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姉の為に。  作者: たかだひろき
第六章 【過去】編
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第三話 【トラウマ】




 綾乃葵は、幼少期から人見知りだった。

 もっと正確に言うならば、家の外でのみ極度の人見知りを発揮していた。

 家の中では、年齢よりも大分活発に動き回り、よく母親を困らせていた。

 大きくない家を駆け回ったり、あるいは自身の背よりも高いところへ攀じ登ったり、あるいは台所で色々なものを手に取ったりと、それはもう危なっかしい子供の代表的な行動を網羅するくらいには活発だった。

 しかしその活発さは、家の外に出ると途端に鳴りを潜める。


 ペンギンの足元にすっぽり収まる子ペンギンのように両親の後ろにピッタリと貼り付き、どこへ行くにしても離れることをよしとしなかった。

 子供に好かれやすいことで有名な近所のおばさん相手でも、葵は母や父の足にしがみつきその後ろに隠れていた、そのおばさんの自信を無意識的にへし折っていた。

 また外では一言も言葉を発さず、母親からの問いには首を縦に振るか横に振るかでしか答えないくらいには徹底した人見知りだ。


 葵が2歳になるより少し前に双子の弟と妹が生まれ、それからは兄としての自覚が芽生えたのか家での活発さも少し落ち着きを見せ、年相応の無邪気さを感じる程度となった。

 進んで弟たちの世話をしたがり、母親に色々と質問しては挑戦と失敗を繰り返しながらも楽しそうに過ごしていた。

 しかし家の外では相変わらずで、極度の人見知りが治ることはなかった。

 進展といえば、生まれた時からの知り合いである結愛と一緒なら両親がいなくとも外へも出掛けられるようになったことくらいだが、やはり言葉を発することはなかった。


 外に出ても人と会話しなくても成立していた今まではともかく、保育園に入園してからは苦労すると理解していた葵の両親は、少しでもそれに慣れさせようと努力してみたが一向に改善しなかった。

 両親の足にしがみつくことができなくなる上に、結愛とは学年が違うから一緒に行動はできない。

 つまるところ、頼りの綱がない状態での綱渡りを強要されてしまって、一体どう過ごすのかと不安が拭えないまま葵は保育園へと入園した。

 一応、担任となる先生、園長先生などには葵のことを説明したが、それでもやはり不安は拭えない。

 心配と不安を胸に抱きつつ、母親は葵を保育園へと送った。


 その後、家に帰った母親は双子の世話をしつつ家事をこなし、一日を過ごした。

 だがそのどれもが真に集中できていたかといえばそんなはずはなく、頭にあったのは葵が上手くやれているだろうかと言う心配だけだった。

 これまでの三年、外に出るようになってからだと一年と少しの間、直そうとしても直らなかった性格(ひとみしり)

 それが遺憾無く発揮されれば、まず間違いなく葵の保育園生活はぼっち確定だ。

 ぼっちがいけないだ、悪いことだとは思っていないが、やはり人と人との関わりがあった方が楽しいこともある。

 その逆も然りだが、それでも始まりを失敗してしまえばその後にさえ響いてしまうだろう。

 終わりよければ全てよしと言う言葉があるが、それと同じくらい初めの一歩も大事だと思う。

 だからこそ、どうしようもなく募る不安と心配を胸に、母親は日中を過ごした。


 そんな両親の不安を他所に、保育園初日を体験してきた葵の顔には意外にも笑顔があった。

 友達でもできたの? と母親が聞いても、葵は笑顔で「内緒」と答えるだけで、実際に何があったのかはわからなかった。

 一つだけ理解できたのは、両親が不安視していた“葵の保育園生活”は思いの外順調なスタートを切ったと言うことだけだった。

 ともあれ、いつ何が起こるかはわからない。

 何かあった時にすぐ気づいてあげられるよう目をかけつつ、結果を見守ろうと言う結論に達した。


 だが両親の心配を他所に、葵は順調に保育園生活を謳歌していた。

 半年も経つ頃には幼稚園で起こった出来事を楽しそうに話してくれるようになった。

 実際に保育園で過ごしている様を見たわけではないが、話してくれる内容がとても楽しそうで、謳歌していると言っても差し支えないだろう。

 もしこれが演技なら、表情や言葉選び、その話題を出すまでの時間なども含めて完璧だ。

 子役にでも推薦したほうがいいだろう。

 それくらいに、葵の語る保育園は楽しそうなものだった。

 母親に保育園での出来事を語り、同じ話をスヤスヤと仲良く眠る双子に話し、帰ってきた父親にも同じ話をする。

 何が原因で葵の人見知りが直った――あるいは軽減され、保育園での出来事を楽しく話せるようになったのかはわからないが、それでも現状が楽しそうなのだから敢えて追求はしなかった。

