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外堀通りと昭和通り、第一京浜の三つの通りが合流する新橋の交差点から銀座の中心を南北に抜け、日本橋から神田、秋葉原の電気街を通り過ぎ、JR上野駅前の交差点まで続く大きな通りを中央通りという。
また、有名な女子大や大手出版社の本社がある目白台から護国寺、谷根千(谷中・根津・千駄木)と呼ばれる寺院や墓地が密集した地域を抜け、不忍池の脇へ出る通りを不忍通りといい、二つの通りは上野公園下の交差点で合流していた。
その合流地点からほど近い場所に、寄席の会場として有名な鈴本演芸場があり、演芸場からビルひとつ隔てた場所に池之端地区まで続く小さな路地があった。
仲町通りと呼ばれるその路地は、居酒屋や焼肉屋。スナックにガールズバーといった飲食店がテナントとして入居している大小の雑居ビルが左右に建ち並び、デリヘルの事務所やセクシーキャバクラ。性的マッサージ店などの風俗店も新宿・歌舞伎町や渋谷の繁華街とは数で劣るものの、同じビルで昼間から細々と営業を行っていた。
ビルの下には風俗店に雇われている暴走族上がりやチンピラ崩れの客引きたちが群がり、まるで獲物を狙うハイエナのような視線を路地へ向けている。
さらに夕方ともなれば今度は中国や韓国。台湾などの日本の近隣諸国。タイやフィリピンといった東南アジアの国々。少人数だがブラジルやチリなどの南米といった国からも出稼ぎに来ている外国人女性のホステスや街娼が路上に立ち、くだらない冗談を母国語で言い合いながら、カモとなる男性客が目の前を通り過ぎるのを待っているのが、毎日の光景となっていた。
この仲町通りで営業している複数の風俗店において、大麻や危険ドラッグ。合成麻薬といった違法薬物の売買が秘密裏に行われているという噂が上野界隈で広まっていることを熊谷芳樹が知ったのは、今から三ヶ月前、去年の十二月上旬頃であった。
まず、噂の発端になった店があることが判明し、内偵の結果、仲町通りで一番の規模を誇る池之端会館という会館の斜向かいにあるビルで営業している「スタープラム」というピンサロだった。
店主は夏目滋という六十代後半の初老の男性で、戸籍に出身地は静岡県熱海市とある。
夏目は高校を卒業後、熱海市内のあるスナックに雑用係として採用されたことがきっかけとなり、まずは水商売の世界へ足を踏み込むようになった。
その後、貯めた金を持って二十五歳で上京してくると、都内を転々としながらストリップ劇場のモギリやソープランドの呼び込みなどの仕事を経験し、今度は以来四十年ほどを風俗の世界に身を置くことになったのだ。
風俗営業の届けによれば、夏目が「スタープラム」の店長になっておよそ十年になる。だが、夏目が店にいることは、極めて少ない。
女性従業員たちに給料を手渡しする日を含めても、月に二、三回ほどしかおらず、長時間いるわけでもない。その代わりに、どこで拾ってきたのか分からない二十代ぐらいのチンピラ崩れである西村隆志という男が代理として店を預かっていた。
夏目は普段、赤羽駅近くにある安アパートで一人暮らしをしている。
犯罪の前科は無いものの、二度の離婚歴がある。子供はおらず、両親や兄弟もすでに亡くなっており、血の繋がった肉親が誰一人いなかった。
経歴だけを見れば、いくら風俗の仕事をしているとはいえ、孤独な堅気の人間だと誰もが思うだろう。
だが、「スタープラム」を管理している会社が「ムラヤマコーポレーション」という会社であることが判明すると、違法薬物の売買が噂ではなく実際に行われているものだと、熊谷は断定した。
登記上はイベント企画業や人材派遣労務業を職務内容としているが、実態としては上野から秋葉原一帯を縄張りとしている「村山組」という暴力団組織の企業舎弟であった。
「村山組」は神奈川県横浜市に本部事務所を構える広域指定暴力団「藤沢一家」の下部組織である。「藤沢一家」は初代組長・藤沢剛蔵が戦後、南方からの復員兵や流れ者の無宿人・博徒たち。愚連隊と称していた不良集団を自ら勧誘して、戦後の混乱期に結成した組織だ。
