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星月夜の海 上  作者: 米元言美
1/1

海はすべてを飲み込む

海は全てを飲み込む


愛情も,憎しみも

光も,暗闇も

勇気も,恐怖も

希望も,絶望も


夏も,冬も

暖かい陽射しも,木枯らしも

春も,秋も

鳥の(さえず)りも,赤く染まった紅葉の葉っぱも


裕福も,貧しいも

高いも,低いも

綺麗も,醜いも

清いも,汚れも


潔いも,貪欲も

傲慢も,卑屈も

強いも,弱いも

誠実も,狡いも


真実も,嘘も

徳も,罪も

熱意も,無関心も

輝きも,影も


全てを飲み込み,無にする


しかし,太陽と月だけは飲み込まれるどころか,流されることもない

1.

春遠し


晩秋の風景を前に,若い夫婦が幼い子供を連れて歩く。時折吹き荒れる風も初秋の爽やかなものとは打って変わり,木枯らしのように骨身に染みる寒さになっていた。一歩でも外に出れば,長い冬がすぐそこまで迫ってきていることがはっきりと肌身で感じられ,その先の春は果てしなく遠いゴールにしか感じられない。樹木の葉っぱはとっくに散り,途絶えずに行き交う人の波に踏み潰され,地面に散らばっている。踏み潰され,細かくなった枯れ葉には,風で舞う元気すら残っていない。


人間の世界に嫁ぎ,一年前に第一子を産み,今第二子を身篭っている人魚の海保(みほ)()には,晩秋の冷たい風が誰よりも冷たく鋭く頬にあたる。


「まだ彼女は何かわからないね。」

海保菜は一歳数か月の娘を抱っこしながら,夫の尚弥を見て,言った。


人間の姿で産まれた娘の体が,海に入ったら,どうなるかわからなくて,怖いから,あえて海に触れさせていない。海の水に触れたことは,まだ一度もない。


しかし,親として,海保菜も尚弥も,娘の体質が気になって,ならない。生粋の人間なのか,人魚なのか,知りたくてたまらない。


「そうだね…。ずっと思っていることだけど、子供には話さない方がいいと思う。」

と尚弥は突然切り出した。


「話さない方がいいと思うって、何を?」

海保菜には,最初は,夫の言葉の意味がよく分からなくて,困惑した。


「人魚だということを話さない方がいいと思う」

尚弥は,続けた。


「えー!?なんで!?」

海保菜は,面食らった。


「子供が口を滑らせて、他人に話したら困るだろう?知らないことは,話せないから,秘密が守れる年になるまで黙っていた方がいいと思う。」

尚弥は,自分の考えを説明した。


「その事を話さずに,一体どうやって子育てをしたらいいというの!?その大事なことも話せないと,子供と向き合えないじゃない?」海保菜は,ドギマギした。


「人魚だと言わなくても,向き合えるだろう?人魚である以前に,自分は自分だし。」

と尚弥は,反論した。


「自分を隠しながら,子供と向き合うことなんて,出来ない。矛盾しているし…そんなこと,できるわけがない!」海保菜は,とうとう自分の気持ちが抑えられなくなり,むきになっていた。


「矛盾していないと思うけど…。」尚弥は,変わらず落ち着いた口調で会話を続けた。


「じゃ,この子も人魚なら,どうする!?まだわからないよ!いつか変わるかもしれない。今,お腹の中にいる子だって,そうだ。まだわからない。まだこんなに幼いのに,一生嘘をつくと決めるなんて,早いよ!

そして,たとえ人魚じゃなくても,秘密にしたくない。知ってほしい。ありのままの自分として,自分の子供と向き合いたい。芝居しながら,育てたくない。

それに,人魚の血を引いているのよ!それなのに,そのことを話さないなんて,考えられない。

人魚の血は,人間のとは,違うよ。今は,まだ感じなくても,いつか感じるようになる。とんでもなく強いものだよ。話さないわけにはいかない。」


「海保菜、違うよ。一生秘密にしようとは,言っていない。ただ,ある程度大きくなるまで待とうと言っているだけだよ。他人に話してはいけないことだって,ちゃんと理解できる年になるまで内緒にしたい。ずっとじゃない。」


数日後,海保菜は久しぶりに娘が寝静まった後,抜け出し,海に帰っていた。娘は,最近ようやく朝までまとまって寝てくれるようになり,海に帰りやすくなっていた。朝までに戻らなければならないので,短い時間しか過ごせないが,短時間でも,無理して足で過ごし,疲れを溜めている体が,大分楽になる。


先日の尚弥とのやりとりが頭から離れない。ひたすら泳ぎ回って,自分を落ち着かせようとした。しかし,なかなか落ち着かなくて、何時間もひたすら当てもなく泳ぎ続けた。すると,体力を消耗し切って,疲れのあまり砂の上で横になった。新しい命が成長している自分のお腹を優しく撫でてみた。すると,中で赤ちゃんが動く気配がした。今回は,男の子が産まれるらしい。人間のお医者さんは,そう言った。人間は,そういうことばかりを気にする,よくわからない生き物だ。


自分は、そんなことより、人魚なのか,人間なのか,知りたい。姿の問題じゃない。

お腹の中で成長している赤ちゃんも,今家のベッドでもすやすやと眠っている娘も,何かわからない。最初は,どちらでも構わないと思った。しかし,尚弥が人魚のことを話すべきではないと思うと話し出した途端,自分の中では,何かが変わった。どちらでもいいと思えなくなったのだ。


しかし,人魚であれ,人間であれ,自分の正体は秘密にしたくない。秘密にすることを想像するだけで,胸が苦しくなる。自分のことが話せないということは,本当の意味で親子にはなれないということだ。そう思った。


人間でも,尚弥なら,理解しあって,尊重しあって,暮らしていけると思っていた。しかし,今では,もはや自信がない。尚弥のことをよく知っていて,この人間なら,信頼できると思っていた。今では,尚弥のことをよく知っているかどうかというのも,疑問だ。最初は、仲良く過ごしていたが,結婚して子供が産まれてからはギクシャクし出し,今は,衝突してばかりだ。


今では,尚弥のことを全部知っていると思い込んでいた自分,愛情があればどんな違いも乗り越え克服できると思っていた自分,人魚でも人間社会に難なく溶け込み陸で生活出来ると思っていた自分は,非常に甘く,未熟に思える。同じ人魚同士でも,うまくいかずに別れてしまう人が後を経たないというのに,全く違う生き物の人間と上手くやれると過信していた自分は,世間知らずで,身の程知らずだったと絶望しかけている。


しかし,故郷を捨てて陸に行ったのだから,産まれた村にも,自分の居場所は,もうない。裏切り者と見なされているから,戻っても,四方八方から(けな)されるだけだ。今でも,自分を歓迎してくれるのは,親だけだ。

それに,子供がいるから,ややこしい。子供の体質が分からないから,連れて帰られるかどうか分からないし、子供を置いてまで海に戻ろうとは,思わない。

自分には,戻るという選択肢は,ない。


どうして,この人生を選んだのだろう?五年前の自分は,何を考えていたのだろう?

自問自答を繰り返す。しかし,答えは,一向に出ない。


しばらく、家族に会いに行く気にも,陸に戻って尚弥と話し合う気にもなれなかった。朝まで,一人で色々考えて,過ごした。秋晴れの空には,大きくて丸い満月が浮かび,しくしくと泣いている海保菜の横顔を微かに照らした。


尚弥も,その夜は,なかなか眠れなかった。


海保菜は,人魚だと分かった上で,縁談をし,結婚した。それは,間違いない。人魚だから惚れたということも,あるのかもしれない。妻のどんなに知っても,依然として謎めいていて,知り尽くせない,捉え所がないところに惹かれた。風や空のような飄々(ひょうひょう)とした存在だというのは,彼女が持つ魅力の一つであり,彼女のそのところに魅了された。


しかし,今では,妻をどんなに知っても,どこまで追求しても,知り尽くせないのは,むしろ怖く思える。


夜中に目が覚めて,隣を見れば,いなくなっていることが,度々ある。もちろん,海に行っているのは,知っている。人魚だから,定期的に海に行って,英気を養わないと,やっていけないというのも,わかっている。一応,わかっているつもりではいる。体は,違うから,仕方がない。陸に上がってもらい,無理をさせているから,夜中に抜け出すことくらいは,大目に見なければ,仕方がない。しかし,夜中に起きて,隣で寝ていないことがわかると,胸が(わび)しい気持ちでいっぱいになる。


そして,海保菜の育った世界のことを色々聞いているとはいえ,訪れたことがあるわけではないし,直接的に知る由はない。間接的にしか知ることができない。知れないのは,仕方がないことだけれど,これもまた寂しいことだ。


海保菜は,どのような生き物なのかというのも,完全には,理解していない気がしてならない。もちろん,人魚だ。しかし,人魚という漠然としたイメージはあっても,詳しいことは,知らない。妻の顔に時折浮かぶ,少しも人間らしくない,不思議な表情を見る時や,尚弥の質問を巧みにはぐらかす時など,怖くなる時がある。暴力的な言動はないが,妻の雰囲気には,どことなく,飼い慣らされていない,何をしでかすかわからない驚異的な大自然や,野生動物に似た様相があるような気がして,怖いと思わずにはいられない。


妻を抱いても,彼女の本当の体ではないし,本当の体を滅多に見せてもらえない。そう考えると,いつまでも夫婦になり切れていないような気がして,親密さが足りない気がして,安心出来ない。私たちは,生涯共にする家族だ,と堂々と,宣言出来るような安心感は,いつまでも生まれない。逆に,(つか)み所がなさすぎて,砂のように指の間から零れ落ちてしまいそうな,いつもぬけの殻状態になってもおかしくないような,感覚に常に襲われる。妻が,何を考えているのか,人間の自分のことをどう思っているのか,全く見当が付かない。

2.

無月


海保菜は,ある日,村長夫妻に呼び出された。庶民が,村長夫妻に呼び出されるのは,異例である。海保菜は,呼び出されるのは,これでニ回目だ。初めて呼び出されたのは,陸に住むと決めた時だ。


海保菜は,また夜中に抜け出し,村長夫妻のお宅を訪ねた。


広々とした部屋の高い王座のような椅子に,村長夫妻は,座っていた。海保菜が部屋の中に入ってすぐに,二人の視線を感じた。自分の赤ちゃんのいる大きいお腹を見ていることが,すぐにわかった。


「やっぱり、本当だったね。二人目を身籠ったという話。」

奥さんが,先に口を開けた。


「さようでございます。」

海保菜は小さい声で,言った。


「で?上の子供は?今,何歳?」

今度,ご主人が尋ねた。


「一歳半ございます。」

海保菜は,あまり抑揚を付けずに,淡々と答えた。


「で?」

またご主人に訊かれた。


「…とおっしゃいますと?」

海保菜は,何を訊かれているのか,よくわからなくて,混乱した。


「あなたの遺伝を受け継いでいる?」

今度は,奥さんが質問した。


「まだわかりません。」

海保菜は,俯いて地面を見つめながら,答えた。


「どうして,分からないのかね?」

ご主人が,尋ねた。


「まだ幼いし,傷つけたくないので,水に触れさせていないです。」

海保菜は,短めに説明した。


「それなら、娘さんの体質がわかるまで,よそ者として扱うしかないわね。安全上の理由でね。つまり,「部外者」と見なすことになるが,人魚が部外者と接触する際の掟は,わかっているよね?」



奥さんの高圧的な態度に最初から項垂れていた海保菜は,ますます萎縮し,体が強張ってしまった。声も出ない。小さく(うなず)くのも,やっとだった。


「頷いてくれたが,相手は,あなただから,念のために,言っておく。

接触しない!人魚と人間の接触は,禁じられている。あなたは,接触どころか,結婚しやがったが,二度と私の掟が破られることをゆるさない。 部外者には,人魚の姿を見せてはいけない。人魚の事を話してはいけない。人魚の声を聞かせては,いけない。わかった? 」

ご主人は,声を荒げて,言った。


「もしいつか,あなたの遺伝子を受け継いでいることがわかれば,また考えるが,その時までは,この姿で子どもと接触することを禁じる。」

奥さんは,念を押した。


「子供には,この世界の話は,しない。人魚の姿も見せない。家族の事も,話さない。

お腹の中にいる間だけは,仕方がないのでゆるす。」

ご主人は,更に念を押した。


「でも…私の子供です。自分の手で,自分の子供に触れてはいけないとおっしゃるんですか!?」

海保菜は,勇気を振り絞って,抗議しようとした。


「どこで暮らすにしても,あなたには,この村を,仲間を守る義務は,ある。わかった?今度こそ,従え!二度と私に背くな!わかったかい?」

ご主人は,とうとう怒り出した。


「また、いつか人魚だと分かる日が来たら,考え直す。接触を許す。でも、そのことがない限り,絶対的に禁止する。人間の子供が海の事を知ったら,大変だけれど、逆に海の子供が陸で暮らしていたら,それも,また大変だから…また考えようね。私たちの命令に従うと約束する?約束しなさい。」

奥さんは,声を少し和らげて,言った。


海保菜は,何も言わなかった。地面をまじまじと見つめ,新しい命が成長している自分のお腹に手を当てて,渋い顔をした。


「でも…。」

と,やっとの思いで、弱々しい声が喉から漏れた。


「あなたには,「でも」と私たちに反発する権利は,ない!仲間を守れ!家族と自分を守れ! 私たちをこれ以上,危険にさらしたら,ゆるさないよ!

そして、家族にも陸の旦那にもこの話を一言も話すな!絶対に話すな。

従わなかったり,一言でも,今の話を他言したりしたら、あなたの子供は,溺れ死ぬ。泳げるかどうかわからないが…わかった?