 今までと変わらず、何かあったら寄り添い守ってあげると言うスタンスを維持したまま、両親は葵の成長を見守っていた。


 結論から言うと、保育園で先生の案内を受けている時に偶然会った結愛から“秘伝”を授かった。

 “秘伝”と言っても大したものではなく、結愛の友達と友達になり、そこで人との会話の特訓をした。

 まずは結愛が友達と話している様子を見てもらい、話し方などを覚える。

 次に結愛と話していた友達と葵が話をしてみる。

 そしてそれが達成できたら、同じ組の子とも話をしてみる。

 そう言った具合に、結愛の豊富な友好関係から色々なタイプの年上とお話しし、経験を積んでから同級生と話してみようと言う作戦だった。


 その作戦は見事大成功を収め、葵は結愛の友達意外にも、多くの友達と友好関係を築くことができた。

 以外にあっさりとした解決だったが、最初の段階での会話には全て結愛が側におり、震える葵の手を握ってくれていたのも、成功の大きな要因と言えるだろう。

 そんな結愛の献身があって乗り越えてから約五年後、葵はいじめられ不登校になった。






 * * * * * * * * * *






 幼稚園に入園した日以来、人見知りをどんどんと克服していった葵は友達を着々と増やしていった。

 それは卒園後も変わらず、幼稚園で培った会話の組み立て方やコミュ力などを遺憾無く発揮し、小学校に入学してからも友達が減ることはなかった。

 卒園で小学校がバラバラになってしまった子とはネットを介しての連絡しか取れなくなったが、それでも全員が疎遠になると言うことはなく、小さいながらもしっかりと努力を積み重ねていった。