結成当初は闇市の一角で行われていた賭場の仕切りを、現在でも高レートで賭けさせる闇カジノや裏スロットの運営から、息のかかった雀荘やパチンコ屋からの納められる売上金。野球や相撲などのスポーツの勝敗を賭けるノミ行為などの違法賭博関連を主な資金獲得方法としていた。
構成員も本部事務所だけで約五十人。関東近郊から北陸、関西や東北などにある下部組織も含めると、およそ二百人近い大所帯であった。
「村山組」の組長は、村山大義。年齢は五十二歳。
村山は以前、千葉県西部にある小さな暴力団組織の若頭を務めていた。
武闘派の構成員として地元の裏社会では有名であり、これまでにも外界と塀のなかを行き来するのが日常茶飯事という男だった。
その組織の組長が持病の悪化で急逝してしまうと、構成員たちは次期組長を決めることなく他の組織へ移っていき、自然と組織は解散した。
村山もかねてより兄弟分の盃を交わしていた大阪にある「滝本組」組長・滝本晴康の元へ身を寄せることになった。最初は客分としての扱いを受けていたが、この時期に滝本と親子の盃を交わしていた「藤沢一家」で当時の幹事長、現在の会長である綿貫史郎と出会っていると想定された。
何故なら、外様である村山が滝本の元へ来てからわずか三ヶ月で正式な構成員となり、綿貫が会長に就任した直後に自分の組を持ち、幹部の一人として名を連ねる立場へ出世していったのだ。
このことから、滝本や綿貫からの後援があったのは確かだと、熊谷は見当をつけた。
しかし、古参幹部のなかには綿貫に対して快く思っていない者たちもおり、その筆頭が舎弟頭を務めていた鈴木隆弘という男であった。
鈴木は新宿を縄張りとした自身の組を持ち、資金獲得方法として都内で弁護士崩れの男たちを社長にした街金融をいくつか運営していた。
鈴木は「藤沢一家」のなかでは有名なほど綿貫とは犬猿の仲であり、年功序列やこれまでの活動から本来ならば鈴木が「藤沢一家」の会長へ就任すべきところを引退した先代会長からの指示で、下の立場であった綿貫に席を譲ったかたちとなったのだ。
綿貫の後援で入ってきた村山に対しても快く思っておらず、配下の構成員たちの間では抗争とはいかないまでも些細な小競り合いが今でも続いている状態だ。
とはいえ九十年代以降、日本全国では暴対法や暴排条例が施行され、警察の強力な圧力により各地の暴力団組織ではそれまでの資金獲得方法の活動や大規模な抗争、組織全体の規模を縮小せざるを得ない状況に追い込まれ、解散や半グレ集団といった他の犯罪組織と手を組み、より深く地下へ潜る組織が増加していった。
「藤沢一家」の下部組織のなかにも、本部への上納金を回収するのが困難な状況となり、賭博関連以外の資金獲得方法を始める組織が増加していった。種類としては闇金融や違法な産業廃棄物処理業、建設・不動産業など多岐にわたるが、なかでも一番多いのが違法薬物の売買であり、「村山組」もそのひとつであった。
熊谷は「スタープラム」を含めて噂になった店の全てを「村山組」が運営していることを突き止め、どこの国から違法薬物を仕入れているのか、売人はどれほどいるのかなどを探るために更なる内偵を進めていた。
しかし、その過程で熊谷ですら想定していない状況が起きてしまった。
夏目が自宅の安アパートから失踪したのだ。
異変に気付いたのは近所に住む大家の老婆で、不動産会社からの連絡で夏目が家賃を二ヶ月間滞納していることを注意しに向かったところ、部屋のカギが開いたままで不審に思ったので通報したのだと、後に事情聴取の際に語っている。
通報を受け駆けつけた赤羽署の地域課員により内部が捜索されたが、部屋のなかは荒らされた形跡が無く、ただカギをかけ忘れてどこかへ出かけてしまったような状態だった。
ただ、臨場してきた初動捜査担当の機動捜査隊の隊員により、部屋のなかを詳しく捜索すると、押し入れのなかから奇妙なものが発見されたという。