今度こそ,約束を守ってくれるよね?」

奥さんは,脅した。


「はい。」

海保菜は,聞こえないくらいの小さい声で,言った。


「もっと大きい声で。」

ご主人は,不満な顔をした。


「はい!」

海保菜は,胸が張り裂けそうな思いで,無理やり声を出して,約束した。


「なら,もう帰ってもらっても結構だよ。気を付けてね。」


海保菜は,洞窟から出ていって、海藻の森に入って,朝までむせび泣いた。


家に帰る前に,しぶしぶ,両親に会いに行った。


「村長の話は,何だった?」

母は,心配して,尋ねた。父も,表情で心配してくれていることが,すぐに伝わった。


「大した話じゃなかった。また妊娠したと聞いたようで、本当かどうか確かめたかっただけみたい。」海保菜は,森の中で泣きながら,考えた嘘をすらすらと述べた。


「わざわざ,その確認のために,呼び出すことは,ないだろう。」

父は,すぐに言った。母も,娘の嘘を見破っているようだったが,何も言わなかった。


「いや,話は,本当にそれだけだったよ。」


「しんどそうだね…少し休んでから,帰ったら?人間は、一日ぐらいなら子供を見てくれるだろうし…。」

母が,優しく言ってくれた。


「大丈夫。尚弥は,仕事があるし,保奈美が起きる前に帰らなくちゃ。では,また来るね。」

海保菜は,努力して笑顔を作った。


「本当は大丈夫じゃないでしょう?」

父は,まだ引き止めようとしたが,海保菜は,断って何とか帰った。


浜に上がると,まだ夜明け前で,暗かった。ちょうど新月で,曇天だったから,月も,星も,見えなかった。頭上に真っ暗な空が,果てしなく広がっているだけだった。海保菜の気分も,同じだった。

風は,頬が痛くなるくらい,冷たい。海保菜は,身震いしながら,借り物の脚を睨みながら,凛々とした風が吹き荒れる中をとぼとぼ歩いた。

3.

見えない星


日が昇り始める頃に,海保菜はようやく家に帰った。


「一体,どこに行っていたんだ!?心配したよ!」

尚弥は,珍しく怒っていた。朝目覚めても,海保菜がまだ帰って来ていないのは,初めてのことだった。


「…海。」

海保菜は,疲れ果てて,一言以上答える気力は,残っていなかった。


「何か,あった?」

尚弥は,妻の顔を見て,すぐに一晩泣いていたことがわかった。目元はひどく腫れていたし,表情もこの上ないくらい暗かった。


「うん,色々あった。」

海保菜は,答えた。


「何があったか,訊いていい?」

尚弥は,心配になって,追求してみた。


「ごめん。話せないの。」

海保菜は,項垂(うなだ)れて言った。


尚弥は,カチンと来た。

「考えていたけど、妊娠しているから,あまり海で過ごさない方がいいと思う、なるべく。胎児に影響が出るかもしれないよ。」


「は!?影響は出ても,悪影響なんか出るわけがないのに…

赤ちゃんが,私の体の中で,成長しているよ。私の体が元気じゃないと,赤ちゃんも元気に産まれない。そして私の健康を維持するためには海に行く必要があるの,知っているでしょう?」

海保菜は,またまた面食らった。


「でも、海に行っていたのに、しんどそうだよ。全く眠れていないような顔をしているよ。」


「それは,色々あって,眠れていないから…。」

海保菜は,説明した。


二階から保菜美の泣き声が,聞こえて来た。海保菜は,急いで二階へと向かった。娘をすぐに抱き上げようとした。


すると,ついて来た尚弥が,いきなり言った。

「触る前に手を洗った方がいいんじゃないの?」


「は!?」

海保菜は,また驚いた。


「だって、間接的に海に触ることになるよ。何か影響があるかも知れない。」

尚弥は,自分の考えていることを説明した。


「とうとう頭がおかしくなったの!?手を洗っても,同じだよ。今の姿以上に,人間にはなれない。人間じゃないし,なりたくない。そして,私の子供だよ。悪い影響なんて,出ない!海と触れても,死んだりゃしない!」

海保菜は,泣きそうになりながら,言った。


「おかしくない。慎重に考えているだけだ。子供を守らなきゃ。」

尚弥は,真剣な顔で言った。


「守る!?何から守るの!?私から!?母親だよ。二人目だって,今,私の体の中で成長しているの!それを,どうするつもりなの!?」

海保菜は,狼狽えた。


「それも,考えていた。だから、妊娠中は,なるべく海では,過ごさないようにしてほしい。出来るだけ人間の姿で,過ごしてほしい。あなたの体がしょっちゅう変わっていると、赤ちゃんにも影響が出るかもしれないから。」

尚弥は,続けた。


「何を言っているの!?影響が出ても,別にいいんじゃない!?人魚の子供が生まれたら,嫌なの!?なら、どうして私と結婚したの!?人間の姿でも,人間なんかじゃないし!扮装しているだけだし!この子が,お腹にいる時だって、自由に海に行ったりしていたのに,人間の形で産まれたでしょう?あなたの希望通りに。

どうして,このわけのわからないことを言ってくるの!? 人間じゃないし、我慢して海に行かないのは、無理!純血な人間の赤ちゃんがほしかったら、結婚する相手を間違えたよ。私の体から,純血な人間の子供が産まれるわけがない。この子だって、純血じゃない!今は人間の姿をしているけど、将来どうなるか,わからないよ!」

海保菜は,とうとう気持ちを抑えられなくなった。


「だから、それを防ぐために…。」


「防ぐ必要はない!悪いことじゃない!健康なら、人間でも人魚でもいい!私の事が,そんなに嫌い!?」

海保菜は,激しく泣き始めた。


「違う!嫌いじゃない。好き。大好き。」

尚弥が,慰めようとした。


「それは,嘘でしょう!もう,よくわかった。私を愛してなんかいないわ!」

海保菜は,娘を抱きかかえて,外へ逃げて行った。


娘を海辺に連れて行く誘惑には,やっぱり勝てなかった。海保菜は,娘と砂浜で遊びながら,夜になるのを待った。暗くなってから,母親を呼んでみた。すぐ来てくれた。


「急に,どうしたの!?何が起こるかわからないから,やめとこうってずっと言って来たじゃないの?!?どうして,急に気が変わった?」

母親の(ひと)()は,海保菜の保菜美を海に入れてみたいという話を聞いて,すぐに様子の変化に気付いて,訊いた。訝しそうに娘を見た。


「知らなきゃ。もう待てない。もう耐えられない。」


「この間の村長との面談とは,何か関係ある?」

仁海は,尋ねてみた。


図星だったが,本当のことを話してはいけないと口止めされているから,誤魔化した。

「関係ない。小さい頃は,まだ体も弱いから危ないと思っていたけど,もう一歳半にもなったし,もう赤ちゃんじゃないし,いいかなと思って…。」


仁海は,少し迷って,娘をとめるべきかどうか考えたが、人魚の子供である以上、海に入れることによって,何か悪いことが起きるとは考えにくかった。止めないことにした。

「じゃ,やってみたら?」


海保菜は,すぐに頷いた。


娘の足を慎重に、水につけてみた。保奈美は,全然泣かなかった。海保菜は,これを見て、ためらわずに娘を母親に抱かせた。


「海保菜…もし…!?まあ、長い時間,耐えて待ったよね。」

仁海は,また娘をとめるべきかどうか考えたが,止めなかった。止める理由は,思い当たらなかった。


仁海は,孫を大事そうに,水に下半身が浸かるように,しっかりと抱いた。


保奈美は,目を大きく,丸く開けて,戸惑った顔で海保菜を見たけれど、泣かなかった。海保菜の必死な顔とは,大違いだった。


「海保菜、まだ幼いし、まだまだこれからじゃないの?」

仁海は,孫の体が少しも変わらないのを見て,言った。


海保菜は,静かに泣き始めた。


「どうして,泣いているの!?人間でも構わないと,自分で言っていたくせに!まだ一歳半で、これからなのに…まだまだこれからだし、変わるかもしれないよ。まだわからないよ。絶望するのは,まだ早いよ。」

仁海は,娘の意外な反応に驚いて、必死で慰めようとした。


「海保菜、今,人魚に変われるかどうかというのは、どうして,急にあなたを泣かせるぐらい重要なことになったのかな?教えて。話していいよ。」

仁海は,娘は話せないことがあるとわかりながら,尋ねてみた。


「…自分らしく,育てたかったから。」

海保菜は,涙目で言った。


「えー!?そんなこと,関係ないのに。今はまだ変わらなくても、たとえ一生このままでも,自分らしく育てられるよ。体だけじゃないよ。あなたの娘だよ。それは体がどうであれ、変わらないことだ,絶対に。肉親だ。」

仁海は,泣きじゃくる娘を励まそうとした。


「子供は,人間でもいい。でも、私は,人間になれない…。」

海保菜は,泣き続けた。


「なれないし,ならなくていい。関係ない。」

仁海は,冷静に対応し続けた。


「これなら、一生隠さないといけない…。」

海保菜は,小さい声で呟いた。


娘のこの一言を聞いて,仁海は,すぐに村長との面談の内容がわかった。合点した。

「海保菜,言っていることも,様子もおかしいから,心配。今日は,私と一緒に帰って,休んで。保奈美は,体が浸かっても大丈夫なら、私が面倒を見るよ。潜らずに、ここで見ているから,私に任せて。」


「いや、今は,海には帰れない。保奈美も,早くここから離れないといけない。」

海保菜は,暗い表情で言った。


「なんで?いいと言っているのに。」

仁海は,ますます心配になった。


「ここに連れて来るんじゃなかった。」

海保菜は,悔しそうに呟いた。


「なんで?嫌がっていないし、泣いていないし…たまには,私に任せて,休んでもいいんじゃないの?海の中でも,こんなに落ち着いているのだから。」

仁海は,娘をこのまま帰らせるのは,どうしても避けたかった。引き止めて,何とかしないと,娘との間に大きな壁が出来てしまうような気がしたからだ。娘の今悩んでいることは,ただ事ではないのは,今の様子を見れば,誰にでもわかる。一人にしてはいけないと思った。一人になったら,何をするのか,わからない。そう思った。


「いや、だめ。ここに来たら,この子と何らかの繋がりを感じるかなと思ったけど…。」

海保菜は首を横に振りながら,言った。


「この子は,あなたの娘だよ。まだ幼いし,これからだよ。これだけで決めつけるな。娘を否定することになるよ。」

仁海は,厳しい口ぶりで言った。


「嘘だった…人間でもいいとか…自分についた嘘だった!」

海保菜は,苦しそうに嘆いた。


これから一生,娘に嘘をついたり,偽ったりしないといけないと思うと,自暴自棄になりそうで,怖い。発狂しそうなくらい,嫌な話だ。


しかし,村長夫妻の言ったことは,ただの脅しではないことがわかる。逆らったら,実行するに違いない。村長夫妻の命令に逆らって,夜中に突然に姿を消した人の噂は,小さい頃から,度々耳にして来た。逆らったら,大変なのは,充分に想像できる。子供の命を守ろうと思ったら,絶対に背いてはならない。


「海保菜、このまま帰っちゃダメ。この状態では,帰らせない。話せないことは,話さなくていいから,今日は,一緒に帰ろう。」

仁海は,必死で娘を説得しようとした。


「尚弥が,このことを知ったら,激怒するから,言わないでくれる?」

海保菜は,保奈美を母親の腕から奪い返して,お願いした。


「もちろん言わないよ。言う機会もない…。」

仁海は,まだ一度しか婿に会ったことがない。結婚が決まった時に,一度,挨拶に来たきりだ。


「本当に,もう帰るの?海の中にいても、害はない,痛くないとせっかくわかったのに…私に任せていいのに…私と一緒にいても,大丈夫だよ。おばあちゃんだもの。馴染ませても,いいんじゃないの?海を恐れるような、人魚を恐れるような子に育てないでほしい、お願い。」

これまで,努めて平常心を保っていた仁海は,とうとう取り乱して来た。


海保菜は,とてもつらくて重い気持ちで、申し訳なく,悲しい目で,母親を見た。生まれて初めて,本気で死にたいと思った。死んでしまって,存在しなくなるより、今の気持ちの方がずっと恐ろしく感じた。


このままだと、母親を、 自分を恐れるような子供を育ててしまうことになる。そう思うと,耐えられない心苦しさに襲われる。


海保菜は,母の最後の言葉には,結局応答できないまま,別れてしまった。


海保菜は,海岸の一番東側の端まで,彷徨うように歩いた。家から一番遠く、保奈美が生まれた洞窟とは,反対側の方の海だった。一番日当たりが悪く、昼間でも人気のないところだった。洞窟がたくさんあり、どれも尖った岩でできていて,海に突き出ているため、人間にとって,とても危ないところだった。


しかし,海保菜は,人間ではない。


この場所には,人魚にしかわからない趣があるのだ。海がよくシケル場所で,波は高くて,荒い。波が海に突き出ている洞窟の巨大な岩に当たると,すぐに波の花になる。潮騒も,どの時間帯にも,よく聞こえる場所で,海の嵐が宿る人魚の心は,落ち着く。波が激しく打ち寄せ,岩に当たる音は,荒れた心には,子守唄に聞こえる。


感情を酷く取り乱した心境の海保菜を落ち着かせる場所は,ここしかないのだ。


海保菜は,チラッと夜空を見上げたが,星が一つもない,果てしなく真っ暗な空だった。


保奈美をしっかり抱いたまま,洞窟に入り,倒れるように横たわった。


「もう一回だけ。最後に,もう一回だけ。」と(つぶや)いて,変身して,本当の姿になった。


眠くなっていた保奈美は,すぐに海保菜の傍までやって来て,尻尾に頭をあてて,すやすやと寝た。


「お願いだから、忘れないで。もう二度と,ここに連れて来れないけど。もう二度と,この姿は,見せられないけど,どうか忘れないで。」

海保菜は,号泣しながら小さな声で(ささや)いた。


「ママを忘れないで,本当のママのことを。」

海保菜は,保奈美の小さな手を握って,呪いを唱えるように言った。


海保菜は,朝まで寝ずに泣き続けた。 しかし,彼女の泣き声は,どこにも届かずに,波の音にかき消され,暗闇に包まれて、海に飲み込まれて行くだけだった。


数日後,海保菜は,気を取り直して,両親のところに,自分の正体を子供に話さないつもりでいることを報告しに行った。理由は,尚弥のせいにすることにした。別に,尚弥に対して,何か恨みがあるわけではない。単に,それしか思いつかなかっただけだ。本当は,尚弥には,申し訳ないと思っている。しかし,彼も,人魚のことを子供には話さないでほしいと,ついこの間言っていたのは,事実だし,海保菜の家族と会うことはないから,直接責められることもない。


