第七話 【絶望】
首都ウィルを発ってから、二日が経過した。
葵たちの姿は共和国の北の大半を占める森の中にあり、この調子で行けば今日中には灰の森に着くだろう。
「葵様。少し乱れているように見えますが、大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫。今日はまだいけそう」
「主、大変?」
「まだ大丈夫だよ。心配してくれてありがとう」
並走するラディナとソウファと話しつつ、葵は笑みを浮かべる。
日が昇っている間は移動、日が沈んだら移動をやめて食事をとり、朝日が昇るまで稽古をつけてもらう、という日程だったため、他人に分かるくらい疲労が溜まっていた。
尤も、ラディナの観察眼はそこいらの人より優れているのでそういう意味では当てにならないが、ソウファも不安そうな顔をしているので、間違いなく疲労しているのだろう。
原因は間違いなくナージャとの稽古のせいだろう。
これまで夜中に鍛錬することは珍しくなかったが、一人でやる鍛錬と他人から指摘を貰える稽古では疲労具合がだいぶ変わる。
それに、ナージャの稽古内容が割と厳しい、というのもあるだろう。
ナージャ自身はそこまで厳しくないと言っていたが、おそらく同じことを同じ水準で百回繰り返させ、出来なければ最初から、という内容はだいぶスパルタだ。
少なくとも、最初の稽古を除き、師範ですらここまで厳しくはなかった。
ともあれ、ナージャの稽古のおかげで、こうしてソウファにわかるくらいに疲労しているのだ。
なのに当の本人はそんな様子を全く見せない。
エルフと人間の体力差なのか、あるいは単に個人差なのかわからないが、全く以って羨ましい。
「もし辛かったら戻るよ?」
「辛くなったらお願いするね」
昨日の夜――正確には今日の夜だが、ソウファはようやく、人型から狼型に戻ることに成功した。
人型になってから二日ほど経ってようやく身に着けた技術らしい。
人型になってからの体の扱いやその他の吸収力も、総じて成長が著しい。
“魔力操作”の成長が止まっている自分とは大違いだ、と葵は自虐する。
ソウファの優しさに感謝しつつ、自分の体調と常に相談し、休憩や昼食などを取りながら走ること数時間。
「ここか」
「文字通り、灰色の森なんですね」
葵たちは、目の前に広がる灰色の森の前で立ち止まった。
森の名前の由来がその見た目から付けられた、とは聞いていたが、想像以上に灰色だ。
木の幹や枝葉、地面に至る空以外の要素の全てが、灰色で埋め尽くされている。
「なんだか懐かしい気持ちになるね、アフィ」
「ああ。雪の積もった森と大差ないな」
葵の隣では、ソウファとアフィが灰の森を眺めながら感慨深そうに話していた。
確かに、遠目から見たら雪が降り積もっているように見えなくもない。
そんなことを考えながら、ふとナージャに目をやると怪訝そうな顔をしていた。
「どうしました?」
「……何か、良くないものを感じる」
「良くないもの、ですか?」
葵の言葉に、ナージャは頷いた。
それを受けて、葵は灰の森へと“魔力探査”を飛ばす。
だが、特にこれといった何かを見つけられなかった。
ただ経験則からくる警鐘であれば、それは何かがあることが多い。
経験とは才能では得られないものだから。
故に、葵は深呼吸をしてラディナたちに警告するように言う。
「何があるかはわからないけど、一応、気を付けて行こう」
葵の言葉に、全員が頷いた。
灰に森に入ってから数時間が経過した。
日も傾き始めており、もう一時間もすれば夜になるだろう時間だ。
そろそろ今日の寝床を探すべきだろう。
そんなことをラディナたちと共有しつつ、灰の森の中を歩く。
すると、歪に開けた場所に出た。
乱雑に生えていた木が根元から分断されて、灰色の地面に倒れている。
それも数個なんてレベルじゃなく、数十から下手をすれば百に届くのではないかという本数の木が、地面に横たわっている。