 最初は結愛が側にいなければ見知らぬ人とも話せなかったのに、今では一人で困っている人にも話しかけられるくらいには成長している。

 まさに大躍進と言えるだろう。


 そして友好関係が築ければ、人間は次の段階に進むものだ。

 それは“恋”という、様々な形で誰もが抱くもの。

 初恋という甘酸っぱい気持ちを抱いたのは、二年生になってから三ヶ月が経過した頃だった。

 きっかけは運動会での応援席が前後になり、話す機会が増えたからだ。


 小学校に上がり、順調に友達を増やしていったとはいえ、異性の友人はあまり多くはなかった。

 結愛と一緒に登下校をしていた影響で年上の異性の友―――正確には結愛の友―――はいたが、同級生での友達は両手より少し多いくらいしかいない。

 その上、仲のいい女友達は、ボーイッシュというか男勝りというか、女の子同士で談笑するよりもドッヂボールをしたりするほうが好きという女の子くらいだ。


 そんな葵に、後ろの席に座った女の―――布施沙紀の女の子らしさは新しく、激しく胸を打たれた。

 勿論、物理ではなく精神的なものだ。

 まず服装がちがう。

 葵がよく関わってきた女の子たちは、基本がズボンを穿いている。

 いわゆるパンツスタイルと呼称されるものだ。

 それが、その女の子はスカートを穿いている。

 結愛の友達にはスカートを穿いている人もいたが、あくまで葵の視点では“結愛の友達”だ。

 それ以上の視点に移行することもなければ、そこに目新しさを感じることもなかった。

 結愛が基本パンツスタイルで、出掛ける時にたまにスカートも穿くくらいの頻度だったから、結愛と同世代ということで一緒くたにしていたのかも知れない。

 ともあれ、そのスカートの物珍しさがまず第一に葵の印象に残った。


 次に所作が違う。

 結愛のように丁寧で、よりこぢんまりとした可愛らしいと表現できる所作だ。

 笑うにしても、怒るにしても、落ち込むにしても。

 座るにしても、歩くにしても、走るにしても。

 その全てが自分とは勿論、知っている女の子とも違った。

 一つ一つが可愛く見えて、胸がドキドキした。


 更に、沙紀は話す時に葵の瞳をじっと見つめてくるのだ。

 結愛だって葵だって、人と話をする時は人の顔を、目を見て喋る。

 でも沙紀の場合は、真っ直ぐ、純粋な瞳で葵の瞳を見返してくるのだ。

 葵の言葉に相槌を打ち、大袈裟ではないが嬉しくなるようなリアクションを取ってくれて、楽しそうに笑うのだ。

 それは少し気恥ずかしくて、でもそれ以上に嬉しかった。

 だから、気がつけば好きになっていた。


 友達のそれとなく沙紀の情報を聞いて、ふとした時に目で追っていて、沙紀が葵の視線に気がついてこっちを見たら目を逸らして。

 でもまだ見ていたくて逸らした視線を戻したら目が合って笑顔で手を振ってくれて。

 そんな些細なことでさえ楽しくて嬉しかった。

 だから思ったのだ。


 告白をしようと。


 そこからすぐに、葵は行動に出た。

 結愛との特訓の成果の一つで、迷ったら即行動を念頭に置いていたからこその迅速な行動だ。

 尤も、葵は恋愛経験などなければそう言った知識があるわけじゃない。

 かと言って身内の誰かに尋ねるのも気恥ずかしい。

 どうするかと考え、辿り着いた答えの一つは、沙紀と仲が良くて、葵とも仲のいい男の子に仲介してもらうという作戦だった。

 葵が一人で考えた割には中々よい作戦が思い浮かんだと嬉しくなり、早速それを実践した。


 話しかけたのはその沙紀と幼馴染の関係にあるとリサーチの末に判明した男の――中村隼人だ。

 学年におけるかっこいい男の子ランキング上位を揺るがないクラス一のイケメンだ。

 葵とも仲が良く、また恋愛経験もおそらく豊富だろうという推測があった。

 その根拠は葵を介して結愛の紹介をしてくれと頼まれたことがあったからだ。

 この作戦も、元を辿れば隼人の考えを模倣――もといパクっただけだが、それは考えないで隼人に話した。


 葵の事情を知った隼人は快く頷いてくれ、そのための協力をしてくれた。

 例えばレクリエーションでグループを作ることになった時に、沙紀と葵を一緒にグループに入れてくれたり。

 あるいは沙紀との会話にさりげなく混ぜてくれたり。