本当は,両親に嘘をつくのは,とても辛い。これまで,嘘をつかずにやってきたのに。裏切りたくないのに。しかし,逆らえない命令だから,仕方がない。


父親の(たく)()は,カンカンに怒った。


「何ですって!?いよいよ,狂ってしまったのか!?自分は何か,忘れちゃったのか!?一番大事なことを、自分の全てを子供には,話さないつもりなのか!?それは,父親としては,遺憾だ。この娘に育てた覚えはない!恩知らずだ!」

父は,怒鳴った。寡黙な人なのに。


「自分の意思じゃない。本当に話せないの…。私が,自分の意思でこのことを選ぶと思っている?私だって,誇りというものは,あるのよ。」

海保菜は,必死で自分の意思ではないということを説明し,弁解した。


「なら,なんでだ!?村長夫妻と話した日から,あなたは,ずっと様子がおかしい…。」


海保菜は,一瞬黙り込んでから,

「関係ない。」

と嘘をついた。


「尚弥は,そう願っているし…。」

海保菜は,続けた。


「なんで,その人間の言いなりになる!?無視すればいい!」

拓海は,苦笑した。


「そういうわけには,いかないの…。」

海保菜は,そろそろ限界だった。


「とりあえず,あなたのこの決断には,がっかりしたし。自分の家族に,私たちに自分の子供を会わせないと? 一生,自分の本当の姿を子供には,見せないと?隠し通すと?あまりにも,あなたらしくないあほらしい決断だ。」

拓海の怒りは,収まらない。


「容易に決められたことじゃない。」


「本当に変わっちゃったね、あなた…まるで,人間になっちゃったみたいだ。もう,知らない!」

拓海は,力強く言い放った。


海保菜は,泣きたかったが,涙は出ない。涙が出ないのは,自分でも不思議だった。


海保菜は,久しぶりにずっと黙っている母親の方を見た。仁海は,涙を堪えて,(うつむ)いていた。


「お母さん,私の意思じゃない!お願いだから,わかって!」

海保菜は,やけになり,母親に訴えた。


「わかっているよ。」

仁海は,顔を上げて,海保菜と目を合わせた。


「わかっているよ。」

仁海が,もう一回力強く言った。


海保菜は,

「ごめんなさい。」

と深く頭を下げてから,静かに両親の自宅を後にした。


海岸に上がり,暗い海面を見渡した。空を見上げても,星の姿は,見えない。どこまでも真っ暗だ。


泣きたいが,涙は出ない。なんとか胸の痛みを晴らそうとして、海に向かって,闇雲に石を投げ始めた。でも、どんなに石を投げても,張り裂けそうな胸は,少しも楽にならない。


そこで、いつも首につけている,成人する時に母からもらった首飾りを外し,えいっと海に投げ込んだ。


「私は,これからどうしたらいいのだろう?」

海保菜は,お腹をさすりながら,(うめ)いた。


「この子を産みたくない。家のベッドで静かに眠っている子も育てたくない。自分として,育てることが許されないなら,偽りの人生を送るぐらいなら,むしろ今死んだ方が,ずっとマシだ。」

本気で,そう思った。


まだ朝までたっぷり時間はあったので,海竜の姿になって、何時間も海の中を,当てもなく泳ぎ彷徨った。ようやく、元の姿に戻り、浜辺の大きな洞窟の陰に隠れて,何もできずに,惨めな気持ちで海の暗い波を眺めていると,両親が突然海の中から現れた。


「海保菜、さっきは,悪かった。あの後,お母さんと話して,これは,あなたが自分の意思で決めたことじゃないことがわかった。あなたの意思でも、あの人間旦那の意思でもない。わかっている。」

父は,さっきの憤りが去り,落ち着いた表情で言った。


「私…。」

海保菜は,口を開けて何かを言おうとしたが,もう返す言葉が何も思い浮かばない。


「何も言わなくていいよ。わかっているから。」

今度,母が言った。


「またこれをつけて,前向きに,胸を張って生きなさい。自分を捨てるなよ。見失うなよ。

たとえ,子供たちに自分の姿は見せられなくても、何も本当のことは話せなくても、 辛抱強く待っていれば,いつかは必ず,道が開けるよ。

私たちの血の持つ力は,とんでもなく強い。その力を信じなさい。そして、自分の中にある力を信じなさい。」

仁海は,海保菜に海に投げ込んだ首飾りを返し,娘を励ました。


拓海も,強く頷いた。

「何があっても,辛くても,自分を捨てるな。誇りを捨てるな。そうすれば,乗り越えられる。」


「たとえ,私の顔は知らなくても、あなたの子供を愛するし、遠くから見守っているから。いつか会える日を楽しみに,いつまでも待っているから。あなたの事を見捨てたりしないから。味方だよ。私も,お父さんも。」


拓海は,また強く頷いた。


海保菜はジーンときて、両親を強く抱きしめた。


「ごめんなさい。」

海保菜が,申し訳なく言った。


「謝らなくていい。」

拓海は,首を横に振りながら言った。


「そして,絶望するのは,まだ早いよ。あなたの子供なら,私たちの血が静脈の中を流れている。その血の力を信じて。

そして,万が一,一生話せないことになっても,あなたの居場所は,ずっとここにあるからね。」

母が,優しい口調で言った。


海保菜は涙ぐみながら,頷いた。


「じゃ、そろそろ家に帰って、子供の面倒をちゃんと見てあげて。あなたがそばにいてあげるだけで、子供の心がこっちよりになるよ。言葉では言えなくても,あなたがそばにいると,生きている海の力が感じられる。だから、大丈夫。海を見せられなくても,海と無縁に育つことは,あるまい。」

父が言った。


海保菜は,頷いた。


「ありがとう。」

海保菜は,頬に涙をつけたまま,笑った。


「そう。あなたは,笑顔が似合うよ。」

母も笑みを浮かべて,言った。


海保菜は,両親と別れて,帰路についた。チラッと空を見上げると,果てしなく広い,黒い夜空に,星が一つだけ,キラキラと瞬いていた。


その僅かな光を道標にしっかりと人生を歩もうと心に決めた。




4.

名残の月


ある日、海保菜はニ歳半の保奈美(ほなみ)と生後六か月の(りょう)()と一緒に,テレビを見ていた。テレビの画面に,泳いでいるイルカの映像が流れた。


保奈美は,興奮して、

「見て!見て!」

と嬉しそうに,指をさした。


「うん、イルカだよ。」

海保菜は,海の生き物だから,保奈美の興奮ぶりに喜び、優しく教えてあげた。


海保菜は,村長夫妻との約束を守った。保奈美には,もう一年以上,自分の本当の姿を見せていなかったし,龍太にも,産まれて体が回復して以来,見せていない。保奈美には,海の話も,一切していない。家族にも,会わせていない。


しかし,海保菜は,諦めていなかった。姿は,見せられないし,話もできない。でも,許される範囲で,子供たちの記憶に人魚の面影が残るように出来ることは,していた。


毎晩,海の歌を歌って、子供たちを寝かしつけている。その歌を聞いてからの子供たちの寝つきが,他のどの歌よりも,良かった。あとは,海の生き物図鑑を見せたり,貝殻をおもちゃにして,一緒に遊んだり,する程度だが,意識的に子供の遊びや学びに海が登場するように,工夫していた。これぐらいしかできないのだが,この程度の工夫でも,意味があるとは,信じたかった。


イルカの映像が流れても,チャンネルを変えようとは,しなかった。そのまま見せた。これぐらいは,許されるだろうと思った。


イルカの姿を見て喜ぶ娘を見て、やっぱり体に表れなくても,私の娘だ,と誇らしく思った。海のものを見ると,喜ぶ。どの子供も,動物や乗り物など,動くものを見ると喜ぶのは,もちろんわかってはいるが、海の生き物だから,ここまで喜んでくれていると海保菜は,信じたかった。


イルカの映像が消え、次の番組が始まると、保奈美は泣き始めた。

「もっと!もっと!」

とテレビ画面を指差し,要求した。


海保菜が慰めても,ダメだった。余計癇癪(かんしゃく)を起こすだけだ。龍太は,イルカの泳ぐ音を聞いて,熟睡していた。


数年が経ち,保奈美も,龍太も,学校に行くようになった。


「お母さん,これを見て!」

保奈美は,学校の図書館で,借りてきた本を海保菜に見せてきた。


ギリシャ神話の本だった。保奈美は,人魚の絵の描いてあるページを指差し,嬉しそうに見せてきた。


「うーん、それはどうした?」

海保菜は,少しびっくりして,娘に訊いた。


龍太も,気になって,二人が何見ているのか,見に来た。

「何,これ!?すげえ!」

と感心して,言った。


「綺麗でしょう!ママ,人魚って,本当にいるの?海に行ったら,見れるの?」

保奈美は,目を輝かせて,海保菜に尋ねた。


「見れないかな…。」

海保菜は,適当に答えて,逃げようとした。


「見れない?…でも、いるでしょう!」

保奈美は,追求せずにはいられないくらい,興奮しているようだ。


「…わからないよ。」

海保菜は,しぶしぶ答えた。


保奈美は,がっかりしたように,本を持ったまま,ソファに深く座った。龍太も,隣に座り,

「もうちょっと見せて。」

と本を保奈美から奪い取ろうとした。


海保菜は,子供たちが,人魚に興味を示してくれて,どこかこそばゆくて,二人の横に座った。自分のことを何も教えない限り,少し話に付き合うことぐらい,出来るはずだと思った。やっぱり,人魚の母親として,かかわらずにはいられなかった。


「興味は,あるの?人魚,好きなの?」

海保菜は,言葉に気をつけながら,慎重に尋ねてみた。


「うん、好き!」

保奈美は,即答した。


「僕も,好き!」

龍太も,保奈美に負けないくらい,興奮している。


「なぜ?」

海保菜は,追求してみた。


「綺麗だし…。」

保奈美は,理由を求められ,返事に困った。


「速く泳げそうだし…。」

龍太も,自分のうっとりした気持ちを言葉で表現しようとしたが,難しいようだ。


「何故かわからないけど,好き。」

保奈美は,ようやく答えた。

龍太も,お姉さんの答えが気に入ったようで,強く頷いた。


海保菜も,子供たちのこの答えが可愛くてたまらなかった。

「お母さんも,どうしてかわからないけど,好き。」

海保菜は,はにかみながら言った。これぐらいは,言ってもいいだろう。自分は,人魚だと言わない限り,約束違反にならない。


「お母さんも好きなの?」

保奈美は,驚いて,訊いた。


「うん!」

海保菜は,満面の笑顔で言った。


「見たこと,あるの?」

保奈美は,さらに訊いた。


海保菜は,この質問には,答えなかった。代わりに,

「綺麗だって言ってくれて,ありがとう。」

と笑みを浮かべたまま,言った。


「なんで、ありがとうなん?」

保奈美は,海保菜の答え方がおかしかったようで,訊いた。


「そうだね。おかしいね…。ごめんね。」

海保菜は,笑顔が消え,仕方なく謝った。


尚弥が,仕事が終わり,帰宅すると、保奈美と龍太は、彼にも,嬉しそうに人魚の絵を見せた。止める間もなかった。海保菜が気づいた時には,もうすでに遅かった。海保菜,夫の反応が心配で,気づいていないふりをすることにした。


「人魚って言ってね、本当にいるかどうかわからないけど,好き!」

保奈美は,喜びに満ちた笑顔で、お父さんに話した。


「お母さんも,好きだって!」

龍太が,付け加えた。


海保菜は,「しまった!」と思った。


これを聞いて,尚弥の注目が海保菜に移った。

「まだ早いと思うけど…。」尚弥は,イライラした声で,言った。


「自分で借りてきた本だし,何も教えていない…好きだって言ってくれたから,私も好きだって言ったまでだ。あなたに責められるようなことは,何もしていない!」

海保菜は,不機嫌を隠さずに,ぶっきらぼうに言った。


子供たちは,親が何故この話題で揉めるのか,よくわからなくて,困惑した。


「お父さんは,嫌いなの,人魚のこと?」

保奈美は,悲しそうに尋ねた。


「うん、嫌いだよ!お父さんは。」

海保菜は,尚弥より先に答えた。


「嫌いじゃないよ!」

尚弥は,海保菜を睨みつけて,否定した。


「なら、なんで文句を言うの!?別にいいんじゃない,好きな絵本を見たって!?」

海保菜は,やきもきして,言った。


「ごめんなさい。」

子供の前だったから,それ以上会話を続けることができずに,尚弥は,仕方なく謝った。


その後,二度と人魚の話は,しなかった。保奈美と龍太も,タブーな話題だと察したようで,二度と持ち出さなかった。


一年後に,龍太が尋ねた。

「お母さんって,なんでいつもこの貝殻のネックレスをつけているの?」


「…お母さんのお父さんとお母さんがくれたものだから,大事だよ。」

海保菜は,少しだけ迷ってから,答えた。


「そうなんだ。お母さんのお父さんとお母さんって,どこにいるの?」

母方の祖父母に会わせてもらったことがない龍太は,訊かずにはいられなかった。


龍太がそう訊くと,コタツで宿題をしている保奈美も,海保菜の答えが気になり,顔を上げて,海保菜と目を合わせてきた。


海保菜は,どう答えたら良いのか,少し考えてから,

「遠いところにいるの。」

と曖昧な返事にした。


「死んだってこと?」

龍太は,尋ねた。


「いや、死んでいない。」

海保菜は,死んだと言った方がいいのかな?とも思いながら,殺したくないので,死んでないと答えることにした。


「会わないの?」

龍太が,さらに追求した。


「時々会うよ。」

海保菜は,どう答えていいか,わからなくなり,正直に答えてしまった。ここまで追求されるのは,初めてのことだ。


「僕も会ってみたい。」

龍太は,素直に言った。


「私も!」

保奈美は,海保菜の様子を注意深く伺いながら,言った。


「そうだね。会ってみたいね…いつか会わせるね。」

海保菜は,他にどう言い逃れたら良いのかわからずに,守れるかどうかわからない約束をしてしまった。


数年後,

保奈美は,小学校四年生,龍太は,ニ年生になっていた。

「保奈美ちゃん,この貝は,どうした?どこで拾ってきた?」

理科の先生が,尋ねた。


「お母さんが持っていた。」

保奈美は,答えた。


理科の先生は,びっくりして言った,

「この貝は,海のすごく深いところでしか見つからないもので,かなり高価なものだよ。」


「そう?」

保奈美は,無関心を装って,相槌を言った。本当は,海保菜が,どうしてその上等な貝を持っているのか,ずっと気になっている。しかし,質問しても,はぐらかしたり,逃げたりしてばかりだから,困らせたくなくて,追求するのを諦めたのだ。


