第32話 詞子と鳥子
オノレが詞子という戴天の名前をこぼしてから数日後の午後のこと、あたしはベッドに横になって夢と現を行き来していた。
相変わらず睡眠リズムが崩れているというのもあるけれど、寝られるときに寝ておきたかったのだ。
いつ機がおとずれるか分からない。機がおとずれること自体に疑いはない。
マキ論が――あたしを奪い返しに来る。そうあたしは確信していた。
そんな時だった。
何をそんなに用事があるのだろう、というほど常に響いているオノレのスリッパの足音が、乱れた。
いつもは単調な、左に横切り、右に横切り、という足音がドアの外でしているだけで、まるでループ再生のBGMみたいなのだ。そのループがぱたりと途切れ、内容は聞き取れないけれど、オノレが大声で何かを指示する声がする。
それから複数の足音がバラバラに近づいてくる。ドアが乱暴に開けられる。
「もえ様、逃げていただきます」
オノレはいつも通り落ち着いた様子で入ってきたが、後ろに控える三人の男女は焦りを隠さない。
そのうちの若い女がずっとあたしを睨んでいる。
どこかで見た顔だな、と思っていると、「あのときはどうも」と血走った目で言ってきた。
ああ、あたしがドライバーで肩を刺した女――そしてあたしの背中を切りつけてき女か。
「大事なトモカヅキを傷つけたバカ女さん。何が起こるかしらないけど、今度は丁重に扱ってよね」
そう言い放ってやると、女が奥歯を噛み締めた。
「そのとおりです。万事丁重にさせていただきますよ。もえ様、危機が迫っておりますので、これから己どもが急ぎ避難にお連れいたします。ただし、教団として機密がございますため、恐れ入りますがこちらを付けていただきます」
まったく恐れ入っていない様子で、オノレが目隠しを差し出した。
それを合図に、三人があたしの腕をつかんで拘束する。そんなことをされなくても、この状況で騒ごうなんて気持ちはさらさらない。
オノレがあたしの目を目隠しで覆う。誰かの手で、靴下とスニーカーを履かされる。おそらく、ここに来たときにあたしが履いていたものだ。
両腕をとられたまま、さあ、と足を踏み出すよう促されたとき、あたしは急いで声を上げた。
「詞子様から頂いたピンを取って! 星の形のやつ。あたしの髪に付けてくれない?」
「急ぎだって言ってんだろ! ッ痛!」
頬を張られたらしい音と同時に、女が悲鳴を上げる。
「詞子様からの下賜の品だ。もえ様に付けなさい」
「はい……」
オノレが女の頬を打ったらしい。女は殊勝な声を出して、あたしの髪にピンを付けた。
さり気なく髪を引っ張られたのは、今は多めに見てやる。機会があればやり返すリストには入れた。
目隠しのまま腕を引かれて、あたしは初めて病室の外に出た。施設のなかは広く感じるけれど、多分、目が見える状態で歩くのとは感覚が違うだろうからあまり自分を信用できない。
こういうとき、歩数を数えるべきだった、と気付いたときには既に随分と歩いてしまっていたし、階段にたどり着いてしまった。
目隠しをされた状態で階段を降りるというのは本能的に恐ろしく、足がすくんでモタモタとした降りられない。
「もえ様、もう少し、急いでください」
「そうは言ってもさあ……」
密かに焦りをにじませているオノレの言葉に、反論しかけてあたしは思い出した。
「ポ……あの詞子様の犬はいないの? 抱えてもらって降りたら早そうなものだけど」
「しろがね様は詞子様のお側についておられます」
ふうん、なるほどね。
しろがねなんて立派な名前で呼ばれてるけど、戴天の側についている犬ってことは、ポチで間違いないだろう。
戴天とポチはどこに居るのだろう。避難、という名目で隠されているのときっと無関係ではない。
ひやりと空気の手触りが変わり、地下に入ったのが分かった。
目を隠されているとあらゆる感覚が鋭敏になる。
ここまでに1フロア分降りてきている。
ということはあたしの居た病室は二階、病室の上から物音がしていたことがあるので、少なくともこの建物は三階以上。
そして今あたしが歩いている廊下は地下一階。
今度は歩数を数えてみる。四人分の足音に集中力を乱されないように、慎重に数える。