 長期休みでは狙うを悟らせないようにか大勢を誘って遊びに出掛け、そこで話す機会をくれたりと、かなり尽力をしてくれた。


 そのおかげで沙紀との間は縮まっていき、ついには二人で買い物に行けるくらいには仲良くなった。

 買い物といっても所詮は小学生だ。

 学校に近い絶滅危惧種の駄菓子屋に行って互いのおすすめを買ってみたり、ロシアンルーレット系のお菓子を一緒の食べてみたりと言ったものだ。

 そのどれもが楽しくて、好きだという気持ちを再確認させられた。

 だからゆっくりと、しかし着実に告白のための土台を作り上げていった。






 * * * * * * * * * *






 その気持ちを自覚してから月日が流れ、小学三年の始業式。

 葵が通っている学校では三年生と五年生時にクラス替えがある。

 もしここで沙紀と別のクラスになってしまったら、話す機会も少なくなってしまうだろう。

 それが嫌だった葵は、この日に想いを伝えようと朝の段階で屋上に来てほしいと告げていた。

 小学校の屋上は立ち入り禁止だが、それ故に告白スポットとして有名だと結愛に教えてもらった。

 実際に来てみてわかったことだが、意外と静かな場所ではなかった。

 今日が始業式で、新年度の始まりの日だからこその喧騒が下の方から伝わってくる。


 平時ならともかく、こと今日という日に限って言えば、ここは告白スポットとしてはよくないのかもしれない。

 ただ、葵はこの場を告白の場に選んだ。

 良くないという自覚を持ちながら、立ち入り禁止とされているこの場所をだ。

 もう後戻りはできない。

 少しの違反は許してくださいと神様に祈りながら、始業式の工程を着々とこなし、全てが終わった後で屋上で身なりを整えつつ到着を待った。


 ひとまず第一印象でかなり大事な髪を気にしてみる。

 しかし今の葵では髪のを確認することができない。

 なので、朝に決めてきた髪型のままであることを信じ、自身の格好を見下ろしてみる。

 おかしくはないはずだ。

 結愛が選んでくれたものなので、間違いはないだろう。

 そもそもファッションに興味のなかった葵が、自分の格好が似合ってる似合ってないを判別できるだけの材料を持ち合わせていない。

 だから結愛のことを信用しよう。


 好きな人がいて告白をしようとしていることが結愛にバレた時は恥ずかしさで死にそうになったが、結愛は誰に漏らすことなく隼人以上に協力してくれた。

 幼稚園の時よりさらに成長した会話術や女子全体の好みなど、葵の知らなかった様々なことを教えて貰った。

 他の家族に話さないでいてくれたのもそうだが、真剣になって葵のことを考えてくれた。

 真剣な表情で葵の話を聞いて、色々と悩んでくれた。

 結愛にバレてしまったおかげで、告白の成功率を上げられたのは怪我の功名というべきなのかもしれない。

 結果オーライとして肯定的に捉え、今は沙紀が来るまでの時間を潰すのを優先しよう。


 とりあえず何かしてなきゃ気が済まなかったので、直す必要もない襟や裾を弄り直す。

 見える範囲を全て網羅する勢いで身だしなみを整えていると、重たい扉を開けて沙紀が屋上に姿を現した。

 今日が始業式だからか、いつもよりも若干気合の入った格好をしているように見える。

 少しフリフリが多く、スカートの丈も僅かに短めだ。

 いつもはストレートに流している髪をツインテールへと変え、全体的な印象が小悪魔っぽく見える。


「ごめん。待たせちゃって」

「あ、いや大丈夫。僕も今来たところだから」


 結愛からこう言われたらこう返すんだよと言われていたことがまんま沙紀の口から出てきた。

 予習していたことがまんま出てきたときのような高揚感があるが、今はそれ以上の緊張が葵の身に襲いかかっているのであまり関係ない。


「それで話って?」


 首を傾け、キョトンとした顔で沙紀が尋ねてくる。

 その仕草が可愛らしく、いつもとは雰囲気が違うことも相まって葵の思考に容赦のないパンチを放ってくる。

 思考部分に大打撃を受けつつ、本題に入るために深呼吸を挟む。


 そこではたと気が付いた。

 心臓が締め付けられ、声がでない。

 気持ちは今もなお溢れ続けているのに、それを表に出すことができない。

 否、出すことを拒んでいるのだろう。