「うん、お母さんって,ダイビングするのかな?」


「…しないと思う。」

保奈美は,お母さんがダイビングをしているところを想像しようとしたが,やっぱりピンと来ない。その話を聞いたこともないし。


「じゃ,買ったかな?どこかで?」


「…知らない。」

保奈美は,少々呆れてきた。知らないと言っているのに,どうしてここまで追求するのだろう。


「そうか。今日,家帰ったら、訊いてみて。」


保奈美は,久しぶりに海保菜に訊いてみようと思った。先生が知りたがっていると言ったら,答えてくれるだろう。そう思った。


家に帰ってすぐに,

「お母さん,理科で貝とか,石とか,勉強しているけど,家にあるものを持ってきてと言われたから,勝手にお母さんのこの貝を借りたんだ。そしたら,理科の先生が,すごく珍しがってね…。」

と海保菜に話しかけた。


「え!なんで,あんなものを持って行った!?私に言わずに。」

海保菜は,驚き、しまったと思った。保奈美が持っている貝は,深海にしか生息しない生き物の貝だ。ダイビングしても,人間が採るのは,かなり難しいと思った。


子供が成長するにつれて,「しまった」と焦る瞬間や出来事が増えている。子供が小さい時は、色々質問しないから,秘密があることもばらさずに自分の正体を隠すのは,簡単だったが,どんどん難しくなってきた。子供は,だんだん賢くなり,何かを隠していることに気づいているようだ。尋問の技も,少しずつ身につけてきて,対応が難しい。秘密が壁となり,少しずつ子供との距離が遠くなり,会話も減ってきた。もはや隠し通せる自信がない。思春期に突入したら,いよいよお手上げ状態になりそうだ。


大きくなれば,体質が変わり,話せる日がくるのではないかと,期待していた。しかし,二人とも,海保菜の遺伝を受け継いでくれていると思わせるような兆候は,いまだに何もない。なら,村長夫妻の命令に従い,彼らを守るしかない。隠し通すしかない。


「ごめん。」

保奈美は,申し訳なく誤った。


「別にいいよ。ただ,今後はちゃんと私に訊いてから借りてね。」

海保菜は,柔らかい口ぶりで言った。


「はい,わかった…でも、なんでこういう貝を持っているの?」

保奈美は,勇気を出して,尋ねてみた。


「貝が好きだから。集めているの。」

海保菜は,自分でもびっくりするくらい間を置かずに,すぐに答えられた。最近,嘘を思い浮かぶのが楽になってきた。自慢には,ならないけれど。今では,もはや本当のことを話すより,嘘をついた方が楽なのかもしれない。


「でも,なんでこれを?先生は,水の深いところでしか見つからないものだって言っていたよ。お店にもあまり売ってないって言っていたよ。」

保奈美は,納得できる返事が返ってくるまで追求するつもりみたいだ。


「買っていない。もらった。」

海保菜は,咄嗟に言った。


「誰から?」


「もう覚えていないわ。」


保奈美は,小さく溜息をついて,諦めて部屋を出て行った。


その日の午後に,海保菜が子供たちに,「お散歩に行かない?」と誘った。二人とも,自然が大好きで,家の中より外で遊ぶのが好きだから,すぐに「行こう!」と言ってくれた。


最近は,寒いから,ほとんどお散歩に行けていないのだが,今日は,太陽が出ているから暖かく感じた。子供たちは,防寒具を着て,すぐに外に飛び出した。


寒さを全く感じていないかのように,楽しそうに走り回る子供を見て,海保菜は,やっぱり子供はたくましいと思った。自分は,風が吹くたびに身震いをし,家に戻りたくなるというのに。


海は寒いが,風はないので,やっぱり陸で何年過ごしても風にはなかなか慣れない。風が吹くと,体の芯まで凍りそうになる。


「お母さん!ほら,月が出ているよ!夜じゃないのに!」

龍太が指差して,言った。


「綺麗だね。名残の月というんだよ。」

海保菜が,寒天を見上げて,言った。


5.

(おぼろ)(つき)


「どうして,水泳を習っちゃいけないの!?みんなやっているのに!」

保奈美は,訴えた。


「だめだから。」

海保菜は,あまり力のない声で,言った。


「でも、なんで!?泳げるようになりたい!海に行ったことすらないよ、私!恵美は,しょっちゅう行っているのに!私たちは,どうしていかないの!?龍太だって,この間行きたいって言っていたよ!」

保奈美は,後へ引かない。


「…後で、お父さんに訊いてみて。」

海保菜は,尚弥に丸投げするつもりで,娘の質問をはぐらかした。


最近,保奈美も,龍太も,海保菜の言い逃れに気づいていて,通用しなくなっている。はぐらかしても,容赦なく追求したり突っ込んできたりするし,そろそろお手上げだ。


特に,水泳について,なんと答えたらいいのか,わからなかった。人魚のことは,もちろん話せないが,それを除けば,習っては行けない理由は,特にないのだ。だから,説明に困る。


そして,自分だって,保奈美と龍太を海に連れて行きたい。泳げるようになってほしいし,許されるのであれば,自分で教えたい。いつか教えるよと約束したい。自分の手で我が子に触れてみたい。


でも、禁じられている。どうしようもないのだ。


「僕も,泳げるようになりたい!」

龍太は,海保菜と保奈美のやりとりを聞いて,やってきた。


海保菜は,思わず,ため息が出てしまった。また,ニ対一だ。最近,二人は結託する様になって,よくこうなるのだ。


海保菜は,尚弥が帰宅するまで,なんとか耐え凌いだ。


「お父さん!海に行きたい!龍太も!連れて行って!恵美は,しょっちゅう行っているよ!私たちは,まだ一度も行ったことないのよ!泳げないと,サメに食べられちゃうよ!恵美はそう言っていた。」

海保菜は,これを聞いて,思わず吹き出した。尚弥の反応を待った。


「恵美って,誰?」

尚弥は,単純な質問で答えた。


「学校のお友達。」

海保菜が,代わりに答えた。


「保奈美,龍太,だめだ。水泳を教えないし、海に連れて行かない。危ないんだ。」

尚弥は,適当に言って,断った。


「でも、近いって!危なくないって!」

保奈美は,簡単に退くつもりはないようだ。

龍太は,尚弥の様子を伺いながら,対応を保奈美に任せていた。


「ダメだって言っているでしょう!」

尚弥は,厳しく言った。海保菜みたいに,長々と子供の相手をしているつもりはないようだ。


「どうして,ダメ?」

龍太は,ついに口を開けた。


「ダメだから,ダメなんだ。」

尚弥は,イライラした口ぶりで言い捨ててから二階へ上がった。


しかし,保奈美は,手強い相手になっていた。1週間後にまた海保菜に訊いてきた。珍しく,龍太を味方に付けて,連れてこなかった。一人で訴えに来た。


「お母さん、水泳を習ってほしくないのは,分かるけど、恵美と加奈は,今度ビーチパーテイーをするの。誕生日だから。行って,いい?泳がない。約束だ。お母さんは,私が泳ぐのが,嫌なら、泳がないよ。」

保奈美は,最近なかったような,素直で純粋な態度で,言ってきた。


「保奈美…。」

娘の言葉が海保菜の胸に突き刺さった。水泳を習って欲しくない,泳いで欲しくないと思っていると思われるのは,本音とは裏腹だから,嫌だった。でも,本当のことが言えない。なんとか,人魚のことを話さずに,言えないのかな?自分の気持ちを伝えられないのかな?と海保菜は,考え始めた。ここまで素直に話してくれたら,渋ってばかりではなく,自分もきちんと向き合って話し合いたい。わかってもらえるように,話し合う方法はないのかな?


「海が嫌いのは,分かるけど…お願い!本当に,行きたい!」


もうダメだ。「海が嫌いのは,分かるけど…。」と言われたら,もうダメだ。話せるところまで,自分の気持ちを話してみることにした。嘘は,もう嫌だ。全部は,話せなくても,話せることはある。話しても差し支えないことだけ,話せばいいのだ。

「お母さんは,海が嫌いじゃないし,あなたが水泳を習うのも,嫌じゃない。お母さんも,あなたと龍太に泳げるようになってほしい。でも,今はまだダメだ。 」

海保菜は,珍しく,保奈美と目線が合うように,目を逸らさずに,言ってみた。


保奈美は,海保菜の態度がいつもとは違うことにすぐに気づいた。子供は,やっぱり敏感だ。チャンスだと思ったのか,さらに訊いてきた。

「なんで,まだダメなの?いつになったら,泳いでいいの?」


「今は,まだ危ないから。」

海保菜は,いつもの態度に戻り,目を逸らして,言った。


保奈美は,深い溜息をついて,部屋を出て行った。


尚弥が帰ってくると,保奈美は,尚弥にもパーティーのことを話した。


「どうして,こういう話をいつも僕に回すの!?あなたがビシッと断ったら,いいのに。ダメだって言ってくれたら,いいのに!」

尚弥は,子供たちが寝静まって,海保菜と二人きりになってから,怒りの矛先を海保菜に向けてきた。


「パーテイーの事は,ちゃんと断ったよ。しかし,海のことは…私は,人魚だし、私の子供だから,私の血を引いている。泳ぎたくなったり、海に行きたくなったりするのは,当たり前だ。海に関心を持ってくれたら,それを否定したくない。認めてあげたいし、追及してほしい。ダメだなんて言いたくない。

事情があって、私は教えられないけど,本当は,教えたい。水泳も,海の事も,教えたくてたまらない。もどかしい。」

海保菜は,自分の気持ちを説明した。


「でも,人魚のハーフでも,人魚じゃない!よ。」


「あなたには,どうしてそんなことがわかるの!?

そもそも,彼らは,人魚なのか,人間なのか,あなたが決めることでも,私が決めることでもない。たとえ体が人間に見えても、中身は、分からないよ。体は,自然の決めることだし、中身は,保奈美と龍太がそれぞれ決めることだ。私たちには,何も決める権利はない。

しかし,今、海に惹かれているのは,確かなのだ。あなたには,それをコントロールしたり、止めたりすることができない。

この立場の私には,彼らの興味や関心を見守り、選ぶ自由を守ることしかできない。見せることも,導くこともできない。でも、守ることしかできなくても、私の全てで,守るつもりなのだ。子供の心の自由を,私は絶対に守る。