「これは……切り倒されたのか?」
「どちらかと言えば、叩き折られたが正しいかと。切り口が鋭くありません」
ラディナの言葉を受けて、改めて木の断面を見ると、それは確かに、切り倒されたというには些か綺麗ではない断面をしていた。
引き千切った、という表現でもおかしくないくらいにささくれている。
とても、人にできる芸当ではない。
「これ全部そうなのか……?」
そう呟きつつ、辺りを見回していると、ナージャが手招きしていた。
それに釣られてナージャに近寄ると、足元の地面を指さされた。
「これ」
「……抉れてますね」
ナージャが指さした先には、葵の腕なら二、三本は入るのではないかと言うくらいに大きく抉られた地面があった。
葵たちが立っている灰色の地面は、場所ごとに多少の差異があるとはいえ、基本的には固い部類に入る。
土の地面というには固く、コンクリートと同じくらいの硬さとでも言うべきか。
そんな硬さの地面が、これほどまでに抉れているのは、木が倒されていることを鑑みても、異常という他ないだろう。
ともあれ、どんな事情があったにせよ、ここは野営には持って来いの広さを持っている。
倒れている木さえ退かせれば問題ないだろう。
それに、何かあった場所なら、今後も何かある可能性が高い。
そうなった場合、一年前の事件の要因なんかが分かる可能性もある。
その為に、葵たちはここで今日の夜を過ごすことにした。
ラディナが夕食の準備をし、それ以外が野営の準備をする。
「主。ラディナねぇ今日調子悪そうだから手伝っていい?」
「あー、そうだね。うん、じゃあ手伝ってきてくれると助かる」
「わかった!」
いつもならソウファも葵たちと同じなのだが、今日はそう言って、ラディナの手伝いに行った。
確かに、今日のラディナは何やら調子が悪そうだった。
目に見えて体調が悪そう! というわけではないが、どこか違和感を感じる。
そんな些細なことだが、それでもそういう時は何かある。
経験則だ。
それに、葵だけでなくソウファもそう感じているのだから間違いないだろう。
ちなみに、ナージャには手伝ってもらっていない。
自分たちでできるようにしたいから、とお願いしたのだ。
ソウファが抜けた分、こちらは人手が一人減ったので、頑張って準備しなければならなくなった。
尤も、大変な作業でもないので、そこまで辛くはない。
雨が降っても大丈夫なようにテントを二つ張り、男女に分けた寝袋を中に敷く。
テントが風で飛んでいっては雨除けの意味がないので、それを地面に固定する。
専用の杭――キャンプ用語だとペグでテントを固定するために、地面に杭を打ちつける。
コンコンと小気味よい音を立てながら、それを打ち付けていると、ふと手に伝わる感触が変わった。
地層が変わったというような感触ではない。
何か、別の物体に阻まれたような違和感だ。
「どうした、葵」
「何かにあたったのかな? ちょっと掘ってみるか」
そこまで深い位置で何かに当たったわけではないので、掘り出すのは簡単だ。
流石に素手で掘り起こすには地面が硬すぎるので、ペグでガリガリと削っていく。
思いのほか簡単に削れて行ったのを見て、ここは緩いのかな? と思いつつ、何かに当たった深さまで削った。
そこには何やら円形っぽいものが見えていて、その周りを軽く削ってそれを引き抜いた。
地面に埋まっていたからか、とても汚れていて灰色の土が付着した元の形が微妙にわからないものがあった。
辛うじて、チェーンのようなものが付いているから、ペンダントなのではないか? という予測ができるくらいだ。
土汚れなら水で洗い流せるやろ、と指輪から水を生成する魔術陣のスクロールを取り出して、アフィに魔力を注いでもらう。
水がジャーと流れ、そこにペンダントを割り込ませて手でゴシゴシと洗う。
あっさりと汚れが落ち、水が地面に染みを作った。
アフィに礼を言って魔術を止めてもらい、洗ったそれを見た。
「――なん、で……」
気が付けば、手が震えていた。