 もしこの告白を断られてしまったら、立ち直れないことはなくても少しは落ち込むことになるだろう。

 そんな未来を想像するだけで、心が砕けそうになる。


 ポジティブシンキングは大切だ。

 今までも意識してきたし、これからも意識していくつもりだ。

 だけど、そんな心持ちがあってもなお、告白という一歩が遠く遠くにある。

 胸がギュッと締め付けられ、喉が渇いて張り付いた。

 声を出したくても出すことができない。


「綾乃くん?」


 質問に答えない葵を心配し、沙紀がしゃがんで顔を覗きこんだ。

 ツインテールが揺れ、ふわりと良い香りが漂う。

 しかしそれを堪能する余裕はない。

 緊張と不安の波が押し寄せて、小さな葵を飲み込んでいく。


『何事も挑戦だよ、葵』


 ふとそんな声が聞こえた。

 ただの幻聴だ。

 過去の回想が、走馬灯のように一瞬聞こえただけ。

 だけど、不思議とその声に勇気づけられた気がした。

 気が付けば胸を締め付けていた緊張は薄れ、乾いていたはずの喉はしっかりと機能していた。

 再度、深呼吸を挟む。


「布施さん」

「なぁに?」


 顔をあげた葵に、沙紀はいつも通り目を見て答える。

 例えどういう結果に終わろうと、この時の選択に後悔をしないように全力でやろう。

 もし全力でやって失敗したのなら、それは葵の努力が至らなかっただけなのだ。

 だから、真正面から挑む。

 葵も沙紀の瞳を見つめ返して、言葉を紡ぐ(こくはくの)ために大きく息を吸った。


「あ、間に合った?」


 少し重い音を立てて屋上の扉が開かれ、そんな気の抜けた声が聞こえた。

 その声自体は今まで何度も聞いてきた、中村隼人のものだ。

 今まで協力してくれていた隼人は、今日この時間にこの場所で告白することを告げている。

 だから、この場に来れたことに何ら疑問はない。

 ただ、なぜこの場に来たのかという疑問はある。


 告白という一大イベントが起きていることを知っていてこの場に乱入してきた理由が、葵には理解できなかった。

 覚悟を決め、いざ告白せんと前のめりになっていたところに横やりを刺され、その横やりの唐突さに思考がショートする。


「少し早いよ。告白して、私が返事する前って話だったでしょ?」

「いやぁ、あの扉こっち側が全く見えなくてさ。音も聞こえないもんだから完全にランダムなタイミングで突入してみたんだけど、意外と効果覿面(てきめん)みたいだよ?」


 沙紀と隼人が会話する。

 沙紀は呆れ気味に、隼人は自慢げに。

 その内容は全く以って理解できないが、それでも何か意図を以て話しているのはわかった。


「それでどうするの? こうなったんじゃ作戦通りは難しいんじゃない?」

「……ま、なるようになるだろ。おい、綾乃」


 まだ混乱から抜け出せない葵へ、隼人が声を投げかける。

 ツカツカと葵の前まで歩み寄って、かなり近い距離まで顔を近づける。

 そして満面の笑みを浮かべると――


「どうして俺がここにいるのかわかってないみたいだから、答えてあげるね」


 ――そう言って隼人は来た道を戻り、沙紀の傍による。

 そして何気なく沙紀の後頭部に手を回し、そのまま顔を近づけた。

 隼人の唇と沙紀の唇が触れ合い、優しく地上を照らす太陽の光加減で二人の唇が艶めかしく映る。

 葵の目の前で繰り広げられたのは、母親がドラマなどで見ていたような光景だった。

 現実味がない、まさしくテレビの画面上で起こっている出来事を見ているような気分だ。


「これが答えだ」


 でもこれは現実だ。

 意図も何も理解できないが、ただ目の前で隼人と沙紀がキスをしたことだけは理解できた。

 でもやはり、それ以外は何一つ理解できない。


「わかってない? 俺は沙紀とキスできる関係なんだよ」

「そ、れは……どう、いう?」


 直接的な言葉で言われ、でも思考が止まっている葵には理解が及ばない。

 もうここまで言われれば答えを提示されたのと同義なのに、理解を拒んでいるのか内容が理解できない。


「だからな? 俺がお前に協力したのも、沙紀がお前と仲良さそうに振舞っていたのも、沙紀がお前を好きなのも、ぜーんぶ嘘。俺はお前に強力なんてしてないし、沙紀もお前なんか好きじゃない」