人間の心でも,誰にもコントロールできないのに、人魚の心をコントロールできるとでも思っているの!?大きな間違いだ!人魚の心はね、自由で野生なものだよ。」


「二人とも,どう見ても,普通の子供だよ。」


「普通の子供に見えても,私の子供だ。完全に,この世のものになることは,ない。いくら隠しても,言葉なしで伝わるものだってたくさんあるよ。」


数日後,今度,龍太が話してきた。また水泳の話かと思いきや,全然違う話だったが,もっと困る内容だった。


「お母さん,ちょっと聞いていい?」


「うん、いいよ。何?」


「学校の課題で,親の生い立ちについて調べるという課題があるのだけど…。」


「そうか…お父さんをインタビューしたら?」

これは,困りそうだと海保菜は,思った。保奈美の時には,こういう課題はなかったし…。


「ダメだ。両方要るから。いい?」


海保菜は,小さく頷いた。


「どこで生まれた?」


「この近く。」


「…この近くって、どこ?」


「それ以上の事は,わからない。この近くだということしか…。」


「じゃ,何人兄弟?」


「二人。弟が一人いる。」

よかった。一つ正直に答えられた。


「そうか。じゃ,僕と保奈美と同じだね。」


「そうそう。」


「親の仕事は?」


「…仕事?働いていない。」


「退職したってこと?子供の頃は?」


「知らない…。」

人魚は,職業を持たないのだ。お金も使わないから,不要だ。自分の家族が食べる分だけ,食糧を確保するだけでいい。


「なんで,知らないの?」


「聞いたことがない。」


「学校は?どこの学校に通った?」


「学校は…家で勉強した。」


「学校,行っていない?」


「行っていない。」

学校もないのだ。


「趣味は?何をするのが好きだった?本当は部活の質問だけど,学校に行っていないから,部活もやっていないよね?」


「そうだね…絵を描くのが好きだったかな…後,弟と遊ぶこと。」


「好きな科目は?」


「…好きな科目はね…物語を読む時間が好きだった。」


「国語?」


「うん、そうだね…。」


「あと,これは,書いていないけど…お母さんの家族って,元気?」


「元気だよ。」


「どこにいるの?どうして,会ったことがないの?」


「ちょっと遠いところに住んでいるから,あまり簡単には、会えないの。」


「遠いところって,どこ?」


「どう言えば,いいんだろう…。」

海保菜は,そろそろ限界だった。


「普通に言ったら,いいじゃないの!?」


「言えない…。」

もうこれ以上誤魔化せないから,正直に話せないということだけ言うことにした。


「話さないの?」


「いや、話すよ。」


「電話で話しているのを聞いたことがない。」


電話では,話さないと言っても,どうやって話しているか聞かれて説明に困るだけだし,遠くに住んでいると言ってしまったから,会いに行っているとは,言えないし…。


龍太は,海保菜が困っていることを察して,質問を変えた。

「どうして,お母さんだけここに住んでいる?家族は,遠いところにいるのに。」


「お父さんがいるから。」


「お父さんとは,どうやって知り合った?」


「…この近くに遊びに来ている時にたまたま知り合った。」


「お父さんは,会ったことがあるの?お母さんの家族。」


「ある。一回だけだけどね。結婚が決まった時に挨拶に行った。」


「会わせてくれないの?僕たちに。」


「会わせたい…。」

海保菜は,誠意を込めて,言った。


「なら、会わせて!それとも,僕たちには会いたくないのかな?」


「会いたいと思ってくれているよ、ずっと。」


「なら、なんで遠ざけている?」


「遠ざけていない…本当に遠い 。」


「どうして,自分の話はしないの?」


「…できないから。」


「お父さんは,するよ。若いときに,こういうことがあったとか。」


「それは,お父さんにしかない贅沢だ。私は,話せない。」


「なんで?聞きたいのに。知りたいのに。そして、どうして言葉は,訛っている?他の言葉もしゃべれる?」


海保菜は,申し訳なく何も答えずに俯いた。


「お母さんは,こうして家族から遠いところに住んでいて,さびしくないの?」


「寂しいよ…。でも,龍太と保奈美がいるから,大丈夫。」


「この課題は,出せないなあ。出生地:この近くとか,笑われる。」


「ごめんね。」


「なんで,普通に答えてくれないの?」


「…答えられないから。」


「なんで!?息子なのに!」


「ごめん…。」

海保菜は,仕方なく謝った。


「ごめんとか,じゃない!話して!いつも秘密ばかり!お父さんが何でも話してくれるのに,お母さんは謎。全部,謎。何も教えてくれない。心が読めない。保奈美も,いつも同じこと言っているよ!」

いつも物静かで,優しい龍太が,ここまで怒るのは,珍しかった。いや,初めてかもしれない。


「ごめんなさい。」

ここまで言われても,「ごめんなさい」しか言えなくて,自分でも情けなくて,歯がゆかった。全部話したい。今すぐ全部話して,子供たちと本当の意味で,親子になりたい。でも,話してしまうと,子供の命が危ない。


保奈美は、龍太の怒声が聞こえてきて,どうしたのか気になって,すぐに様子を見にきた。

「龍太,どうした?」


「ひどい!いつも,ひどい!謎ばかりで…一緒に住んでいるのに,生まれてからずっと毎日一緒にいるのに,全然知らない人みたいで,嫌だ!」

龍太は,怒鳴り続けた。


保奈美は,目を大きくして,龍太と海保菜を見比べた。


海保菜は,龍太の指摘が深く心に突き刺さり,涙が滲んでくるのを感じた。こみ上げてくる感情をコントロールできずに,

「私だって,話したいの!」

と叫んでしまった。


涙がポロポロと頬を伝ってくるのを感じた。抑えたくても,抑えられなかった。気がついたら,声を上げて,泣いていた。


保奈美も、龍太も,海保菜の泣いている姿を見て,驚いた。母親の涙を生まれて初めて見たのだ。


「話せない私も,辛いの!すごく辛いの!話したいのに…!今すぐ全部話したいのに…!」

海保菜は,顔を手で覆いながら,決壊したダムのように激しく泣き続けた。どんなに頑張っても,涙は止まらない。生涯分の涙をまとめて流しているみたいだった。


保奈美と龍太は,母親の様子が心配で,そばに駆け寄り,肩に手をかけた。


「お母さん,大丈夫だよ。話せなくてもいいよ。あんなこと言って,ごめん。」

龍太が泣きそうになりながら,謝った。


海保菜は,あの日から体調が優れなくて,あれ日とうとう起き上がれなくなった。


保奈美は,すぐに海保菜の異変に気付いた。

「お母さん、大丈夫!?」


保奈美は,苦しそうにお腹を押さえて,跪いている母親を見て,驚いた。


海保菜は,娘に気付いて、立ち上がろうとしたが,できなかった。またすぐに,足が崩れてしまった。


「大丈夫!?どうしたの!?」


「大丈夫じゃない…お父さん、呼んで。お父さんに電話して。今,帰ってきてって電話して。」

海保菜の体は,変わりそうだった。抑えようとするのが,辛いくらい。ただ,子供の前で変身するわけにはいかないので,当分は,抑えるしかない。日々無理しているから,こうなる。過去にも何回か,こうして体調を崩している。やっぱり体は,陸ではなくて,海で暮らすための作りなので,陸ではなかなか持たないのだ。


保奈美は,すぐに頷いて,電話機を手に取った。


最近,保奈美は,頼もしくなっていた。もう小学六年生,十二歳だから,当たり前なのかもしれないが,母親ながら,感心してしまう。つい最近まで,自分では全く何も出来ない赤ちゃんだったはずなのに…。


変わったら,体が少し楽になりそうだったけれど,保奈美の前ではダメだ。海まで行けたら,気にせずに変われるが、この状態なら,海まで歩いたり,運転したりするのは,無理だ。尚弥にお願いするしかない。


しかし,体は,尚弥が帰ってくるまで持つとは,思えなかった。何とか,保奈美から逃げなければならない。体が変わってしまう前に,どこか子供に見つからない場所に移動しなければならない。どこかいい隠れ場所がないかな…そうだ!トイレだ!トイレなら,付いてこないし,勝手に入ってくる事もない。尚弥が帰って来てくれるまで,鍵をかけて,中で待っていたらいい。


「すぐ帰ってくるって。」

保奈美は,電話を切って,海保菜に報告した。

「どうしよう、お母さん…痛い?立ち上がれる?」


「うーん,できない…体中が痛い。」


「…なんで?怖いよ。」


「ごめんね…大丈夫だから,心配しないでニ階で遊んでいて。お父さんが,もうすぐ帰ってくるし、お母さんは,大丈夫。トイレに行けば,少しは,楽になると思うし。」

海保菜は,努力して笑顔を作った。


保奈美は,仕方なく,いったんニ階へ上がった。保奈美が二階に上がった途端に,海保菜は,動き出した。体を何とかトイレまで,無理やり引っ張って,ドアを閉めた上で,鍵をかけた。

「ここなら,大丈夫。」

ところが,変わっても,痛みは治まらなかった。まだ痛くて苦しい事には,変わりはなかった。「

やっぱり,水に触れないとダメか…。」

海保菜は、呻いた。


保奈美は,母親の様子がどうしても気になり、しばらくしてから,龍太を連れて,また階段を下りてきた。

「お母さん!お母さん!どう?」

二人が心配そうに呼びかけた。


海保菜は、返事するわけにいかないと思って,最初は,黙った。


「お母さん!大丈夫!?お母さん!」

と何回か叫んでから,泣き出した。


返事はないから,不安になっただろう。


海保菜は,これ以上不安にさせるのは,申し訳なくて,

「トイレだよ。大丈夫だよ。楽になった。」と返事した。


保奈美と龍太は,すぐにトイレまで駆けつけた。

「お母さん,開けて!なんで鍵をかけたの??」


「ごめんね。お父さんが帰ってくるまで,ここで待っているね。心配しなくていいよ。大丈夫だから。」


「だめだよ、お母さん!あんなに痛いのに…。」

龍太は,抗議した。


「じゃ,お父さんが帰ってくるまで,私たちもここで一緒に待っているよ。」

保奈美は、ドアを開けてもらうのは、無理だと見切りをつけて、言った。


「いや、だめだ,保奈美!」


「なんで?別に,いいでしょう?ここで見守るよ。」


「…み、見守ってくれるの?」

海保菜は、泣きそうになった。


「うん!」

保奈美と龍太が一斉に答えた。


「それなら,お願いします。」

海保菜は、嬉しく答えた。


しかし,考えずにはいられなかった。「子供たちが,今の自分の姿を見たら,どう思うのだろう?どう反応するのだろう?やっぱり,逃げるかな?怖いかな?」

海保菜は、見せたかった。どんな反応でも見せたかった。ドアを開けて、自分の手で子供たちに触れ、抱きしめたかった。しかし,その衝動を抑えるしかなかった。


「どこが痛い?」


「全部,痛い」


「なんで?」


子供は,「なんで?」と尋ねるのが大好きな生き物なのだ。海保菜は,子育てをしていて,そう思う。


「…いつも,無理しているから。」

海保菜は,正直に答えてみた。


「私たちのせい?」


「違う,違う!あなたたちは,関係ないよ。あなたたちのせいじゃない…!」


尚弥は,もうしばらくすると、帰って来た。


「海保菜,帰って来たよ!どうした!?」

と尚弥が,玄関を開けるなり,大声で呼び掛けた。保奈美と龍太は,すぐに出迎えに行った。


「トイレにいるよ。自分をトイレの中に閉じ込めて,何を言っても出てこないの。」


尚弥は,この説明で,海保菜が今どういう状況なのか,推測できた。

「大丈夫。お父さんは,合鍵を持っているから,入れる。」


「よかった!」


「でも、保奈美たちは,だめだよ。」

尚弥は,すぐ付け加えた。


「なんで!?心配しているのに…助けたいよ!」

保奈美は,抗議した。


「いや、出てこないことには,きっと理由があるよ。あなたたちには,今の苦しそうな姿を見られたくない。心配させたくない。だから、お父さんが一人で助ける。二階行っといて。」

尚弥は,やや厳しい口調で言った。


「なんで…もう十歳だし,子供じゃない!」


「知っているよ。でも、今回は,お父さんに任せてね。」


保奈美と龍太は,しぶしぶ階段を上った。


「海保菜,開けるよ!」


「子供たちは?」


「二階にいるよ。」


「なら,いいけど,毛布か何か持ってきて。子供には,見せられない…。」


「うん、わかった。」

尚弥は,トイレのドアを開けて,海保菜の体を毛布で包んで,玄関まで抱きかかえた。


すると,保奈美と龍太がまた一緒に階段を駆け下りてきた。


「お母さん,大丈夫!?」


「大丈夫。二階に戻って。」

海保菜は,少し焦っている声で言った。毛布の中から頭しかはみ出ていなかったけれど、それでも見られているような気がして,焦った。尚弥も,同じ気持ちだったみたい。


「お母さんは,大丈夫だから…病院に行ってくるね。」

尚弥は,玄関を閉めようとした。


「耳は,なんかおかしいよ。」

保奈美と龍太は,海保菜の顔をジーっと見て,観察していた。


尚弥は,子供たちのコメントには何も答えずに,玄関を閉めて,海保菜を車まで運んだ。


車に乗ったら,ようやく訊いた。


「どうした?しんどい?」


「体が痛い…変わったら,少し治まるかなと思ったけど,治まらない。全身が痛い。」


「だから,トイレの中で変わったわけ?」


「そうするしかなかった…。」


「でも、子供に見つかったら…。」


「見つからないように,鍵を掛けた。彼らは,何も見ていない。」


「さっき,見たじゃないの?」


「頭だけ。頭見ても,何もわからない。大丈夫。」


「でも,耳が見えたみたいよ。」


「遠くから,ちらっと見えただけだし,大丈夫。すぐ忘れるし…「病気だったから」と言えばいいじゃないの?」


「いや,その言い訳は,通らないだろう。人が病気になっても,耳の形が変わらないことぐらいは,知っているよ。そろそろ話した方がいいじゃない?」


「何を?」


「だから、本当のことを。人魚だということ。特に,保奈美に。もう十二歳だし,来年中学生だよ。龍太にも,あと2ニ年ぐらいしたら,話したらいいと思うよ。」


「…今さら,話せないよ。」


「でも、保奈美と龍太だって…!」


「話せない!」


「彼らも人魚なら,どうする?」


「人魚なら、人魚だと分かった時に話す。その前は,話せない。」


「なんで?僕が最初言ったときに反対だったのに…。」


「言わないと約束したの。あなた以外の人に…人魚だとわかるまでは,絶対に言えない。言ったら,彼らの命が危ない。」


「誰に!?」


「それも,言えない。」


話せないと言われて,尚弥は,お腹の底から怒りがこみ上げてくるのを感じたが,抑えた。


「あなたの体のことを心配している。子供たちは,もう秘密が守れるぐらいの年になったし,あなたはもう隠さなくていいように,無理しなくていいように,みんなで、砂浜で暮らしたらどうかな?」

尚弥が提案してみた。


「したいけど、できない…子供が人魚か,人間か,わかるまで話せない。」


「なら、そろそろ知ろう…何かわかる方法,ないの?」


「…それらしい徴候を見せてくれないと,わからない。」


「海で泳がせたら,わかるじゃないの?」


「だめ!海に入ったら,危ない!」


「なんでだよ!?人魚でしょう?海が人魚の家でしょう?そして、彼らは,あなたの子供,人魚の子供でしょう?人魚の子供が海に入って,危ないわけがないはずだ。」


「私は,人魚だからこそ危ないの。」


「訳が分からない。」

尚弥は,本当に少し腹立たしくなるくらい,訳がわからなかった。


「わからなくてもいい。とりあえず,私は,約束を守らなきゃ。子供を守るために。」


ようやく海に着いた。尚弥が,海保菜を洞窟まで運んで,波の中に下ろした。海保菜は,体が海に浸かるように座ってみたが,痛みはそのままだった。


「母に来てもらうね。これなら、泳げないわ。痛い…。」


尚弥は,海保菜の手を握った。

「お母さんが来るまで,一緒に待っているよ。」


「でも、子供たちが待っているし。」


「いいよ、少しぐらい。もう十二歳と十歳だよ。大丈夫。」


「そうだね。最近頼もしくなったものね。」


「僕だって,たまには,見たいよ。」


「見たいって,何を?」


「本当のあなた。滅多に見せてもらえないけど。」

尚弥は,海保菜の人魚姿に見惚(みほ)れて,急に優しくなった。


「だって,子供に見られたら…。」


「子供に見られたら,何…?」


「私も見せたいよ!毎日しんどいよ。疲労がたまって,こうなったし…。」


「約束した人と話してきて。わかってもらって。」


「いやいや、とんでもない権力のある人だよ。私には,交渉する権利はない。従うしかない。」


「お母さんは?」


「母は,私と同じ立場だし,私がどうして子供には話せないか,彼女にも言えない。誰にも言えない。」


ちょうど日が沈みかける時間帯だった。徐々に(あかね)(いろ)に染まっていく空を後ろに,太陽が少しずつ水平線の向こうへ沈んで行き,夕凪の海に映える。尚弥と海保菜は,背中を並べて,洋々と広がる海と空の傑作を静かに眺めた。美しすぎて,呆気に取られる光景だった。