1、2、3、……233。
233歩目でつきあたりに行き当たった。そこにはドアがあるようだ。
体感としてはだけど、病室から階段に向かって歩いたときよりも、階段を降りきってからこのドアの前までの方が距離が長かったように思う。
鍵穴に鍵を差し込んで、回す音がする。
屋内なのに、外から鍵をかけることが出来る部屋……穏やかじゃない。
「おつかれさまです、もえ様。目隠しをお取りします」
オノレがその言葉通り、あたしの目隠しを外してくれる。
通されたのは、子ども部屋みたいだった。小さなベッドと机が二つある。
色調はあわいピンクとオレンジで統一されていて、可愛らしい。なんとなくだけど、女の子の部屋って感じがする。
ぬいぐるみや、本、その他の娯楽っぽいものがないから、部屋の主がどんな子どもだったのかは分からない。
装飾らしい装飾といえば壁に貼られた五芒星の鏡と、ベッドの上の天井に掛けられた布だけ。
鏡は、五芒星の中心の正五角形の部分が鏡になっていて、それが二つ、並んでいる
自由に歩いていいらしいので小さなベッドの一つに腰掛けると、天井に掛けられた布には五芒星と格子柄が並んだ模様が染められていた。
セーマン・ドーマン印だ。
「おい、勝手に座るな」
「いいじゃないの、そのくらい」
信者のうち、中年の男があたしを咎めようとして、中年の女の方があたしをかばった。
「ここは詞子さまと鳥子さまのご育成室だろう、好きにさせていいのか」
「でもこちらのお嬢さんも次の星のためのトモカヅキだっていうんだから。失礼働いたら、よくないわよ。さっきのヘアピンの件、見たでしょう」
「じゃあ、いいけどよ」
中年男がオノレの方を横目で見ながらつぶやく。
オノレはというと、澄ました顔でドアの外を警戒している。手には小銃。今更だけど銃刀法ガン無視だ。
ドアの外には、オノレに頬を張られた若い女の信者が見張りとして立たされている。
――詞子と鳥子、そう、ふうん。
中年男と中年女の信者同士の会話を聞いて、納得した。ここが戴天と妹の飼われていた部屋ってわけだ。
そして戴天の妹、トモカヅキになった彼女の名前は鳥子。
大切に育てられていたって戴天は言っていたけれど、姉妹の居室は地下のつきあたり。
誰かがやって来たら、隠したい人間を閉じ込めるために使われるような部屋だ。
最近動かしていなかった表情筋がひきつるのが分かる。
戴天が狂ってるのは、狂わされたからじゃないかって思ったから。
もちろん今の戴天は許せないし、アッキちゃんにしたことも最低。
でも昔の、ここに居た仲の良い姉妹のことは、同情してもいい気がした。
姉妹を売った親も、買った教団も、どちらもおかしい。
アッキちゃんを星にはさせないし、教団はぶっ潰さねばならない。
そう決意したあたしは、そっと髪からピンを抜き取った。
あたしの考え通りなら、もうすぐ機は来る。
機を連れてくるのは、あたしにとってもアッキちゃんにとっても、そして戴天にとっても災厄でしかない存在のはずだ。
「困ります、真希波様!」
「退きなさい! 」
廊下から無数の人の足音がする。足音を引き連れて歩いてくるらしいのは、災厄――マキ論だ。
ステージでしか聞いたことのない声だけれど、張りのある低い声ですぐに分かった。
「通してはいけないと……」
「黙れ雑魚! これは造反行為である! 教団の意志は我が方にある!」
「しかし……っひ!」
ドア一枚を隔てて聞こえる問答に、室内は緊張に包まれる。
あたしは手のひらの中で、ヘアピンを握り直す。
鍵が、外側から静かに解錠される。
オノレが小銃を構える。
中年男女が、わけも分からずあたしを抑え……というかあたしを盾にする感じで後ろから腕にしがみついてくる。
あたしは貴重なトモカヅキで、黄泉返りではないから、死んだら困るでしょうが!
と思うけれど、あたしは平気な顔だ。マキ論が入ってこようとも、あたしに危害が加えられる心配はないと分かっている。
外開きに開いたドアの先、先頭には両手を上げた見張りの女が立っている。
そのすぐ後ろには、マキ論。それから、――アッキちゃんが立っていた。