 真っ直ぐ、何の捻りもない言葉の暴力でようやく、葵は理解できた。

 自分が騙され、自分が作り上げたと思ったこの場さえも、全ては隼人の手のひらの上だったことも理解できた。

 だからこそ、心の底から疑問が湧いた。


「なんで、こんな……」

「なんでって、そんなの決まってるだろ」


 沙紀の体を抱き寄せつつ、さも当たり前のことを言うかのような呆れたような表情で隼人は言い放つ。


「お前と仲の良いあの女に復讐するためだよ。良かったな? あとであの優しいお姉さんが慰めてくれるぞ?」


 嫌悪感を抱かせる表情と物言いで隼人は言った。

 その理由があまりにしょうもないもので、そんなことの為に自分の半年が無駄になったのかと愕然とする。

 何も言えず、ただ呆然と佇むことしかできない葵を尻目に、隼人は沙紀を連れてその場から去っていった。

 その顔には憎たらしい笑みが張り付いていたが、そんなことを気にしているだけの心の余裕はなかった。

 告白を断られるよりも質の悪い結末を迎え、自分のことを助けてくれていた人が一転して敵に回るという現実を前にして、葵は絶望した。


 あそこまで自分によくしてくれた人が。

 あれほどまでに仲の良いと思っていた人が。

 自分を騙し、自分の為だけに動いていた。


 たった一つの、どうでもいい復讐の為に、葵の気持ちは踏みにじられた。

 自分が好きになった人に、自分を助けてくれた人に、裏切られた。

 その事実が葵の心に深く突き刺さり、ゆっくりと、しかし着実に成長していた心を打ち砕いた。


 立ち入り禁止の屋上でたった一人、その場に立ち尽くす。

 絶望し、何もできなくなった葵に手を差し伸べられる存在はいなかった。

 悲しみの涙も、怒りの慟哭も、何も溢れない。

 ただ呆然と、気でも失っているのかと錯覚するくらいに、葵は動かない。

 だって、感情を吐露するための心は、もう壊れてしまったのだから。


「葵っ!」


 一人だけになった屋上へ、見知った女の子が入ってきた。

 葵のことを名前で呼び捨てにする女の子は、この世に結愛しかいない。

 血相を変え、息を切らし、綺麗な黒髪を乱しながら、そこそこ広い屋上に一人佇む葵を見つけて駆け寄ってきた。

 そのまま、結愛は葵を抱きしめる。

 結愛の到着に反応もなければ、気が付いてすらいないような葵を、優しく抱きしめる。


「……ごめん。ごめんね、葵」


 抱きしめられて恥ずかしがることも嫌がることもなく、それを無感情に受け入れる葵に、結愛は悲痛な顔をしてそう告げた。

 この場で起こっていたこと、今の葵になってしまったまでの過程を見てきたわけではない。

 でも何があってどうしてこうなったのかを結愛は知っている。

 それを知り、止めるために動いたけれど止められず、この結末を為す術なく迎えてしまった。

 だから、ただ謝ることしかできない。

 結愛の所為で葵を傷つけてしまったのだから。






 太陽が天を少し過ぎた頃、学校からの帰路を歩く二人の男女の姿があった。

 小学校くらいの女の子が、同じ年の頃の男の子の手を引いて、人気のない道を歩いている。


「葵、大丈夫?」

「うん。ありがと、結愛姉」


 一見何気ない会話のように聞こえる。

 男の子の方に何かがあり、それを心配する姉の構図としては、何らおかしくない。

 けれど明確に、それは何気ない会話などではなかった。

 少なくとも二人の間では、それは確かなものだった。


 それ以降の会話もあまり弾まず、道のり十分程度の下校は終了した。

 明日も学校があるから早めに寝ようと、葵はご飯も食べずに床についた。


 翌日、いつも通りに起き、いつも通りに朝食を取り、いつも通り結愛と一緒に登校し、いつも通り学校に着いた。

 昨日までと何も変わらない、いつも通りの日常だ。

 下駄箱で結愛と別れ、新しくなったクラスへと向かう。

 そう言い聞かせて、葵は新しくなったクラスへと足を踏み入れた。


「おはよう!」


 まだクラスが変わって二日目だが、一二年の間に仲良くしてくれた友人はいる。

 だから、変わらずに――むしろ元気よく朝の挨拶をした。


「……」


 しかし返事は返ってこなかった。

 挨拶をした友達を見てみれば、その瞳には嫌悪と侮蔑が浮かんでいた。

 例えばその瞳に宿るのが別のものであっても、結局は葵を蔑むような、総じて“負”と呼称できる視線を葵へと向けている。


「えっと……おはよう、山田くん、木下くん」


 その意図が分からずに、葵は名指しで挨拶をする。

 もしかしたら誰に向けた挨拶かわからなかったから返事をしなかっただけかもしれないと、そう考えて。


「布施さんのストーカーとは話すつもりはない」

「だよな、気持ち悪りぃ」


 そんな葵に向けられたのは、真っ直ぐに投げ込まれた悪意の言葉だった。

 オブラートなんてものを知らないとばかりに、変化も何もないただの悪口。

 その言葉は、昨日の今日の葵には深く突き刺さった。