海保菜の住む世界と尚弥の住む世界は,空と海と同じぐらい違う。二人の体も鳥と魚と同じぐらい違う。わかりたくても,理解し合えないことが沢山ある。感じたくても,共感できないことも山ほどある。しかし,愛し合っている。それだけは,確かだ。


二人の輪郭が夕映えの海と空のシルエットに浮かぶ。彼らも,本来全く別の海と空と同じように溶け合い,一つの作品を完成させるようだった。


海保菜は,いつも暗くなってから海に来るので,海岸で夕陽を見るのは,久しぶりだった。尚弥も,なかなか見る機会がない。だから,尚更綺麗に見えたのだろう。長い冬は,もうすぐ終わる。その予感がした。あちこちに細やかではあるものの,春の兆しが見えている。


少ししてから,仁海は,波の中から現れた。

「え!人間も,一緒だ!珍しい!なんで?」


「調子が悪いみたい…。」

尚弥は,答えた。


仁海は,海保菜の顔を調べるようにしばらく見つめた。

「やっぱり人魚は,陸での生活には,向いていない。体が適応出来ないから,しようがない。ずっと,こうなるのではないかと心配していた。」


「僕もずっと心配している…。」


「…ありがとう。」

仁海は仕方なく、尚弥の言葉に反応した。


「大丈夫ですか?体中が痛いと言っているけど,治りますか?」

尚弥は,勇気を出して,尋ねた。


「しばらく養生すれば,大丈夫だと思うけど,わからない…しばらく戻れないかもしれない。」

仁海は,娘が陸で、人間と暮らすことには,反対だった。不自然なことは,無理をすることは,身に毒だからだ。しかし,大人だから娘の気持ちを尊重すしかなかった。


相手の人間も,会うのはこれが二回目なのだが,どうしても好きになれない。でも,それは,彼自身という問題より,ただ人間で,娘に無理な生活をさせているからである。彼自身の性格や人柄は,申し分のない感じで,人魚なら,二人が結ばれるのを喜んだに違いない。


しかし,これまで人間と接したり話したりすることのなかった仁美にとって,いきなり出会う時の対応は,難しい。緊張して,警戒しすぎて,受け答えがスムーズに行われない。


娘の選んだ人だから,もう少し知った方がいいかもしれないという気持ちもあるが,勇気が足りない。必要以上、関わりたくないのは,本音だ。


尚弥も,海保菜の両親に対しては,同じ気持ちだった。親しくなれるとは,少しも期待していない。海保菜とでも,どう頑張っても埋められない距離がこんなにあるのに…。


「僕の大切な奥さんだから…お願いします。」

尚弥は,頭を深く下げて,挨拶した。


「私の大切な娘だから,あなたに「お願いします」とか言われなくても,助けるよ。」

仁海は,苦笑して,言った。


尚弥は,最後に,海保菜の肩に手をかけて,「お大事に。早く良くなって。」

と愛しそうに挨拶してから,二人は,姿を消した。


一週間後に,海保菜は,やっと戻ってこられた。


保奈美も,龍太も,喜んでいた。


「大丈夫?よくなった?」

龍太は,訊いた。


「うん、もうすっかり良くなったよ。お陰様でね。ごめんね。心配かけて。」


「いや、いいけど…。」


「耳は?」

保奈美は,海保菜の耳を見つめながら言った


「耳も,もう大丈夫。」


「でも、おかしかったよ…。」

保奈美は,尋問を続けた。


「病気だったからね…でも,もう元気になったから,大丈夫。心配しないで。」

海保菜は,明るい表情で言った。


保奈美は,まだ納得出来なかったようで,難しい顔をした。


海保菜は,これを見て,

「もう大丈夫だよ、保奈美。」

娘の目をまっすぐ見ながら,いつも隠している、謎めいていて人間らしくない雰囲気をわざと少し出しながら,言った。


保奈美は,ハッとして,少し怖い顔をした。


海保菜は,娘のここまで自分の雰囲気や感情の微妙な変化に気付ける感受性に感動した。やっぱり,彼女の心にも,何かが眠っているのかもしれない。そう思った。


6.

小望月(こもちづき)


「もう学校に行きたくない!退学したい!」

保奈美は,ある日,学校から帰ってきて,突然嘆き出した。


「なんで?」

海保菜は,小さく笑った。


「うまくできないの,何も。数学とか,理科とか,教えてくれるもの,全部。面白くないし,興味が持てない。理科で,一週間だけ海の勉強をしたけど,それ以外の勉強は,興味が全くないし…。」


「…海の勉強なら,興味あるの?」

海保菜は,娘の発言の気になる点に()らい付いた。


「あるよ。魚とか,貝殻とか,好きだし。」


「今も?ありがとう。」

海保菜は,思わず,嬉しくなった。


「何がありがとうなん?おかしい…。」


「そうだね。ありがとう,じゃないね。」

海保菜は,訂正した。


保奈美は,海保菜の返事をあまり気にしていないようだった。すぐに自分の話を続けた。

「好きだし、水泳とか,サーフィンとか,シュノーケルとか,できるようになりたい。習いたい。数学は,どうでもいいの。」


「そうだね。したいね…でも、だめ。」

海保菜は,娘の顔から目を逸らして、言った。


「なんで?海がこんなに近いのに!?みんな習っているし。できないのは,私と龍太だけ。」


「安全じゃないから。」


「何が危ない?」


「海。」


「危なくないよ!みんな,泳いでいるよ!みんなだよ!お母さんは,怖いかもしれないけど,私は怖くないし。」


「私も怖くない。そういう問題じゃない。」


「じゃ、なんで!?」


「守ろうとしているよ,あなたを。」


「守ってほしくない。守ってくれなくていい。」


「そう言われても、私の子だから,守らないといけないよ。」


「大体,守っていないし!私が学校で,毎日,どんなひどい目に遭っているかも知らないくせに!」


「ひどい目!?」


「みんなは私の事が嫌いだし…からかうし。」


「きっと,嫌いじゃないよ。」


「うーん、嫌いよ。馬鹿だと思っているの。海に行ったこともないくせに,海の本ばかり読んで勉強しているから。」


「海の勉強をしているの?そんなに海の事が好きだった?」

海保菜は,少し驚き,口調が急に柔らかくなった。娘のことが,急にとても愛おしく思えた。


「うん。だから,習わせて!」


「保奈美,海には行かせられない。習わせられない。どんなにしたくても…危ない。」


「お母さんって海,に行ったことあるの!?一度でも?ないでしょう!」

保奈美は,カチンときて,怒鳴り始めた。


「…あるよ。海で育ったと言ってもいいぐらいだ。だからこそ…。」

海保菜は,一つ一つ言葉を選びながら慎重に話し始めた。


「なら、どうして私はだめ!?おかしいよ!」


「いつか、わかる日が来るよ。」

海保菜は,少しだけ人魚の雰囲気を出して言った。


「いつ!?もう十二歳だし,もう赤ちゃんじゃないし!話したらいいのに!」


「話したい。でも,今はまだ話せない。話せる日が来たら,ちゃんと話すから,信じて。」

海保菜は,娘と目を合わせて,言った。


「信じないよ!」


「母親だし、信じなさい!話せることなら,私だって話したいし,話すよ!」


「お母さんって,本当に私のお母さんなのかな?内緒にしているのは,それじゃない?本当は,私のお母さんじゃないでしょう!」


海保菜は,激しく首を横に振った。

「どうして,そんなこと言うの!? 母親だし,あなたの気持ちがわかるよ。」

海保菜は,胸に,殴られるような痛みを感じた。


「わかっていない。」


「わかっているよ!私だって,この町で浮いているよ、ずっと。 溶け込めない。そして、あなたの海に行きたい、海で泳ぎたいという気持ちも,よくわかる。でも、行かせられない理由があるの。ただ怖いとか,じゃない。ちゃんとした理由があるの。今は,まだ話せないけど、いつか話せる日が来たら,ちゃんと話すから…信頼してほしい。」

海保菜は,娘の目を真っ直ぐに見て,切実に訴えた。


「どうして,今はだめ?今,話して。」


「だから、今は,まだ話せないって。」


「なんで?」


「ただ,できないの!」

海保菜は,とうとうイライラして来た。


「私は,誰より海の勉強をしているの!危険生物の事も,海流の事も,よくわかっている!危なくない。ちゃんとわかっているから!」


海保菜は,これを聞いて,思わず吹き出した。

「分かっていないよ、保奈美。本を読むだけでは,わからない危ないことだって,たくさんあるの。」


「で、何?お母さんは,知っているというの、そういう本に書いてない危ないこと?」


「…知っている。」


「お母さんって,何かにここまで惹かれたことがあるの?好きになったことがあるの?わからないの,私の気持ち?」


「わかる。」

海保菜は,強く頷いた。

「そして、私だって話したい。

でも、なんでこんなにしつこい?」


保奈美は,とても静かになった。

「なんか、海だったら…。」


「海だったら,何?」

海保菜は,今日の娘の様子がとても気になった。海についてこんなに熱く語り,習いたいとここまで要求するのは,初めてだ。彼女の中で何かが目覚めようとしているかもしれない。そう思った。海に惹かれている。でも,まだこれなら話せるような,人魚だというはっきりとした証拠はない。


海保菜は,珍しく保奈美のそばに座り,ゆっくり話を聞くことにした。


「海だったら…うまくやれる気がする。ここは,だめなの。みんなは,私の事を変だと思っているし,友達もいないし,勉強に集中できないし,興味も持っていないし、スポーツも苦手だし,速く走れないし…上手に何もできない。」


「私もそうよ。」

海保菜は,(ささや)くような小さい声でつぶやいた。保奈美の肩に,自分の手をかけた。


娘は,海にすごく惹かれている。小さい時も,イルカの映像を見て喜んだりしたことは,あったけれど,ただの好奇心だと思っていた。保奈美も,龍太も,「泳ぎたい!」とずっとせがんできたけれど,それも周りの子がみんなやっているから,自分もやりたいだけだと思っていた。


これまで,娘や息子がここまで言うことはなかったし、悩むような様子も見せることはなかった。


今の保奈美は,これまでとは,どこかが違う。ただの好奇心でも,周りからの同調圧力でもない。海と何らかの繋がりを感じてくれている。この世界に自分の居場所はないのかもしれないと真剣に悩んでいる。自分で本を読んだりして,何かを追求してくれている。


「もしかして,体質は変わっているかな?」海保菜は,気になった。娘の目には,前光っていなかったところに明かりがついたようにさえ感じた。海保菜は,あえて体について訊いてみることにした。体に直接触れるようなことではなくて,それを話すきっかけになるようなことを。


「ここでは,うまくやれないけど,海ならうまくやれるのでは?と思っている理由は,それだけ?他に何かあるの?」

海保菜の目は,希望で輝かいていた。体について何か言ってくれないと話せない。それさえ言ってくれたら,話せる。ようやく共有できる。期待してはいけないと自分に言い聞かせながらも,少しだけ期待してしまっていた。


「どういう意味!?理由って,それで充分じゃないの!?もっと,苦しんでほしいの!?」

保奈美は,海保菜の言葉が頭に来たようで,不機嫌な顔をして,言った。


案の定,海保菜の期待の気持ちは,裏切られた。保奈美の困惑した言葉を聞いて,自分でも恥ずかしいくらい,大きくがっかりした。「違う!ただ…体は大丈夫?…痛みとかはない?」

海保菜は,まだ諦めがつかなくて,さらに訊いた。


「…痛くないよ!一体,何の関係があるの!?」

保奈美は,呆れた。


「関係ないね…ごめんなさい。」

海保菜は,とうとう諦めて,謝った。


「いつも嘘ばかり!さっき,何を訊こうとした!?」

保奈美は,海保菜の質問の裏に何かがあることに気づいているようだった。


「何もない…。」

海保菜は,少し呆れた顔を娘に見せた。


「お母さんの部屋の貝殻は?」


海保菜は,大きく溜息をついた。あの貝殻について尋問されるのは,何回目なのだろう。

「見つけた…もう昔のことだけど。」


「見つけたと言っているけど,見つけられないよ。あの種類は,人間が潜れない深海にしかないよ。」


「知っているよ!見つけたというのは,お店でね。」

娘に,人間の潜れない深海でしか生息しない貝だと指摘されて,おかしかった。


「いや、売っていないって!(すご)く珍しくて,高価だって。先生は,そう言っていた。」


海保菜は,どの嘘を考えても,海について色々勉強している娘には,すぐに見破られることに気づいて,話題を変えた。

「喧嘩するときは,どうしていつもこの話をするの?」


「ちゃんと説明しないから,どこで手に入ったか。先生でも,見たことがないと言っていたよ。よくダイビングするのに…どこで見つけた!?」


「…保奈美、どうしてここまで追求する?」


「お母さんは,何かを隠しているから…そして,あの貝殻と関係ある。龍太も気づいているよ。」


「貝殻とは,直接関係ないよ。」

海保菜は,嘘を諦めて,話せることを正直に話すことにした。もうばれているから,これ以上,誤魔化(ごまか)したり秘密があることを隠したりしようとしても,無駄だ。人魚の雰囲気もあまり隠さずに,出した方がいいと考え直した。自分から話すのは,禁じられているけれど,子供たちが気づいてくれると言う方法があるかもしれない。そう思った。