押し入れの壁の一部に隠し穴が開いてあり、そのなかに大きなボストンバッグが置かれていた。中身を確認すると、およそ三百万円近くの現金があったのだ。
赤羽署では自ら蒸発した失踪事件であると想定されたが、三百万円の現金が発見されたことで、この大金を目的とした誘拐事件であることも少なからず考えられ、赤羽署内に捜査本部が設置された。
当然、熊谷は内偵を一旦、中止することを余儀なくされた。
しかし、有力な目撃情報や誘拐した犯人に関する情報などが得られることなく、捜査の進展も芳しくない状態のまま冬が終わりを迎え、いつしか春本番である四月へと季節は移り変わっていった。
「旦那、だから知らないんでさあ」
ボロボロのパイプ椅子に座りながら、産まれたばかりの仔牛のように身体を酷く震わせて泣き顔の状態で土下座している若い男へ対して、熊谷は冷ややかな視線を向けていた。
四月中旬のその日、時刻は午後九時――。
熊谷は御徒町駅近くで営業している「ラブリーシネマ」という店を訪れていた。
個室ビデオ店として警察へ営業届けを出しているが、実際は特別料金を支払えば、AVを鑑賞しながら別室で控えている女性従業員から性的サービスを受けられることで、馴染みの客の間では知られていた。
「本当に、俺、何も知りませんってば」
事務所のなかで店長の高木は瞼の上を真っ赤に腫らし、口元を切らして血を滲ませながら、床へ自分の額が擦りつけるほど、熊谷へ頭を下げていた。
夏目が失踪してから熊谷は一回だけ、客としてこの店を訪ねており、高木が「村山組」の構成員であることもすでに調べだしていた。
「高木、俺がどういう男なのか。噂ぐらいは聞いているよな?」
「ええ、まあ。でも、夏目っていう爺さんのことは何も……」
高木は今にも泣きそうな顔をしていた。
「なあ、高木。さっきから、その態勢でいるのもキツいだろ。まあ、座れや」
「だ、旦那……」
熊谷は徐に立ち上がり高木の肩へ手を回し、自分の座っていたパイプ椅子へ座らそうとしたのと同時に、いきなり左膝を高木の鳩尾へ目がけて蹴り込んだ。
「オ、オエッ……」
高木は呻き声をあげながら前方へ身を丸めつつ、口腔内の血と唾液、逆流してきた胃液が混じり込んだ吐瀉物を床へ吐き散らしたが、熊谷は眉ひとつ動かすことなく、その様子を冷ややかに見ていた。
「これ以上、俺を怒らすとどうなるのか。どうやら、身を持って知りたいらしいな」
「だ、旦那。か、勘弁してください」
「おい、俺は夏目のことを尋ねたが、爺さんとは一言も言っていないぞ」
「そ、それは……」
「どうして、夏目が爺さんだと知っているんだ?」
「し、新聞で、読んだんでさあ」
「ほう、新聞でな。で、その新聞はどこだ?」
「お、覚えて、ないです」
熊谷はフンッと、鼻で笑った。
「下手糞な嘘だな。もっとマシな言い訳は出来ねえのかよ。覚えていないと言えば、俺が納得するとでも思ったのか」
「本当に、覚えていないんで」
熊谷は高木の服の襟を強引に掴んで引き立たせると、高木の首に腕を押し当てて、事務所の壁に背中を打ち付けた。
「舐めるなよ、このクソチンピラが! こっちはいくらでもテメエを引っ張れるだけの情報はたくさんがあるんだ。風営法違反だろうが、迷惑防止条例違反だろうが、公務執行妨害だろうが何でも大義名分つくるぐらい簡単なんだよ。俺に検挙られたくなかったら、いい加減、さっさと知っていること自供しやがれ!」
「だ、だ、だから本当に」
「うるせえ、ごちゃごちゃ抜かすんじゃねえ。だったら違うこと訊くぞ」
「な、何ですか」
「どうして二日前に新宿で鈴木組の清水と出会っていた? まさか、その理由も言えねえってほざくのか」
高木は大きく驚く様子はなかったが、微かに目を泳がせた。
明らかに動揺していることが熊谷には分かった。
「お、俺じゃねえよ」
「ほう、シラを切るつもりか。いい度胸だな」
「だ、だから……」