 でも理解ができない。

 昨日まで普通に話していたはずの友達が、今日になって急に葵を嫌悪知り理由がわからない。

 何があったのか、どうしたのかを考えている葵に、背後から声がかけられる。


「あれぇ? 昨日沙紀に告白してフラれて暴力を振おうとした綾乃葵くんじゃーん。よくまぁ恥もせずに学校に来れたねぇ?」


 嫌味っぽさを全開にし、嘲るように、罵るように。

 綾乃葵という存在そのものを否定するような言い回しをしてきたのは、昨日から耳にこびりついて離れないあの声。


「……中村、くん」

「おいおい、気安く名前を呼んでくれるなよ。俺まで同類と思われちゃ困るわぁ」


 ニタニタと下卑た笑みを浮かべる中村隼人に、葵は愕然とする。

 隼人に裏切られただけでなく、ありもしない噂を広められた。

 昨日のアレで復讐が終わりではなく、その後があったなんて誰が想像できただろうか。


「な、んで……」


 ようやく出せた声は、掠れて目の前の隼人にも聞こえたかどうかが分からないようなものだった。

 でもその声がはっきり聞こえていたことを、周りが教えてくれた。


「いい加減にしたら?」


 語気を強く、圧をかけるように葵に話しかけて来たのは、一二年時に同じクラスで、学級委員長を務めていた牧田蘭子だ。

 アニメなどでよく聞く「ちょっと男子」を言うような、小学生らしい正義感を持った女の子だ。

 尤も、まだアニメの存在を少ししか知らない葵には知る由もないことだが。


「全部、中村くんと沙紀ちゃんから聞いたよ。フラれて腹いせに暴力を振るう人だなんて、思ってなかった」

「ま、待って! 僕はそんなことしてない! 全部、結愛姉にフラれた中村くんの作戦で――」


 ちゃんと話せば理解できる。

 それが結愛から教わった最初の言葉だ。

 人間は会話ができる生き物で、相手が同じ人間ならば誰とでも会話はできる。

 それを、小学生並みの正義感で以って実践しようとした。


「謝るなら許そうと思ってたのにそんな言い訳なんて……見損なったよ、綾乃くん」


 結果、裏目に出る。

 この時の葵はもとより、まだ幼かった結愛も知らない事実。

 それは会話をする意思のない人間には会話が通じないということだ。

 今この場において、葵が何を話しても全て墓穴を掘る結果にしかならない。

 この場で行われているのは、綾乃葵の弁明会見などではなく謝罪会見なのだから。

 それを小学生なら誰もが持っている正義感で真っ先に崩してしまった。


 結果、始まるのは葵と同じ正義感を持つ小学生による、断罪という名の同調圧力(ばりぞうごん)だ。


「サイテー」「気持ち悪い」「沙紀ちゃんが可哀想」「許されるわけない」「死ねよ」「中村くんのおかげで沙紀ちゃんが助かったって」「近くにいると殴られるかもよ」「マジでお前要らない」「あれじゃない? フラれて逆ギレした人」「マジ何考えてんの」「クソ野郎じゃん」「クソが可哀想だよw」「確かにw」「うっわこっち見た」「確かに平気で人殴りそうな顔してる」「ブサイクの癖に」「鏡見たことないんじゃね」「キモーい」


 その場にいた誰もが。

 昨日まで楽しく談笑していた友人も。

 同じ班で給食を配膳したクラスメイトも。

 見ず知らずの他クラスの人も。


 その場にいた全ての人間が、綾乃葵という人間と敵対視し、思うままの悪意の言葉を遠慮なく投げつける。

 正義感を振り翳し、正義の下に悪に鉄槌を下す。

 その鉄槌は何でもいい。

 正義という大義名分が、全てを良しとしてくれる。


 布施沙紀という明確な被害者がいて、それを証言する人間がいる。

 そうなれば、たとえ嘘であっても覆すには難しい。

 ましてそれが頼りにされて来た人間ならば、その話を精査することもせずに信じるだろう。

 中村隼人と布施沙紀という二人に人間は、少なくとも綾乃葵よりも人望があった。

 それこそ他クラスにも。

 故に、この惨状が招かれた。


 全てが計算され、全てが計算通りに行われた。

 その結果が今、葵が陥っている状況そのものだ。

 中村隼人の、板垣結愛に対する復讐は、この状況で以って完遂された。


 昨日と同じ絶望を――否、そんなのすら凌駕する、絶対悪として罵られた葵は、世界に絶望した。

 結愛の話してくれたことは意味を為さなかった。

 友達だと思っていた人は、全員が敵に回った。

 この小学校(せかい)に味方はいない。


「お前のおかげで楽しかったよ、綾乃く〜ん」


 耳元で隼人が囁く。

 その言葉は心底嬉しそうで、楽しそうで、今の葵とは真逆にいた。

 嵌められ謀られ騙されて。

 信じるものが何一つなくなった葵は静かに――されど何人たりにも侵されないほどに頑強に――






 ―― ――もう、なんでもいいや






 綾乃葵は心に大きな蓋をした。



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