手だけではない。
足も、声も、瞳も、体中の全てが震え、心臓が激しく脈打つ。
だというのに血の気が引くのを感じていた。
「葵、どうした?」
葵の異変に、傍にいたアフィがいち早く気が付き、顔を覗き込んでくる。
そのアフィの行動で異変に気が付いたのか、ラディナがソウファに何かを言った。
それを受けて、ソウファがアフィに近づいてくる。
「主、どしたの?」
「わからない。掘り出したものを見て固まった」
近くに寄ってきたソウファの質問に、アフィが答える。
それを受けて、疑問の表情を浮かべるソウファは、ラディナの方を向いて首を横に振った。
ソウファの表情を見て怪訝そうな顔したラディナは、すぐに作業をやめて葵の方に寄ってきた。
しかし今の葵は、そんなことに気を遣う余裕はない。
右手に乗るペンダントから目を離し、左手で右の裾を捲る。
そして、手首に着けられたリストバンドに刺繍された紋様と、ペンダントの形を照らし合わせる。
似ているだけの、違うものであってほしいと願って。
だが、その願いは果たされなかった。
それは、盾に剣が交差した紋様が書いてある、チープなペンダント。
子供用のおもちゃ程度の、大したものではないのが誰が見ても明白なもの。
大人が持っていれば笑ってしまうようなもの。
そして、葵と結愛の繋がりで、八年という年月が経ち、学校の規則を破ってでも、結愛が手放さないでいてくれた、葵にとっても、大切なもの。
それが葵の掌の上に、血塗られた状態で置かれている。
原型は留めている。
ペンダント自体に損傷はなく、しかしチェーンの部分が千切れている。
ただし、どす黒い色となった血が付着している。
それが何を意味するのか。
なぜこんなところに埋もれていたのか。
ここの惨状と、関係があるのか。
思考が悪い方へと寄っているのが分かる。
自分でない誰かが自分を俯瞰し、自分の感情も思考も、全てを理解しているように感じられる。
まるで、葵という人間が、二人いるみたいな、そんな錯覚。
そこまで含めて俯瞰しているのに、悪い想像が止まらない。
ここで起きた惨状と、チェーンが千切られ、ペンダントに血が付着しているという事実。
このペンダントが、結愛のものであるという事実。
「――あ、ぅあ……」
葵の口から嗚咽に似た何かが漏れた。
それを、近くにいたラディナたちが聞いた。
瞬間、葵の体から暴風が吹き荒んだ。
唐突に吹き荒れた、突き上げるような暴風で、テントも、焚火も、その上でグツグツと音を立てていた鍋も、そこに居合わせた人も、全てが吹き飛んだ。
咄嗟に防御姿勢を取ったラディナでさえ、大きく後方へと飛ばされた。
体の自由が利かないことに焦りを覚えつつ、突風で瞑った目を開けば、そこは空中だった。
一瞬、理解が及ばず、混乱が頭を支配したが、すぐに冷静になり、辺りを見回す。
少し離れた、ラディナより高いところでソウファとアフィが宙に浮いていた。
他にも、ラディナが用意していた食事の鍋やテントの生地やペグ、焚火の燃料などが空中に散らばっていた。
そして、それをそこに追いやった原因へと目を向ける。
そこには、この状況でも呆然と立ち尽くし、微動だにしない葵の姿があった。
何が起こったかわからない以上、葵が心配だが、まずは着地をしなければラディナ自身が危ない。
幸い、アフィがソウファを空中で確保しているのは確認済み。
自分だけなら、風の魔術と“身体強化”で何とかなるはずだ、と考えて行動に移す。
「何があったの?」
着地の算段を立てていると、隣にナージャの姿があった。
「いつ――いえ。葵様の様子がおかしくなり、何があったのかを確かめようと近づいた際に突風に似た暴風が」
いつの間に、という疑問を飲み込んで、ナージャの疑問に答えた。
すると、ナージャは納得したような顔をして葵を一瞥し、ラディナへ腕を差し出した。
「掴まって」
「ありがとうございます」
ナージャの腕を掴むと、瞬く間に視界が変わった。