「そうだ、いいことを思いついたぜ。テメエをこのまま引き連れて、村山の事務所にでも向かうとするか。鈴木組の組員と会っていたと聞けば、組の連中は一体、どういう態度をするだろうな」
高木は驚きの表情のまま、身体を硬直させた。
「そ、それだけは、勘弁……」
「それとも鈴木のほうにテメエを売るか。向こうは向こうで村山や綿貫のことについて、何でも情報を買うと聞いたからな。テメエを売ったら、いくらか札束を渡してくれるだろうよ」
「や、止めてくれ。そんなことになったら、俺は……」
「フンッ、殺されるってか。俺の知ったことじゃねえな」
「旦那、アンタ刑事だろ」
高木は額に汗を滲ませながら、必死の懇願をした。
熊谷はその言葉を無視し、左の握り拳を下腹部めがけて殴りつけた。
「甘ったれるんじゃねえ。もし消されたくなかったら、さっさと話したほうがテメエの身のためじゃねえのか」
「く、クソデカが……」
「おう、クソデカで悪かったな」
「くたばりやがれ!」
熊谷は無表情で勢いよく頭を振ると、高木の顔面へ頭突きをした。高木の鼻骨は折れ、滝のように鼻から血が流れだした。
「い、い、痛ぇ……」
「知っていることを話すまで、朝まで遊んでやってもいいぞ。次は腕の骨か、それとも膝がいいか。ほら、どこ痛めてほしいか選べるぞ」
「こんなことして、オヤジが黙っちゃいねえ」
「おうおう、まだまだ威勢がいいな」
「デカ一匹が粋がるんじゃねえ。ウチが総出になれば……」
そこで高木は脂汗を額に滲ませながら、悲鳴をあげて、その場にうずくまった。
熊谷は高木の股間へ膝蹴りをしていたのだ。
「総出になれば、何だってんだ?」
「こ、こ、この野郎」
「お前のほうこそ、粋がるのは止めたらどうだ?」
「社長、どうしました?」
悲鳴が外にでも聞こえたのか、女性が外から心配そうに訊いてきた。
「な、何でもねえ!」
必死に絞り出した怒鳴り声で叫ぶと、怖がったのかドアの外にいた女性はそれ以上、何も言わなかった。高木の怒鳴り声に怖がり、おそらく静かに立ち去ったのだ。
「おい、改めて訊くぞ。どうして清水と会っていた?」
「俺じゃねえって、言っているだろ!」
「いい加減、諦めろ。清水と会っていたのだろ?」
「だから、そんな野郎、知らねえよ」
「いくら否定しもて無駄だ。俺はすでに清水を問いただし、お前が村山組の渡辺から人を集めて夏目を誘拐するように指示を受け、成功したら報酬として大金が貰えると話を持ち掛けられたのだと証言したぞ」
高木は決定打の一言を言われ、最早、反論出来ず肩から力が抜いたように項垂れた。
「旦那、そこまで突き止めているのか」
「驚いたか?」
高木は身体を起き上がらせると、壁に寄りかかった。
熊谷はさらに詰め寄ると、
「改めて訊くぞ。夏目を誘拐したのか。していないのか?」
と訊ねた。
「俺はしてねえ。確かに渡辺さんから電話で清水の野郎と一緒に夏目を誘拐して、事務所まで連れて来いと言われた」
「やはり、そうか。鈴木組の清水のことを知ったのは、どういう経緯だ?」
「アイツのことは、渡辺さんに引き合わされて、初めて会った」
「会ってすぐに報酬のことを決めて、夏目の元へ向かったって訳か」
「違う! 俺らが向かったときには、すでに夏目は消えた後だった」
「本当か? これ以上、ボコられないためにまた嘘ついているんじゃねえだろうな」
「本当だ! 嘘じゃねえ」
「嘘だと言い張っても、お前の話を信じるかどうかは、こっちが決めることだ。今この場で、誘拐の容疑でテメエに手錠かけることも可能なんだよ」
「なら、そうしろよ。だが、俺の話を信じないのなら、捕まっても何も言わねえよ」
高木は投げやりに呟いた。
その態度から熊谷は事実を語っていると感じ、どんな手法で問い詰めたとしても黙秘することは分かっていた。
熊谷が事務所を後にしようとしたら、
「ヘヘッ。誰が名付けたか知らねえが、アンタのことを鬼熊とはよく言ったもんだ」
と、笑いながら高木は言った。
熊谷は振り返りもせず、何も答えることなく静かにドアを開けて、その場から去った。