「認めた!やっぱり,何か秘密があるんだ!」


海保菜は、すぐに(うなず)いた。

「はい,あるよ。でも、あなたたちを傷つけるためじゃない。あなたたちを守るために隠しているの。」


保奈美は,母親の急に開き直った態度に驚いて,少し萎縮してしまった。今のお母さんは,いつものお母さんとは,少し違う。違う生き物のようだ。

「何から守ろうとしているの!?」

小さい声しか出なかった。


「あなたの何も知らない危険な存在から。」海保菜は,即答した。


「海の?」


海保菜は,答えなかった。


「お願い!知りたい…。」

保奈美の態度が,急に,素直な子供に戻った。


「私も,あなたに知ってほしいと思っている…話したい…話したくてたまらない…ずっと,そう。」

海保菜は,心の葛藤を顔に出して,説明した。


「でも、話してくれないんだね?」


「話せない。」


「お父さんは?お父さんなら,話してくれるかな?」


「お父さんの話すことじゃない。」


「でも,お父さんも知っていることなんだね。」


「うん,知っている。」


「なら、お母さん話して。」


「話せないってば!」

海保菜は,むきになった。


「お母さんって,泳げるの?」


「何,急に?」

海保菜が動揺するのが,保奈美にはわかった。


「深い意味はないよ。泳げるの?」


「泳げる。なんで?」

海保菜には,娘の質問の意図がわからない。


「なら、教えて!泳ぎを教えて!習っちゃいけないというなら、お母さんが教えて!お願い!」

保奈美は,また幼い子供のような顔をして,目を輝かせて言った。


海保菜は,すごく困った,苦しそうな顔をした。涙が滲んでくるのを感じた。


「教えて。泳げるようになりたい。それだけだよ。そんな難しいことを求めていないよ。大体、幼稚園児でも泳げるよ。」

保奈美は,訴え続けた。


海保菜は,滲んだ涙が頬を伝って来るのが,自分でも,わかった。

「…できない。」

海保菜は,(ささや)くような小さな声で呟いた。


「なんで,できないの?泳げるでしょう?なら、教えられるはず。」


海保菜は,涙顔でも,保奈美の方を向き直し,目を合わせた。

「保奈美…お母さんも教えたい。一緒に泳ぎたい。保奈美と一緒に泳げたら、最高に嬉しい。それに越したことはない…でも、できない。」

海保菜は,保奈美の肩を強く握って,まっすぐ目を見て,言った。とても悲しそうな目をしていた。


「なんで,できない?」


「危ないから。」


「何が危ない!?海が危ないなら,プールでもいいよ。」


「いや、プールでもダメだ…保奈美と一緒に泳げない、どこでも。」


「お願い!お願い!」


「保奈美、できないと言っているでしょう! 」

海保菜は,堪えていた涙を堪え切れなくなって,保奈美にもわかるくらいの大きい粒の涙が頬を伝い始めた。保奈美に見られたくなくて,言ってはいけないことを何か言ってしまうのが怖くて,慌てて部屋を出て行った。


「お母さん,泣いている!?なんで,泣いているの!?」

海保菜は,返事しなかったから,保奈美が追いかけた。


「保奈美、お願い。これ以上,この話を続けることができない。いい加減にして。」

海保菜は,懇願した。


「なんで泣いているか,教えて…お母さんの泣き顔をほとんど見たことがないのに…いつも強い。なのに、なんでこんな時に…。」


海保菜は,自分を落ち着かせてから,しばらく黙って考えた。嘘でも何でもいいと思って,自分の涙の訳を説明するような言葉を必死で探した。でも、五分ぐらい,一生懸命考えた挙句,何も思い浮かばず,結局黙ったままだった。


「…やっぱり,話すつもりないね?」

保奈美は,ため息まじりに言った。


海保菜は,(うつむ)いたままだったが,やっと平常心を取り戻していた。

「話したいけど,話せない。いつか話せる日が来ると祈るしかない。」


「でも、どうして泳いじゃいけないか知りたいだけ!特技がほしいし…居場所がほしい。」

保奈美は,最後の言葉をとても小さい声で言った。


娘の言葉を聞いて,海保菜には,娘がますます愛おしく,近い存在に思えてきた。抱きしめたかったが,その衝動を抑えた。とても優しくて,柔らかい声で話しかけた。

「保奈美、もうすでにここにあなたの居場所があるのよ,余所で探さなくても。」

また手を娘の肩に掛けた。


海保菜は,娘の新たな心の動きには,気づいていた。体質は,どうも前と変わらず人間のままだが,心は単純に人間のものではないようだ。海に自分が惹かれているのを感じ,その理由に戸惑い,今自分の中でその答えを見出そうと模索をしている。人魚の親,自分を必要としている。体は,関係ない。


しかし,体が違うと,命令は命令だから,話せないし,見せられない。それでも,この自分には,何か今の娘に役立てることがあるはずだ。


「ないよ。」


「ある。」

海保菜は,言い張った。


保奈美の手を握って,自分と尚弥の部屋まで案内した。保奈美がいつもしつこく質問する貝殻を箪笥(たんす)の上からとって,床の上に並べた。貝殻を一つ一つ説明した。どんな生き物が中で暮らして,海のどういうところに生息し、どのくらいの深さのところに行けば見つかるかなど,ことごとく説明した。


保奈美は,目を丸くして,熱心に聞き入った。


説明が終わると,貝殻を入っていた籠に戻し,保奈美に差し出した。

「あげる。もう要らない。」


「なんで,あんなに詳しい!?」

保奈美は,呆然としたままだった。


「私も,海が好きなんだよ。海に囲まれて育ったし、海についていろんなことを知っているの。私も海の生き物とか,貝殻とか,好きだよ。

ほら、ここにちゃんとあなたの居場所があるんだよ…私の娘だ。」

海保菜は,人魚の雰囲気を全面に出しながら、意味深く付け加えた。


保奈美は,まだ母親の豆知識の披露に驚いていた。

「なんで,言わなかった?」


「海は,美しいものばかりじゃないってちゃんとわかっているから。暗くて怖いことも,沢山あるのは,知っているから。」

海保菜は,暗い口調で言った。しかし,口調が暗いのに,目は輝いていた。


「そして、この貝は?」


「ずっと言っているように見つけたって。」


「でも、どこで?」


「どんなところで探したら,見つかるかぐらい知っているよ。あなたの理科の先生より,ずっと詳しい。」


「なら、私にも教えて。」

保奈美は,目を輝かせて,お願いした。


「海について?喜んで教えるよ。」


「それと,泳ぎも。」


「それは,できない…ごめんね。」

海保菜は,しぶしぶ,悲しそうに項垂(うなだ)れて断った。


「なんで?泳げるのに…。」


「…禁じられているから。」

海保菜は,しばらく考えてからようやく答えた。口を滑らせたわけではない。他に言い訳を思い付かなかっただけで。そして,そう言った方が,「本当は,教えたいけど…。」と言う海保菜の言葉の切実さが伝わると思ったからでもある。


「禁じられている!?誰に!?」

保奈美は,狼狽(うろた)えた。


海保菜は,それ以上,返事しようとはしなかった。娘の姿を愛しい目で見つめ続けただけ。「もしかして…。」

海保菜は,小さな声で呟いてから,自分の手を娘の胸に軽く当ててみた。でも、望んでいたような反応は,なかった。人魚にあるような反応は,なかった。


「何をしているの?」

保奈美は,母親の顔を訝しく見つめ返した。


「…やっぱり教えられない。一緒に泳げない。」

海保菜は,悲しく呟いた。


その夜、保奈美と揉めたことを尚弥に話した。


「僕も,そう思うよ。もう十二歳だし,話したらいいと思うよ。娘だし,信じたらいいよ。きっと,他言しない。内緒にしてくれる。」


「話せないよ。」


「なんで?信用出来ないの?」


「違う!言ったでしょう!信用の問題じゃない。約束したから。」


「聞いた。聞いた。誰かに,子供は人魚だとわかるまで話さないと約束したんだね?」


「そうなの。」


「その約束は守らなくてもいいと思うよ。あなたの事は,絶対に子供には,話すべき。人魚であれ,人間であれ。まずは,一番年上の保奈美から。」


「私もそう思うよ。見せたいし,知ってほしいし、泳ぎも教えたいし、一緒に泳ぎたいし!…私が決めたことじゃない。」


「なら、見せて。話して。話しちゃいけないと言われただけでしょう?守らなくてもいい約束だってあるよ。誰に約束したか知らないけどさ…。」


海保菜は,首を横に振った。

「この約束を守らないと彼らの命が危ないよ。」


「は!?脅されているの!?脅迫じゃない,それ!犯罪だよ!」


「私の世界では,犯罪じゃない。犯罪という発想もないし,神様のような人だよ。海はきれいな貝殻と長い髪の美しい人魚ばかりじゃないよ。」


「一体,誰なんだ、僕たちの子供を殺すと言っているのは!?」


「もうこれ以上は,話せない。本当は,今言ったことも,言っちゃいけないことだ。」


「僕も,殺すと言っているの、この人?あなたは,このことを一人で抱え込まなくてもいいよ。」


「いや、一人で抱え込まないといけない。そういう約束だから。」


数日後,保奈美と龍太は,いきなり二人で海に遊びに行って来ると言い出した。海保菜は,どんなに口で説得しようとしても,無駄だったから,玄関の扉を開けようとした娘の手を掴んだ。


「離して!」

保奈美は,抵抗した。


「行っちゃダメ!もう何度も,言っているだろう!」


「もう行くと決めた。もう私たちを止められないよ、お母さん!」


「お願いだから、やめて!」

海保菜は,手を合わせて,懇願した。


「教えないというなら,一人で頑張る!一人というか,二人で!」

龍太も,頷いた。


「だめよ!大人になったら,好きなようにできる。でも、今は…。」


保奈美は,ぷんぷん怒って,龍太を置いて,土星を吐きながら,一人で階段を上がり始めた。

「禁じられているからって、一体,誰に!?そして、どうして何も言わないの!?なんで,お母さんはいつも服従ばかりしているの!?なんで,こんなに弱い!? 」


龍太も,珍しく癇癪(かんしゃく)を起こしていた。

「まるで囚人みたいじゃない!?好きなところには行けないし、やりたいことができないし!この家にいると、全く何もできない。自由がない!」


海保菜は,少し考えて,このままでは,さすがにだめだと思った。大人になっても,いつまでも,子供を海に近付けないなんて,無理に決まっている。そして,大きな決意をした。


「わかった!」

海保菜は,階段を上がり始めた保奈美の顔と目の前に真っ赤な顔で立っている龍太の顔を交互に見ながら,宣言した。

「今夜、お父さんが寝たら,ここに来て。待っているから。私は,泳がないけど、あなたたちが,どうしても行ってみたいというなら,連れて行ってあげる。約束だ。」


子供たちは,半信半疑で海保菜の顔を見つめ返してから,無言で階段を上がり,夜まで降りて来なかった。


その夜,海保菜は,尚弥が寝たのを確かめてから,こっそりと階段を下りて,保奈美と龍太が来るのを待ったが,来なかった。 いつまで待っても来ないから,海保菜は,起こしに行くことにした。


「保奈美、龍太,起きて。」

海保菜は,優しく肩を揺さぶりながら,声をかけて,起こした。


「なんで?」


「どうしたの?」


「だから,海へ…。」


「本当!?」


「本当に,連れて行ってくれるの!?」


海保菜は,珍しく目を輝かせて,頷いた。すると,子供たちはすぐに飛び起きて、海保菜の後を追って行った。


三人で,家から一番近い浜辺まで歩いて行った。保奈美と龍太を産んだ浜辺だ。でも、子供たちは、自分たちがここで生まれたことを知らない。


生まれて初めてではないが,物心がついてから初めて,美しい海を目にした二人は,うっとりし,立ち竦んでしまった。


海保菜が二人の見惚(みほ)れている表情を見て、優しく,小さく笑った。

「覚えているの?」

囁き声と同じぐらい小さい声で,訊いた。


「覚えているって,何を?」

保奈美だけが,反応した。


「何もない…。」

海保菜は,黙りこみ、俯いた。海を見ていると,飛び込みたいというなかなか逆らえないくらい強い衝動に襲われるからだ。見ないことにした。


「お母さん,あれって満月?」

龍太が,訊いた。


海保菜も,空を見上げた。暗いのに,雲の姿が昼間と同じようにはっきりと見えていて,月は雲間から覗き,輝いていた。なかなか美しい夜空だった。


しかし,月は少し欠けている。つまり,満月ではない。


「満月じゃなくて,小望月(こもちづき)だね…素敵だね。」

海保菜も,空に見惚れて、言った。


しかし,二人の注目は,海に戻っていた。水面に映る月と雲の影,打ち寄せて来る波の音,果てしなく広がる黒い海,二人は釘付けになっていた。


「一回でいいから,触ってもいい?水に触れてもいい?手を付けるだけでもいいから。」

保奈美は,物欲しそうに海を眺めながら,尋ねた。


海保菜は,保奈美の顔をじっくり見ながらしばらく黙りこんで考えたが、村長夫妻の忠告を思い出して,しぶしぶ止めた。

「いや、やめといた方がいい。」

悲しそうな声で,言った。


「なんでいけないんだ!?何があんなに怖いの!?いったい,何が危ないの?」

保奈美は,抗議した。


「ごめんなさい。どうせ,私のせいだから…。」

海保菜は,胸の痛みに耐えながら,謝った。人魚が海の引力に逆らうと,胸が痛くなる。歯を食いしばりたくなるような痛みだ。


「何が?何がお母さんのせいなの?」

龍太が,尋ねた。


「あなたたちが好きなようにできないのは、海に近寄れないのは,私のせい。もしあなたたちには,違う母親がいたら、何でも好きなことができた。」

海保菜は,海から目を逸らし,暗い声で言った。彼女の目は,海と同じぐらい黒く見えた。


「どういうこと?」

龍太は,納得がいかない顔で,さらに訊いた。


「言えないけど…誰かを責めるなら私しかいないよ。」

海保菜は,見ていられなくなって,海に背を向けた。


「お母さんは,海に入らないの?」

保奈美が,訊いた。


「私も入らない。今は,入れない。」


「なんで?病気?」

龍太が、訊いた。


「いや、病気じゃない。」


「どうして入っちゃいけないの?すぐ近くまで来たのに,なんで触れちゃいけないの?お母さんだって,入りたいでしょう?入りたいって,顔に書いてあるよ。」

保奈美は,相変わらずよく見ている。なかなかの観察力だ。


「私は,あなたたちをここまで連れてくるだけで,充分逆らった。これ以上は進めない。取り返しのつかないことになる。」


「なんで?大体,何が問題なの!?」


海保菜は,返事せず、ただ黙々と浜辺の砂を見下ろした。


「どうして,何も教えてくれないの!?どうしていつも…?」

保奈美の言葉は,途中で途切れた。


「いつも何…?」


「どうして,色々考えたり,感じたりしているのに,言いたいことがあるのに,閉じられた箱みたいに黙るの?大事なことを全部秘密にして…なんで,そうしなきゃならないの?」


