
最上階の廊下は音が響かない様に厚めの絨毯を敷き詰めてある。
会長、社長、専務、常務といった重役達と秘書室、給湯室等があり、入社以来経理部にずっと籍を置いている祐一には本来なら縁のない場所だった・・・
やたらと静かなので考え事にはもってこいの場所だった。
――突然勢いだけで麗奈さんと婚約しちゃったからな〜。
麗奈さん凄く可愛くて一緒にいて嬉しくなって、全力で護ってあげたくなるな〜 頑張って幸せにしてあげなくちゃ、てか、俺が幸せ過ぎる・・・
神谷の男の性なのか・・・保護対象に弱いらしい。
コレが呪いなのかも知れないが・・・
自称『恋愛恐怖症』だったアラサー男の変わり身の早さに目が点になるのは、きっと異世界の女神様だけでは無いだろう・・・
――専務は確か、社長の親戚だから、麗奈さんと結婚したら俺とも親戚か。板挟みということは、秘書室長?
あれ? うん、待てよ? 秘書課は総務部長だっけ? 専属だと管轄が総務じゃなくて人事だよな?
あれれ? 専属秘書って会社の保険使えたっけ?!
暇なので色々考えながら歩いていく祐一だが、結局は大塚に言われた通りに最上階の秘書室に行かないと何も分からない事に気が付き祐一は溜息を付いた。