第20話 蘭の花粉
翌朝、あたしは久々に気持ちよく目を覚ました。
発熱による体中の痛みも、頭の重さも、吐き気も、全部ウソみたいに消えていた。
ちょっと寝すぎた感じもあるけれど。
窓を開けると、真夏の真っ青な空が広がっている。遠くにはかたまりになった濃い白色の雲がどっしりと居座っている。
空だけ見れば爽やかだけど、その下に広がるのはいつものつまらない風景だ。二階建て住居の二階にあるあたしの部屋から見えるのは、家の前の道路と向かいの家くらい。
向かいの家は外壁をリフォームしているから、工事用のビニールが張られている。その隣の家は最近とり壊しが終わって、今は更地になってる。
反対側の大きな家は、先月から二階のベランダに玉ねぎを吊るしていて、あたしの部屋からの景観は最悪。
ここだけの話、家に現れるあのGがつく虫は、あの家の玉ねぎが呼び寄せてるんじゃないかって疑ってる。
という具合に世界はいつも通りに冴えない表情なんだけど、あたしの体は新鮮な空気を喜んでる。
早朝からすでにやる気にあふれている日差しのなかで、こわばっていた体を思い切り伸ばした。
部屋着のキャミソールの肩紐がずり落ちて、それを直すときに自分の右腕が目に入る。
「あ、消えてる」
腕のアザがきれいに消えて、元通りの均一な肌色に戻っていることに、気がついた。
「なんだったんだろ。ていうかアッキちゃん大丈夫だったかな。ホントに桃娘がお見舞いに来たのかな。あの部屋に……?」
熱がひいて平静を取り戻したあたしは、アッキちゃんの汚部屋に入ったかもしれない桃娘のショックを心配した。
いや、まだ桃娘への嫉妬はあるけど、……でも、前知識なしに汚部屋に踏み込んだ人の反応を気にするのは、わりと普通の反応というか、良性の好奇心みたいなものだ。善玉菌的なアレだ。
というわけで、お見舞いの言葉にそえて、桃娘が来たときの様子をさぐるメッセージをアッキちゃんに送る。それからあたしは汗でべたつく体を流しに、シャワーに向かった。
シャワーを浴びて出てきたあたしは、アッキちゃんからの返信に首をかしげた。
彼女の返信はただ一言、
『リリィに来れる?』
だった。
髪から垂れた雫をタオルに吸わせながら、返信を考える。
うーん、どうしよう。
あたしは治ったとも送ったし、アッキちゃんの体調も聞いたのに、それには全然触れてくれていない。
当然、ついでをよそおって訊ねた桃娘のことにも答えてくれていない。
リリィに誘うってことは、アッキちゃんも風邪は治ったんだろうけど。それにしても言葉が足りなくない?
話しが長くなるから会って話そうってことなのかな。それと……
「あたしと会えてなかったから会いたい、とか? ってないかー! 恥ず!」
言葉にしてみたら猛烈に恥ずかしくなったので、あたしは濡れた犬みたいに頭を振った。
実際に濡れていた頭は、水滴を洗面台の鏡にまでまき散らした。
お母さんに怒られたらコトなので、あせって鏡の水滴をタオルで拭く。その間も、にまにま笑いが止まらないあたしは、思考を放棄した。とりあえずで『一時間半くらいあれば行けるよ!』とだけ返信して、急いでドライヤーを手に取ったのだった。
バー&喫茶リリィは、今日も昭和の香りをただよわせている。
そのほかにも、前に来たときには感じなかった、もったりした花の香りがするような――と店内を見渡すと、あった。
店内中央の大きなローテーブルに、豪華な胡蝶蘭の鉢が置いてある。
その陰に隠れるように、白髪の頭があった。
「アッキちゃん、今日はウィッグじゃないんだね」
放物線を描く蘭の茎のわきから顔を出して声をかけると、アッキちゃんは緋色の瞳を細めてまぶしそうに笑った。
かたわらには黒のキャップが置かれていて、服装はいつものストリート系。
低いテーブルに合わせた低いソファに座ったアッキちゃんは、長い脚をきゅうくつそうに組んでつま先を遊ばせていた。
「なんだろ、なんか、色々身につけるのがダルくてね」
そう言ってホットミルクをすするアッキちゃんは、いつにも増してテンションが低い。病み上がりだからかな? なんて思いながら、あたしは隣に座った。
鉢の下にたくさんの蘭の花粉が落ちていて、微妙に不潔な感じがする。
『全快祝い』って書かれたのしがついていたから、あまり不潔とか思ったらいけないんだろうけど。間近に嗅ぐ花の匂いは強烈で、とてもホットミルクを飲む気分じゃなかった。
「オレンジジュースください!」
耳が遠いお年寄りにも聞こえるように、ことさら大きな声で注文する。
カウンターのなかで座っていたママの、「はぁい」というしゃがれた声が返ってきた。
「ジュース系は、裏のスーパーのやつが出てくるだけだって言ったのに」
「でも花の匂いがきつくって」
「あたしが店に贈ったやつなんだけど。もえも、今日で全快だし」
そういえばリリィのママも腰いためてお店閉めてたって言ってたもんなあ。
じゃなくて! このお花、あたしのためでもあるってこと?