「私だって、こうしたいわけじゃないの…もう帰ろう。」

海保菜は,いろんな意味で,そろそろ限界だった。


「僕は,帰らない。ここにいる。」

龍太は,抵抗した。


「龍太,それは,だめに決まっているだろう。今,私と一緒に帰ったら、また連れてくるよ。約束。」

海保菜は,説得しようとした。


「何しに?また見に?見るだけじゃ,嫌だ。」

保奈美も,まだ帰りたくないようだ。


「私だって,この現状が嫌なの。でも,変えられない。」

海保菜は,久しぶりに海の方を向き直って,言った。


「本当に嫌なら、変えられる!いい加減,海に飛び込んでしまえば?何も怖いことは,起こらないよ。」

保奈美は,うまく母親の心を揺さぶろうとした。


「…あなたには,そんなことはわからないよ、保奈美。海に飛び込んだら,どうなるかとか,あなたにはわからない。」

海保菜は,小さく笑いながら,娘を叱った。


「そして、なんでしゃべり方が,皆とは,違うの?(なま)っている。いつもおかしいの。」

龍太が言った。


「ごめんなさい…。」


「謝ってほしくない。なぜか知りたいだけ。今日ここに来てから,特に訛りがきつい。」


「そんなことは,関係ないの。どうでもいいの。もう,帰ろう!」


「どうでもよくない。あなたは,私たちお母さんだよ!親子だよ。関係なくない!」


「知っている。」


「なら、なんで自分の子供にも言えないの!?」


「そんな簡単なことじゃない。」


「何が難しい!?約束した人があんなに怖い!?別に背いたって,殺されたりしないでしょう!?最悪でも怒られるぐらいだ。」


「いや、単に,誰かがだめだと言ったから、海に入らないとか、そんな簡単なことじゃないの。もっと,ややこしいの。怒られるぐらいで済む話なら,今にでも,あなたたちと一緒に平気で飛び込んじゃう。」

海保菜が苦笑いを交えて,言った。


「なら、なんで!?」


「今日は,もういい。もう帰ろう。そして、また来よう。」


「いや,次は二人で来る。」


「それは,ダメ!」


「なんで?もう十二歳だよ!もうそんなに小さくないの!学校の友達なんかは,もう小学ニ

年生のときから,へいっちゃらで一人で来ているし!理由もわからないのに,これ以上我慢するのは,もういやだ!」


「保奈美、いけない!絶対ダメ!」


「何がいけない?」


「私がいない時に,この海に入ることが…。」


「なんで?」


「…何が起こるか,わからないから。」


「何も悪いことは起きないのに!お母さんと一緒でも,入っちゃいけないでしょう!?それなら,いつまでも入れないじゃないの!?お願い,入らせて。今日まで随分長いこと,待った。龍太も。」


海保菜は,この言葉を聞いて、しばらく果てしなく目の前に広がる海から目を逸らさずに,見渡した。

「絶対に入れないのは私。」

海保菜は,ようやく口を開けた。

「あなたたちは,大丈夫かもしれない。やってみないとわからない…ただ、泳げないし…溺れそうになったら,助けるけど…いや,やっぱり、だめだ…そういう状況でも,きっとゆるされない。」


「やっぱり、水が怖いの?」


「違うよ。ただ、前も言ったように,今は入れないだけなの。 約束したから。」


「誰に,何を約束した!?」


海保菜は,また黙りこんだ。


「やっぱり,今度二人で来よう,龍太!」


「保奈美、だからいけないってば!私がいないとダメ!」

海保菜は,泣きそうになりながら,怒鳴った。


「でも、お母さんと一緒でも,入れないでしょう?」


「わかった!そんなに入りたい?なら、足を入れてみて。でも、それ以上は,進むな。一歩だけだよ。足が浸かる程度。龍太も,どうぞ。」


保奈美も,龍太も,半信半疑で,海保菜の顔を見上げた。

「いいの!?」


「ちょっとだけならいい。やってみて。」

海保菜が,静かに言った。本当は,海保菜も気になっていた。赤ちゃんの時から,試していない。もう一回試してみたかった。あれから十年も経っている…あれから何かが変わっているかもしれない。変わっていても不思議ではない。

海保菜は,波から安心できるくらい離れたところで,二人の様子を注意深く見守った。「期待してはいけない」と自分に何回言い聞かせても,またまた期待してしまっていた。


保奈美と龍太は,嬉しそうに手を繋いで,波に近寄って行った。波打ち際まで来ると,少しためらって海保菜の方を振り向いた。


「大丈夫。一歩だけ,水の中へ進んでみて。足を入れてみて。」

海保菜の声が背後から響いた。数メートルだけ子供たちの後ろの方へ下がって,見守った。


保奈美と龍太が同時に,波の中へと,一歩踏み出した。すると、すごく嬉しそうに、海保菜の方を振り向いた。

「ほら!大丈夫でしょう!何も怖いことは,起こらなかったでしょう?」


「はい。」

海保菜が,小さく、少ししょんぼりした口ぶりで言った。


少しだけ期待していた。最後に海に連れてきてから十年も経っているから,もしかして人魚の体質に変わっているかもしれないと,期待してしまっていた。でも、その期待は,またまた裏切られた。やっぱり、いくら我が子でも,真実を打ち明けられない。禁じられたままだ。少しでも人魚の体質があると分かったら、話せるのに。海保菜は,淋しく一人で悲しんだ。

「何も感じないの?」

海保菜は,少しためらいがちに訊いた。


「…水と潮風を感じるし、気持ちいいよ!」

二人の答えは,単純だった。


「気持ちいいだろうね。」

海保菜は,力の抜けた口調で相槌を打った。


「一緒に入ってみて!お母さんも足だけでいいから!」

龍太は,海から出てきて,海保菜の手を握り,海の方へ引っ張って行った。


「いや、だめよ!私はだめ!足だけでもダメ!」

海保菜は,パニックになった。


「いいのに!怖くないよ!」

保奈美も,励まそうとした。


「本当にダメだよ!龍太,手を離して!」

と海保菜が言っても,龍太も,保奈美も,聞かないので、抵抗しようとわざと()けて見せて,砂の上で倒れてみた。あと一歩でも進んでいたら子供たちにばれているところだった。すごく危ないところだった。たった一歩という短い距離にどれだけの秘密と危険が潜んでいるのか…。


保奈美も,龍太も,転けたのは、わざとやったことだと見抜いていた。


「やっぱり怖いんだね、お母さん。」

龍太が言った。


「怖くない…というか、私が恐れているのは水とか海とかじゃない。もういい加減にしろ。今すぐ,帰るんだ。私たちが帰る前に,お父さんが起きたら,大変だよ。」

今回は,海保菜が保奈美と龍太の手を握り,逆の方向へ引っ張って行った。子供たちは,従順に後をついて行った。


保奈美は,後ろ髪を引かれるような気持ちで歩きながら,何度も振り向いて,黒い海と小望月の光夜空を見た。自分の意思ではなく,何かに取り()かれているかのようだった。


「どうした?」

海保菜は,保奈美が何度も振り向いていることが気になり,心配そうに尋ねた。


「何もない。」

保奈美は,すぐに答えた。


海保菜は,保奈美の返事を見抜いていたようで,その後も娘の横顔をジッと見つめ続けた。

「大丈夫だから。」

海保菜は,ようやくまた口を開けた。


家に帰っても,自分の部屋に戻っても,海を初めて自分の目で見た興奮は,残っていた。


保奈美の手は,どことなく悴んでいて、痒かったから,ちらっと見てみた。すると、手のひらに鱗の様な発疹ができていた。あまり気づかない程度だったが、気持ち悪くて、保奈美は思わず悲鳴をあげそうになった。でも、龍太に気づかれないように,頑張って堪えた。


暫くすると、海保菜が尚弥を起こさないように,極力音を立てずに,保奈美と龍太の部屋に入ってきた。


保奈美は,焦って母親を見上げた。


「どうだった?」

海保菜は,満面の笑顔で訊いた。


「綺麗だった。」

龍太が答えた。保奈美は,無言で,母親と目を合わせようとしない。


「良かった。また連れて行ってあげるからね。」

海保菜は,約束した。


「いや、もういいよ。もう行きたくない。」

保奈美は,帰ってきて初めて口を開けた。


「え!?あんなにせがんだのに…!?」

海保菜は,狼狽(うろた)え,戸惑った。娘には,一体何があったのだろう。


「もういい。でも、ありがとう。初めて本物の海が見られて,嬉しかった。」


海保菜は,娘の態度の変化が気になり,保奈美の手を握ろうとした。すると、保奈美は,すぐに,反射的に手を引っ込めた。 海保菜は,少し首を傾げて,保奈美の手を自分の手で包んだ。

「どうした?言っていいよ。何か怖いことがあった?」

海保菜は,心配そうに,娘の目の奥を覗いて,尋ねた。


でも,保奈美は,答えなかった。


「きっと,大丈夫だよ。興奮しているだけ。」

龍太が,代わりに答えた。


「そうだね。」

海保菜は,娘の手を離した。

「今夜見たことや,感じたことを忘れないでね。」

海保菜は,しんみりして言った。

「嬉しかった…私…。」

海保菜の言葉は,途中で途切れてしまった。言いたいことが言えない。自分の気持ちが伝えられない。なぜ嬉しかったのか,秘密に触れずには,言えない。あの忌々しい秘密がいつも自分と子供の間に壁を作ってしまう。


龍太は,頷いた。「僕たちも,嬉しかったよ。」


海保菜も,頷いて,

「では,おやすみなさい。」

挨拶(あいさつ)してから,子供たちの部屋を出ていった。


海保菜が部屋を出てから、保奈美は,もう一度自分の手を調べた。鱗の様な発疹は,消えていた。 元に戻っていた。 でも、さっきは,確かにあったのだ。疑う余地は,なかった。自分の目で見たのだ。


でも、お母さんが触ったのに,どうして気づかなかったのだろう?お母さんが手を握ったときは,まだ消えていなかったはずだ。ざらざらしていて,いつもとは違う感触だったはずなのに,お母さんには,そのことに気付いている様子はなかった。


お母さんが怖かったのはこれだったのかな?何らかのアレルギー反応だったのだろうか?お母さんが,海に入るのをそこまで嫌がったのは,その発疹が出るからのかな?


お母さんは話してくれないから、答えがわからない。でも,答えが知りたいとも,そこまで思わなくなっていた。ただ、二度と海には近寄りたくない。その気持ちだけが自分の胸の中で固まってしまっていた。お母さんが何を隠しているのか,知るのが怖かったのだ。


その夜は,どう頑張っても眠れなかった。黒い海と小望月(こもちづき)のイメージが頭の中をぐるぐる回り,朝までうなされた。


「昨日はありがとう。」

保奈美は,次の朝,起きてすぐにお母さんにお礼を言った。


海保菜は,今朝起きてから静かだ。何も言わない。

「でも、もう行きたくないでしょう?」

娘の気持ちが変わっていないか,確かめたくて,尋ねた。


「行きたくないというか、訳が分からない…私が足を水につけて,どうして取り返しのつかないことになるの?私が泳いで,何が悪い!?そして,誰が禁じているの!?そして、どうして!?誰にもその権利は,ないわ。」


「泳いでもいい…またいつでも連れてってあげる。私は泳がないけど、あなたは,大丈夫。この間,確認できた。」


「確認できたって、どういう意味?」


「え?特に、深い意味はないよ。」


「自分は、入れないのに,何で連れて行ってくれたの?」


「あなたたちに海を知ってほしいから,連れて行ったの。」


「なら、なんで泳がないの!?」


「できないから。」


「なんで!?病気?アレルギー?金槌?」


「違う…。」


「なら、なんで!?」


「なんで,ここまで追求する?」


「知りたいから!」


海保菜は,朝起きて初めて保奈美と目を合わせた。すると,ハッとした。

「保奈美,大丈夫!?顔色が悪い…!」


「昨夜眠れなかっただけだよ。大丈夫。お母さんって,海に入ると,何か変なことが起きるの?発疹ができたり…。」


「は?発疹は,できないよ…なんで,そんなこと?」


「何もない…ただ泳げるようになりたいし,お母さんと一緒に泳ぎたかった。せっかく似ているところを見つけたのに。お互い海が好きだって,せっかくわかったのに。」


海保菜は,娘の言葉に心を打たれた。

「私も一緒に泳ぎたかった…。」

海保菜は,涙を堪えながら,とても小さい声で呟いた。




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