先ほどまで見えていたはずの暗くなっている空が、一転して灰色の木々と大地を映している。
「これは――」
「事情はあとで。今はあれをどうにかしないと」
ナージャはそう言って、今もなお暴風の中心にいる葵に視線を向けた。
先ほどよりも離れ、今は数十メートル先にいるのにも関わらず、足を踏ん張っていなければ吹き飛ばされそうなくらいの暴風だ。
その暴風を掻い潜り、ソウファを乗せたアフィがラディナたちの傍へ着地する。
「二人とも、大丈夫?」
「俺は大丈夫。ただソウファが少し肌を裂いた。出血量は大したことないから、水で傷口を洗う」
そう言って、アフィは口に加えていたスクロールを起動させ、水を生成して傷口を洗う。
非常に冷静なアフィに釣られ、思考がクリアになっていくのを感じつつ、ラディナは思考する。
葵がどうしてああなったのか、この暴風の正体は何なのか、どうすれば止められるのか。
「“魔力暴走”か……初めて見る」
「それって体内の魔力を制御できず暴走し、生命力を使い尽くして死に至らしめるという“魔力暴走”で間違いないですか?」
ラディナは自分の知識にあったそれと同音の言葉をナージャの口から耳にして、それの意味を問いただした。
ラディナの説明を聞いたナージャは静かに頷いた。
それを見たラディナは、アフィのおかげでクリアになった思考が早くも濁り始めた。
早く助けなければ葵が死んでしまう、と自身の体すら顧みずに暴風の中心に向かって歩き出す。
暴風に逆らう形であるため、ゆっくりと、しかし着実に。
しかし、ラディナの足は止まった。
暴風によって、ではない。
ナージャが肩を掴んだからだ。
「早く暴走を止めないと! 葵様が死んでしまいます!」
「無理だよ。“魔力暴走”は当人の意思で止めるか、あるいは当人が死ぬまで止まらない」
「そんなことはわかっています! でも、ここで葵様を死なせてはいけない!」
「落ち着いて。今ここで、君も失う方が痛い」
「葵様は見捨てろって言うんですか!?」
ナージャの言葉に、ラディナが珍しく語気を強めて怒りを露にする。
ここ一か月ほど、ラディナと一緒にいて初めて見るその表情と感情に、ソウファとアフィは恐怖を感じて押し黙る。
しかし、それを向けられているナージャは毅然とした態度を崩さずに、極めて冷静なままラディナを諭す。
「そうだ。“魔力暴走”が起こった以上、彼以外に止める術はない。ならば、彼は見捨て、君という戦力を残すべきだ」
「私なんかよりも、葵様の方が戦力としては大きいはずです!」
「それは当たり前だ。だが君の潜在能力は彼のそれに匹敵する。故に、ここで二人を失うよりも、一人を生かす方が先決だ」
「ふざけないでください! 私は葵様の側付きで、国に選ばれた主の盾となる者です! ここでその役目を全うする義務があるんです! だから!」
「ダメだよ。私は君たちと目的が一緒だから、彼に刀を教えるんだ。その目的を果たすために、君には生きていてもらわなければならない」
どこまでも冷徹に判断するナージャに、ラディナの怒りは増していく。
爪が皮膚に刺さってしまうのではないかと言うくらいに、拳は強く握られている。
ナージャの言が間違っていると、声を張り上げようとしたとナージャを見上げた時、彼女の視線はラディナの向こう――今も暴風の中心にいる葵に向けられていた。
まるで、異様なものでも見たかのように大きく目を見開くナージャは、確固たる意志を込めた言葉を口にした。
「アレは消さなきゃ不味い」
「――え?」
ナージャの言葉に、ラディナは疑問の声を漏らした。
そんなことには気も留めず、ラディナの肩から手を放し、葵の方へと一歩前進したナージャに対し、ようやくその言葉の意味を理解したラディナが今度はその肩を掴む。
「ちょっと待ってください! 消さなきゃいけないってどういうことですか!?」
「そのままだよ。アレはこの世界に居てはダメなものだ。アレが現出する前に、器の彼を殺す」
そう言って、葵に近づこうとするナージャを引き留める。