「ア、アッキちゃん、ってもしかして……」
「もしかして?」
「すごく可愛い?」
あたしのアホみたいな発言に、アッキちゃんは、ぽっかりと口を開けて呆れた様子だ。
「あー! 違う! いや、可愛いには違いないんだけど、なんだっけ? そう、あの、ありがとう。ありがとうでいいの? わかんない! あ! アッキちゃんも風邪治ったんだね、よかったね。……黄泉返り人って風邪とかひくの?」
慌てふためくあたしを見て、アッキちゃんはかたわらのキャップを取って顔を隠した。
オーバーサイズのTシャツの下で、細い肩が震えているのが分かる。
「っ、ふふ。なんか、気が抜けた。もえってあたしが思うより、バカかも」
「どういう意味!?」
「そのまんまだよ」
「それがわかんないの!」
「はい、おまたせ」
あたし達の――というかあたしの――騒ぎに割り込むようにして、ママがオレンジジュースを運んできた。
氷がたっぷり入ったグラスに注がれたオレンジジュースは、みるからに薄い。
グラスを持つママの手は、ロボット甲子園に出場するロボットのアームみたいにぎこちなく動く。
そして、ホットミルクのときと同様に、オレンジジュースはテーブルに置かれる際に盛大にこぼれた。
ママの手に大きな湿布が貼られていて、腱鞘炎はまだ治らないのか、なんて思う。
「それで、今日はなんでいきなり呼んだの? 嬉しいけど」
ずずっと音をたててオレンジジュースを飲みながら訊ねる。
うーん、見た目通りに薄い。でも、蘭の匂いぷんぷんのなかではこの薄さがありがたい。
アッキちゃんは急に真顔に戻って、キャップをテーブルの上に置いた。伏せられた目線は、蘭の鉢の下に散った黄色い花粉にそそがれている。
そこから視線が、上がる。
光を透かす緋色の目が、あたしの目を真っ直ぐに射抜いた。
「……あの毒蛾が、こんどは桃娘を襲った」
驚いて、ストローをくわえたまま反応を返せないでいるあたしに、アッキちゃんは言い含めるように言葉を続ける。
「ライブ会場でファンを襲った毒蛾が、桃娘も襲った。桃娘があたしの部屋に差し入れを持ってきて、玄関から一歩入ったときに、あの蛾が現れたの。桃娘の顔は真っ赤にただれた。ねえ、なんであたしの周りの人を毒蛾が攻撃するの? あたしの周りで、なにが起こってるの?」
「え、蛾が来たの? アッキちゃんは平気だったの!?」
「狙われたのは明らかにあたしじゃない。あたしに近づくいた人間が襲われてる。でも、桃娘があの日あたしのところに来るって知ってたのは、もえだけなの。それに、言わなかったけど……」
「けど?」
「戴天のところに、『あのファンの男みたいになりたくなければ、アッキには近づくな』っていう警告があったの。ライブの日に差し入れされたプレゼントを翌日事務所で受け取ったら、そんなそんなメッセージカードが入ってたんだって言ってた。戴天はすごく怖がってたから、部屋から出られないときにも頼れなかった。……ねえ、もえは、戴天のこと、ずっと嫉妬してたよね?」
アッキちゃんに睨まれて、あたしは完全に固まってしまった。
なにか、すごい誤解をされている。だってあたしは本当に何も知らないんだから。