「待ってください! アレって何ですか!」
「彼をよく見て。君の目なら、わかるはずだよ」
要領を得ないナージャの言葉に、しかしそれで猶予ができるなら、と葵を注視する。
一見すると、暴風がついているという点以外、いつもの葵と何ら変わらない。
だがアレは、明らかにラディナが仕えてきた葵ではなかった。
纏う雰囲気が鋭く剣呑としていて、この世の全てを呪うような悍ましさと、どうしようもないくらいに強大な存在感を、葵に感じた。
アレが現出すれば、綾乃葵という人物の体を使い、この世の全てを破壊し尽くすだろう。
「何ですか……あれ」
「わからない。でも、まだ間に合うはず。魂だけでは生きられないから」
魂は器となる肉体があって初めてこの世界に留まるとされている。
故に、葵が死ぬということは肉体の死であり、即ちあそこで今にも現出しようとしているアレは、現出できなくなるだろう。
それは理解できる。
アレが現出すれば、どれほどの脅威となるかは未知数だが、最後にはこの世の全てを壊し尽くすだろう。
だからこそ、今ここでその現出を止めなければならない。
たが同時に、綾乃葵という人物を死なせることは、ラディナにとって避けなければならない事柄の一つだ。
綾乃葵に仕え、身の回りの世話をし、手伝いをしてその命を繋ぐ。
それが、ラディナという側付きに与えられた仕事だ。
仕事を全うできないという面もあるが、ラディナの心情としても葵の死は避けたい。
相反する気持ちがラディナの胸で交錯し、思考を鈍らせる。
だが答えは出さなければならない。
否、答えは最初から決まっている。
要は、葵を殺さないでいられる方法を提示すればいいだけだ。
それだけなのに、それが思い浮かばない。
アレを殺すのが最善手だと。
正しい選択だと、答えが出されてしまっている。
どうにもならない。
葵を救う手立てはない。
それがわかってしまっているから、ラディナはナージャを掴んでいた手を放してしまった。
「せめて、苦しませないようにする」
「……」
ナージャはラディナを気遣うように言った。
でも、ラディナはそれに答えられない。
だってそれは、ラディナにとっては理解できても納得できないものだったから。
歯を食いしばり、拳を握り締め、何もできない自分の不甲斐なさに悔しさがこみ上げる。
この短い葛藤の中で、何度も思考した。
でも新しい答えは出せなかった。
自分が至らないことは、葵との旅を通して理解していた。
自分にとってできることは、葵なら大抵はこなせたから。
だから、自分はもっと役に立てるようにならねばならないと、自分にできることを伸ばしていったつもりだ。
そのおかげで、今の葵の変化にも気が付けたと言えるだろう。
でも、それだけだった。
葵が危機に瀕したのに、何もしてあげられなかった。
その事実だけが、ラディナの胸に突き刺さる。
自分は何もしなくていいのか。
何もできなくていいのか。
ナージャに、背負わせていいものなのか。
「ナージャさん。主は殺さないで」
ラディナが自責の念に押し潰されそうになっていた時、背後から弱々しくも、意思の篭った声が聞こえた。
振り向けば、そこには胸の前で手を組み、上目遣いでナージャを見上げるソウファの姿があった。
体が小さく、体重も軽いソウファは、アフィが背後から支えることでその暴風に抗い、ナージャに進言する。
「主が変わってるのはわかってる。その異変は加護から伝わってる。でも、主はずっとアレと戦ってる。自分の弱さと対面して、壊れそうになっても、まだ無意識の中で戦ってる――」
ソウファは一生懸命、加護を通してわかる葵の情報を伝える。
必死になって、主の死を回避しようとしているのが伝わってくる。
それがどれだけ大きなことで、どれだけ重要なことかを、伝えようとしているのがわかる。
「――だから、お願いします。主を殺さないで」
ソウファは頭を下げて懇願する。
それを聞き、見たナージャは逡巡する。
ラディナはソウファの懇願を見て、聞いて、自分を卑下する。
年下のソウファが、まだ諦めていないのに、自分は正しさだけで諦めてしまっていたと、やはり自分の不甲斐なさに呆れる。
諦めは肝心だ。
潔く諦めるということも大事で、その冷徹さを忘れた人は、いざというときに自らの身を亡ぼす。
義母に、よく言われた言葉だ。
でも、義母はこうも言っていた。
『でもね。もし自分が、心の底からこうしたい! と思ったことがあったら、それは諦める必要なんてない。諦めることも、諦めるための冷徹さも、どこかへポーンッと投げ捨てちゃいなさい。きっと後悔しちゃうから』
優しい表情で、頭を撫でながら、そう言ってくれたのを思い出した。
何がきっかけでこんなことを思い出したのかはわからない。
でも、やるべきことは思い出した。
「ナージャ様。一度だけ、チャンスをください」
「チャンス?」
「はい。先ほど、私をここまで連れてきたように、私を葵様の真上に飛ばしてください」
ナージャはラディナを助ける際に、瞬間で移動した。
それは、御伽噺で聞いたことがあり、そして召喚者の中にも何人か適性のある人がいるかもしれないと囁かれていた“転移”の魔術だろう。
それが、どれほどのものかはわからないが、ラディナを葵の真上へ飛ばすくらいに事はできるだろう。
「それでどうする? アレは止まらない。葵を殺す以外の選択肢は――」
「――あります」
ナージャの言葉を遮って、否定を断言する。
ラディナの表情が今までとは打って変わっていることに、ナージャはその話を聞く価値はあると判断する。
「言ってみて」
「時間がないので、手短に話します。判断は、ナージャ様が行ってください」
ラディナの言葉にナージャが頷いたのを確認して、ラディナは提案する。
「葵様が意識を失ったせいでアレが表に出ようとしている仮定し、葵様が意識を取り戻せば、アレは現出しない可能性があります。そしてソウファが言っていたように、無意識で葵様はアレに抗っている。そして葵様は、恩寵により無意識を繋げられる可能性があります。ならば、葵様の無意識から引きずり出して意識を覚醒させれば、アレは現出しないし、葵様も助かります」
以上が私の提案です、とナージャの瞳を見据えて言った。
それを受けたナージャは一瞬で数多くの可能性を考えた。
アレが現出するまでの目算や、その案を実行するにあたって必要となるであろう時間まで数多くのことを。
「……わかった。その前に一つだけ聞いておきたい」
「何でしょうか」
今度はナージャが、ラディナの瞳を見据えて真剣な表情と声音で訊ねる。
「もし、その無意識との接続に失敗して、彼の意識を覚醒させられなかった場合はどうするの?」
「……その時は、私が葵様を殺します」
「できるの?」
「やります。私には、それをしなければならない責任がありますから」
確固たる意志を以って、ラディナは答える。
その瞳に、一抹の不安と、それを凌ぐほどの覚悟が宿っているのを見たナージャは、静かに頷いた。
「やるべきことをイメージして。私がちゃんと、飛ばすから」
「お願いします」
ナージャがラディナの背に触れる。
背中に触れているのに、その心音が伝わってくるのを感じた。
それでも、任せると決めたから、ナージャは何も言わない。
「頼んだ」
ナージャの言葉で、ラディナの体は空中に躍り出た。
再び、ラディナの体を浮遊感が襲う。
真下から吹き付ける暴風と重力がぶつかり合い、先ほどよりも緩やかに、されど確実な速度を以って落下する。
どんどんと速度を増して落下し、葵に近づいていく。
どんどんと、どんどんと、吹き付ける風に煽られながら落下する。
地面が近づく。
このまま落下すれば、きっと怪我では済まないだろう。
でも、やると決めた。
だからやるんだ。
両手を広げ、暴風の中できる限りの空気を取り込んで、精一杯の覚悟と、気合と、想いを込めて――
「目を覚ましてください! 葵様!」
葵の頬を、挟み叩いた。